誰だ。
 誰だ、おまえ。

 氷の吐息は、そのまま英二の心に冷たい刃となって届いた。

――誰だ、とあのひとは言った。

 どうして。
 どうして、大石。
 あんなふうに、俺を呼んだのに。

――誰だ。
――おまえ。

 こんなことは夢にすら思い描かなかった。
 あのとき、大石は英二を、まるで初めて目にするように見つめ、よろよろ近づく自分を奇妙なものでもすがめ見るようにしていた。
 英二が伸ばした手から、彼はすっと身を避けさえしたのだ。
 決して甘やかな抱擁や、感激の再会の言葉などを思い描いていたわけではないし、自分がひそかに決めていることを思えばかえってそんな心の動きなどは邪魔になろう。 
 けれども、たとえどんな事態に陥ろうとも、こんなことだけはあり得ない――あるはずがない、と思っていた。
 彼が自分をあきらめるはずがない、自分が彼をあきらめなかったように。決して忘れなかったように。
 どんな形でも、どんな状態でも、そしてどれほど時が経とうとも彼は自分を見間違うまい、決して見落とすことなどありはしない、と。
 それなのに。

――誰だ。

 今でもあの言葉を思い出すと、胸を氷の手でつかまれたような気になる。
 息が苦しくて、とどこおる。
――どうして。
――どうして、大石。

 呼んでいたでしょう、俺を。
 ずっとずっと。
 あれほど、呼んでいたのに。







 軽く体をゆすぶられて、英二ははっと目を開けた。とたん、まぶしい光に目を射られて英二はふたたび瞼を閉じる。
「起きられるか」
 もう一度声をかけられ、こわごわ目を開くと、所員の男が自分を覗き込んできているのに気づいた。
「今日の実験は終了した、部屋へ戻れ」
「……」
「そろそろ薬も切れるはずだから、動けるだろう。あとは自室で睡眠をとれ」
 言われて、英二はゆっくりと上半身を起こす。まだ体はだるい。
 なにやらの簡素な医療用ベッドの上である。大きな実験室の片隅で、部屋向こうの機器の前ではあれこれと所員たちが忙しく動き回っている。みな同じ白衣のせいか奇妙に人形じみて見える。
 篭城の真似事をしていた部屋から強制的に出されて、この白い実験室につれてこられた。
いつも同じ部屋につれてこられているのか、それともよく似たまったく別の部屋なのかさえも判らない。
 けれども実験のために使用する場所というのは、どこも似たような印象を受ける。かつて英二がとらわれていた、最初の研究所でさえもここと少なくない相似を見出せるのだ。
 機器のレイアウトも部屋の間取りもそれぞれ異なっているはずなのに、どうしても見分けがつきづらく思えてしまうのは、その色彩――研究室をいろどる無機質な白色のせいかも知れない。
 ここへつれてこられた英二はすぐに腕に注射を打たれ、意識を失った。なにかご大層な実験でもされたかと思ったが、特別体に痛みはないし、多少アルコールのにおいが鼻をついたぐらいで、傷が増えたりというわけでもない。注射を打たれた左腕と、血を抜かれでもしたのか右腕に同じような針の跡があるぐらいであった。
「移動する。早く立て」
 自分の体を検分していると、所員の男にせかされる。仕方なく立ち上がった英二に、しかしざわつく実験室内の誰も、もう目もくれなかった。
「――……」
 データが出揃えば――英二の体から必要なものを取り出しさえすれば、あとは英二本人など何の必要もないのだろう。
 おそらく、大石が目覚めたことでなにか変わった実験のようなものが行われるのだろう。実験室にいる所員たちの人数はいつもの倍で、妙なざわつき――ある種活気のようなものさえ感じられる。
 彼らに何を言おうと問おうと無駄だろう――そう考えて、英二は黙って所員たちに従い、彼らに取り囲まれて促されるままその部屋を後にした。
(もう一度大石に会うためにはどうすればいいんだろう)
 会って、ちゃんと話をすれば彼も思い出す。
 思い出すはずだ。
(大石は、まだきっと混乱しているだけなのだ)
 冷静になって考えてみれば、もちろんそれは長らくあのようにむごい封じられ方をしていた後遺症であるかも知れぬ。
 目を覆いたくなるような恐ろしい機械の銀槍に、珍しい蝶でもあるかのように縫いとめられ、氷付けにされて。いくら不死身に近い身体であろうとも、何がしかの悪影響を及ぼしたのかも知れない――それとも、あまりに永い眠りの末に、記憶も混乱して。
 そう、いくらでも考えられることはあるものだ。
 大石が自分を忘れてしまうなどと、そんなことがあるものか。
(なんとかして、会えないかな)
 どうしたって自分たちの会話は筒抜けになっている。それならば、幸村に教えてもらってあの場所でいい、なんとか彼をつれてきて。
 つれて来て、話をして。
 自分だとわかってもらって。

――それからどうするというのだろう。









 物思いにふけっていた英二の耳に、突然大きな声が響いた。
 ぼんやりと歩いていた英二も、その左右にぴったりと着いていた所員の男たちも、何事かと足を止める。
 声は男のもので、この白いフロアに妙に響き渡り、そして怒声や罵声と言ったものに非常に近かった――少なくともその一歩手前ではあった。
 何を言っているのか聞き取れなかったが、非常に横柄な、耳につく声である。
「なんだ、おい」
「――おい、この声、あいつじゃないか」
「あいつ?」
 所員たちがささやき交わす。
「ああ、やっぱりそうだ、ほら、見ろよ」
 英二もつい所員たちと同じ方向を見やる。
 そこは各階へ移動するエレベータホールであった。そこでスーツ姿の中年の男と、四人の体格のいい黒服の男たち、数人の白衣の所員たちがなにやらもめている。
 どうやらスーツ姿の男は、この廊下を奥に進もうとして所員たちに止められているらしい。
「あれか、あの政治家の……所長にやたら絡んでるっていう」
「そうだよ。絡んでくるわりには、いつも所長に言い負かされて帰っていくんだよな。いい加減にして欲しいよ、まったく」
「まだ“フリッカ”を一度抱かせろって言ってきてるのかな?」
「あれこれ理由はつけてるだろうけど、たぶんな。……参ったな、所長、今『外』だろ。真田さんは『下』だし。まったく、政治屋なら政治屋らしく、利権と賄賂のことだけ考えてろってんだよ」
「違いない」
 所員はかすかに冷笑したが、それにしても、とため息をつきながら行く先の通路を見やる。
「エレベータのところにいるぜ、どうする。リーダーが相手してるみたいだけど」
「……しょうがない、はちあいたくないし、ルート変えるかな。いったん下におりて、そこから戻るか」
 しかしそっと身を翻したところで、男のほうが目ざとく彼らを見つけたようだ。
「何だ、君たちは! おい、逃げるな、こっちへ来い」
 背後からの怒声に、所員たちは一瞬このままそ知らぬふりを通そうかどうか迷ったようだったが、しぶしぶ男に向き直った。男は肩をそびやかし、横柄と尊大を絵に描いたような様子でこちらへやってくる。
「先生、ここは関係者以外立ち入り禁止です。いくら先生でも、ここは厳守していただかないと困ります」
 最初にもめていた所員たちが男に追いすがった。
「なにも実験室に入り込もうというわけじゃないんだ、そのへんは臨機応変に対応したまえよ、君。それより、なんだ、感じが悪いぞ」
「何がでしょうか」
 英二の隣の所員が、いやいやながら答えた。
「人を見るなり背を向けるとは何事だ。君らの上司がいないせいでの揉めごとなんだからな、部下が誠心誠意対応しないでどうするんだ」
「彼らはわれわれの話の邪魔をするまいとしただけでしょう」
 追いついてきた所員の、リーダーらしい男がうんざりした調子で言った。
「彼らには彼らの仕事があります、それを忠実に実行するのが彼らの役目なのですから、その態度まであげつらわれては困ります。とにかく、お部屋でお待ちください。柳が戻り次第、うかがわせますから」
「あげつらうとはどういう意味だね、きみ。言葉に気をつけろ」
「失礼いたしました」
 男はまだ納得のいかない様子で、所員たちをじろりとねめつけた。
 色の悪いネクタイをしめ、たいそうなスーツを着込んでいて、どうも垢抜けない印象がある。なにか、下品でいやな感じが拭えない。
 背後に控えた男たちもこれまた仰々しい、立派な体格の男たちだ。ボディガードかなにかなのだろう。
 そうこうしているうちに男は、この所員たちの中でひときわ小柄な英二を見つけたらしかった。
「なんだ、この子供は」
 あからさまに値踏みするような目で眺め回されて、英二はむっとなった。が、自分が口を出す相手でもないのだろう。おとなしく黙っていることにする。
「なんでここにこんな子供がいるのかね」
「これは――実験体です」
「実験体。ほう」
 じろじろと英二をいやな目つきで眺めている。
「これもドールかね。名は何だ」
「いえ、違います。単なる被験体です。先生もご存知のDコードの」
「おお、あれか。もちろん知っているとも、あの、一度も成功したためしのない、無駄極まりない実験だ。なにかね、こんな子供を使うほど被験者は不足しているのか」
 英二が、彼らの言うところの「Dコードの完全融合体」ということは内密にされているようだった。柳の意図はわからないが、そのあたりは所員たちにも徹底されているのだろう、所員たちは多少むっとしたものの行儀よく黙っていた。
「ふん、年はいくつだ」
「……この被験体ですか」
「そうだ、君に聞いとるわけじゃない。おい、いくつになるんだ」
 傲岸に顎をしゃくって聞かれたが、英二は答えようがない。正直に年齢を言うべきか、しかし外見からすればいくつぐらいに見えるものか。
「口がないのか。それとも耳が聞こえんか。おい、いくつだと聞いとるんだ、答えんか」
 男はあっという間に苛立って、声を荒げた。
「下町の生まれの被験体です。正確な年齢もわからないんでしょう」
 所員がうんざりした様子で口を出した。
「それに、なにもこんな子供、先生がお気にされるようなものでもありません。とにかく40階のお部屋でお待ちください。また所長が戻り次第、先生とお話を」
「何が話だ。あいつは、だいたい人のことをなめとる。小難しい理屈をこねまわしおって。一度くらいは人の言うことに、はいはいと素直に気持ちよく返事ができんものかね、君たちの上司は。ええ?」
 所員たちは黙っていた。
 男の言葉に恐縮する、というよりも非常に嫌悪的で非好意的な沈黙であったが、男はそれをわかっているのかいないのか、さらに高圧的に続けた。
「それで。柳が帰ってくるのはいつかな」
「明朝には戻る予定です」
「わしが来とるんだぞ。連絡して、すぐに帰って来させろ」
「申し訳ありません。中央機構の“長老”様方のお呼び出しです。すぐには無理です」
 男はなにか言おうとしたが、すぐに口の中で何かぶつぶつつぶやいて引っ込んだ。彼とその“長老”たちでは格が違う為に、不承不承ながら納得せざるを得ないのだろう。
 あれこれとまた一通り文句を並べ立てると、ようやくそれで引っ込む気になったようだ。
「それでは、またいつもの40階の部屋におる。一番奥の、あの一番大きな部屋だ、用意はできとるんだろうな」
「それはもう」
「柳が帰ってきたら来させろ。わかったな」
「はい」
「それから、それは、もういいのか」
「は?」
「それだよ、それ。もういいんだろう」
 男がまたも顎をしゃくった。
 英二のことのようだ。
 所員たちに挟まれるようにしていた英二は、突然のことでぽかんと男を見やる。
「いい、と申されますと」
「実験とやらは終わったんだろう」
「え、ええ。今から部屋に戻す予定です」
「じゃ問題ないな。おい、連れてこい」
 男は背後のボディガードに同じようにぞんざいに命じた。
 ボディガードたちはたちまち所員と英二との間に割って入り、英二の腕をつかんで連れて行こうとする。
「ちょっ……何だよ、やめろよっ」
 思わず英二は声をあげた。もちろん、所員たちもあわてて止めようとするが、屈強な大男たちの腕の一振りで、簡単に突き飛ばされる。
「困ります、先生」
 男の目的を察した所員がさすがに声を荒げた。
他の何人かはボディガードの動きを止めようとしたが、無論体格と体力からして違うために、かなうはずはない。
「なんだ、何が困る。お前らのような下っ端が」
「所長の許可なく、被験体を指定エリアから出さないでいただきたい」
「なにもわしはドールに手を出そうってわけじゃない。柳がうるさく言うのは、相手がドールだからなんだろうが。ただの被験体の、そのあたりの子供ならかまわんだろう。なにも殺すようなことはせんのだから」
「し、しかしその子供は」
「この子供で不都合があるんなら、ほれ、あのドールを部屋に寄こすといい」
 男は下品な大声で笑い、ボディガードたちに英二を引きずらせてエレベータに乗り込んだ。
「“フリッカ”とか言う、あれをな。そうしたら返してやってもいいぞ」




 だいぶ足をばたつかせて抵抗したが、英二はあっさり男たちに引きずられて40階とやらへ来てしまった。
 そこだけは妙に装飾的な場所である。
 黒ずんだ血の色を連想させる濃いエンジ色の絨毯が敷かれて、大げさな、これ見よがしの家具があちこちにおいてある。居間にあたる部分と、その奥の寝室とに別れているようだった。
 どこもかしこも、趣味がいいのか悪いのか微妙な装飾であったが、広さだけはたっぷりと取ってあった。
 その部屋の一番奥まった寝室へと、英二は引きずってこられたのである。
「お前、本当にドールじゃないのか」
「違う。ドールじゃない」
「ふん、威勢のいい子供だな。――おい、縛れ」
「何……っ」
 男たちは無言で、そして見事なまでにすばやく英二を後ろ手に縛り上げると、妙に赤くて気味の悪いベッドの上へと放り投げた。
「よしいいぞ。お前たち、出ていろ。呼ぶまで入ってくるな」
 男が言うと同時にドアが激しく叩かれ始めた。
 所員たちがなんとか追いついてきたようだった。希少な『実験材料』であるところの英二は、すくなくとも所員たちにとっては重要な存在であるのだ。柳や真田の手前、なんとしても取り戻さなければならないのだろう。
「うるさいな、黙らせろ。わしは奥の寝室にいるから、誰も通すな」
ボディガードたちは無言で一礼した。
「まあ、それでも柳が帰って来たなら……いや、柳がきても通すな」
 男が口元をゆがめて笑い、ぞっとするようないやらしい目つきで英二を眺めた。
「わしの用事が済むまでな」
 ボディガードたちは従順に出て行った。たぶん、この男の言いつけどおり、やってきた所員たちを通すまいとするのだろう。
 そうして男は寝室のドアを閉じ、もうよだれを垂らしていないのが不思議なほど、だらしない顔でベッドのそばへ寄ってきた。
「おまえ、いくつだ。――さっき、ちゃんとしゃべっただろう、答えてみろ」
 英二は答えず、男を睨みながらなんとか体を起こした。
「なんだ、可愛い顔をして」
 男はまたも下卑て笑い、英二の顎を掴んで上向かせる。
「別に答えたくないならかまわんが。いい声で鳴いてもらわんと、わしがつまらんからな」
 英二はまたも答えなかった。
 答えず、軽く目を伏せたと思うと、次の瞬間思い切り男に体当たりする。
 男は無様な声を出してひっくり返り、英二も勢いで転んだ。
 もちろん体を起こしたのは英二が早かったが、後ろ手に縛られている姿勢からでは体のバランスが悪い。
 なによりまだ、薬が完全に切れていない。
 足がふらつき、めまいがした。
 もたもたしている間に男も体勢を立て直して、あっという間につかまってしまった。
「離せ!」
「はねっかえりも面白いがな、あんまり往生際が悪いようだと可愛がってやれるものもやれなくなるぞ。しかしなんだ、この実験用の衣類というものは色気がないな」
 男はまったくこたえていないようすで、にやにやと英二に背後からのしかかる。
「……おい、おまえ、ドールではないんだろう」
「違うと言っただろ」
 英二は相変わらず身を硬くし、なんとか逃れるすべを探してもがきながら低く答えた。
 ただ闇雲に騒いでわめいても、事態が好転することは少なそうだ。もう少し男の間に距離ができたら、今度は急所を蹴り上げてやろうと思っているのだが、背後からべったりとくっつかれてはなかなかうまくいかない。
「じゃ、なんで腕にこんなもんをつけられておるんだ? ん?」
 縛られたままの腕をねじられて、英二はぐっと息を詰めた。男が掴んだそこには、英二の力を抑えるための擬似プレートがへばりついている。
「これはドールのプレートじゃないのか。……おまえ、やっぱりドールだな。名前はなんだ。ちゃんと申請されている正規のやつだろうな」
「……」
「正規のドールではないならこれは問題だよ、柳のやつめ。詳しく話を聞かせてもらわなきゃならんな、柳や真田から。――むろん、おまえからも」
 英二を背後から抱きこんだまま、男はもうすっかり興奮している。大きく開いた襟元から手を差し込まれ、直接撫で回されはじめた。英二は吐きたいのをようやくこらえながら体をよじり、もがき、なんとか逃れだすすべを探り続ける。
 こうしているあいだにでもなんとか所員たちが助けに入ってくれないかと思ったのだが、例のボディガードたちはなかなか忠実に任務を遂行しているらしく、寝室のドアが開く気配はない。
 ますます男は増長し、英二のもがきようをすら楽しんでいるようだった。
 薄暗く、男の押し殺した息遣いしか聞こえない部屋の中。
 英二が本気であせり始めた――次の瞬間。
 背にかかっていた男の熱と重みとが、不意に消えうせた。


 英二が振り向くと、男は広いベッドの上にひっくり返って無様にもがいていた。英二の背中から引き剥がされるように、おそらくずいぶん乱暴なやり方で放り投げられたのだろう。
 唖然とした英二の目に映ったのは長身の青年の姿である。
「……どうして」
 英二はつぶやいた。突如として出現した「彼」の端正な顔立ちは、少しも揺らがない。
「どうして、大石」
「それはこちらが聞きたい」
 「彼」は不機嫌そうに言った。
 英二と男との間に割って入り、片膝だけをベッドの上に乗せるような格好で、「彼」は英二を見下ろしてきている。
 冷ややかな、氷のようなまなざしで。
 青年の細身の体躯は黒い簡素な衣服で覆われている。ぴたりとはりつくような素材のせいもあってか、「彼」の細身の姿が美しくきわだち、黒く鋭い剣のようであった。
「お前の声が聞こえた。――これだけの距離があり、防音壁があってもだ。……なぜだ」
「声、って」
「お前の声」
 大石は、その端正な眉を顰める。
「お前の声。俺を呼ぶ声。――なぜ俺を呼ぶ」
「大石」
「不快だ」
 氷の声――氷の言葉だ。
「なんだ――なんだ、おまえはっ! いったいどこから」
 ようやく我に帰った男が泡を食ってわめきだす。
「ドアも開いていないのに、どこから入ってきたんだ、いったい誰だっ!」
 大石は背後にその冷たい視線を流した。
「おまえは」
 無様にベッドの上に座り込んでいた男ののどもとを、大石は無造作に掴んだ。
「おまえは、もっと不快だ。――黙れ」
 ぐえ、と男が蛙のような声を出した。
 大石は男の首を掴むと、かるがると空中に吊り上げたのだ。
 白目をむき、人間の顔とは思えぬほど醜い形相で、男はそれでも足をばたばた動かしている。
「お、大石っ」
 英二はあわてて大石の男を掴んだ腕にすがりつこうとした。しかし、後ろ手にきつく括られたままであったので、バランスを崩してしまう。
 それでも、と膝ではいずるようにしながら、なんとか大石に近寄った。
「だめだよっ、離して!」
「――」
「早く。じゃないとそいつ、死んじゃうよっ」
 英二は必死に言い募った。
 だが、大石は何を言われているのかよくわからないといった顔で、英二を見下ろしているばかりだ。
「大石、早く!」
 英二は焦れ、体ごと大石の胸板にぶつかった。たいした力でもないので、無論大石の体はその程度では揺らがない。
 けれども彼は、自分の胸元から必死で見上げる英二をはじめて興味深そうに見下ろしてきた。
「――お前のそう言う顔は」
 大石はかすかに、笑みのようなものを浮かべた。
 右手に、泡を吹かんばかりの顔をした醜い男の首を掴んだままで。
「決して不快なばかりではない。不快なようで、そうでもない。けれども妙に気に障る」
「大石……」

 ぐき、と。
 いやな――ぞっとするような、何かをひしゃげる音がした。



「おまえは何だ。おまえの声だけが、どうして」
 大石が空いた手で英二の髪を掴み、自分に向けさせる。
 ほとんど同時に、何か粘着質の液体が吹き出す音――そして、なにやら重たいものが絨毯の上に転がる鈍い音が聞こえた。

 鼻を突く――強い鉄錆に似たにおいが立ち込める、その中で。
 大石の顔はあくまで冷ややかであった。





「何故おまえの声だけが、俺に届くのだ」




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