「ねえ」 「――」 「ねえ、こっち出てきたら?」 「――」 「お菓子持ってきたよ。アンタの分もはいってんだから、食べないと」 「――……」 「朝ご飯食べてなかったじゃない。おなかすいてんじゃないの」 「――」 「昨夜だって食べなかったでしょ」 相変わらず返事はない。 ぴたりと閉ざされた銀色の扉は頑なだった。いままさにその中に閉じこもっている人間の気持ちのままに冷たく、動きもしなければほんの少しのほころびも見せない。 「ねえってば。出といでよ。――そうだ、ゲームしようよ。新しいのいっぱい持って来たんだ」 「――」 「結構難しいのがあるんだよ。やってみたら楽しいと思うし」 「――」 「ゲームが嫌ならなんでもいいよ。本が読みたかったら、ライブラリー連れてってやるから。それもいやなら、アンタの好きな遊びでいいからさ。ねえ」 リョーマにしてはなかなか辛抱強く、つたないながら気遣わしげな説得を試みてはいる。しかし、確かにかの少年を案じてはいたものの、しょせん子供っぽさの抜けぬ彼である。その気分は焦れるにつれあっさりと沸騰したようで、どんどんと扉を叩き始めた。 「出てこいって言ってるでしょ、ねえって、いつまでそんなとこにいるつもりなんだよ」 「リョーマ」 幸村の白い手がリョーマの拳固にそっとそえられる。 「そんなふうにするのはおやめ」 かたわらでリョーマの懸命なようすを見ていたのだが、どうにもならぬと知って、聡く優しい母親のようにやってきたのである。 「そんな乱暴にしてはいけない。よけいに怯えて出てこないかも知れないよ」 そう言ってリョーマに微笑むと、今度は自分がそっと扉の前に立った。 「"ヒルダ"」 やはり沈黙のみが返る。 「そんなところにとじこもってばかりいるのは、身体にもよくないよ。――あとで一緒に外に散歩に出かけよう」 幸村はそれでも根気強く話しかけた。 「大丈夫、柳は午後から帝都の方に出張だと言っていたよ。行きたくないみたいでずいぶんぶつぶつ言っていたようだけれど、たまには彼がいないところで羽根を伸ばすのもいいのじゃないかと思うよ。俺から真田に頼んで外に出られるようにしてもらうから、ちょっと気分を変えに行かないかい」 どんな意固地な女神も岩戸を開けて出て来たくなるような、優しい声音だった。彼の物腰の柔らかさ、仕草の優しさはどれほどの暴風をも鎮めてしまうのかもしれなかったが、このたびばかりは難敵のようだ。 「真田ももうすぐ"下"へ行くと言っていたから、なんだか久しぶりに鬼のいぬ間が出来るようだし。少し出ておいで」 「――」 「では顔だけでも見せて、"ヒルダ"。もしも閉じこもっておきたかったらそれでもいいから、君が元気でいることだけを教えてくれない?」 なおも応えはかえらなかった。 幸村は、それでももの柔らかに扉に向かって話しかけていたが、やがてリョーマに向かって首を振ってみせた。 あきらめて居間の真ん中、広々としたソファに腰掛けたふたりだったが、リョーマはいつものように幸村に甘えるでもなく、何ごとかを考え込んでいる。 「しかたないね。"ヒルダ"の気の済むようにしてやらなければ」 「うん、でも」 まだあきらめきれず、リョーマはじっと扉を見ている。 「ねえ、ゆき」 「なに」 「――……"あいつ"、あの子のこと覚えてなかったって本当かな」 「どうもそうらしいね、聞いたところによると」 たいした感慨もなさげに幸村は言った。 「たぶん柳が何かやったんだろう。まあ、確かに」 「――」 「あの子のことを覚えているまま"シグルド"に起きられたら、そりゃあ大変だものね。此処どころか帝都ごとなくなってしまうよ。"シグルド"を起こそうというなら、賢明な処置だったんじゃないかな」 幸村は美しく微笑みながら、居間のテーブルの上に何冊かある本を検分している。出てこない者には何を言っても無駄だろう、ということで、彼は早々に英二のことは諦めたようだった。 まだ何か納得のいかないリョーマは唇を尖らせていたが、ややあってぽつりと呟くように言った。 「どうして柳はあいつにそんなにこだわってんのかな」 「……」 「……何か、企んでるよね」 「――」 「あの子と"シグルド"とで、何しようとしてるんだろう」 「それ以上考えるのはおやめ、リョーマ」 色彩の美しい写真集を手もとに引き寄せながら、幸村は小さく言った。 「それは俺達の仕事じゃないでしょ。――柳には柳の考えがあるのだから」 幸村の言うことは判っている。 余計なことは口にするな、と言いたいのだ。 考えることについてまでは咎めないし、むしろ良いことだが、それを口に出してしまってはならない、と言うことだ。 此処での会話も聞かれている。ドールにとって本来「不必要」なことにばかり考えを巡らせているのだと知られれば、あまり彼らにとってありがたくない事態になるだろう。それこそ"シグルド"のように頭の中をいじられてしまいかねない。 判ってはいたものの、リョーマはさらに唇をつんと尖らせた。 そのまま幸村の膝にでも寝ころぶのかとかと思いきや、豪華なソファの上で膝を抱えてしまった。 閉ざされたままの銀の扉が気になるのだろう。 そのまま――抱えた膝の上に頭をもたせかけた、何とも言えない愛らしい姿勢のまま、リョーマはずっと扉のほうを見つめている。 それを横目に見た幸村は何も言わずに目を細めた。 そうしてこちらも何とも形容しがたい、謎めいた美しいほほえみを浮かべて、それきり黙ってしまったのである。 同じ頃――。 オーディンズタワーの別の一角で、中央研究所所長柳蓮二は、覚醒せし狂気のドール"シグルド"と向かいあっていた。 と言っても、特段仰々しい宣戦布告をするでもなく、悪夢の二年間「ラグナロク」について彼を厳しく糾弾するでもない。 彼は氷から目覚めた"シグルド"の身体機能を手ずから調整し、こまごまとした検査を終えると、みずから彼の居住区となる場所へと案内して来たのである。 甲斐甲斐しいほどにあれこれと部屋の中を説明している柳は、やはりどこか浮かれている様子である――真田弦一郎が見れば、また不安に眉を顰めるほどには。 狂った旋律に乗って狂喜する。そんな危うさを、感じ取れるほどには。 目覚めた"シグルド"は、その柳を胡散くさげに睨みつけていたが、やがて低く言った。 「――俺の頭の中に何か細工をしただろう」 「ほう」 柳は振り返り、何故か嬉しそうに口元をゆがめた。 「さすがだ。判るのか」 「一部分が非常に不明瞭だ。――不快だな」 たくみに描かれたような美しい眉をひそめて青年は吐き捨てた。 「俺の記憶を消去して、何か得策があるのか」 「お前が凍結処理された経緯を話してやったろう」 柳は言った。 「お前はさんざん暴れ回って我々を手こずらせてくれたんだよ、2年間も。――そうだ、2年間だ。お前ひとりの為に世界の人口は半分になり、街はほとんどが瓦礫と化した。……お前のような人形ごときがどうしてそんな悪戯心をいだいたのかは知らないがな、もう一度同じことを繰り返されても困るんだ。だから、その悪戯心を消した。それだけの話だ」 「――……」 「それ以前にもお前にはさんざん手を焼かされてきているのでな。プレートを補強しがてら、少しばかり頭の中をいじらせてもらった。消えているメモリーは2年間だけのはずだ」 「そのようだな」 「たかがメモリーをリセットしたところで、たいした障害にはならないだろう。おもしろいことにこだわるものだ」 青年は何も答えず、手持ち無沙汰に周囲を見回した。 白。 白一色の部屋だ。 床も壁も天井も、冷たい銀の輝きを帯びた白ひといろである。 一応、最低限人がましい生活を送ることの出来るようにデスクだのベッドだのという家具が備え付けてはあるものの、全く色彩のないこの場所ではただただ寒々しいだけである。 「一応、しばらくは大きな実験の類はない。せいぜいここの空気の中に身体を慣らせ」 「……」 「対外的には"大石秀一郎"と呼ばせてもらうが、何か不都合があるか?」 「無駄な質問をする」 青年は――"大石"は冷笑した。 「不都合があるといっても、やりたいようにやるだろう。バケモノ相手に遠慮はいらないはずだからな」 「もっともだ。――しかし、また」 柳はおもしろそうに言った。 「眠っている間によほどおもしろい夢を見ていたらしいな、"シグルド"。ずいぶんものの話し方や考え方が人間くさくなった」 「……」 「まあいい。――さて、俺はそろそろ出かけなければならないんでな。特に説明しなくとも不自由はないと思うが、念のために聞いておこう。――何か質問は?」 「あの子供はなんだ」 「子供?」 柳は何のことだと言うように振り返った。 しかし彼は、その目の中に一瞬ひらめいた、何か面白がるような光を見逃してはいなかった。 「何だ、子供とは」 「時間の無駄だ」 "シグルド"――「大石」は淡々と言った。 「出かけなければならないんなら時間はあまりないんだろう。俺も貴様とゆっくり会話などしたいわけじゃない。質問があるかと聞かれたのだから問うている。あの子供はなんだ」 「――」 「俺が目覚めたとき、俺の目の前にいた赤い髪の」 頭が痛むのか、こめかみを指で押さえると低く呟く。 「何故あんな顔をして俺を見る」 大きな目。今にもこぼれ落ちそうな涙で満たされた、きらきらと光る目。 柔らかそうな赤い髪。一筋ずつ宝石で出来たようなあの髪。 「何故」 何故あの姿を思い出すだけで、胸が詰まるのだろう。 「ああ、ああいう顔立ちを凡俗な人間どもは可愛いと思うようだな。そうだな、確かにまるで仔猫のような印象だ」 柳がさらりと言った。 「こ、ね、こ」 言い慣れない言葉を、味わうように青年は口にした。 ――仔猫。 ――違う、あれは。 世界でただひとつの、花のような。 「――不快で、苛立つ」 「苛立つ?」 呟いた青年の言葉を、柳は嗤った。 「苛立つ。苛々する。――そんなことがあるのか、おまえにでも」 「非常に不快だ」 繰り返した青年に、柳はおもしろそうに言った。 「あの子供は実験体だ」 「――だが"ドール"ではなかった」 「そうだ、お前達の同胞ではない――だが、お前の細胞と相性がいい。だから飼っている」 柳はひらひらと手を振って見せると、たちのよろしくない笑みを見せる。 「――……俺の細胞だと?」 「そうだ。世にも珍しいDコードの融合体だ。――なんだ、気に入ったか?」 「……」 「おまえが気晴らしに遊ぶのはかまわんさ、もともとがD2用の子供だ。だがこれからいろいろと調べなければならないのだからな、お前の気まぐれで壊してくれるな」 「――D2?」 「ああ、お前はD2が嫌いだったな」 柳は笑って言った。 「では何も問題はない。あの子供のことは忘れてかまうな」 「……」 「では俺は行くぞ。判らないことが在ればそこの端末で調べろ。ごゆっくり、とでも言っておこうか、"シグルド"――いや、大石」 冷笑を残して、柳は去っていく。 それを見送るでもなく、ただ青年は佇んでいた。 「――」 彼は、眉をふたたび顰めた。 覚醒直後に見た光景が、何故か幾度も脳裏にひらめく。 ちいさな、小柄な子供だった。 大きな目は印象的だったが、本当にちっぽけな、指先ひとつで息の根を止めてしまえそうな子供。 何故あれほど慕わしげに、今にも泣きそうな顔をして。 輝く銀の氷の中を、痛々しい素足で走り寄ってきて。 ――大きな目。今にもこぼれ落ちそうな涙で満たされた、きらきらと光る目。 ――柔らかそうな赤い髪。一筋ずつ宝石で出来たようなあの髪。 世界にただひとつだけの。 「……なんだ」 うつむいた拍子に、手に何か暖かみのあるものがしたたり落ちた。 彼は別段驚いた様子もなく、己の手元を見やった、 ぽと、ぽと、と続けて落ちたのは水滴だ。 生ぬるい――塩水。 それが己の眼球を覆う体液で、眦から溢れて滴ったのだと気づいて、彼は眉根を寄せる。 眼球周辺に異常はない。特に傷もなく異物の混入も認められない、と判断して、彼はますます困惑する。 「何だ――これは」 水滴は、その数度きりだった。 だが青年はその瞬間、なんとも言い難い気分になる。 身の置き所のない、なんとも言いようのない焦燥感が彼を苛んだ。 胸ふさがれ、呼吸が滞る、その原因が彼に分かるはずもなく、ただもっとも近い感想として口にしたのは 「――苛立つ」 と言うひとことだけであった。 その日の午後になって、英二の健気な籠城はあっさりと終わった。 リョーマの必死の説得も幸村の柔らかな語りかけも功を奏さなかった彼を部屋から連れだしたのは、英二を担当する研究所員たちであった。 彼らのみが知るキーコードであっけなく天の岩戸はこじ開けられて、英二はつれてゆかれてしまったのである。所員二人に腕を取られて出ていった英二であったが、傍目にも明らかに憔悴し、青ざめ、今にも倒れるのではないかとリョーマが驚いて駆け寄ったほどだ。 入れ替わりにいつもの世話係の女性がやってきて、あれこれと嗜好品を補充したり、幸村とリョーマの体調チェックを行うなどしている。 「ねえ、あの子、具合よくなさそうだったよ」 リョーマがぶすっとした顔つきで言った。 「実験て、どんなのすんの」 「大丈夫よ。そんな大がかりなものじゃないし。血液と細胞の採取だけで、すぐに戻ってこられるわ。薬品はいっさい使わないしね」 女は言った。 「どのみち英二くんの実験に関しては、所長の許可がないと私たちじゃ何もできないから」 この女の言葉はいちいちリョーマを苛つかせる。 リョーマは、女の携帯端末に某かの連絡が入ってきたのを機に、ぷいと彼女の側から離れた。結局ここにいるかぎりは、英二も含め彼らには閉じこもる最後の場所すらないということなのだ。 「はい。ええ――判りました、そのように」 女は端末機から音声でのやりとりを終わらせると、珍しく大きなため息をついた。 「どうかしました?」 如才なく気遣う幸村に、女は首を振った。 「いいえ、なんでもないの」 女はまた、あの張り付いたような笑みを見せた。 「なんだか、お客様がいらしたみたい」 「お客様?」 「出ちゃ駄目よ、幸村君は」 女は肩を竦めた。 「ほら、あの――政治家の先生よ」 「ああ」 幸村は苦笑した。 「それは確かに。俺は部屋にこもっていた方が良さそうですね」 「ええ、そうなの。いろいろと立場のある人だから邪険にも出来ないし、なんとか機嫌をとって帰って頂かないとね。どちらにしても、幸村君の姿が見えたら大変なことになりそうだから、一応あなたもリョーマくんも実験中ということにしておくことにしたわ」 「わかりました。――それにしても、そこまで思っていただくほど、なにも俺でなくとも」 幸村は、神をもたぶらかす美しさで微笑んだ。 「外には、綺麗な方がたくさんいらっしゃるのでしょうに。金銭を差し上げれば、そういう相手をしてくださる方も」 「あの人達の言葉で言うと毛色の変わったのがいい、ということじゃないの。俗っぽくて嫌な言葉だけれどね。そういうことを自慢したい、いやな人は多いわよ」 女は何か思うところがあるのか、珍しく憤慨したように言った。 「まあ、なんとかなだめてお帰りいただくしかないわね。どのみちこのエリアにはまず入って来られないから、安心してていいわよ――それにしても、こういうときに限って、所長は外だし、真田さんは"下"だし、困ったわねえ」 女は大げさにため息をつき、くれぐれも外に出ないようにと言い残して、出ていった。 「ドールなんかの何がいいのかな。あの政治家、のひともね」 幸村はあやしく、まさしく宝石細工の人形のように微笑した。女が出ていったので、いつものように隣に腰掛けてきたリョーマにともなく、いつものようにぼんやりと、半分夢見ているように話す。 「俺は別にかまわないのだけれど、真田がずいぶん嫌がるものね。でも、人間てほんと変わってる。そのひとだけじゃなしに、最初の研究所にいた人間も、真田も。同じことをするなら、血の通った暖かい、人間の方がいいだろうにね、ねえ、リョーマ。――……リョーマ?」 傍らで大人しく聞いているとばかり思っていた少年は、何故か目を見開いて歯を食いしばっている。 呼吸を必死に押さえようとして、その体はかたかたと震えていた。 「どうしたの、リョーマ」 「ゆき」 彼はあえぎあえぎ、小さく言った。 「ゆきはわからない?」 「わからない、って。なにが」 一番近い言葉で表すのならば、リョーマが感じているのは"不安"であった。 正体のない、得体の知れない靄のようなものが、どこからともなく漂ってきて、リョーマの神経をざわつかせる。嫌なところに触れられた仔猫のように、在るならば全身の毛でも逆立てたくなるような不穏な空気。 「――……リョーマ」 ただごとではないと悟ったのか、幸村はそっと少年の肩を抱き寄せた。 「どうしたの。気分が悪いの?」 「違う。――ううん、悪いというなら、悪いのかも」 「メディカルの人を呼ぼうか」 「いらない。来たって、治りゃしないもん」 リョーマは、母親を見つけた迷子のように幸村に抱きついた。華奢な幸村は勢いに負けて危うく倒れそうになるほどであった。 「リョーマ?」 「――なにか、とても嫌な感じ」 「いやな? ……どんな?」 「わからない。わからないけど、でも」 ――あいつ。 そのままリョーマは、自分を落ち着かせようと目を閉じた。 呼吸はやはり整わず、身体は震えるばかりだ。けれども、確かに感じている。 ちくちくと神経を刺し、逆撫でる。 ――あいつ。 リョーマが感じる"不安"はどろりと不気味に凝って、闇色の形をととのえてゆくようであった。 それがゆっくりと、おぼつかないながら確かな歩みを始めたのは、その夜。 その、夜のことであった。 |
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