腕の中の体がぴくりと震えたのに気づいて、手塚はそっと相手の顔を覗き込んだ。
 なるべく驚かせないように、おびえさせないようにとそっと顎に手を添え、顔をあげさせた相手は――無論、それはあの美しきドール"フレイヤ"こと「不二」にほかならないのだが――みるみるうちに目に涙をあふれさせはじめた。
「不二?」
 たったいままで彼は打ちひしがれた花のようにおとなしく、手塚の胸に抱かれていた。傍目にはどう見えようとも、その顔がいかに悲しげで寂しそうであっても、それが不二にとってはとても落ち着いた、情緒の上でも安定している状態だったのである。
 それが突然からだをこわぱらせ、暴れることはしなかったが何かに怯えたように震えだし、たちまちのうちに涙をこぼし始めたのだ。
「不二、どう――」
 どうしたのか、と言いかけた手塚もまた、不二の異変のみなもとに気づいた。
 遠く。
 たとえドールの眼差しをもってしても届くはずはない場所をはるか見晴るかすように、手塚は顔を巡らせた。
「そうか」
 黄昏色、疲れた鉄錆の色をした空――その向こうに起こったささやかな、そして重大な変化を感じて。
「――大丈夫だ、不二」
 黙って涙をこぼし続ける相手を、手塚は壊さないように気遣いながら抱きしめた。
 かつて手塚が研究機関の白い一室にいたころ、まるでごみでも投げ入れるようにして足下に放り出されたのは、か弱い心を病んだドールだった。手塚のもとにやってきたとき不二はすでに精神に異常をきたし、ドールとしてはつかいものにならなかった。人間達の思い通りにならなかった彼を、研究員達は「廃物利用」のつもりでもあったのか、玩具代わりにと手塚に与えてきたのだ。
 それ以来、ただひたすら手塚はこのドールの心のやすらかなことだけを望み、求めている。乾に従って研究所を逃れ出たのもその為だ。自分一人ならば己の身がどうあろうとかまうことではないし、乾の企みにも興味はなかったが、壊れてしまったこのドールだけが気にかかった。
 ――可哀相ではないか。
 手塚はそう思う。
 これほど怯えているものを、こんなに恐ろしがって泣いているものを、それ以上惨たらしい目にあわせなくともよいのではないか、と。
 顔立ちはとても整っているのだし、出来るなら泣くのではなく笑っていてくれればもっと美しいに違いない――なるべくなら、笑うときは自分を見ていてほしいものだ、と。
 手塚のその感情には、人間であるならばもっと別の名がつくのだろう。
「俺だけはお前から離れない。だから大丈夫だ、もう二度とおまえが怖い目に遭うことはない。不二、泣くな。泣かなくていい」
「――」
「――最期まで一緒だ」
 手塚は名を知ることのない感情のままに、己がそれにどれほど狂おしく支配されているのかも判らぬままに、腕の中の体を抱きしめる。その従順さとはかなさが、何故これほど自分の気を駆り立ててやまぬのかと不思議にすら思いながら。
 美しくも痛ましいその光景は、帝都にほど近い壊れた街の中、半分崩れた城館の薄暗がりにあり誰の目にもふれなかった。
 だが同じ場所で、手塚や不二とまったく同じことを感じ取ったもうひとりの者が置かれた状況は、それと全くすがたも意味も違っている。

 不二や手塚が感じた「なにか」を、もちろんほぼ同時に少年も気づいた。
「どうかしたのか、薫」
 乾の問いに少年は直接答えず、白い顔をして振り向いた。
「――"彼"が」
 薫は、子供らしからぬ表情と口調で、淡々と言った。
「めざめます」
「――……そうか」
 相変わらずくたびれた白衣で、猫背になってコンピュータの画面に向かっていた乾は、口元だけで笑うと少年を手招いた。
 乾はこの城館の一室にいわば間借りしている身であったが、間借りをはじめて半月ほどの間に古ぼけたコンピュータやなにやら機器で埋め尽くし、かつての自分の私室とまったく変わらぬ様相にしてしまっている。
 不思議なもので、モニターからの不安定な灯りに照らされ、半分薄闇に沈んだ不気味な姿こそが、乾にもっともよく似合ってさえいる。乾自身がそう思っているのかどうかは別にして、彼は自分が一番落ち着き、かつ似合いの光景を好んで創り出しているようにも見えた。
 うねうねと蠢くコードはいやらしい蛇にも似て、幼い少年の爪先にとぐろを巻いている。それにときおり本当に足をとられながら、薫はこの不気味な"父親"のもとに近づいた。
「では今頃柳がよだれを垂らさんばかりにしているな。――いや、それはそれで大いに結構。それぐらい喜んでくれているほうが、突き落としたときの落差が激しくていいってもんだろう」
 乾は薫少年を膝の上に抱きあげ、髪を撫で、肩を撫で、薄く擦り切れたシャツのすそから指先を忍ばせて、まだ幼い素肌をじっとりと撫であげた。
「次にお前を狙ってくるだろうな。――どうだい、薫。この間会った柳博士のところへ行きたいか」
「――……?」
 問われる意味が判らない、と言うように薫は眉根を寄せた。
「柳博士のもとに行く必要性がありません。――何故ですか」
「ん?」
「――どうしてあのひとをそんなに」
 気にしているのか、と訊ねようとした薫少年は、驚いて息を呑んだ。乾の膝の上に横抱きにされるような格好で、突然仰向けにされたのだ。
 びっくりして見あげた薫の額に口づけると、乾は表情の見えぬ眼鏡の向こうで薄く笑ったようだった。
「俺がお前を思うのと同じように、あいつもお前を思っているからだ。憎悪と愛情とで名をかえても、俺達のお前に対する感情の強さというものは、決してふたりともに負けはしないだろうよ」
「……」
「――彼奴の持ち札の"シグルド"にくわえて菊丸を手に入れたことで、あいつは有頂天だろうな。……だが本当の切り札は俺が持っている」
 そのまま乾の手は薫の可愛らしいひたいを撫で、執拗に頭の部分を撫でさする。彼の父親は自分の頭皮や髪より、その中の脳髄にでも用があるのかと思うくらいに。
「あいつも愚かではない。それにすぐ気づくだろう。だから俺はお前を帝都につれてゆくんだ。最高のシチュエーションで、最高の絶望を味わってもらうために」
 薫を狂おしく愛撫しながら呟く乾の言葉は、狂熱をこめた独り言のようになってゆく。これは薫にとってはいつものことで、そのうち頭だけでなく、体中を撫で回されることになるのだろうということも判っている。
 薫は目を閉じ、父親の意向に従おうと大人しくすることに決めた。
 意識の端にはまだちりちり、ちりちりと、何やら危険な、不穏な振動が残ったままだ。

――"シグルド"

 相手に届くはずもないが、薫は目を閉じた暗闇の中で小さくその名を唱えてみた。
 と。
 薫の意識の端に、さらにかすかに引っかかるものがある。

――……。

 小さな、悲鳴のようなもの。
 喘鳴のような、たとえようのないほど哀れな叫び。
 絶望。驚愕。悲しみ。
 それは一瞬にして消え去り、"シグルド"の不穏な存在感に隠れて失せ、薫の感覚には二度と触れては来なかった。
 ただ、あの気配には覚えがある。
――……英二先輩。
 薄くひらかれた薫の目は、じっとりと塗れたように充血していた。
 乾に気づかれる前に閉じられた眼の奥で何とも言えない不快さは長く残り、その息苦しい時間の中でいつまでも薫を苦しめたのだった。






 そうして、同じ刻――。
 そう、銀色に輝くオーディンズタワーの最上に近い位置、足下を見おろす"フリッカ"が、『そのとき』を知って優雅に微笑んでいた頃のことである。

「気持ち悪い。胸がちくちくする」
 思わず、と言った風にリョーマが呟いたのだが、英二の耳にはとどいただろうか。
 オーディンズタワーの地下深く、呆然と膝をつく英二の前で、またたくまに氷の壁は溶け、蒸発して消え失せていった。
 一枚ずつ不明瞭なレンズが外されていくように、次々に視界はクリアになってゆく。その中に、英二は確かに『彼』を見つけたのである。
 断罪されし者。
 磔の王。
 そうとでも表したくなるほどその姿は衝撃的であった。
 ちょうど十字の架台にぴったりとはりつけられたような姿で両手を広げた無防備な裸体に、何十と言う銀色の槍のようなものが突き刺さり貫いている。
 美しいがどこか惨い、蝶の標本のような姿だ。
「"グングニル"をはずせ」
 呆然としている英二を振り返りもせず、柳は無機質に命じた。
「ひとつずつだ。――そうだ、ゆっくりとな。どんな異変も見逃すな」
 "彼"の腹のあたりにむごたらしく刺さっていた「槍」のひとつが、ゆっくりと動いた。"グングニル"とは、その細長く鋭利な、機械仕立ての武器のことを言うようだった。
 "彼"の体を通るあらゆる神経がその機械の武器によって断ち切られ、彼の身体が再生する前に内側から凍結させて仮死状態を保たせていたのだと、のちに英二はリョーマから聞かされることになる。
 もっともそのようなことは知らずとも、その機器が"彼"の体と意識の自由を奪っていたであろうことは誰の目にも明らかだ。銀色の槍はまさしく蝶を留めるピンの如く"彼"を縫い止めていた。両手首両足首から始まって、足や腹や心臓、喉元までをも射し貫いていたのだ。
 彼はそれでも単なる「仮死状態」にしか過ぎず、その槍を抜けばたちまち再生して元通りになるのだと言われてもにわかには信じがたかっただろう。ドールの中でも彼の再生能力は度を超えているのだ。
「大丈夫? 気分悪いなら、壁にもたれて座ってたほうがいいよ」
 英二を気遣うリョーマの声が聞こえたのか、ごく近くにいた真田は驚いたような顔をしてリョーマを見やった。この少年がそのように、"ゆき"以外を案じることは初めてと言っても良かったくらいだ。
 しかし英二の耳には届いていなかったかも知れない。英二は声もなく、ガラスに隔てられた向こうの"彼"を見つめているばかりである。
「大石」
 呟く英二の声は、機械の唸りにかき消されるほどか細く弱かった。
 ガラスの向こう、"彼"はまさに世にも美しい標本であった。
 うなだれもせずしっかりとあげられた顔は端正で、当たり前ではあるが英二の記憶の彼と変わってはいない。閉じた瞼は青ざめ、引き結ばれた唇からも色は失せていたが、それは間違いなく英二の探し求めていたものだ。

――大石。
――大石、大石。
――大石。

 今にも気を失うのではないかと思うくらいに、自分でもそう危ぶむほどに、英二の中はその言葉で満たされている。
 どれほど長い間焦がれただろう、どれほど会いたくてたまらなかっただろう。
 あの荒野の城からどれほどの時間が経ったことだろう。
 どれほどあの暗い闇によどんだ場所から遠ざかって、あの炎の夜からいったいどれほどの時間が流れて。
 柳たちに追いやられた部屋の隅、英二は膝だちのまま、ただただ"彼"を見上げるしかなかったが、所員達にとってはまだまだ、なかなかに切羽詰まった状況が続いているようだ。
「"グングニル"強制解除されています」
 所員のひとりがあわただしく叫んだ。真田は叫んだ所員の側に駆け寄り、手元の画面を覗き込んだ。
 よほどの異常があったのだろう、彼は画面とガラスの向こうの"シグルド"とを交互に見やり、舌打ちをした。
「解除が早すぎる。せめてひとつずつ引き抜けないか」
「無理です」
 若い男の所員が喘ぐように言った。
「先ほど奪われた障壁のエネルギーだと思いますが、それが逆流して"グングニル"のプログラムを解除……いえ、破砕しています」
「――……」
「機器も暴走しかねません。――このままですと、この場所そのものを破壊する衝撃になります」
 彼らが見守る先で、事態は急変しているようだった。
 何千のコードに縛られ戒められたその裸身から、はじき出されるように銀の槍が押し出されていく。柳が指示したような「ゆっくりと」「ひとつずつ」などということは、まったく叶いそうにない。
 銀の槍はひとつ、またひとつ、そうしてやがては次々にその白い肌から押し出され始め、床にからからと音を立てて落とされていく。むろん槍がぬけたあとには傷ひとつ残ってはいまい。
 よほどの事態なのか、緊急を告げるアラートが鳴り響きだした。
 いっせいに鳴り響き始めたそれは、ご丁寧に赤い明滅をもともなって、ますますその場にいる者を焦燥に駆りたてる。
「駄目です、押さえられません。残りの"グングニル"にパワーを集中させて押さえ込みます」
「いや、それはやめろ」
 真田のよく通る声が、所員達の手を止める。
「弾こうとするな。そのまま受け流せ」
「し……しかし」
「少しでもこちらからの攻撃の意志を見せたら、倍返しでくるぞ。死にたくなかったらとにかく受け流せ。タイミングをあわせて"グングニル"を外していけ」
「は、はい」
「最後の"グングニル"が外れたら、たぶんあれのパワーが全部外壁にかかる。同時に出力48%で外壁のシールドにエネルギーをまわせ」
「しかし48%では、シールドもまず破壊されます」
「それが最大限だ。それ以上あげるとあれに衝撃が逆流する。シールドが破壊される程度なら、吹き飛ばされたところでみな骨折ぐらいですむだろう。――半端な刺激をしたら、こちらが死ぬぞ」
「は、はいっ」
 真田が的確な指示を出していく中――柳が何も言わずうっすらと口元に笑みを浮かべて見守る中、警告音はますます大きく激しくなり、赤いランプがあわただしく明滅する。
 それは、あの炎の夜を思い起こさせて、思わず英二は自分の身を縮めるようにした。
「大丈夫?」
「――……おチビ……」
「気分悪い? もうちょっとだろうから待ってて。――大丈夫、あんたには怪我させないから」
 そういうとリョーマは英二のそばにぴったりとくっつき、自分の体で英二を半分隠すようにする。
「くるよ」
「――……え」
「目をつぶって、頭をひっこめて」
 リョーマが言った瞬間、びしっ、と言う音がした。
 何かの軋みのようにも聞こえる。
「な、なに」
「目つぶって!」
 再度リョーマに言われて、英二は思わずその通りにした。
 次の瞬間、鼓膜を突き破るような、凄まじい破壊音がする。
 何かをたたき壊すような――ガラスを何千枚といっせいに叩き割ったような、思わず首を竦めたくなるような音だった。
 どん、どんと床が唸り、地面が二度、三度と揺さぶられる。
 思わずリョーマの体にすがりついた英二に、突風が吹きつけてくる――それは身も凍るような冷気の風であった。
 所員達の叫びがあがり、もう一度地面がぐらぐらと揺れる。
 そのまま目を閉じていたのは、よくて十数秒程度のことであったろうか。
 英二にはもっと長く感じられたのだが、本当はさらに短かったかも知れない。
 リョーマに言われて目を閉じる前と、そして開いたその「何十秒程度」の間に、研究室内はすっかりと荒れ果てていた。
 機械は壊れ、時折奇妙にへこみ、あるいは黒々とした穴さえ開けられているのである。
 整然と椅子に腰掛けていたはずの所員達は其処此処に倒れ、それぞれに身を起こそうともがいたり、うめき声をたてたりしている。なかには壁にぶつけられた姿勢のまま、ぴくりとも動かない者もいる。
 椅子はひしゃげて飛ばされ、または壁の方までふっとび、もろもろの書類の類が散乱し、しゅう、しゅうとなにかが煙をはくような音がしている。
 けれど不思議なことに、リョーマと英二の周りにはものひとつ、そうして壊れた破片ひとつ飛んできていないのだった。
「大丈夫だった?」
 リョーマが相変わらず無表情に、けれど彼なりの精一杯の思いやりをこめて英二を案じた。英二はまだ少し体にふるえを残しながらうなずきかけたが、すぐにはっと息を呑む。
「どうしたんだよ」
 リョーマを押しのけて英二が立ち上がろうとするので、リョーマは慌てて手を伸ばす。
「危ないよ、ね」
 どうしたの、と訊ねようとしたリョーマは、肩越しに振り返ってぎくりとする。
 壊れた部屋、悲鳴を上げる人と機器の残骸、地獄のような氷気――その中に、誰か佇んでいる。
 誰か。
 すらりとした青年の身体。
 まだ皮膚に霜をつけ、半分凍った身体のままで、けれど目覚めている。
 この冷気の中で。
 誰か。
 いや――決まっている。
 "彼"だ。

「ね……っ、ちょっと」
 慌てて手を伸ばそうとしたリョーマから、英二はおもわぬはしこさですりぬけた。
 砕けた氷とガラスとが、鋭利な銀の宝石のようになって散らばる床の上を、英二はよろけて歩く。
 足の裏が痛んだ。氷の冷たさか、ガラスの破片で傷ついたか。
 けれどそんなことにもかまっていられない。
 "彼"がそこにいる。
 よろよろと危うい足取りながら、英二は必死に"彼"のもとへと歩み寄る。
 その英二に気づき、留めようと体を起こした真田の前に、さらに押しとどめるように腕が伸びてくる。
「弦一郎」
 そう呟いて彼の行動を遮ったのは誰あろう柳である。
「連二、おい……」
「いいから」
 黙って見ていろ、ということなのか、柳は顎をしゃくって英二と、そして目覚めたばかりの"シグルド"を見やる。
「お……」
 よろけた英二を、追いついたリョーマが支えた。
 "彼"の長いまつげにはまだ氷の珠が連なっている。皮膚は白く冷え、霜が浮き、まだ"彼"の身体のほとんどは凍り付いたままなのだろう。
「大石」
 英二の声を聴いても、彼は動こうとしない。病的なまでに白い霜を皮膚に張り付かせ、佇んでいる。
「おおいし」
 英二は、よろよろと彼の元に歩み寄った。
 ようやく、"彼"の視線は英二を捕らえる。
 柳のみならず、真田も、リョーマも、この場にいた意識ある全員が思わず固唾を飲んだときだ。


「おまえ」

 冷気そのものの吐息とともに、"シグルド"は英二を見据え、はっきりと口にした。





「――誰だ」



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