「「大丈夫か」
 真田が声をかけた相手は、いささかの狼狽も見せずに頷いた。
「大丈夫だ。機器に異常はない。みな正常に作動している。――……バケモノめ、やりたい放題だな。なかなかのむずかりようだ、どうやら寝起きは良くないたちと見える」
 どこか浮かれた調子で言う柳蓮二に、真田は眉をひそめた。
「……俺がしているのはお前の心配だが」
「正常だ。体調も悪くない」
 柳は気楽に言った。むしろどうして、そのような揺れ程度で真田に自分が気遣われるのかがわからない、何故機器の具合よりも自分を案じるのかと言った様子だった。
 先刻、地響きのような恐ろしい揺れに襲われた実験施設だったが、幸いにして、極度の機器の不調もそれを扱う人間達の恐慌もおこらなかった。
 その揺れの「震源」は間違いなくこの地下であった。だが、柳はもちろんのこと傍らの真田も、また彼らの忠実で正確な部品と化している研究所員達も、その事実を知りながら眉ひとつ動かさないでいる。
 そのあたりのことは十分、柳蓮二所長の想定の中には組み込まれていたと見えて、セキュリティやプログラムのフォロー、果ては機器を操る人間達に対する行動の指示は徹底され、なんの支障も生じない。
 いつもより浮かれ調子の柳と、それが気にかかって仕方のない真田をのぞいて。
「少しのぼせあがっていないか、連二。落ち着いたらどうだ」
「ああ、そうだな、それは確かに」
 彼は、しかし相変わらず熱のこもった口調である。
「むしろ興奮しすぎて、そちらのほうが危ないぐらいだ。バケモノが目覚めたらクラッカーでも鳴らしてやろうか。ケーキの用意でもしておくんだったかな」
 柳はあふれ出す猛りのようななにかを必死で押さえつけているようである。友人の異様さを案じる真田をよそにその狂おしさはますます高ぶり、あらたな狂熱を呼びさましてゆくようでもあった。
「……いいのか」
 真田が普段にも増して渋面を造って小さく問いかける。
「何がだ」
「今回のことだ」
「心配はいらんさ。"老人達"には許可を得ている」
 柳は笑い飛ばした。
「このまま無理矢理寝かせておくよりは、起こして機嫌を取っていたほうがいい。……どのみち、このあいだのように無理にネットに侵入される方がよほどのこと危険だ」
「"ヒルダ"のことは未報告だろう」
「知っていたのか」
「わからいでか」
 まるでいたずらっ子のような表情で眺め見てくる柳に、真田は深いため息をついた。
「それでなくとも先日のことがまだ納得できていないと、質問書が山のように来ていたのに。……その上」
「"シグルド"にたいする切り札を確保していることを……いや、それを隠蔽していることを知られたら、か」
 柳は薄く笑った。
「そういうことをねじこみたがるのはあの政治屋だろう。以前幸村のことでおまえにしつこく絡んでいた」
「――……」
「だいたいは説明してやれば納得するのに、しつこく食い下がってくるのは己の下らぬ体面と低俗な下心があるせいだろうよ」
「……」
「この間の停電のときもそうだ。いくら緊急遮断とはいえタワーの復旧にあれほど時間がかかることなどあり得ない。無能なのはいっこうにかまわんが、そういう常軌を逸した相手を起こそうとしていると言うことぐらいにはせめて気づいてもらいたいものだな。自分たちの延命ばかりに気を取られていないで。――知っているか、"シグルド"が覚醒すればまるで魔法のように自分たちの若返りの妙薬が出来ると思っているんだぞ、あの連中は」
 唇が歪み、柳は楽しげに嘲った。
「いったい自分たちのお膝元で何が行われているのか、その意味を本当に判っている連中がひとりでもあの中に――」
 そこまでいいかけたとき、彼らの背後のドアが開いた。
 横滑りに開くときの、軽い空気の音とともに入室してきた人物を見たとき、真田が目を丸くした。
 彼が見たのは、白衣の所員達に伴われて入ってくる"ロキ"と、彼に手を引かれた小柄な少年の姿であった。

「連二、おい」
 英二を見たその男は、ぽかんとした顔つきで傍らの男の肩を叩いた。彼らには見覚えがある。――「真田」と「柳」だ。この研究所の中でも相当上部の人間なのだろう、と思った覚えがある。捕らえられて期間は短いがその間に幾度か見かけた。 所員達を集めて指示を出す様子は上に立つ者のそれであった。
 「真田」に呼ばれて振り向いた「柳」は、まるで汚いものでも見る様子で英二を冷ややかに一瞥した。英二は一瞬ひるみかけたが、改めて歯を食いしばって柳をにらみ返した。
 手取りにし、囲い込んだと向こうが勝手に思いこんでいるだけだ。逆らう手段がないからと言って心まで屈したつもりはない、とばかりに英二は、いっそ健気なまでに勇ましかった――が、当の相手はそんなことにかまっている暇はないらしい。
「誰が、こいつを連れてこいなどと言った!」
 珍しい柳の糾弾に、白衣の男達は首を竦めながらあわてて言い訳をした。
「い、いえ、所長のご指示がありましたので、我々は」
「指示?」
 柳は思い切り眉を顰めた。
「わざわざこんなタイミングで、よりによってこれを連れて此処に来るようになどという指示を、俺が出すと思うのか!」
「いえ、確かに」
 男はあたふたと手元の携帯端末を取り出した。
「貸してみろ」
「は、はい」
 柳は神経質そうな指先で、その端末を幾度か操作した。
「ご、ごらんの通り、所長専用ラインでの発信となっております。マスターコードも所長のものですし、我々としては当然所長ご自身からの指示だと……」
「――やってくれる」
 柳は口元をゆがめ、じろりとガラスの向こうを睨みつけた。
 思わず英二もつられてそちらを見やった。
 たくさんの研究所員達が操る様々な機器、忙しく明滅するモニタたちがずらりと並ぶその上に、ずいぶんと大きな強化ガラスがいくつも嵌められている。ガラスはもちろん透明であったが、今はなにやら曇ってその向こうははっきりとは見えない。
 本来その向こうにあるのは、巨大なホールのような天井の高い空間であった。そこにいれられた対象物にさまざまな実験を行うための場所であり、この機器室からはその対象物の変化を、数値と肉眼とでつぶさに見て取ることが出来るのである。そういうものはこのタワーの中にもちろん無数にあるのだが、ここはまた特別に設えられた場所であったのだ。
 無論英二はそんなことは知らない。
 いつもならそのガラスはシャッターで覆われ、その先にあるものを誰も見られずにいたのだが、今は全てが全開にされている。とは言ってもガラスは曇り、そのホールの中に何があるのかはさだかにはならない。分厚い氷の層が幾重にも重なっている。
 英二から見られるのは、中心部分に向かって何十、何百と伸びてゆくコードの類、そうしてその中心部分から生えて見えるような、何十本の細い棒のようなものである。
 氷のせいでますます歪みぼやけて見えてしまい、はっきりとはわからなかった。
「……俺達、いないほうが良かったんだ?」
 リョーマの皮肉っぽい問いかけに、柳は大きく頷いた。
「ああ、非常に邪魔だ。いてもらっては困る。今回の指示は手違いだ、さっさと出て行け。それも連れて」
 英二達を連れてきた所員達は顔を見合わせていたが、何を言うにも柳の指示は絶対だ。彼らはまた何事もなかったような表情に戻り、リョーマたちに頷きかける。
 そのとき、ふたたび突然に地面が大きく跳ね出した。
「わ……っ」
「こっち」
 思わず声をあげた英二の肩を、リョーマが冷静に支える。英二も今度はさほど驚き続けることもなく、その揺れがおさまるのを待っていた。
 が。
「――……えっ?」
 リョーマの手に知らず支えを求めながら、英二は再び小さく声を出した。
 所員達数人が出た直後の扉が、リョーマ達の目の前ですっと閉じたのだ。
 リョーマも不審に思ったらしく、ドアの横にある小さな開閉スイッチを指先でいじってみるが、まったくドアが開く気配がない。
 半ば呆然としてそのドアを見上げていると、二人の背後から声がかかる。
「――何をしている、早く出ていけ」
 柳の冷たい声に振り返ったリョーマは、負けずにつっけんどんに言い返した。
「……ちょっと無理みたいだよ」
「何がだ」
「別に俺達に意地悪してドアを閉めてるわけじゃないんだよね」
「何を馬鹿なことを言っているんだ、おまえは。そこだけ解除してあるから、早く出ていけ」
「――嘘だと思うなら試してみたら。ドア開かないよ」
 リョーマは少し大きめの声で――おそらくその部屋にいる全ての人間の耳に届くように、言い返した。
「ネットワークを見てみた方がいいんじゃない」
 リョーマの言葉に、ちらりと所員達の数人が不安そうに振り返った。柳は舌打ちし、手近な所員にその確認をとるようにとの指示を出す。
「――ネットワークは正常に運行中です。タワー上部、地上階のネットワークの異常も見られません。機器類はすべて正常、オールグリーンの状態で動いています。ただ」
「ただ?」
「そのオールグリーンの状態のまま、非常態モードに移行しません」
「……何だと? 変更は?」
「非常態モード、レッドアラート、どちらも自動でも手動でもまったく受け付けません。システム正常としてはじき返されます。……ただ、実験はこのまま続行されるようです。機器類に異常な数値は見られません」
 柳はため息をつき、ちらりと後ろを振り返ってリョーマと、そして英二とを睨みつけた。
 すぐに自分の仕事に戻った柳の背中を、それでも懸命ににらみ返しながら、英二はリョーマに小声で問いかける。
「なに。どういうこと。……どうかした?」
「たぶん、ここの機械、っていうか、ネットワークが指示を受け付けないってことだと思うよ。ある意味孤立した感じ?」
「孤立?」
「此処は地下だからね。特別な実験対象のための」
 リョーマは、曇って見えないガラスの向こうを睨みつけながら囁くように言った。
「基本的にここでややこしい実験するときって、外から誰も入ってこられないようにしとくんだ。柳の特別な指示だとかコードとかがないと、外部からドアも開けられないっていうふうに。あ、内部からもよっぽどのことがないかぎり開けられないよ。実験の経過がなんだかあやしくなって、ちょっとヤバいかなってときでもないかぎりね」
「……」
「もしも不測の事態がおこったときは地下全体のネットワークのシステムが非常事態モードに自動的に切り替わる。逃げ道は優先的に確保されるし、実験対象の処分もしてくれるからさ。逆に、オールグリーンで順調に動いているときにはそんなことしなくていいから、閉鎖状態のまま。――でも、いつどんなことがおこるか判らないから、最悪手動でも移行はできるようになっている――はずなんだけどね」
 説明するリョーマと英二の視線の向こうで、どうやら妙な事態に陥っていることが判ったらしい柳は、所員を押しのけてキーボードを叩いている。
「どうした」
「――どうもこうもない。こちらからはドアを開けられない」
 柳は小さな声で真田に言った。
「非常モードをまったく受け付けない。このまま続けるしかないな」
「しかし」
 真田はちらりと背後の少年達を見た。
「仕方ない。実験そのものは正常だ。――ただ、あのバケモノに我々」
 そこまで言って柳は首を振った。
「いや……"ヒルダ"をここから出す意志がないだけなのだろう」
「大丈夫なのか、このまま起こして」
 真田は小さく言った。柳は軽く頷く。
「このまま問題なく続けられるならそのほうがいい。――今の"シグルド"は深層心理で動いているだけだ。完全に覚醒して表層意識にとって替わられれば、その点については問題ない。――どのみち正常な終了を機械が認識しなければドアは開かないんだ、やるしかない」
「……わかった」
 真田は頷いた。
 それを見届けて柳は改めて、その場にいる全員に聞こえるように喋った。
「実験に関するシステム自体は正常だ。このまま問題なく終了出来れば、地上へのドアも開くだろう。――生きて帰るために、気を抜かないでかかってくれ」
 指示と言うより威しにも似ていたが、所員達は案外冷静に目の前の画面へと向かいなおした。そのあたりは柳の薫陶良きを受けてというところか、彼らには己の安全よりも、心配なことがあるようである。
「おまえたちはうしろに引っ込んでろ。出られないなら仕方ない、いるのはかまわんが邪魔をするな」
 柳は振り返りもせずに言った。そうして言われた方も大人しく、特に逆らう様子もなく壁の端の方へと退く。
「――……つまんない」
 柳の背中を睨みつけながらリョーマは言った。
 もちろんそんなことが柳に聞こえてはまた睨みつけられるだけなので、ようやく英二の耳に届いたぐらいだ。
「おチビ。何があるんだよ、あの向こう」
 え、というふうにリョーマは片方の眉を動かしてみせた。
「アンタまさか知らずに付いてきたの」
「知らずに、ったって、誰も教えてくれないし。実験施設なのは、いまおチビが言ったから判ってるけど」
「――それもそっか」
 少年はくくっと喉の奥で笑い声をたてた。
 そのようすを見ながら、英二はさらに声を低めた。
「呼んでるのは、"あいつ"だ、って言ったよな」
「――」
 少年はどう答えていいものかしばらく考えていたようだったが、やがて間近に迫った英二の真剣な表情からふいと視線を外した。
「寝ててもアンタのことしか考えてないようなやつだよ。……あんたの目の前にいる」
「目の前?」
「ほら」
 少年は真田達に気づかれないよう、そっと目顔で知らせる。
 ちらりと向いた視線の先は、曇ったガラスだ。氷の層はあつく像は歪んで見えない。
 英二の方から見えるのは、何百というコードがおそらくガラスの向こうのある一点に向かって繋がれている様子、そしてその中心には、細長い棒のようなものが何十とある。
 英二は、もっとよく見ようと必死に目を凝らした。常人にはない視力を持つ英二であったが、プレートのせいで視界は以前ほどクリアにならない。
 だが、よくよく見るとコードの向かう先、その中心には何かがあって、棒状のものはその何かを貫く形――その「何か」に突き刺さって針山のような形になっているのだと知れた。
 「何か」。その、何か。

『柳達は氷の封印を解こうとしている』
『氷の中の悪魔がもうすぐ目を覚ます』
 ふと、英二の脳裏によみがえったのはあの美しい"ドール"、幸村の言葉である。

――まさか。
 英二がごくりと唾を飲み込み、その対象をさらによく見ようと目を凝らしたときだった。
「所長、外壁のパワーが急速にダウンしています!」
 所員の大きな声が彼の集中を邪魔した。
「第二壁までエネルギーが落ちました、第三隔壁もパワーダウン中!」
「馬鹿者、早く出力をあげろ!」
 真田が怒鳴った。
「障壁にパワーを集中、サポートに予備分を全部まわせ」
「駄目です、パワーが持ちません。――な、内部から」
 英二からは、驚きに目を見開いて柳を振り返る所員の姿がよく見えた。
「内部からパワーが吸収されていってます。予備に回した分も、ブースターで弾こうとしても、それも全部」
「内部……」
「"シグルド"です」
 その言葉に、英二ははっとガラスの向こうを振り仰いだ。
 所員達の言う「隔壁」とは氷の層のことだったらしく、それがある程度とかれたのだろう今は、ずいぶんとガラスの向こうは見えるようになっていた。
 黒いコードはありとあらゆる方向から伸び、ある一点に向かっておぞましい長虫のようにびっしりとはりついていた。
 細長い棒状のものは、よく見れば緻密な構造の機械のようであり、全てが銀色に塗り上げられているせいで鋭利な刃物じみて見える。
 きらりと光ったそれを見やって、柳が言った。
「それでも"グングニル"は生きているな」
「それはまだダウンしていません。ですが、このままですと時間の問題かと思われます」
「隔壁は」
「第5までダウン……いえ、第6も駄目です」
「よし、隔壁はもういい。パワーはみんな"グングニル"にまわせ。無理に押さえ込もうとしなくてもいいが、これほど急に覚醒されても困るんだ。いい子にするよう言い聞かせて、ゆっくり静かに意識を回復させろ」
 英二の目の前で、氷の層は次々に薄れてゆく。
 ゆっくりと、英二のまえに「それ」が姿を現す。

 そのときが来たならば、自分はなんというのだろう、とおぼろげに思い描いていたことがある。泣くだろうか、あるいは叫ぶだろうかと。ただあいたくてたまらなかった、その相手に再び巡り会えたときに。
 氷の美貌と、世界への憎悪。闇で構成された彼は、その中に咲くただ一輪の花のように英二を愛した。
 英二の記憶の中で、彼は変わらぬ。
 恐ろしいような憎悪と、いじらしいほどの英二への思慕とにとまどう、ほんの幼い子供のようだ。
 今はガラスの向こうで何百というコードに絡め取られ――磔のように広げられた四肢と言わず体と言わず、機械の槍が何十本も突き刺さった無惨な標本のような姿であっても、『彼』は変わっていない。
 青ざめて目を閉じた顔立ちは、確かに『彼』のものだった。

 呆然とし、そうして膝をついてしまった英二を、リョーマが気遣って何か声を掛けてきたが、英二には何も聞こえなかった。

「大石」

 ただ呟く己の声さえも、遠く遠くのことのように思えた。



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