「寒くないの」 リョーマに聞かれて英二は首を振った。 大仰な医療機器に埋まったエリアからこの居住区へと連れてこられる間、英二は相変わらずの薄い医療用の衣一枚だった。いまだに靴さえ履いていない。 衣服は部屋の中に用意してあるからと言われたのだが、それに袖を通す前――と言うよりも、それが何処にあるのかを探すまえにこの少年がやってきたのだから、むろん着替えてなどいなかった。 気遣われるほど寒くはなかったが、裸足ではさすがに足先は冷たい。 そんな英二のことがリョーマもなにやら気になるらしく、何か言おうとしてはやめ、またちらちら見てはいたのだったが、やがて何かをとりつくろうように、自分もクッキーに手を伸ばして口元に運び出した。 「メロンソーダ持ってくれば良かった」 オレンジジュースをひとくち含んで彼は眉を顰め、すぐに立ち上がる。 「こっちおいでよ」 「――なに?」 「ゲーム」 「……」 「出来るでしょ」 ぶっきらぼうに言うと、リョーマは英二の方も見もしないですたすたと部屋の方に歩き出した。 「対戦しよ。シューティングゲームの新しいのきたから」 「……」 「靴とか服とか、俺のところの着ればいいし」 「いいよ。別に」 英二は顔を顰めて断った。 ゲームがしたいわけではないし、服なら適当に自分の分が用意されているのだろうからそちらを探す、というと少年はますますむくれた子供の顔つきになって、いらいらと英二のそばへ引き返した。 「俺が退屈なの。ゆきはゲームなんかしてくれないし、あの女はヘボいし、つまんないんだから」 「別にゲームなんか……って、おい、こら、離せよっ」 「おいでって言ってるでしょ」 英二の手を引っ張って立たせ、少年は彼を強引に連れて行こうとする。 「行くなんてひとことも言ってないだろ、おいって、こらおチビ!」 「チビじゃない」 「いやだって言ってるっ」 「なんでだよっ」 少年は英二の手をぐいぐい引っ張りながら言い募った。 「いいだろ、ちょっとぐらい俺といたって。昨日はゆきとばっかり話してたくせに!」 「くせに、って言われてもそんなの俺の知ったことじゃ」 言い返そうとした英二の、さらに上を行く勢いで、少年は足を踏みならして叫んだ。 「その前だって調整とか何とか言って会わせてもらえなかったし、せっかく来たんだったら俺とゲームするぐらい、いいじゃん!」 癇癪持ちの子供そのままの言い分で、少年は英二を自分の部屋とやらに、力ずくで引っ張っていった。 部屋の中は、少し広々し過ぎている気はしたが、ごくありきたりのものしかない。ベッドにデスクに、何やら大きなモニターのようなものが壁に直接取り付けられているくらいのことだ。 そして、白い。――壁紙も床も白さが目立った。家具などには、それでも多少の心配りがしてあるらしく僅かにベージュの色合いが入っており、寝具などの布にも暖かい色合いのものが選ばれていたが、それでもこの建物全体のわざとらしすぎるほどの白さは、どうしても消せないようであった。 白は好きになれない。 ここはあの場所を思い出す。 最初の場所。 彼処もただ白一色だった。なにも知らなかった"彼"と、英二が初めて出会ったところだ――稀少な実験動物と、そのなぐさみものとして。 英二にとって、塗りたくられた人工の白はいまも忌むべき色だ。 英二を突き飛ばすようにして部屋に入れると、リョーマは「居間」へととって返す。再び戻ってきたときには例の山盛りの菓子を手にしていた。 英二の前に菓子を置き、飲み物や座るためのクッションまでととのえ、手にゲームのコントローラーらしき丸みを帯びたパッドを持たせる。唇を尖らせたままの表情だったが、リョーマの態度はおそろしく甲斐甲斐しい。 この少年と英二の過去に何があったにせよ――リョーマに対して英二が、また英二に対してリョーマがどういう考え、感情を隠し持っていたとしても、すぐに角つき合わせるようにはならなさそうである――少なくともリョーマにはそのつもりはないようだった。 奇妙に、どこかおそるおそる英二の様子、出方をうかがい見ながら距離をとっているかのようだ。態度も口調もつっけんどんで、何でそれほど不機嫌なのかと訊ねたくなるほどだったが、リョーマが時折英二を伺い見る目つきには、どこか不安そうな、寂しそうなようすが隠し切れていないのだ。 その目の悲しげな色、いとおしくなるような幼さは、確かにどこか"彼"を思わせる。 同じ遺伝子――たしか、幸村はそう言っていたか。 「おチビ」 少しやさしい気持ちになりながら、英二は静かにリョーマに呼びかけた。 「……なあ、俺、わかんないよ。こんなゲームしたことないし」 「教えてあげる。簡単だから」 少年が手元のパネルを操作すると、壁にぴったり貼られた薄い画面に、何か、戦闘飛行機のようなものが映った。 ――と。 「……あれ?」 今し方、戦闘機のCGを映し出していた画面が突然真っ暗になった。機械の不調だろうか、と英二と、そしてリョーマがふと不審に思った次の瞬間のことである。 E。 I。 J。 I。 英二は息を呑む。 画面には、凄まじい勢いで4つのアルファベットが踊り出した。 ――E ――I ――J ――I ――EIJI ――EIJI すべて赤。 血の色の赤い文字である。 「――……っ」 英二が、細く息の音を立てた。 EIJI。 EIJI。 その文字が画面せましと踊りだした、わずか数秒後には、ぐらぐらと地面が――このタワー全体が揺れだした。 画面の文字に続いての異変に、英二は思わず小さな声をあげた。その英二の肩を庇うように抱き、リョーマは、猫に似た目をつりあげぎっと床を睨みつける。 次の瞬間、彼はどん、と手で床を殴りつけた。 しかしそれに抗議するように、ゆらゆら、がたがたと建物が揺れつづける。もちろん、高層建築であるぶん相当の強度を保っているだろうこのタワーであったが、上部の揺れは相当なものだ。 「――……このっ……」 リョーマはさらに、どん、どん、とたて続けに床を殴りつける。 どういうわけだか、リョーマが床を叩き続けるとともに、建物の揺れも少しずつ小さくなってゆくようだった。 「暴れんなよっ、ここ壊して、このひと殺す気かっ!」 少年は足下に向かって叫んだ。 ――と。 ぴたりと、揺れは止んだ。 「……」 英二は声もない。 少年は何故か顔色を青ざめさせ、肩で息をしている。床に手を付き、じっとそこを――あるいはもっと、はるか彼方であろう地面の下を――睨みつけ、憤りを押さえ切れぬようにもういちど、拳で殴りつけた。 「まだ寝てる状態だから」 「……」 「本当に覚醒してないから、この程度ですんでるんだ」 「……おチビ」 少年は、相変わらずどこかむくれた、不機嫌な子供の表情をしている。しかし、その少し消耗したようすが気になって、英二はリョーマの顔を覗き込んだ。 その顔を間近に見た途端、リョーマはぷいとそっぽを向く。まるで英二の赤い髪の色が顔に反射したが如くに目元を染めながら、ぶっきらぼうに呟いた。 「俺にはゆきの考えてることはわからない」 「……」 「あんたのことも」 英二は、どう答えて良いか判らずに黙った。 背けてしまった少年の顔を、もう一度覗き込もうかどうしようか、重苦しい沈黙の中で逡巡していたときのことである。 「だいじょうぶ、ふたりとも!」 腹立たしいほど無神経な女の声が沈黙を破った。リョーマ達の日々の世話役を務める女である。あわてて飛び込んできた彼女は、部屋をひととおりぐるりと見回して、それから矢継ぎ早にこう問いかけた。 「だいぶゆれたけど、大丈夫? びっくりしたでしょう、したわよね。ふたりとも怪我してない?」 みれば判るだろ、とばかりにリョーマは彼女に背を向けた。彼女の心配に感謝する気持ちは微塵もないようだった。 「何も落ちてきていないわね。揺れじたいは短かったけど……驚いたでしょう、大丈夫?」 「うるさいな、なんともないよ」 「無事かどうかだけ確かめさせてくれればいいのよ」 リョーマの邪険な言い方にも、女は気を悪くした風もないようだ。もう慣れているのだろう。 「英二君も大丈夫のようね」 「その子もなんともないったら、見てわかんない?――それよりゆきは? ゆきも大丈夫なんだろうね」 「彼も無事よ。実験が終わったすぐあとで着替えていたところだったから、怪我もしていないし」 「あっそ。ならいいんだ。……それより、もうわかったんなら出ていってよ。ゲームして遊ぶんだから」 「はいはい、わかったわ。――……あら」 苦笑して出ていこうとした女の白衣のポケットで、何か小さな電子音がした。 「緊急だわ。ちょっと待ってて。ここで確認させてね」 女は、手のひらに乗るほどの小さな携帯用端末を取り出し、指先で幾度か操作した。 ごくごく小さなそれは、日々のちょっとした連絡事項や伝達に使われる端末機械のようで、この女にも某かの指示が届けられたようだった。 「――……え?」 女は怪訝そうに呟いたかと思うと、無表情に――今まで僅かな時間ながらも英二に見せていた、朴訥ではあったがにこやかで、人の良さそうな顔つきがまるで嘘のように、のっぺりとした表情へと変化した。 その能面のような、他の研究所員達と何ら変わらぬ白い顔つきが、胡乱そうに英二とリョーマを見やる。 「……ふたりとも?」 しばらくして所員達が数人、この部屋へと足を踏みいれる。部屋の中に入ってこられるのがいやだったらしいリョーマは、あからさまに顔をゆがめて彼らを睨みつけた。彼らの会話の内容になど興味はないようで、わざわざ彼らに背を向けまでしたのだ。 しかし、どうやら彼らに届いた何らかの指示は、リョーマと英二のどちらか、あるいはふたりともに関することのようだ。 でなければわざわざ、ここまでやってくる意味がない。 彼らも、彼女と同じ連絡を端末に受け取った人間らしく、そのことについて話している。女はうんうんと頷きながら、ちらちらと英二とリョーマの方を横目で見やってくるのだ。 「――……ええ、それはお願いしないと。私はあそこへの立ち入りは許可されていませんし。……でも」 「何か?」 「いえ、所長にしては珍しいと思ったんです。彼らに関することはいつも口頭で指示を出されていたのに」 「しかし所長にしか使用できないコードですし」 男のひとりは簡単に女の懸念をいなした。 「確かに、口頭の指示でないことは我々も不審に思いまして、発信経路を確認しましたが、たしかに"下"からでした。所長はずっとあちらにいらっしゃるし、問題はないんじゃないですか。手が離せなかったのでしょう、何を言うにも正念場でしょうからね」 「私たちにも彼らを現場に連れてゆく意味ははかりかねますが、所長にもお考えがあるんじゃないですか」 「ええ、でも――」 女はまだ不信感が拭い切れていないようだったが、やがて納得したのか軽く頷いた。 「……いえ、いいえ、そうですね。おっしゃる通りです。では彼らのことはお任せします。"フリッカ"に関しては移動の指示はないままでしたね」 「現状維持のまま待機、というところから、新たな命令は出てないようですね。とにかく、お引き受けいたしました」 そのまま彼らはお互いに軽く頷きあって、次の仕事にうつることにしたようだった。 「ふたりとも、柳所長が呼んでるみたいよ」 女はさきほどの能面のような顔とうってかわって、にっこりと話しかける。 いかにも笑顔を取り繕っているようすが醜悪で、英二はなんとも言えない嫌な気分に襲われる。リョーマは、いつものことで慣れっこになっているのだろう、女には目もくれない。 「ちょっと待って」 リョーマはそれだけ言うと、ぷいと所員の男達に背を向けた。 「リョーマ。聞いていなかったのか、柳所長がお呼びだと言ってる」 「だから待ってって言ってるだろ」 リョーマは肩越しに男を睨みつけた。 「あんたこそ聞いてなかったの」 「またわがままか。なにからなにまで、素直に言うことを聞いたためしがないな、お前は」 「わがままじゃないよ。――ほら」 むっつりと言って、リョーマは部屋の奥から探し出してきた何かを、英二に差し出した。――可愛らしい編み上げのサンダルである。 「足、痛いだろ。履けば」 そう言って英二にそれを持たせると、少年は何か文句を言おうとした所員をじろりとねめつける。 その目が僅かに、金色にかぎろいたった。 所員の男もそれに気づいたようであきらかにひるんだ。 「なんだよ」 「……」 「あんたたちが靴も履かせないのが悪いんだろ」 「――」 「ほら、行くんだろ。今ので10秒程度のロスだよ。……急ぐんなら、さっさとすれば」 小憎らしい少年の物言いに男達はむっとしたようだったが、これ以上の時間を浪費するわけにはいかなかったのだろう。再び彼らについてくるよう促すと、部屋の出口に向かう。 「行こ」 「いくって……」 小声でささやいたリョーマは振り返りもせず、英二の手をぎゅっと握った。 「地下だよ」 「地下」 「……あんたを呼んでるのは、たぶん柳なんかじゃない」 おもわずリョーマを見つめ返してきた英二の眼差しに、そのあざやかさにたじろぎながら、リョーマは男達に気づかれぬよう低く告げる。 「"あいつ"だ」 |
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