冷たい。
 身体が冷たい。
 指が動かない、手が動かない。
 腕も足も、体全体の何もかもが。
 腕を動かそうとすると、鈍い痛みが走る。
 胸も腹も下肢も。
 頭もだ。
 それぞれの四肢のある一部分に、ずっとひきつれたようないたみがあり、少しでも体を動かそうとすれば、そこを基として全身に焼け付くような激痛が走る。
 『彼』は、しばらくその苦痛を己の体で吟味してのち、納得した。
 何かが体を貫いている。それが自分をこの冷気の中に縫い止めているのだ、まるで標本の蝶のように。左右の足、左右の手。腹も胸も喉元も。
 眉をひそめる程度のことも許されない。全身の血の巡りも止まっている――だからこれほど寒さを感じるのだろう。
 全身を貫く激痛と化した冷気の中で、自分がくわしくはどういう状況にあるのかはわからない。また何故、こんなことになっているのかも知らない。
 自分の名も。
 いる場所も。
 なんの音もせず、光も感じられず、ただただやけつくような冷気に固められている。気を抜けばたちまちに皮膚を爛らせ、血管を砕き、命をも奪いかねない冷たさに、『彼』の体は無意識のうちに必死で抵抗しているのだ。
 自分がどれほどここでこうしているのかはわからない。恐らく数時間、数日のことではないはずだ。だが最近は自分の意識というものがとぎれがちながらも自覚できている。目覚めるのが近いのか、と『彼』は悟った。

――だが。

 だが、とも『彼』は思う。
 きれぎれの意識、ほとんど夢うつつと言っていい状態の中で『彼』はぼんやりと考えた。
 この状態はまったく好ましくない。
 冷たいままでいるのは非常に不快だ。
 それが辛いとも悲しいとも思いはしなかったが、もっとこころよい、やわらかい状況を知っているがゆえに、この冷気の中から逃れ出たい、と思ってしまうのかも知れなかった。
 そうだ、苦痛を取り除く方法なら知っている。
 重たい岩を飲み込んだような、こんな胸苦しさなどいちどきに消えてしまう。
 指先が冷たければ、あの2枚の花びらのようなてのひらに、そっと包んでもらえばいい。冷気が不快なら、あのからだを抱えこんで目を閉じればいいのだ。
 そうだ、あのやわらかいもの。
 しろくてあまい、あたたかいもの。
 それが傍らにないことこそが、非常に苦しく思われてならない。いっそ不条理にすら思えてしまう。

――……E……

 『彼』は、ふたたび遠ざかる意識の中で呼びかけようとした。
 もう何度も何度も呼んでいる。呼びかけ、側に来てくれと懇願している。
 けれども、声にはならない。
 凍り付いて、唇まで動かない。

――あのやさしいぬくもりの名が、どうしても呼べない。













 オーディンズタワーの一角。
 地上などはるか下で、人の姿など塵ほどにも見えない。 
 英二はその、ドールたちに許された居住区の一角、白くひろびろとし過ぎている居間で、困惑してソファにかけている。
 全面が強化ガラスで、帝都のほとんどすべて見渡せる素晴らしい眺望――そう、ここはオーディンズタワー105階、ドール達の居住区域の一角である。
 美しい"フリッカ"と対面したまさに同じその場所。ここでその"フリッカ"こと幸村精市からお茶を勧められてからちょうど24時間後。
 まったく同じ場所、同じような時間帯。
 今度はまだ少し少女のような面影を残した、大きなつり目の少年――"ロキ"を正面にすえて、英二は座っていたのである。
 英二の体に取り付けられたプレートが、どうやら拒否反応もなく安定しているようで、英二はこの一区画に寝起きする部屋を与えられた。
 昨日の"フリッカ"との対面が数時間で終了し、すぐに英二はいかめしい医療設備で埋められた部屋へ戻されたのだが、一晩あけた翌朝には――つまり、つい今朝方のことなのだが――この場所へ移るようにと指示された。
 ドール達の生活空間にはオーディンズタワーの105階部分のフロア全てがあてられており、中には英二が連れて行かれた温室や、"フリッカ""ロキ"それぞれのための寝室、専用のメディカルルーム、常駐スタッフのための部屋、またその中心にある白い広すぎる居間などにゆったり間取りされている。この広さの中なら、英二ひとりの為の部屋を用意したところでたいしたことではないのだろう。
 たぶんそれは意図あってのことなのだ、と英二は察した。
 その全貌がつかめたわけではないがこれほどの規模の研究所である。英二ひとりのために彼らと同じ広さの生活区域を設定してもまだ余るはずだ。英二にその待遇が必要かどうかはまた別の問題として、わざわざドール達と同じ場所で生活させるのには、何か目的があるのだ。
 彼らと英二を近くにおいて、何かが起こること――少なくとも、日常とはちがった某かの反応があることを期待している、ということだろう。
 昨日の"フリッカ"との対面も、おそらくその「何か」の反応を伺う予備的なものであったのだろうし、おおむねは研究所員達の「期待通り」とはゆかぬまでも、少なくとも彼らは失望せずにはすんでいるようだった。
 幸いにして――と言っていいのかは判らないが、とにかく、英二は彼らにとっては興味の持てる研究対象で、それが為にすぐに殺されることはないようだ。
 研究所員や警備員達に取り囲まれ、此処へと移送されるあいだ、なんとかして逃げ出す隙を見つけられないかとあちこちに目を走らせたが、大勢の人間に取り囲まれたせいで、小柄な英二には周りの様子がまったく見えなかった。
 自分の力は押さえつけられているし、あまりに逆らい続けてさらに警備が厳重になるのもよくはない。
 いまは大人しくしていた方がいい、と判断したものの、こう物のように、英二にひとことさえ告げずにあちらこちらに連れ回されるとだんだん腹も立ってくるというものだ。
 内心ひそかに苛つきながら英二は何事もなく、おとなしく105階に到着したのちは、ドール達の世話役らしい若い女にあれこれと一通り部屋の説明をされた。
 「わからないことがあったら聞いてね」と、一応は女性らしいおっとりさで言い残し、彼女がこのひろびろとした居間を出ていった。
 ――その入れ替わりに、"ロキ"はやってきたのである。

 昨日幸村に追い出された理由は、確か英二と接触する許可がおりていない、ということだったか。とにもかくにも今日にはその――『接触許可』とやらが出たらしく、『ロキ』は相変わらず唇を少し尖らせた、いかにもつまらなさそうなふくれっ面の子供の顔をしてやってきた。
 「すっ飛んできた」というのはさすがに大げさかもしれなかったが、少なくともそれには近かったろう。なにせ英二がこの部屋に到着して彼が顔を出すまで、ものの10分も経っていなかったのだ。
 英二はそのとき広々とした部屋にひとり取り残され、どうしていいか判らずにいた。指定された部屋にすぐに入る気にもなれず、また今日は"フリッカ"の姿も見えない。何をするあてもなく、唯一見覚えのある、昨日かけたばかりのソファの同じ位置に腰を下ろしたところだったのだ。
 扉が開くのももどかしく早足で入り込んできた"ロキ"は、英二を見つけても何をいうでもなかった。ただ手ずから、キャンディだの、マーブルやチェッカー模様のクッキーだのをトレイ一杯に乗せてやってき、英二の前に乱暴においたかと思うと自分は向かいのソファに腰を下ろして、そっぽを向いたままだったのだ。
 英二がどうしていいか判らず困っていると、彼はふたたびぷいと席を立ち部屋を出て、今度はふわふわしたスポンジの上にたっぷりとクリームとフルーツが乗ったケーキを銀の皿に乗せて持ってきた。
 それを再び英二の前に置く。
 それでも英二が動かないでいるのを見ると、みたび席をたち、今度はシルバーの水差しのようなものとグラスを運んできた。やはりそれも英二のまえに置かれたが、英二はどうしていいかわからない。
「――なにがいいんだよ」
 少年はちらちらと英二を見ていたが、やがて唇を突き出すなんとも可愛らしい表情をして、低く聞いた。
「え?」
「アンタ、何なら食べるんだ、って聞いてるの」
「何ならって……」
「チョコクッキーもだめ、ピーチキャンディもだめ、ケーキも手を付けない、ジュースも飲まないとなったら、もう何持ってきていいのかわかんない」
 少年はそう言いながら相変わらずぶすっとした顔つきのまま水差しをとりあげ、あぶない手つきで中身をグラスについで英二のまえに置いた。
「――……オレンジジュース?」
「……好きかと思って」
 そっぽを向いて少年は言った。
 たいした偶然でもないだろう。たまたまということもある。だが、あの白い研究所にいた頃、自分のために『彼』が運ばせていたのもやはりこのような焼き菓子と、オレンジのジュースであったことをほろ苦く思い出す。
 少しばかり気持ちをほぐされながら、英二は目の前の少年に呼びかけた。
「『ロキ』」
「そう呼ばれんのきらい」
「んじゃおチビ」
「俺、チビじゃないよっ」
 少年はむっとしたらしく、唇をつきだしてみせた。
「リョーマだよ。ゆきだってそう呼ぶ」
「おチビでいいじゃん」
 そのむくれた顔つきが存外可愛かったのと、オレンジジュースで気が少しほぐれた英二は、ちょっと笑ってみせてそう言った。
 少年のほうは少年の方で、少しだけ笑った英二のその顔に驚いたように釘付けになる。英二がグラスに手を出しジュースを半分ほど飲むあいだ、食い入るように見ていたが、その英二と目が合うとあわてて顔を背けた。
「美味しいよ」
「――」
「俺に持ってきてくれたんだ? おチビ」
「……チビじゃないってのに……」
 少年はさらに不機嫌そうに言った。
「せっかく持ってきたんだから、食えるんなら食えば」
「もらうよ。全部は無理だけど」
 英二は素直に言って、ケーキのひときれに手を伸ばした。少年はあいかわらずむっつりとした顔つきであったが、英二がケーキに口を付けたのを見て少しほっとしたような目をする。
「ねえ、アンタさ」
 しばらく英二を見ていた少年は、低い声で言った。用心深く何か切り出そうとしているかのようだ。
「アンタ、ほんとに俺のこと覚えてない?」
「覚えてないって何が」
「――俺、あんたに前に出会ったでしょ」
 それを聞いて英二の顔がわずかに険しくなった。その顔つきを見て少年は少しひるんだようだったが、負けるものかとばかりにまなじりをつり上げる。
「――違うよ……あの要塞のとこのことじゃないよ、もっと前」
「もっと前?」
 英二が首をかしげているのを見た少年――リョーマは、はあっと大げさにため息をついて、乱暴にソファに座り直した。
「いいよ、もう。覚えてないんなら」
「どっかで会った?」
「いいって、もう」
「要塞のとこじゃないっていうなら――あの研究所の中? おまえいたっけ」
「だからもういい」
 リョーマは怒ったように言った。
「なら最初から聞かなきゃいいじゃん。勝手に聞いて、勝手に怒んなよ」
 英二も少しむっとして言い返したが、少年はますます唇を尖らせてそっぽを向いた。
 そのまま彼が黙りこんでしまったので、英二は仕方なく手に持ったケーキの残りを口の中に押し込む。そのクリームの甘さが妙に舌に残った。
 正直、このリョーマを前にして、英二は多少複雑な心境であった。
 あのとき、英二達の前に悪夢のように降りたった少年。
 このドールに邪魔されていなければ、自分と『彼』とはいまも世界のどこかを放浪し続けていただろうか。それともとうに力つき人知れず朽ち果てていたか。
 どちらにしても、『彼』とのあいだを裂かれることになった原因である。気安く口を利くには、いろいろな想いが邪魔をしてしまう。
 それでも英二には、そんなにこの少年を責める気にはなれない。『彼』と引き離されたことに、どうしようもない悲しみややるせなさを感じることはあっても、それがただちにこの少年への憎しみに変わるかと言えば、そうでもない。
 なにより自分にこの少年を責める資格があるのか、と思うのだ。大切な相手と引き離された、一方的に傷つけられたと言って、英二に相手を糾弾することができるのか、と。
 悪夢の二年間――"ラグナロク"の間に、世界のおびただしい数の人間が、理不尽な別れや死を迎えたと言うのに。人々におきた悲劇の数はあまりにも膨大で、失われたものを考えれば気が遠くなる。
 英二はそのあいだ何も知らず、ただ『彼』の与える不器用で優しい愛情にぬくぬくとうずくまっていただけだ。
 英二のせいではない、と言う者はいるかもしれない。何も知らなかったのだから、知らされることはなかったのだから、と言う言いわけは確かに立つかも知れない。
 確かに英二は、あの荒野の要塞の奥の奥に、彼の大事な唯一の宝として秘匿され、守られ、外の世界のことなど知る由もなかった。その暖かさに酔っていて、まどろみから目を覚ますことが遅れた。
 知る術はなかった。知ったとしても、英二に出来ることはなかっただろう。彼の怒りはあまりにも熾烈で、憎しみは深く暗かった。
 だが、そもそも『彼』を破壊へと駆り立てたのは何だったか。
 生体兵器、ひとのすがたをしている武器、名の如くただの人形であった『彼』。
 その、ある意味何も知らなかった『彼』に、愛情を教え、いとしむ心を覚えさせ、またそれゆえの喪失の恐怖をも教え――結局はその「喪失の恐怖感」から、ひたすらに破壊への道を走らせることになった存在。
 それはやはり、英二自身にほかならない。


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