「あの子も、決して悪い子じゃないんだけれどね」
 閉まった扉をみながら幸村が苦笑した。そうやって困ったように微笑んでいると、いたずらっ子に手を焼きながらもいとおしくて仕方のない母親、というふぜいだ。
 実際に彼が線の細いたおやかな姿であるからよけいにそう思うのだろう。男性的なところがほとんど感じられず、かと言ってまったく女性らしいわけでもない。中性的とひとことで言ってしまえないような、とても不思議な印象をうける。
 そういうところも、英二にとってはあの優しく弱々しい不二を思わせてしかたない。彼にあまり強い態度には出られない気がするのは、そのせいだろうか。
「どうも手順を踏むことを知らないというか、素直ではないというか。――あの子もあの子なりに君のことをずっと案じてはいたんだけれどね」
 幸村は先ほど、『ロキ』に出ていくよう指さしたと同じ優雅な手つきで、英二を手招いた。
「とにもかくにも驚かせてごめんね。お詫びにここの空中庭園に案内してあげるよ」
「……」
「おいで、"ヒルダ"」
 ついさきほど、どう呼ぶのかと英二の名前を訊ねたことなど忘れたように、幸村は英二をそう呼んだ。英二のほうは、せっかく名乗ったのにまたも不可解な"ヒルダ"と言う名で呼ばれたことに幾分鼻白み、またかすかに眉根をよせてもみたのだが、幸村は何処吹く風だ。
 もう一度訂正をいれてみたところで、聞くつもりはなさそうであったし――実際こののちも幸村は、英二に対するその呼び方を変えることはなかったのだ。
「いいよ、俺」
「まあ、そう言わずにおいでったら」
 幸村は微笑んで英二の手をとった。決して強引でなく、またあまりにもその仕草が洗練されて典雅であったので、英二も拒否する間もなかったほどだ。
「せっかくだもの、君もこれからしばらく此処にいることになるのだから、あちこち見てまわっておいたほうがいいよ。――いろいろと、頭に入れておいたほうがいい。自分のいる場所とか、どこになにがあるのか、とか」
 幸村は英二の肩を抱き寄せ、耳元にささやきかけた。
 英二よりもやや背の高い彼は、英二に背後から寄りそうようにしている。両肩に優しく手を置き、指先を英二の頬に滑らせ、うっとりとした目つきで英二の赤い髪を眺めている。
「それに、ここじゃあまり大きな声で話もできないからね。ないしょ話をしがてら、おとっときの場所を教えてあげるから」
「……」


「リョーマあたりにはよく言われるんだけれどね。ゆきの言うことはよくわからないって」
 そうして楽しげに笑っていると、少しはなやいだ印象を受ける。
 幸村精市は前述の通り裾長の白い衣装を着ていた。それには優雅なひだがあらわれてこそいるものの、まったく飾り気が無い。しかしその飾り気の無さなど気にもならないほど、このドールは美しかった。
 『彼』もきれいだった――と、幸村に手を引かれ、いずこかへいざなわれながら英二はぼんやりと思い出していた。
 形よく切れ上がった眦は黒く深く、闇色の氷のようだったが、英二を見るときだけは僅かになごんだ。形良い唇はいつもひき結ばれていたが、英二、と呼ぶ声は意外に穏やかでもあった。
 自分の名を呼んで頬に添えられる彼の指先の長く美しかったこと――いつもひんやりとしているそれがどこか痛々しかったこと、英二が自分の両手でそれを包んで暖めようとすると、不思議そうな顔をしていたこと。
 そのどれをもたやすく思い出せる。たとえば昨日のことのように、それがついさきほどまでのことのように。
 忘れたことなどない――思い出さずにいることなどなかった。
 どこにいても。
 何をしていても。
 風の吹きすさぶあの荒野。鋼鉄の城と、孤独な王。

「どうしたの」
 声をかけられて、英二は顔をあげる。
 幸村は、あの深い瞳を薄く細めて微笑んでいる。
「何か大事な考えごと?」
「――別に」
「そう。……あ、もう少しだからね。狭いでしょう、ここの通路。でも出たらびっくりするよ」
「……」
 幸村は相変わらず、薄い微笑をたやさず英二を導いていく。
 誰がどういうつもりでこんなに美しいドールを造ったのかは知らないが、大抵の人間なら彼の姿形に迷わされずにはいないだろう。まさかそれが目的でつくられたわけではあるまいが、このたおやかな、風にも耐えぬような優しげな姿のドールに『彼』のような力があるというのだろうか。
 英二は幸村に手を引かれるまま、その狭く細い、そして壁も床も天井すらも金属的な白さに満ちた通路を歩いていった。
 その視界が、唐突にひらけた。
 あでやかで美しい、緑に。
「うわ……っ」
 思わず英二が声をあげずにはいられなかったほど、その場所は唐突に、そしておもってもみなかった形で現れた。
 細長い通路の先に開けたのは一面の緑の森だった。
 森、というのは、さすがによく観察していれば言い過ぎだというのはわかるが、それにしてもこのような場所に現れるとは誰も思わないだろう。
 この『空中庭園』とやらに目を丸くしていた英二であったが、周囲をよくよく見てみれば、ガラスか何かで覆われた温室であるらしいということが判る。柔らかい曲線の、ちょうど丸い鳥籠のような形で造られているらしかった。
 足下は本物の土を深く敷き詰め、芝や柔らかい細長い下草をうまく植えてあった。背の高くない灌木には白い可憐な花がつつましげに開いており、それも自然木の姿に見えるように丁寧に剪定されている。花、爽やかな木の香、あるいはハーブの甘い香りがただよい、木々はそれぞれ、間をうまく抜けて歩いていけるように植わっているものらしかった。
 いまどき、帝都の外ですらこれほど立派で無垢な植物や、花などというものは貴重だ。それをこれほど一堂に集め、また枯れぬよう手入れや丹精がていねいに施されるのに、どれほどとほうもない財力が必要なのだろう。
 広い温室のちょうどまんなかあたりに、ささやかな泉水が造られていて、そのそばに古代的な装飾のベンチが置いてある。幸村は英二をそこへ連れてきたのだった。
「ほら、ここ。静かでいいでしょう。なんでこんなものがあるのかって、思わない?」
「……」
「柳が昔に造らせていたのだって。なんでも、ここで彼と彼の友人とが作ったドールたちを育てる予定だったのが、途中でドールが壊れちゃって。今は俺とリョーマの遊び場」
「……」
「まあお座り。立っていても疲れるだけだろうから」
 英二は黙って、幸村に従った。
 優雅にしなだれかかるように座った幸村からできるだけ遠い位置に、英二は浅く腰掛けた。
「ないしょ話って?」
「なに?」
「さっき言ってた。――俺に、ないしょの話をするとかなんとか」
「覚えてたの? えらいね、"ヒルダ"」
「――……馬鹿にしてんのか」
「そんなことしてないよ。そんな可愛い顔で睨まないでよ」
 英二は気圧されながらも、負けるまいと幸村をまっすぐ見据えた。
 彼は相変わらずだ。
 相変わらずただ微笑んで――まるでさいしょからそうあると定められた、それこそ人形のようだった。
「ちょっと深呼吸したほうがいいよ、"ヒルダ"。俺は別に君に危害を加える気はないんだから」
「……わかるもんか」
「本当だよ。飼われているだけのドールに何ができるっていうの」
 ころころと彼は笑う。
「ちょっとぴりぴりしているのかな。まあ、無理はないね。外から初めてこの中に入ったら、きっと窮屈でしょう。なにせ全部のエリアに監視カメラはあるし、集音機械もセットされているし、ろくろく無駄話も出来やしないときたらね。時々外から、政治家の先生方が視察とか言って来られるのだけれど、自分たちの宿泊エリアまで同じように監視されていると知ったら、きっとずいぶん怒るだろうね。そうそう、この温室のなかにももちろん監視カメラがあるしね、俺達がここにふたりでいるというのも、もちろん知られているよ」
「――」
「でもね」
 幸村はにこりと笑って、英二にそっと近寄った。
 そうして、一段と声を低めて言った。
「ちょうどこのベンチの位置が、集音機のエアポケットみたいな形になっていてね。植物のせいかもしれないけど、これぐらいの音量なら拾われない。監視カメラも、俺達の位置は捕らえているけれど顔までは映っていない。だから俺達が喋っているのに音が拾えない、と言う事態には気づかれないで済んでいるんだ。だからといってあまり此処でひそひそ話を続けていても怪しまれるから、あまり長くはいられないけれど」
「――」
「内緒話と言っても、たいしたことじゃないんだよ。俺の知ってることなんてね。いま、柳達が何を試みているか、と言うぐらいのことだよ」
「……」
「朝から晩まで地下にこもって、コンピュータの画面を睨みつけっぱなしで」
 それがいかにも愉快でたまらないように、幸村は声をひそめて笑った。
「ねえ、そんなに目の色を変えて、彼らが何をしてるか知ってる? "ヒルダ"」
 幸村に美しく微笑まれても、英二はもちろん答える術などない。
 黙っていると、幸村はそっと手を伸ばしてきて英二の頬を撫でた。
「せっかく手に入れたロストコード"Brunhilde"。いくら実験を繰り返しても成功したことなどなかったDコードの完全融合体でもある。柳なら寝食を放り出しても切り刻んでみたいだろうに、それすらしないで夢中になってることがあるんだよ」
「――」
「俺にはあまりかかわりのないことだけれどね。……でも、君にはきっと大切なことだ。きっとここへ来てよかったと思うくらいに」
 頬を幾度か撫でた指先がふと下がって、英二の喉をすっと真横によぎった。
 その瞬間、何とも言えない冷たさと居心地の悪さを感じて英二は身を強ばらせる。――ただ指先で触れられただけだというのに、鋭利な刃物で喉を撫でられたような。
 思わず喉元を手で覆い、英二は身体をひこうとしたがが幸村はまったく変わりなく、それどころかさらに英二を引き寄せ、その顔を両の手で包み込んだ。
 深い瞳。まったくの黒ではなく、月夜のような美しい藍色が混じり込んだ、不思議な瞳。それが英二を間近で捕らえて、ほほえみに細くなった。
「柳達は、氷の封印を解こうとしている」
 唇同士が触れあいそうな位置まで近づいて、彼は英二にささやいたのである。
「――氷の中の悪魔が、もうすぐ目を覚ます」





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