鳥すらやってこないような、高い高い位置から眺め下ろす街はいかにも作り物めいていて、小さくて脆い玩具のようでもある。
 地上から見上げてこその巨大で立派なビル、天を突く摩天楼などとも見えようとも、その高さをさらに越えたこの位置からでは、そのどれもが手のひらサイズの何かの模型のようにしか思えなかった。
 空は薄くたそがれ、空気はいつも黄色い靄にけぶっている。そのぼんやりとした空気をすがめ見た向こうに、いったいどれほどの建物があり、どれほどの人間が生きているというのだろう。
 洒落たカーテンがそれぞれかけられあるいは観葉植物が並べられている無数の窓など、それこそ砂粒ていどにしか見えない。とてもではないが、その窓のひとつひとつの向こうに部屋があり、それぞれに人が住まい、日々暮らし、悲喜こもごもの、ひとりひとりにとっては大事で一つきりしかないいのちをそれぞれなりに精一杯生きている――などといってみたところで、実感がわくでもなかった。
 これほどの高い場所からただ見おろすだけの街には、なんの暖かみも命も感じられない。
 それはあまりにも現実感のない――夢の中で半ば目覚めて、ただぼんやりと眺めている異国の光景のようでさえあった。
 あるいは世界にただひとり目覚めている者の、思いえがく夢のよう。
 音もなく、声もなく――人の気配さえない造りもの。
 
 だからあのひとは、そんな街を焼くのにも、人々を殺すにも頓着はなかったのだろうか。
 彼にとっては足下の、邪魔ながらくたを踏み崩すのと何ら変わりもなく。
 命を命として感じられず、すべてが遠い遠い幻覚にすぎないとしか思えず。
 たったひとつ――腕の中にただひとついだいたものだけを、その暖かさだけを、たしかなものと信じて。

「飲まないの?」
 言われて顔をあげると、少年の目の前にいた青年がにっこりと笑った。
「冷めてしまうよ――それともミルクティはきらい?」
 少年は黙って目の前に置かれた白いティーカップと、彼を見比べる。
 ガラスで造られた瀟洒なテーブルをはさんだ向かい、大きく柔らかなソファに腰掛けている青年は、深い藍色の髪を揺らしてまた促した。
「お砂糖が足りなかった? 少し渋かったかもね。リョーマなんかはうんと甘くないと嫌がるんだけれど……このビスケットが甘いものだから、こんなものでいいかと思って」
 青年は相変わらず世間離れした柔らかい微笑を浮かべて、目の前の少年を見やっている。優雅なひだのあるゆったりとした衣装の青年とは対照的に、少年の方は簡単な、いかにも医療用だというのが判る薄青の膝丈のスモックを一枚着せられたきりであった。
 目の大きな愛らしい顔立ちに赤い髪がよく似合う。大きなガラス窓からたっぷりと入ってくる午後の光を、巻いた毛先が綺麗に弾いて、生きた宝石のようにきらきらと輝いている。
 その髪の美しいようす、少年の可愛らしい顔立ち、それから何故か首のあたりまでを優しくながめ、青年はもう一度言った。
「美味しいから飲んでみて」
「――」
「……何も変なものとか入っていないのに」
 寂しそうに微笑まれてさすがの少年も少し決まりが悪くなったようだ。
 しばらく青年を見ていたが、黙ってカップをとりあげ、口をつける。
「美味しい? 熱すぎない?」
 少年が頷くと、青年はまた目を細めて嬉しそうに笑った。
「良かった。紅茶もビスケットもおかわりがたくさんあるから欲しかったら言って――"ヒルダ"」
「……俺、そんな名前じゃない」
 少年はぽつんと言った。
「ああ、そう? そうなの? それはごめんね。柳がそう言っていたものだから。きみのこと」
「……」
「じゃあ君のことは俺はなんて呼べばいいのかな。名前があるんでしょう、なんて言うの?」
「……英二」
 ついつい答えてしまいながら、少年――英二は、目の前で微笑む美しい青年の喉元のプレートをみやり、そして自分の左腕につけられている冷たく四角い金属片をそっと撫でた。
 その仕草を見逃さなかった幸村は、気遣わしげに言った。
「手術痕、痛む?」
「――」
「そう。それならいいけど。痛いことがあったら、すぐに言ってね」
 首を傾げてのほほえみかた。
 少し寂しげな笑みの表情、瞳の感じ。
――そうか。
 この幸村という青年が、誰に似ているのか判った。
 最初に見たときも、どこか既視感を覚えたものだった。顔だち、と言うよりも、ちょっとした仕草やほほえみ方、首を傾げる所作などから受ける印象がよく似ている。
 とても美しい、けれどたよりないたおやかな花を目にしたときのような、そういうものが。
――不二。
  あの心弱く美しいドールに。

 英二と、そしてその青年とが腰掛けるソファが置かれているのは全面ガラス張りになった壁際であった。そこからは帝都のほとんど全貌に近い見事な眺望が楽しめる。
 アイボリーの壁紙、柔らかい毛足の長い絨毯、落ち着いたソファセットなどが置かれた、少し白っぽく広々し過ぎることをのぞけば、一見すればなかなかに立派なリビングのようだ。
 だがそこがどこやらのご大層な邸宅の居間などではなく、帝都の中心部に位置する中央研究所の中核「オーディンズタワー」の105階部分であり――なおかつ秘密裏に育成されている"ドール"たちの居住区の一角であることを、英二は知ってしまっている。
 さらに言うならば、ここは厳重の上にも厳重に、それこそ無断侵入者は問答無用で命を奪われても仕方ないくらいに――実際ここの責任者にはその許可が正式に出されている――ガードされ、秘匿されてさえいる場所なのである。
 そういう場所にたどり着いてしまい、また即座に殺されもせず虜囚の憂き目を見てしまったことについて、英二自身はまだなかば呆然として、なにがなにやらよく判らない心持ちであったりもしたのだ。
 確かに英二の目的は帝都へと入り込むこと――ただ入り込むだけでなく、その奥深くに隠され、今も命在るであろう狂気のドール『シグルド』との再会を果たすことであった。
 再会の後にどうするか、ということは英二ひとりの胸に秘められ、乾にすら語られたことはない。しかし、もちろん昔別れた人にただひと目会えればいい、という感傷的なものでもなく、いろいろと英二自身にも思うところがあるために、その目的を果たすためには綿密な準備と計画が必要な筈だった。
 いずれ乾達の組織は帝都に大がかりな潜入行動を試み、ゲリラ作戦などを用いて、中央政府相手に大々的に宣戦布告を行うのだろう。そのときまで自分はひたすら生き残ることを考え、そのときが来たならば混乱する帝都の中で誰憚らず中央研究所に足を踏みいれればいい――そう、考えていたのだ。
 なにも、たかが数人で行う諜報活動ごときに際して、中央研究所に侵入できるなどとは思いもしなかったし、英二とてそんなことが可能だと思いもしなかった。
 自分の仕事を済ませたあとは、ちゃんと桃城達とともに帝都を抜ける予定だったのだ。
 それがどうしてこんなことに――よりにもよってその帝都のど真ん中、当のオーディンズタワーの最上階に近い場所で、「ドール」に紅茶をすすめられていなければならないのだろうか。
 あきらかに英二以外の要因があったにせよ、まったくもって「どうしてこんなことに」と頭を抱えたくなってしまっているのが、彼の正直なところであったろう。

「体の具合はどう? 痛みはない?」
 藍色の髪の幸村に聞かれて、英二は小さな声で答えた。
「痛いって言うか……なんか、身体が重たい感じがする」
「そう。君の身体はどうも人とは違うようだから、せめて普通の人間程度になるように、神経伝達系を押さえてあるのだって。最初はちょっと変な感じだろうけど、すぐに慣れるって言っていたよ」
「……」
 脱出を試みてふたたび捕まり、そのまま奇妙な手枷首枷のようなものを取り付けられて狭苦しい部屋に放り込まれた。英二自身にも原因が分からぬまま身体が弱り、意識が遠のき、次に目覚めたときには清潔でさっぱりとした、明るい部屋のベッドの上であった。
 起きあがった英二の左腕にはドールに取り付けられているそれと寸分違わぬ、薄い金属片がべたりと埋め込まれていて、それがために彼はずいぶんと身体が重苦しい違和感に苦しめられた。
 それでも半日ほども経てばその感じに身体が慣れはじめて、ようやく動けだしたときに英二のもとへやってきたのが、この美しいドール――「フリッカ」こと幸村精市であったのだ。
 うまく逃れる寸前であった英二を最初に捕らえたのはおそらく彼であろう。だが彼はそんなことなど素知らぬふりで、優しく午後のお茶などを英二に誘いかけてきたのだった。
「これからどうなるか不安だろうけど、少なくとも殺されたりしないから安心するといいよ。柳達は別のことに当分かかりきりだろうから、あまり酷い実験なんかも、しばらくはないだろうしね」
「……」
「彼、こういうことは人任せにするのは嫌うんだよ」
 幸村はおもしろそうに笑った。
「興味のある対象については、実験だのなんだのを全部自分の手で行いたいのだって。君なんかはとても大事に手をかけて扱ってくれると思うよ。いまはちょっとのっぴきならない仕事が入っているみたいだけど」
 幸村は美しい笑顔で言うが、英二にはあまり有り難くない話のようだった。何と答えて良いのか判らず黙っていると幸村はさらにほほえんで、こんなことを言ってきた。
「君、とてもおもしろいことが出来るんだね。真田が言っていたよ」
「……」
「それはどうして? "シグルド"が君にいろいろ教えたから?」
 英二は出来るだけ無表情を装おうとしたが、目の前の美しいドールには見抜かれていたのだろう。彼はさらに問いかけるようなことはしなかったが、顔を強ばらせた英二を見て、ちょっと目元を和ませて笑った。
「ああ、ごめん。そんなこと急に聞いてもびっくりするよね。言いたくないことだってあるだろうし――ごめんね、ちょっとだけ興味があったんだよ。あの"シグルド"がどんなふうに君と接していたか、君とどんな話をしたかとか」
「……」
「そういうときの彼はどんな表情をしていたのかとか」
 どこか無邪気な、あどけない少女のようなほほえみを見せて幸村は席を立った。
 オーディンズタワーの裾野、白い積木を積み重ねただけのような白い街並みを見おろして、彼はいかにも優雅に英二を振り返った。
「ごめん。でもこれは純粋に俺の興味なんだ。真田とか柳にはいっさい関係のないことだからね。また気が向いたら君といたときの"シグルド"の様子を話してよ」
 そう言って、彼がまた不二周助を思わせる、寂しそうな笑みを見せたときだった。
「ゆき!」
 横滑りのドアが軽い空気音をたてて開いたと思うと、ひとりの少年が転がり込んできた。大きなつり上がり気味の目が幸村と、それから英二を見つけたと思うと、さらに大きく見開かれる。
 ――『ロキ』である。

「ゆき」
 言うなり彼は足早に彼らに近寄ろうとした。
 つかみかからんばかりのいきおいである。思わず英二もその剣幕に腰を浮かせかけたが、幸村が彼をとどめる。
「おやめ」
 静かな、しかしよく通る美しい声だ。
「……ゆき」
「此処に来てはいけないと言われなかったかい」
「――」
「まだ君にはこの子との接触許可が出ていないだろう。何を言うにも君は『彼』と同じ遺伝子なのだから」
「でも……!」
 幸村はあの美しい瞳に僅かな翳りをみせて、少年を見つめている。
「念には念を入れているだけだ。いま真田がきちんと調べているのだから、その結果を待ちなさい。それからだって遅くはないはずだよ」
 黙ってしまった少年にたたみかけるように彼は言う。
「そう長いことでもないだろうし確認だけだろうからね。――ちゃんと、許可が出るまで待っていなさい。なにも、みんなでお茶をしようという約束を忘れて、こんな意地悪を言っているわけじゃないんだよ」
 英二は息を呑んでこのやりとりを見守っていたが、思ったよりこの幸村という青年は、少年に対して強い立場にあるらしい。少年を力で押さえつけている、というよりは、少年の方が某かのゆえあって彼に逆らえないでいる、と言う印象をうける。
 見たままを言うならば、美しく優しい母親に宥め諭されるやんちゃ坊主、と言ったところだろうか。
 幸村は決して激昂したりせずあくまでおっとりと――だが、決して譲歩せぬ意志の硬さを見せて、英二と『ロキ』とのあいだに佇んだ。
 優雅にのべられた彼の手が、扉を指し示す。
「わかったなら出ておゆき、リョーマ」
「……」
「許可が出たなら、あらためて三人でお茶にしよう。リョーマの好きなものを全部揃えて、ここで。それまで我慢してお部屋で待っておいで」
「……」
「――いい子にして、ね」





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