「こら」
 白い壁の影に隠れ、廊下の向こうをこっそりと覗いていたとき、不意に後ろから声がかかってリョーマは飛び上がりそうになった。
「いけない子だね。またカウンセリングを抜け出して」
「なんだ、ゆきか……」
 ああびっくりした、とリョーマは大きく息をついた。それを見おろして美しい"ゆき"こと幸村精市はころころと笑う。
「もうこんなにズルが続いたら俺もフォローしてあげられないからね。いまごろは真田が顔を真っ赤にしてリョーマを探し回っているよ。そうだ、じつは真田の血管を切って憤死させる気なんだね、リョーマは?」
「お願いだから足音も気配も消すのやめてよ、ゆき」
「リョーマほど他人の気配に鋭い子が、何を言っているのやら」
 青年をうらめしそうに見上げて、リョーマは唇を尖らせた。
「ゆきが特別なんだよ。全然わからない」
「俺は特別? それは嬉しいな。――それはそうと、何をのぞいていたの」
 リョーマの視線が向かっていたとおぼしき方向を、幸村は見やった。
「……ああ、なるほど。そう、そうなの。あの子が気になって?」
「……」
「あの子がどうなってるか見たくて来たんだ?」
「……」
「俺達みたいなプレートを簡単な外科手術で直接神経系に取り付けるって言ってたね。疑似プレートだけでは安心して監視室から出せないって」
「……」
「すぐ外せるし、手術自体もとても簡単だって。からだに痕も残るようなものじゃないらしいから、そんな顔しなくてもいいんだよ」
「……」
「どっちにしたってすぐに殺されたりしないようだし、ドールに準拠した扱いでしばらく生かしておいてもらえるようだからね。よかったね」
「――別に、どうでもいいよ。そんなこと」
「うそでしょう。ほら、今ものすごくほっとした顔をした」
 にこにこと笑う幸村にリョーマはそっぽを向いた。が、そのあたりはさすが幸村というか、真田や柳よりもよほどこの少年の扱い方を心得ている彼らしく、優しい微笑みのまま少年を見おろし、額にかかった前髪を撫でてやった。
「うまくすればまたあの子と話くらいはさせてくれるよ。そのへんはうまく俺から真田に言っておいてあげるから」
「――」
「そうしたら、リョーマもお茶でも飲むついでにそのとき一緒にくればいい。俺もとても楽しみなんだよ。だってあのこ、とっても髪が綺麗だものね」
「――うん」
「用がすんだら首から上だけくれないかな。やっぱり駄目だろうね、お願いしても」
 はたから聞けばなかなか物騒なことを幸村は口にしたが、聞き慣れているリョーマは、適当に頷いてみせただけだった。
「さ、おいで。真田には俺からまたちゃんと言ってあげるから。今ならまだそんなに、外出禁止になるほどじゃないと思うよ」
「……フォローしてくれないんじゃなかったの」
「相手が真田以外ならね」
 ふふっと幸村は笑った。
「と言うか、真田なら俺だって説得しやすい。俺の願いは何でも聞き届けなければいけないって言う、妙な使命感があるらしくてね、彼は」
「――俺、あいつ嫌い」
「どうして」
「……」
 幸村は特に何も質問を重ねなかったが、少年の言いたいことは正確に察した。優しく、慈母の如く微笑みながら、そっぽ向けた少年の顔を撫でる。
「リョーマは俺を心配してくれてるんだね」
「……」
「別に俺は辛いことじゃないんだよ。地方にいた時みたいに、誰彼無しにおもちゃにされているわけじゃないし。……それに」
 ふと幸村は黙った。蒼い闇のような瞳の奥に何か、正体の知れぬ熾火のようなものが垣間見えたが、それはほんの一瞬だった。
 リョーマのような、人ならぬ"ドール"にすら気づくことの出来なかった一瞬の深く昏い閃光である。人であったなら、なおのこと判るまい。
 この"フリッカ"こと幸村精市は、美しくはあったけれども、どこかしら奇妙に異質な感じがする。
 もちろんもともとの造作もあって、この上ない宝石のようなドールであるのは間違いない。しかしその双眸の奥深くに秘められた、余人には未だ知られることのない秘匿された何かによって、彼の美貌はさらに謎めく。稀少な宝を発見したような気分を、彼を見る者に与えるのだ。
「――……ゆき?」
 彼にしては珍しく、暫し物思いに沈んでいた。
 少年から名を呼ばれ我に返ったときは、もう幸村はいつもの穏やかな微笑を浮かべた彼であり、言葉優しく少年を部屋に戻るよううながしたのである。
 不承不承歩き出した少年のあとを、ゆったりと追おうとした幸村はふと気づいたように外を見る。
 大きくとられた窓からは、このオーディンズタワーを中心とする白いキューブの街並が一望でき、はるかには帝都の賑やかな中心街の色彩が瞬いている。
 作り物のようなその眺めの向こうから響いてくる、幸村にだけ判る「音」に、彼はすいと目を細めた。
「どうしたの」
 幸村は小さく呟いた。先刻の少年の我が儘を聞いているときのような、困ったようなほほえみさえ浮かべている。
「おまえ、また泣いているの。――周助」






 その白きオーディンズタワーを中央に抱いた帝都から、はるか離れた場所。
 かつて帝都につぐ権勢と絢爛さ、巨大さを誇ったが、いまはもう"ラグナロク"の災厄に破壊されてあとかたもない――砂塵舞う、その街。
 廃墟を取り片付けて新しい街を建設するだけの余力もなく、壊れた建物に無理矢理つっかい棒をしたり、素人仕事の石積みを繰り返したりして、ただの廃墟よりもさらに猥雑でごみごみした感のある場所になってしまっている、その街。
 その街の外れで、数日ぶりに抵抗組織の若者達が顔をあわせた。
と言っても今回帝都に潜入していたのは桃城だけであったので、その他の全員で彼を出迎える形になっている。
 奇妙な緊張感と、重苦しい空気に包まれた再会の場にいるのは、乾を中心とする組織の面々であった。
 乾。彼の隣に河村。
 そのむかいに、帝都から逃れ出たばかりの桃城。
 少し離れた位置に手塚と、相変わらずその懐に隠されるようにしていだかれた不二。
 そうして、乾の少し背後で大人しく待っている、ちいさな薫少年。
 橘たちのグループの者はいない。
 緊急の、あまり他人には知られたくない報告を受けることもあろうかと、乾がわざと連れてこなかったのだ。
 まるで今回のトラブルを予測していたような行動だったが、乾以外の面々はそれどころではなかったようだ。
「じゃあ、英二は帰ってこなかったままなのかい」
 河村が面もちを厳しくして言った。
「――はい」
 桃城は眉根を寄せて低く答えた。
「神尾とは、とにかく一端その場で別れて、別々に帝都を出ました。まもなくあいつもこちらへ辿り着くとは思います。……すみません、俺がついていながら」
 桃城は深く乾に頭を下げた。
 彼らしくなく、言葉は沈痛で表情は固い。
 おそらく、英二が帝都の中で行方不明になったことの責任を、痛いほど感じているのだ。
「もう一度聞くが。桃城」
「――はい」
 桃城は乾に頭を下げたままだった。
「お前達が『タワー』へ近づこうとした、その瞬間に停電らしきものがおこったと言うが、なにか兆候はなかったかな」
「俺は――気を付けて街の中は見ていたつもりでしたが、そういうことは」
「英二の様子は」
「街の中はきょろきょろして見ていましたが、特別変わったことはなかったと思います。――どうして停電になった途端に、あのひとがあんなふうに走り出したのかわかりません」
「お前達は帝都の出口で何も咎められるようなことはなかったか」
「ありませんでした」
「その後タワーの停電について何か政府から公式発表みたいなものはあったか」
「俺が見た限りではたいしたものはありませんでした。電気系統に異常発生、直ぐに回復、程度のことで」
「――侵入者に関する情報は?」
「ひとことも」
「まったく?」
「はい」
「……英二は確かに、境界を飛び越えたんだな?」
「それは間違いないと思います。急に暗くなったんで視界が悪くはあったけど……でも確かに英二センパイはそっちへ走り出していました。俺達、電気が回復してからもしばらく近くで様子を伺ってたんですが、誰かがセキュリティにひっかかって怪我をしたとか、捕まったとか、そういう情報は流れてこなかったです」
「――侵入者は見せしめの為にことさら厳しく罰されて、しかもそれが公表されるものなのに」
 乾は口元をゆがめた。
 確かにそれが笑みの形であったので、河村は眉を顰める。
「わかった、桃城。ご苦労だったな」
「――……乾先輩」
「彼の件はもういい。我々は引き続き、もう少し帝都に近い場所に移動して侵入経路を探ることにしよう。一応そのあたりは橘とも協議中なんだが、やはり彼らの協力が多少は必要だからな。少しばかり手塚に骨を折ってもらわねばいけないこともあるだろうが、引き受けてやってくれ」
「乾先輩」
 桃城は思わず顔をあげた。
「桃城には、ひょっとしたらあいつらの実働部隊の手伝いを頼むかもしれない。また神尾が戻って来しだいだな」
「乾先輩」
「今回のことで少しあちらも警備が厳しくなるとは思うが、なに、強化場所は見当がついている。お前がとってきたデータだけでも十分予測はつくさ」
「あの、乾先輩」
「なんだ」
 彼は、分厚い眼鏡を光らせた。
「英二センパイは……」
「彼のことはもういい。帰ってこられなければ、それまでだ。――俺はそのあたりのことは出かける前にきちんと言い聞かせた筈だが、桃城?」
「でも」
「彼もそのことは十分承知している。承知していて勝手な行動をとったのなら、責められるべきはおまえじゃない。お前は十分役割を果たした」
「でも、乾」
 河村が今度は進み出てきた。
「英二が捕まってるとしたら、困ったことになるんじゃないのか」
「どうしてだ」
「どうしてって……だってあの子は」
 河村が続けようとした言葉を、乾は片手をあげて遮った。
「そうだな、彼は少々いじられても死ぬような体じゃない。蓮二の目に留まればすぐに殺されることもない。そのあたりは幸いかな、だ。うまくすれば俺達が帝都に潜入できるときまではなんとか生かしておいてはもらえるかも知れないな、五体無事かまではわからないが。――そういう意味ではお前が捕まった場合よりはよほど希望が持てる。安心しろ」
 最後は桃城を振り返って言った言葉だった。
 たしかにその言葉はいちいちもっともで、正しいことでありはしたが――何か非常に不快な、神経を逆撫でされるような気持ちの悪さ、怒りのようなものを覚える。
 それは河村も同じだったらしく、いつも激昂しない彼がさすがに眉をしかめてなおも何かを言い募ろうとしたときだった。
「不二!」
 手塚の叫び声が彼らを振り向かせる。
「不二……っ!」
 手塚は、ふところに抱え込んでいた不二に突き飛ばされるようにして、わずかに体勢を崩していた。
 そこはさすがに不二を扱い慣れた者らしく、腕から逃すようなことはしなかったが、それでも闇雲に走り出そうとする不二の体を必死になって引き留めている。
 不二は、口を大きく開き、何かを叫ぼうとしているらしかった。
 いや、もう叫んでいるのかもしれなかったが、この華奢な花のようなドールは言葉を持たない。
 琥珀色の双眸からぼろぼろと涙をこぼし、幼子の癇癪のように足を踏みならして頭を振り続けている。それでもようやく手塚に背後から抱きこまれ押さえ込まれると、こんどは震えながら右手をあげ、指をさした。
「――不二……」
 手塚は困惑して不二と、彼が指さした方向を見やる。
 指さされた――涙に濡れ、怒りに燃え上がった濃い琥珀色の双眸に、射殺さんばかりに睨みつけられた人物は、なんのことだというように飄然と、ずれた眼鏡をなおしたりしている。
「どうした、不二。乾がどうしたというんだ、落ち着け」
 手塚が言い聞かせたが、不二は更に身をよじるようにして声無き叫びをあげた。
「不二はどうしたんだ。機嫌が悪いのか」
 その怒り、その激昂をものともせず乾は飄々と言った。まるで不二を挑発するように、ゆっくりと唇の両端をあげ、歪んだ笑みで彼らを見やる。
「不二。不二、落ち着け」
 手塚はなんとかしてなだめようと、腕の中にしきりに話しかける。
「菊丸のことなら、乾のせいじゃない。トラブルがあったのは乾が悪い訳じゃないんだ。菊丸のことが心配だと思うが、きっと彼ならうまく――……不二?」
 不二は、今までになく暴れ始めた。体が折れてしまうのではと案じた手塚が、落ち着かせようと抱きしめたが、それさえも嫌がった。
 不二は狂乱しながらも、手塚にすがり、激しく首を振る。
 違うのだ、そういうことではないのだと言うように、また何かを訴えるようにひとしきり激しく頭をふったと思うと、手塚の腕の中からゆっくり乾を振り返る。
 怒りに満ちたその目がはっきりと乾を見据え、もう一度彼を指さした。
 重々しく――そして、何かの確信と憎しみをこめて、あげられた震える指先。
 糾弾するかのようであったその指先を鼻で笑い、乾はからかうようにこういった。
「お気に入りの人形がなくなったことがそんなに悔しいのか、"フレイヤ"」
 そのひとことは、この脆弱でたおやかなドールの逆鱗に、激しく触れたものらしかった。
 いまだ涙の溢れる琥珀色の目ががっと閃光を放ったと思うと、彼らの足下が不意に揺れた。
 耳に低い唸りが響く。
 時ならぬ風が舞い始め、不意にあたりの空気がずしりと重くなった。
 これが恐らく不二の仕業であろうことは、河村や桃城にはすぐに知れた。彼はまさに、ゴーゴンにも似た形相で乾を睨み続け、指さしつづけてもいたのだ。
 地面が不二の足下からびしびしとひび割れはじめる。地表に走るゆがんだ刃となった地割れは、あきらかに乾を目指している。
 桃城と河村は息を呑んだが、その「刃」は乾に届く前にぴたりと止まる。
 乾の前に、いつの間にか小柄な人影が降り立っていた。
「……薫」
 河村が、忘れていた呼吸を吐き出すように、低く重く呟いた。
 子供は、不二に向かって軽く片手を突き出し、あとは可愛らしく佇んでいただけだったが、その片手のところで地割れはぴたりと収まっている。
 不吉な風はまだやまず、人間の桃城や河村には膝をつきたくなるほど空気の重さは増していたが、それでも地響きだけは治まっている。
 子供はふっくらした唇をきゅっと結んだまま――また不二と手塚の方に片手をつきだしたまま、彼らに向かって一歩を踏み出す。
「薫」
 乾に呼ばれ、何を言われたわけでもないのにその意図するところが判ったように、薫は手を下ろした。だが相変わらず乾の前で、まるで不二から彼を守るように佇んでいる。
 その沈黙の気まずさ、不二の異常な行動、薫との一触即発の状態などまったく気にも留めていない、それどころかそんなことなどおこってもいないのだというような飄々とした口ぶりで、乾はこう言ったのだ。
「その状態なら、不二には薬が要りようだな、手塚」
 手塚は答えなかった。答えず、まだ腕の中で怒りに震える不二を抱きしめていた。
 明らかに、不審の色を濃くした手塚の表情に、乾が気づかなかったわけはあるまいが、気づかぬふりをしたのか。
 それとも、そんなことは乾の中では問題ではないのか。
 風がやみ、いつの間にかあたりは静まりかえっていた。
 疲れた黄昏色をした空の下。
 乾は相変わらず、表情をふかく隠した分厚い眼鏡を光らせ、不敵で傲岸不遜なほほえみを浮かべていたのだった。





 
 





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