――おとうさん 遠くから呼ばわって、元気に駆けてくる子供の姿に目を細めた。 ――ねえ、おとうさん。何とか言ってやってよ。また俺のせいにされる。 どうした、と穏やかに聞いてやると、子供はぷっと唇を尖らせてみせた。癖の強い髪に縁取られた愛らしい顔立ちだったが、目元はきつく、きかん気な性格がそのまま現れている。 ――薫のヤツ、すぐ泣くんだ。俺、ちょっと髪の毛引っ張っただけだもん。そんなに力いれてないよ、髪の毛だって抜けてないし。ねえ、あいつがすぐ泣くからわるいんじゃないか、俺ばっかり怒られてて、なんだかすっごい損だよ。 また喧嘩をしたのか、と訊ねると、子供は首を振った。 ――してないもん。 ――してないよ、ほんとだったら。 ――だって……ちょっとだけ。ちょっとだけだもん。 ――だって、おとうさん。薫が。 『こら』 椅子に座った自分の膝に取りすがり、なおも何かを訴えかけようとしていた子供の頭を、拳になった大きな手が真上から軽くこづいた。 『そうやってすぐ蓮二のところに逃げていくのはまったく悪い癖だ、赤也』 見上げると、何やら目元を真っ赤にした子供を片手に抱き上げた長身の青年が立っている。顔立ちはそれなりに端正であったが、完全に表情を殺してしまうような分厚い眼鏡であるせいでつかみどころなく、どこか胡散臭い人物のようにも思えてしまう。 抱き上げられている子供はふっくりした可愛い唇を「へ」の字にまげて、なんとか泣き出すまいとこらえているらしいが、大きな目のはしには珠のような涙がたまりつつあった。まもなくぼろぼろこぼれ落ちてくるだろう。 子供ふたりの顔立ちはそれほど似通ってはいないが、まなこのきつくつり上がったところだけが妙に同じ印象を受ける。 『ほら見なさい。薫の頭がひどいたんこぶになっている。本気で叩いたろう』 ――してないもん。 蓮二に抱きつく子供はなかなか往生際が悪い。 『嘘をつくんじゃない。目が赤くなっている』 子供は蓮二のそばで、あわてて両目をこすった。 ――……だって。 彼もまた、同じように口を「へ」の字に曲げて上目づかいで睨んできた。 ――だって、そいつ、すぐ泣く。 ――言いたいことがあれば言えばいいのに、いつまでももじもじしてるから、だから。 『薫はまだきちんと話が出来ないところもあるのだから、ゆっくり聞いてやってくれと何度も言ってるだろう。お前が癇癪持ちなのは性格だから仕方ないが、同じ兄弟でも、薫とお前とが違うということがどうしてそんなにわからないんだ』 だいぶ立腹しているらしい青年に、仕方無しに肩を竦め立ち上がった。 赤也も反省している。そもそも薫も、すぐに泣くようなこらえ性のないところは問題だと思う。第一親が子供の喧嘩に顔を突っ込むものではない……等と言うことを、多少難解な言葉を織り交ぜて、なおかつ理路整然と述べてみたところ、青年からの猛反発を喰らった。 『薫の性格が問題だというなら、そもそもその赤也の、すぐに手を出す躾のできてなさはどういうことだ。まったく、見てみろこのたんこぶを。かなり痛かっただろうに、かわいそうに。よく泣かずに我慢しているものだ。それだけでも相当薫に分があるぞ。だいいち、お前は子供の喧嘩だと言うがな、蓮二』 青年は、手の中の子供を、いかにも大切な宝だというようにぎゅっと抱きしめながら言葉を継いだ。 『だったら、その他愛ない喧嘩に赤也がいちいち本気で、目を充血させるまで感情を高ぶらせてしまうのは大問題だ。薫だからたんこぶで済んでいるが、人間なら頭がつぶれているぞ。自分をコントロールできないようではいずれ赤也の為にもならない』 その意見については、決して彼の腕の中の子供かわいさだけで述べられたものでもなかったろう。それについては自分も納得できた。 自分が青年の言葉を認め、子供の乱暴については保護者としてかわりに謝罪し、また子供の「教育方針」についても再考する、という言葉でその一件は一応落着を見ることになった。 「親」同士はそれぞれ言い聞かせるべき処を言い聞かせ、謝罪と許容を取り交わさせると子供達をすぐに解放してやった。そうするとまだ幼い子供の他愛のなさで、「薫」も「赤也」も、すぐに仲良く手をつないで中庭のほうへと走っていく。 手入れもゆきとどいた広い庭であったが、まわりを取り囲むのは四角くいかつい研究施設ばかりだった。小さな噴水やあずまやや、子供用の砂場まで造られたその庭だけが、この研究所の中でいかにもとってつけたように不似合いである。 その中庭に隣接している建物も、一応ソファなどをおいた居間の形になっているが、端末や様々なパネルが机の上にはびっしりと並べられている。 そこから駆け回る子供達を眺めていると、さきほどの青年から白いマグカップが差し出されてきた。 『いや、確かに薫の引っ込み思案なところは、俺も案じてはいるんだ』 その後の、彼の言葉である。 『薫もなかなかに気のきつい性格のはずなんだけど、何故かな、いつも不安そうな顔をしてあちこちきょろきょろしているね』 『おまえが甘やかしすぎだろう、貞治』 コーヒーを飲んだ自分の口から、そんな声が出た。 『不安そうなのはお前の姿が見えない時だよ。確かに制作者に絶対服従の基礎はどんなドールにでも植え付けられているにせよ、薫のあれは異常だぞ』 『それで言うなら、赤也の癇癪も行きすぎだな』 特に非難しているつもりもないらしく、ごく淡々と青年は言った。 『ふたりとも攻撃力に重点をおいたから、多少性格が荒くなってもそれは仕方がない。むしろ多少好戦的なぐらいがいいはずなんだが、赤也のあれは少し……』 『すまんな、うちも甘やかしすぎた』 さらりと自分が言うのに青年は苦笑している。 『催眠療法でも取り入れてみるかな。老人達にうるさく言われない程度ならば、赤也については少々暴れん坊でも、俺としてはまったくかまわないが』 『それはおまえ、身びいきが過ぎるだろう、蓮二』 『とにかく、確かに赤也のためにもあまり感情を高ぶらせることばかりではいけない。肉体だってそれほど安定していないんだ。融解する危険性だって、まだなくなったわけではないんだからな。赤也に限らず薫も』 『ああ――それに暴走されても困る』 ふたりの研究者の間に沈黙が降りた。 あまり長くはなく、すぐに青年が言葉を繋ぐ。 『俺達の可愛い"Vali"と"Heimdallar"だ。……あの"化け物"の二の舞は踏ませまい』 眼鏡のレンズは分厚く、青年の目の表情は伺えない。 ただ唇はうっすらと笑っていて、青年自身の言葉にも、決意と言うよりもなにやら奇妙に不遜な、揺るぎない自信のようなものが見え隠れしている。 『その後、消息はつかめたのか』 訊ねたが青年は首を振る。 『第七をあれだけ派手に爆破して、大事なお人形を抱えて家出だからな。のたれ死んでくれていればまだ幸いだが――そんなやわなプログラムは組まされた覚えはないし』 『そうだな……』 『"ロキ"はともかくも、"シグルド"のような素晴らしい化け物がどうして出来上がったものか』 青年は面白そうにまた口元をゆがめて笑った。 『あの時のチームの中に、俺とお前以上に優秀な人間がいたとも正直思えない』 『あまり大きな声で言うもんじゃないぞ、そういうことは』 『間違っているわけじゃないからな――年齢が上だと言うだけで、無条件で敬意を得られると思う連中が愚鈍だ。さっさと出世して権力者になって、そういうふた昔以上前の慣習にいまだに執着する馬鹿者どもを一掃してくれよ、柳博士』 『人に頼むな。お前がやれ、お前が』 『俺は研究以外興味がないからな。そういう立ち回りのための時間があったら、別のところに使いたいだけさ。ま、あとは適材適所というヤツだ。フォローは任せろよ』 青年はまた笑い、席を立って中庭を眺めた。 『ともかく、赤也と薫にだけは何の問題もあってはならない。俺達の最高傑作だ、老人達の玩具になんぞさせるものか』 『……』 『絶対にな』 中庭へのテラスに続くガラスドアをあけると、子供のひとりがそちらに気づいて立ち止まる。テラスに出た青年に手招きされはにかみながら近づいた子供は、抱き上げられて嬉しそうに笑う。 その子供を抱きあげた青年の眼鏡がほんのわずかずれた。 一瞬見えた彼の双眸は驚くほど――この友人すら見たことのないような優しさに満ち、細められて子供に頬をすりよせていた。 意外なものを見るものだ、という思いと。 どこかちくりとした、なにかいやな予感のようなものが胸をよぎったが、そのときは忘れさられた。 もともと彼は――柳蓮二は、そのような「予感」「虫の知らせ」などというものを全く信じない、頭から否定している人間の代表のようなものであったし、何よりもそのとき、彼は物言いたげに近寄ってきたもうひとりの子供の頭を撫でて、同じように抱きあげてやることのほうがよほど重要だった。 おだやかに過ぎていったこの日が、おそろしく遠い昔のことに思えてならない。 実際、いつ頃のことであるのか、また具体的には何月何日であったか、探せばデータには記録があるし、また柳もその程度の日付ぐらいは記憶にあるだろう。 実際まだ4年ほどしか経ってはいない。昔話にするには早いというものだ。 しかしこの、たあいない一挿話にすぎないものを、これほど遠い昔日のように――しかもいささか感傷的に思い出せてしまうことに自分も年をとったかと自嘲せざるを得なかった。 そう。 昔話には、早すぎる。 愛しい"Heimdallar"は失われた。 友は背信した。 世界は灼かれ、瀕死で喘いでいる。 "死の英雄"は失われることなく。 その秘密を解く鍵を、自分は手にしている。 ――昔を思い出すにも、それにひたるのも、まだ早すぎる。 どうやら、いつのまにかうたた寝をしていたらしいソファから、柳蓮二はゆっくりと立ち上がった。時計を見るとここで栄養剤を飲み下して椅子に座ってから5分経過している。 タワー内に設けられた私室とは言い条、そこでも結構所員は出入りしているので、柳がその部屋で、休息を含めたプライベートな時間を過ごすことはほとんどないと言っていい。 実際、形式ばったことが好きな――柳達の言うところの――『老人達』を迎え入れる際に、それでもそこそこ体裁を取り繕えるだけの仕様にしておかねば、ということで、大きな執務机にソファセット、観賞用としてはまったく存在意義を失っている植物などといったものが広い部屋に言い訳程度に置いてあるのだ。 しかし珍しく、そこでうたた寝をしてしまった。ソファに座り、少し気を抜いた時に眠気に負けたものらしい。 「やれやれ。やはり年だ」 妙に老けた口調で呟いてみせてから、彼は眠気の欠片も残していないような顔でもうあれこれと思考を巡らせ出す。 愛しい"Heimdallar"は失われた。 友は背信した。 世界は灼かれ、瀕死で喘いでいる。 "死の英雄"は失われることなく。 その秘密を解く鍵を、自分は手にしている。 鍵の名は「ヒルダ」。 ――『Brunhilde』と言うのだ。 「なんだ、起きたのか」 隣室の、騒々しい研究室に戻ると真田が言った。 「お前が珍しくうつらうつらしていたから、起こさずにおいたんだが」 「そういうときは起こせ」 「別にいまは焦眉の急というわけではないからな」 相変わらず研究室は騒がしい。いつもの倍近い数の人間が、おそらく不眠不休に近い体制で機械に向かい続けている。いまだデータの復旧が完全ではないのだろう。 しかしあれだけの損失を現在までの48時間でほぼ回復できているのならば、たいしたものだと言わねばなるまい。バックアップも出来ず突然に全てが失われ、一から構築しなければならなかったものも少なくないのだ。柳のとった手段がいかに乱暴で、本来はごく切羽詰まって最終的なものであったかを思わせる。 「老人達がうるさく言ってきているぞ」 真田が細かい報告をしたあと、小声で、柳にだけ聞こえるように言った。 「何がだ」 「今回の一件について納得のいく説明をしてもらわなければ、だそうだ」 「あの連中の頭じゃ説明しても判らん」 柳は一蹴した。 「相手にするな。それでも来たら40階に押し込んでおけ」 40階とは視察だのなんだのとうるさくやってくる政府の要人達を泊めるためだけの場所であり、仰々しい調度品に埋められ、専任スタッフが宿泊者の世話を甲斐甲斐しく行う、柳の言うところ「無駄きわまりない装飾と手順に満ちた」フロアである。 そこで満足して部外者が出しゃばってこないならば、あえてその「無駄」も必要かと不承不承つくられた場所でもあった。 「それよりあれはどうしている」 「気にするほどのことはないな。相変わらずだぞ」 真田は手元の携帯用端末の薄い画面を幾度か操作すると、何処かの監視カメラらしい映像を呼び出した。 白い真四角の部屋を、ちょうど真上から撮影しているような画面だ。 部屋の壁にもたれて膝を抱え、人間がひとりうずくまっている。その白い部屋の中にはなにも調度品らしいものはなかった。眠るための最低限の寝具さえない。実験動物の為の入れ物のようだ。 簡単なスモックのようなものだけを着せられた人影は小柄で、印象的な赤い髪をしている。まだ年若い――というよりも、ひどく幼い感じがする。スモックはあまり裾の長いものでもなく、剥き出しのか細い足のせいでよけいにそう見えるのだろう。 「さすがに疑似プレートをつけてからは動きようがないらしい。ずっとあのままだ」 「筋力を押さえつけているからな。体全体に重力がかかりっぱなしのようなものだ。ま、あまりつける期間が長いと内臓まで動かなくなる。もう少し弱ったところで出してやるか」 実際どこまで持ちこたえられるか試してみたくはある、と物騒な柳の呟きを聞きながら、真田はさらに声をひそめて言った。 「――いいのか」 「何だ」 「老人達には知らせてないんだろう」 「知らせてどうするんだ」 柳は鼻で笑った。 「何が何でも隠しきるつもりもないがな。今はまだ時期尚早だと言っているのさ、弦一郎。せっかくの切り札は有効に使わねばな。――それより先に我々には大きな仕事がある。ヒルダについては、それを片づけてからだ」 「――」 「なにせ我々はこれから、寝た子を泣かせず起こしてやらねばならないのだからな」 彼らの手元の画像で、うずくまっていた人影はゆっくりと顔をあげた。カメラの存在に気づいているのか、こちらを見あげている。 まことに愛らしいとしか言いようのない顔立ちは青ざめ、やや疲れているようだったが、目つきは油断ならぬ野生の猫に似ていた。 彼が――英二がここに囚われてから、二日近くが経とうとしている。 |
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