「ずいぶん長いお散歩だったわねえ」 困ったように笑う女に、少年はふんと鼻をならしてそっぽを向いた。 「柳所長が出した許可の時間を15分も過ぎたわよ」 「しかたないでしょ、急に暗くなったらびっくりするよ。ちゃんと帰ってきたんだからうるさく言わないでよね」 上着を脱ぎながら彼は言った。 「それより、なんなのあの停電。もう復旧したみたいだけど」 「さあ。原因はまだ調査中らしいわよ。なにか判ったら教えてあげるわ」 肩を竦めた女に、どうせ教える気もないくせに、と少年は内心で嘲笑した。 その若い女は少年の生活や身の回りの細々としたことの面倒を見る役割の人間だった。 白衣を着て髪をひっつめ、化粧っ気のない青白い顔をしている。決して醜くはないし、むしろまだ若いのだから華やいだ格好をすればそれなりに美しい娘になるだろう。だが、この白い街の中で研究一辺倒の生活をしているとさほど身なりには気を遣わなくなるらしい。 少年に対しても冷酷な態度はとらなかったが、接し方はあくまでありきたりで、凡庸であった。わざとそういう人選をしているのかもしれない、と少年は思う。 己に深入りしすぎたせいで、引き離されたあの男のことがあってから、なおのこと。 「何かお菓子でも持ってこようか、リョーマ君。晩ご飯のあとでおなかいっぱいかな」 「お菓子いい。あ、でもメロンソーダ欲しい」 そう言った少年は、ふと気づいたように言った。 「……あれ、そういえばゆきは? ゆきも散歩の時間だったでしょ、帰ってないじゃん」 「真田さんに呼ばれているわよ」 「――またあいつ?」 いやそうに顔を顰めた少年に、女は笑った。 「しかたないわよ、停電のどさくさにまぎれて、何か入り込んだらしいしね」 少年は微かに反応したが、女は気づくことはなかった。 「何かって?」 「さあ――幸村君が見つけたみたい。ああ、心配しなくていいわよ、彼なら万が一にも手傷を負わせられたりしないし、じっさい傷ひとつなかったわ」 にこにこと言う女の首をねじきってやりたい衝動を堪えながら、少年は彼女に背を向けた。自分の動揺が顔に出たことを悟られないようにするためだ。 「それを見つけて捕まえたのが幸村君だというから、ちょっと事情を聞かれてるくらいのことじゃないの。心配しなくてもすぐ帰ってくるわよ」 「で、結局どんなのが入ってきてたの」 「さあ。わからないわよ。どうせそういうのは所長権限ですぐに処分されるだろうし」 女はさらりと言った。「処分」というのがどういう処遇のことか知らないはずはないが、たいして彼女の感性を揺さぶるほどのことでもないらしい。人と、人に似た形のものとを毎日実験動物よろしくいじっていれば、そういう当たり前の感情も摩耗するのかも知れなかった。 「もう殺された?」 「柳所長はそういう愛国者気取りのテロリストとかは大嫌いだから、そうなってる可能性のが高いわね」 「ふうん」 「興味がある? 珍しいじゃない、そういうこと聞くの」 「別に」 わざとつまらなさそうな声で少年は言った。 「ゆき、早く帰ってこないかなって思っただけ。――ねえ、この棟から出ないでいるから、ゆき迎えに行っていい?」 「それはかまわないわよ、まだ就寝の時間じゃないし」 女は壁際の端末に近寄りながら鷹揚に言った。たぶん少年のリクエストを叶えるためにどこかに指示を出しているのだろう。それを横目に見ながら少年――『ロキ』こと越前リョーマは深々と息を付いた。 ここは広々とした円形の一室である。中央に室にあわせたような丸いテーブルと、それを半円形に囲むソファとがおいてあり、リビングの体裁を意識してととのえているらしい。 あかるい白い天井や壁で、それなりに殺風景にならないように観葉植物がおいてあったり、ちょっとした調度品がかざってあったりもするのだが、広すぎる部屋に比べてそれらの数が少なく、どうしても寒々しい感じは拭えなかった。 窓はなく、塗りたくられた白が妙に目を射す感じがする。 この円形の部屋を中心として外側に伸びる通路は5つあるが、そのうち2つはすでに閉鎖されている。残る三つのうちひとつはリョーマの部屋、ひとつは『ゆき』の部屋、もうひとつは、リョーマ達が暮らすこの「棟」の内部へ出る為のものである。 その通路のひとつがふいに小さな摩擦音を発して扉をひらいた。いままさにそこに近寄ろうとしていた少年は驚いて顔をあげる。 そこから現れたのはか細い人影であった。 白い前時代的なシルエットの服の裾をいかにも優雅にひいて現れ、少年を見おろしていつものごとく優しく微笑む。 「あら、おかえりなさい、幸村君」 女は何も考えていないような声で、のんびりとそう言った。 「ただいま帰りました。ごめんなさい、遅くなってしまって」 「いいのよ、お疲れさま。何か暖かいものでも? いまリョーマ君のぶんを頼んだから」 「いえ。……ああ、でも、そうですね」 彼はふたたびおっとりと笑んだ。己がまさにそう造られたことをよく知ってでもいるかのように、彼はいつも穏やかで、仕草のひとつひとつまで洗練されている。 まさしく「典雅」という言葉がぴったりのドールである。 その細身の体つきといい、たえず薄いほほえみを浮かべているような口元と言い、一見して女性にしか見えない。そのふくらみのない、薄い胸板を見てもにわかには男性だとは信じがたいだろう。 細い体を柔らかいひだの多い衣装で包んでいるさまはまことに優雅で、なにやらまったく違う世界のたおやかな生きもののようにも見えてくる。 「――やっぱり、暖かい紅茶か何か頂けますか」 「おやすい御用よ。ミルクティーでいい?」 「はい」 虫も殺さぬ顔で幸村は頷いた。 それから間もなく届いた紅茶とメロンソーダに、簡単な焼き菓子が添えられたものをテーブルの上に置き、またあとで見回りに来るからと彼女は退室していった。 幸村は何も言わず、何の飾り気もない白いカップから立ち上る紅茶の香気に目を細めていたが、ふと傍らの少年に目をやる。 リョーマはいつも通り、何かにむくれたように唇を尖らせて黙ったままだ。手元の小さなビジョンでゲーム画面を呼び出してはいるものの、やる気はなさそうである。 「リョーマ」 「なに」 「あの赤い髪の子ならセキュリティに引き渡しておいたよ。上に確認をとるように言っておいたし、柳にもひとこと伝えたから、たぶん殺されることはないよ」 幸村のその言葉に、リョーマは顔もあげなかった。ただ唇がさらに意固地に引き結ばれ、より可愛らしく尖っただけだった。 「駄目だろう。せっかくここまで『彼』が苦心して連れてきたのに、ああいう邪魔をしちゃ」 「――……」 「リョーマがしたことは柳にも真田にもバレていないから、今回はいいけれどね。もうおいたは駄目だよ」 「……どうしてゆきはあいつの味方するかな」 少年は唇をとがらせ、つんとそっぽをむいた。 「あいつの味方して、何かいいことがあるとも思えないけど」 「いいことはあるよ」 幸村は美しく、この上なく優しく微笑んだ。 そうしてリョーマを手招き、自分の隣に座らせる。当然のようにその膝を枕に寝ころぶ少年に笑いかけた。 「とてもいいことがあるから――そのうちにね」 ゆっくりと英二は目を開いた。 頬にあたる床は冷たい。目を開いたとき、あまりにも周囲が白すぎたので、何かの夢かと思ったぐらいだ。 意識がぼんやりしている時間は、そう長くはなかった。此処は何処か、どうしていたのか、などということをあれこれ考えなければいけないほどでもない。 首を巡らせると白い壁、白い天井が目に入る。 捕まったな、ということはすぐに理解できた。なにしろ投げ出された己の両手は、仰々しい白色の手枷でがっちりとひとまとめにされている。 英二はぐるりと室内を見回した。窓もなにもない、小さな四角い部屋。天井も壁も床も真っ白い。唯一の出入り口は目の前にある、おそらく横にスライドして開く扉のみ。 その扉の隣には何やら小さな液晶のパネルがあった。デジタル表示の時計のようだが、その画面以外にめぼしいボタンやスイッチの類などは見あたらない。 画面の表示は21:15となっている。 不本意な形で桃達と別れてから、約一時間少々と言うところか。 「……心配してるだろうな」 英二は小さく呟いた。言わずもがな、桃城達のことであったが、少なくとも自分よりは帝都の内部に慣れているであろうから、そうそう取り返しのつかないようなヘマはしないだろう。 お互いに何かあっても、もう片方は必ず脱出するというのは固い決まりごとだ。きっとそれだけは守ってくれるはずだ。 それより今の自分のことを考えなければならないだろう。 帝都の中のあの不気味な表示。 動かなかった身体――誰かに操られるままだった己の身体。 壁を飛び越した先で『ロキ』と出会い、そうして最後に見たのはあの美しいドールだった。 驚くような白い肌と、くっきりとした深い藍色の髪と瞳。 そのほほえみかたや表情が、誰かに似ているとは思ったのだが。 「……」 英二は再び室内を確認した。天井には一見すれば監視カメラの類は見受けられないが、こういう研究所に備え付けられていない筈がない。 逡巡したが、しかたないと腹をくくって、英二はまず自分の手元に目を落とした。 白い金属製の手枷だ。もちろんあの、古めかしいいかつい手錠ではなくて、電子ロック式のものだった。何やらのパスワードか、あるいは決まったIDカードか何かの挿入がないとあかないのだろう。 しかし英二にしてみればたやすい。左手を動かし、指先で小さなボタンに触れる。英二の脳裏には様々な数式、構成式が閃いて、その奥にあるパスワードを垣間見る。 そうしてあっさりと手枷を外して、次に睨みつけた扉は――無論、閉まっている。 「ここかな」 英二は再び左手で、時計のデジタル表示だけが映し出された画面に触れた。 「入口」は狭かったが、確かに奥でセキュリティネットと繋がっている。ただの時計と見せかけて、ここに閉じこめられた人間を監視する役割も果たしている端末なのだろう。 それを動かしてしまったなら、おそらく警備の人間もかけつけてくるだろうが――それでも、自分の諸々の秘密が知れる前に、多少の危険を冒したところで逃げた方がいいに決まっている。 この部屋の扉は、別の場所からのアクセスで指定しないと開かない仕組みになっていたが、英二にとってはその途中で指示を組み替えて出せば済むことだ。 たちまちのうちに時計のデジタル表示は消え、変わって赤い光が幾度か点滅し、そうして緑のカラーになる。 あっさり開いた扉からそっと顔をだすと、廊下は静まりかえっている。マシンセキュリティを信用しているのか、その上に見張りの人間を置くなどと言う無駄な労力は省かれて久しいものらしい。 天井も廊下もまっ白で目がちかちかする気がする。 ちょうどあの場所――『彼』と最初に引き合わされた、あの場所と同じように。正確なキューブ仕立ての、それだからこそどこかしらいびつな建物――同じ目的の研究所であるのだから、似ているのは当たり前と言えば当たり前であったが、それでもいやな感じがしてたまらない。首の後ろがちりちりとする。 さてここは一体どのあたりだろうか、と英二は外観を見ただけのオーディンズタワーを思い浮かべてみる。 巨大な塔とその裾野の施設。周辺の白い四角い街。 だいたいにして、こういう不法侵入者を閉じこめておくのは地下と相場は決まっているものだが、この研究所はどうだろう。何しろ窓がまったくないので、目星をつけることができないのだ。 その上、行っても行っても同じような白い曲がり角ばかりで、方向感覚が狂う。人の気配がしないのも不気味である。 ちらりと目を走らせると、周囲の壁に何やらの端末がはめ込まれている。多分連絡用か何かのものだろう、たいして大きくない液晶画面だったが、ちかちかと点滅している。 あまり奇妙なアクセスを繰り返すと、すぐに居場所がばれてしまうかも知れないが、やみくもに走り回るよりはいい――そう思って、英二が左手をかすかに発光させながら、画面に触れたとき。 その文字は画面いっぱいに現れた。 『EIJI』 『EIJI』 『EIJI』 英二はぎくりとして手をひっこめた。赤い文字は踊り、二次元での収縮を繰り返して、ひたすら狂笑しているようでもある。 「……大石?」 かすかな声が、英二の唇から漏れた。 画面はそれには答えない。だが激しく赤と黒と、そうして『EIJI』の文字が入り乱れ踊り狂って、はしゃいで喉から叫声をあげる幼子のようである。 「大石」 英二が思わず画面に手を伸ばした――そのとき。 「誰だ、そこにいるのは!」 英二の背後で、鋭い誰何の声が響き渡ったのだった。 電気系統が復旧したばかりのオーディンズタワー内部は、突然の停電による恐慌状態もさめやらぬうちから、それによって被った損害の算出、出来うる限りのデータの復旧、セキュリティの再構築、各部署の異常点検などに関わる人間達で、蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。 何しろ、巨大なコンピュータネットワークシステムの上に成り立っている研究所である。全てが機械によって運営され、管理される。そのシステムがすべていっせいに落ちてしまっては、それが存在して当然の研究員達にしてみれば突然五感全てを失ったと同様であった。データの損失が多大なのもさることながら、機械とネットワークなくしては、警備すらたちゆかない研究所の脆弱さを露呈したようなものでもある。 その脆いところを突かれ、それでも驚くべき早さで立ち直りつつあるタワーの一角で、柳蓮二はひとり部屋にこもり、手元におくられてくる画像を眺めていた。 そこはその機械端末と、端末操作のための机、椅子――それ以外はいっさいの家具もおかぬ、殺風景もきわまった部屋であった。 電気もつけず、ただ端末からの灯りで照らされる柳の顔立ちは、なまじ整っているだけに妙に非人間的で、酷薄であった。 「バケモノめ。そういうことか。なかなかに手の込んだことをしたな」 手元の端末には、ある画面が映っている。 それはこの研究所――オーディンズタワー内の一角であった。 逃げ出した「不法侵入者」を警備員達が追いつめていく、その一部始終が監視カメラを経て柳の手元に送られ続けているのだ。 「不法侵入者」は逃げ出したはいいものの、すぐに警備員に見つかった。現在も慣れぬものならばまず迷う格子状の通路を、往生際悪く駆け回っているところである。 このすばしこい「不法侵入者」を、傷ひとつつけぬよう捕獲せよと指示したのは柳であったから、ささやかながら手元の端末を操作してあちこちの通路のシャッターを閉ざし、徐々に逃げ場を少なくして警備員達を手伝ってやっていたのだったが、視線は必死に逃げるその「不法侵入者」の少年を楽しく観察し続けている。 不法侵入者だと真田に告げられ、少年を捕らえた幸村が意味ありげに「すぐに殺さない方がいい」と微笑むので見てみれば、確かによく知った顔であったのだ。 よく知った――柳が一方的に知っていた顔。 4年前の、第七研究所の爆発事故のとき、ようやく拾い出した監視カメラのデータの中にいた顔。 赤い髪の毛先を跳ねさせた大きな目の――捨てられた仔猫のような顔をした子供。 『シグルド』のD2。ラグナロクのあいだ、彼が片時も離さずそばに置いたという。 しかしあれから4年たっていても、柳が繰り返し見ていた監視カメラの映像の中の彼と、今の彼との姿がまったく変わっていない様子である。 不思議なことであったが、これからその原因は存分に探らせてもらえるだろう――そう思うと、柳の唇には物騒なほほえみが知らず浮かんだ。 手元の画面の中では、赤毛の少年はいよいよ追いつめられているようだった。警備の人間に銃を突きつけられ、背後を幾度も確認しているようだがもちろん逃げ場はない。 「まあ――ようこそ中央研究所へ、というべきだな」 周囲を10人近い警備員に取り囲まれ、その全員から銃を突きつけられてさすがに観念したのか、少年は両手をゆっくりとあげる。 その左手の薬指に金色の指輪がはまっているのをめざとく見つけ、彼は――柳蓮二は、口元をゆがめて笑った。 「我らが愛しき『ヒルダ』」 |
back/next |
top/novel top/Reconquista top |