彼自身は、『ロキ』と呼ばれたことに少し眉を顰めてみせた。あまりそう呼ばれるのが好きでないのかもしれない。
 その顔だちや立ち姿などは英二の記憶の中に今も残っている。
 目の前の彼は、それよりも多少大人びてはいたものの、間違いなく『ロキ』本人であった。
 二年経っても英二にはその顔立ちを忘れることなど出来ない。

――ちょっと俺と戦おっか、『シグルド』。
 あのとき。
 あの鋼鉄の黒き城で。
 その前で。
 この少年は、『彼』を。

「ふーん。生きてたんだ」
 『ロキ』は顎をそびやかして、いかにも小憎らしげにそう言った。
 むくれたように引き結ばれた可愛らしい唇が印象的で、ずいぶん小生意気な、けれど放っておきがたい風情の愛らしい少年ではある。
 喉元、手首の銀色のプレート――『ドール』の証も健在だ。
「てか、なんでこんなとこにいるんだよ。小金でも盗みに来たってわけ?」
「……」
 英二は体をそろそろと起こし、目の前の少年を睨みつけた。何か言い返したくとも、まだ息がうまく整っていなかったのである。
 とにかく英二自身の意志をよそにおいたまま走りに走り続けて、あげくの果てにあんな高い塀を飛び越えさせられたのだ。いくら英二に多少人間離れした近い能力があるとは言え、そんな離れ業まで出来る体では、本来ない。目に見えぬ誰かのサポートがあったのかもしれないが、度を超せば疲労するのは当然のことである。
 あの塀を乗り越えた英二自身は、どうやら何かの建物と建物の狭間、せせこましい通路ともいえないようなすきまに着地したようだった。
 そこにへたりこんでいたところを『ロキ』――この少年に見つかったのだったが。
「まさか、彼奴に会いに来たとか言わないでよね」
「――」
「この停電はアンタの仕業? それともあいつかな。どっちにしたって、よくまあここまで潜り込めたよ。今までどんなテロリストだってタワーまで来られた試しなかったのにさ」
「タワー?」
「いまアンタがいるところ」
 そう言って少年は自分の後ろをくいと顎でしゃくってみせる。言われるままにそちらを見上げた英二は、あまりのことに息を呑み――瞠目して声もなかった。
 建物と建物のはざま、そこから見えるのは細長く切り取られた闇の光景でしかない。非常用電源が照らす光景はひどくぼんやりしていて、よどんだ水を通しているようだ。
 不安定な、それこそ悪夢のように薄闇の中に浮かぶ。
 『タワー』――オーディンズタワー。
 あれほど白く輝いていた塔は、今は薄闇の中、灰色に沈んでいたが、その特徴的な流線型は見間違えるはずもない。
「俺……いつの間に」
 英二は呆然と呟いた。
 いつの間にかそのタワーの足下近く――正確には、タワーを中心とする中央研究所の中枢部分に足を踏みいれていたのだ。
 最後に越えたあの高い塀。それは厳重に区切られたこの白いキューブの小都市の中に在ってさえ、なお秘匿されたこのタワーの最後の砦だったのだ。
 いつの間に。
 本当に、いつの間に。
「どっから……ああ、あそこ飛び越えてきたんだ。――ふうん、いいタイミングだったね。あの塀の上にもセンサーがびっしりはってあるからさ、こんなふうに停電してなきゃ感知器に引っかかって、地面に着地する前にレーザーで黒こげだったよ」
「……」
「で。あんたが生きてるのは判ったけど、何しにきたの」
「……」
「あいつがこの下にいること、知らないで来た? そんなことないよね、知らないでこんなところまで、わざわざ入ってくるはずないもん」
 とんとん、と少年の白いスニーカーがコンクリートの地面を踏みならした。
「あいつに会いに来た?」
「……」
「ねえ、聞いてるんだからさ、答えなよ」
 多少癇癪持ちらしい少年は、少し苛々したような口調で英二に詰め寄ってきた。そちらを睨みつけた英二を、ふいに強い光が襲う。
「――……っ」
 英二は思わず手を顔の前にかざした。少年はそんな英二を、相変わらずつまらなさそうな、少し怒ったような顔で見おろしていたが、不意に小さく彼を呼んだ。
「ねえ」
「――」
「ねえってば、そこの影に隠れて」
「え?」
「え、じゃないよ、早く。そこの、ちょっとした出っ張りのとこ。陰に隠れて、早く」
 英二は何が何だか判らないまま――突然満ちた白い光に目を眩ませたまま、それでも建物の合間、小さく飛び出た柱のような物陰に身を寄せた。
 少年はそれを確認すると、ごく細いこの建物どうしの狭間に背を向けて、今し方彼がやってきたと思われる場所へと数歩戻る。
「そこで何をしてる!」
 途端、遠くから鋭い声が聞こえてきて英二は首を竦めた。
「おい、何を――……なんだ、『ロキ』か。そこで何をしてる」
「お散歩」
 少年は、面倒くさげに応じている。
「外出については柳から許可もらってるよ。ふらふら外歩いてたら、急に灯り消えたんで、どうしようかとか思ってたんだよ」
「ここは許可区域外じゃないか」
「暗いから迷ったの」
「そんなわけないだろうが、『ドール』のくせに。第一、こんなところにいたら危ないぞ」
「危ないって?」
「このエリアの外部から侵入された形跡がある。まだ正体も分からない、早く部屋に帰ってろ」
「侵入って……ああ、さっきの停電の時?」
「そうだ。さいわい、予備電源が入り始めてタワーの方はほぼ復旧しかけている。だがこの辺はまだなんだ。お前達の身に危険が及んでは、何を言われるか判ったもんじゃないからな」
「ふうん、この辺じゃ変なヤツは見かけなかったけど」
「テロリストどもの可能性もある。お前たちを狙ってきているかも知れないんだぞ」
「あんたたちで手に終えなかったら、言ってくれればいつでも殺してあげるよ」
 ふざけて言う少年に、男はまた何事かをたしなめたようだった。
 少年は無論動じた様子もなく、苛々と言い返している。
「ああ、もううるさいな。心配しなくてももう戻るよ。外出許可されてる時間がもうすぐ終わるんだから。俺はここから外に出られないことぐらいあんたたちだって知ってるでしょ。あんまり俺を怒らせないほうがいいんじゃない。プレート在ったって、アンタの首飛ばすくらい出来るんだからね。そう、そうだよ、さっさと行っちゃえっての」
 子供の癇癪そのままに少年が言い立てている。その勢いに負けたのか、男はもういちど、早く部屋に戻るようにと言い残すと、複数の足音とともに遠ざかっていったようだった。
 おそるおそる物陰から顔を出した英二の視線の先で、少年はまだ唇を引き結んだまま男達の去っていったとおぼしき方向を睨んでいたが、肩越しに振り返って身を縮めた英二と目が合うと深くため息をつく。
「あーあ、何をしてんだか」
「……」
「ところで、アンタはどうしたいの」
「どうしたいって……」
「――見つかる前に逃げるのか、無理と承知で彼奴に会う試みをするのか、此処で俺に捕まるか」
「逃げるに決まってるだろ」
 英二は即答した。
 少年は意外そうに眉を上げる。
「彼奴に会いにきたんじゃないんだ?」
「少なくとも、今はそんなつもりで来たわけじゃねえよ。此処へ来ちまったのだって、偶然なんだから」
「偶然ねえ」
 少年は何か胡散くさげに英二を見ていたが、やがてふんと鼻を鳴らした。
「俺は別にアンタを見逃すつもりはないんだけど」
「――」
「……でも、捕まえたって柳はあんたを俺にくれそうもないしね。アンタ面白い体してるもん、絶対俺より先に柳の玩具にされるし」
「……」
「それも癪だし」
 少年はひとりで肩を竦めて、後ろをそっと振り返った。
 周囲はだんだんあわただしくなって来始めている。男の先刻の台詞を借りれば「予備電源が入った」ということである。じっさいタワーのライトアップは再びともったし、その周辺も、少なくとも先刻のような薄闇ではない。
 英二がここに隠れひそんでいられるの時間の問題であったろう。
「また来る?」
 少年はつまらなさそうに言った。
「え?」
「今日じゃなくても、いずれ彼奴に会いにくるつもりなんでしょ」
「――……うん」
「だったら、今日はいいや。とっとと出てって」
 少年はそれだけを言うと、もう英二に背を向ける。
「まだ外壁のセンサーは回復してないみたい。今までの実績から言うと、問題が起こった場合には5分以内にセキュリティは復旧させるように義務づけられてる。でもリスクを分けるって形で、その電源管理もいくつかに分散させてるから」
 少年は英二に背を向けたまま左手だけをあげ、ある一方向を指す。
「たぶん、一番最後に復旧させるエリアはタワーの南。ここから言うと、あの小さな三角屋根が見えるでしょ、あの部分が最後に回復するんだと思う。正直何分後かは判らないし、5分もかからないかも知れないけど、可能性が高いのはそこだよ」
「……おまえ」
「この建物の裏の細い処を通れば、見つかることも少ないと思う。保証の限りでないけど」
「――」
「運がよければ、逃げられるよ」
「俺にそんなこと教えて、お前大丈夫?」
「……ふーん。てことは、俺の言うこと信用するんだ?」
「おまえ、そんなことで嘘つくようには見えないからさ。さっきも俺のこと隠してくれたし」
 からかうように言った少年だったが、英二の言葉に何故か少し頬を赤くしたようだった。
「嘘かも知れないよ」
「嘘じゃないんだろ」
 英二の微笑むような気配に、少年は苛々したように足を踏みならした。
「……うるさい、とっとと行けば。時間なくなるよ」
「うん、ありがと、おチビ」
「ちょっと、誰がおチビ……っ!」
 振り返ったが、すばしこい英二はもう少年に背を向けて走り出していた。その姿は、出来るだけ闇に近い場所を選びながら走り続け、たちまち少年から遠ざかってゆく。
 拗ねたように唇を引き結んでいた少年であったが、やがて眉根を寄せて再び地面を蹴った。

「……もう、チビじゃないっつーの」

 少年を信用した英二は、どうやら正しかったようだった。
 あちこち復旧し始めているのは本当のようである。だが突然の停電と回復とに、タワー内はそれぞれの事情によって騒然としているらしく、駆け回る警備員や白衣の所員たちの数は大勢居たものの、隠れてやり過ごすことは案外たやすかった。
 しかし少年の言ったとおりだとするならば、このタワーを中心とする研究所のエリアから脱出するのに、あまり時間をかけていては危険だ。そういつまでも逃げられるわけでもあるまい。
 英二は身の軽さや機敏さを最大限に生かし、薄闇に時に身をひそめながら、それでも驚くべき短時間で少年の言うところの「三角屋根の下」まで近づくことが出来ていた。
 どういうわけか、そのあたりは人が少ない。
 多少の危険を冒しても、ひといきに塀まで駆け付いて飛び上がっても大丈夫だろう。
――そう思って、英二が次の行動に移ろうとしたときだった。
「君は誰」

 英二はあわてて立ち止まり、反射的に後ろへ飛びずさった。
 静かで白いその一角に、溶け出るようにひとかげが現れ出たからである。
 まるでこの建物の色合いを写し取ったかのように白い、何か時代がかった裾の長い衣装と、くっきりと映える濃紺の髪と瞳をした人物であった。
「誰。――ここのひとじゃないね」
 さらさらと衣擦れの音をさせながら近寄ってくる人物は、声の様子からすると男性のようであった。
「君みたいな小さな子が、どこから来たの?」
 口元にほほえみを浮かべ、優雅に裾をさばきながら青年は近寄ってくる。肩からかけたぞろりと長い薄布がひらひらしたシルエットであるせいで、よけいにたおやかで女性的に見えた。
 その様子と、この硬質な建物とのイメージはあまりにもかけ離れていて、英二は少なからず困惑もしていたのだが、腰を低くし、必要ならばいつでも相手に飛びかかって殴打することぐらいはできる姿勢だけは、なんとか保っていた。
「今日は実地見学があったのかな。どこの生徒さん? ああ、さっきの停電で迷っちゃった?」
 英二は目をつり上げて相手を睨みつけたが、その美しい青年はいかにものんびりとしたふうで、俗世間離れした独特の雰囲気を漂わせていた。
「駄目だよ、ここは立入禁止の区域だから。とても叱られてしまうから早く立ち去ったほうがいいよ」
 そのほほえみかたや表情に、英二はふと既視感を覚える。
(誰かに――似てる)
「それとも何か探しものでもあるの?」
 英二が構えるあいだにも青年はゆったりとやってきて、さらに英二に顔を近づけて微笑んだ。
「たとえば――ここの地面の下に」
 その拍子に、青年の肩に掛かった布がするりとめくれた。白いか細い喉元に、ぴたりと張り付けられた銀色のプレートが見える。

――『ドール』……!
 英二は驚愕して身を引いたが、遅かった。
 ひゅっ、と言う風を切る音がかすかな響いたと思うと、首筋の当たりに小さな衝撃が走る。
 その衝撃は英二の視界と、そして意識とを、たちまちのうちに闇の底へと引きずり下ろしてしまったのだった。

 ぐらりと地面が揺れた。
「なに。乱暴に扱うなっていうの?」
 地面はまた揺れる。停電の上にこの揺れで、タワーの中はますます大騒ぎだろう。
「怒らないでよ。殺さなかっただけでも感謝してほしいくらいだけれどね」
 白い清楚な衣服に、くっきりとした深い藍色の髪と目をもった美青年は、小刻みに揺れる足下を興味なさげ見おろして、小さく呟いた。
「俺はこれからあの子のおいたのことだって叱らなければならないんだし。……本当にあの子は君と似てるね。趣味が同じだもの。まあ、確かに」
 青年は目を細めた。
「綺麗な子。ほんとうに、なんて綺麗な赤い髪をしてるんだろう。首から上だけでいいから、俺の部屋に飾りたいぐらいだ」
 しかし地面はそこからはもう沈黙してしまった。ゆらゆらと揺れていたのが、ぴたりと止まってしまっている。
「でも、俺にはよくわからないね――何故そこまで執着できるのか」
 もちろん、言葉としての応えもかえらなかった。かと言って、彼ら『ドール』だけに相通ずる何か、思念のようなものでそれに対する返答があったというわけでもなさそうだった。
 白と濃紺の美青年――『フリッカ』こと幸村精市は、それきり沈黙を守ってしまった地面を見おろした。
 視線の先には、昏倒している小さな人影がある。
 たおやかな芸術品のような白い手が思わぬ鋭さで首筋を一撃し、倒れさせた小さな少年である。
 投げ出された左手の指に、きらきらと輝く黄金の指輪を見つけて幸村は再び目を細めたのだった。
「それは幸福なことなの、『シグルド』?」

 
 





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