――どうして。 息を切らし、出来るだけ闇に染まる場所を選んで走り続け、遠くから聞こえてくる靴音からは極力遠ざかろうとする。 ――どうして。 足が動く。体が知らず身をひそめようとする。 息づかいさえもおさえ、視線は絶えず前も上も左右も背後も、足下さえ気にしながら。 ――どうして。 それが誰の仕業か、誰の意志によるものなのか、英二に判らなかったはずはない。 こんなことをするひとは――出来る存在がいるとするならただひとりだ。 けれど、どうして。どうしてここまで強引に。まるで英二の意志などねじ伏せるようにして。 自分の身体の異常については、想像はいろいろつく。 英二の体には『彼』と同じ――それも研究所での実験の結果だけでない、ありとあらゆる進化を自ら遂げた独特のDNAが入り込んでいる。それはこの世で『彼』と英二しか持たないものでもある。 『彼』がその組成にどこまで干渉できるかは判らないし、いくら英二の存在に気づいていると言ってもそこそこ距離も空いているのに、まったく別個の体に入り込んだ細胞、運動機能を思いのままに操ることが出来るものなのか。 しかし、『彼』。 『彼』ならば、あるいは。 あれこれ考えているうち英二はずいぶんとこの地区の中枢へと近づいてしまっていた。その頃になってようやく、英二の体と運動機能が見えぬ何者かの支配から解放されたのだ。 英二が闇にまぎれて走り抜け、何重にもなっている高い金網やコンクリート塀も軽々と飛び越え、そうして転がるようにして飛び込んだ場所。 そこは、白き高き「オーディンズタワー」の裾野に広がるようにして構成されている、中央研究所の外部施設であった。 外部施設と言っても広大である。さいの目状に道路が走り、所員の為の寮やリラクゼーション棟、研究資料棟、生活のための日用品を扱う簡単な店舗などを各区ごとにわけて建ち並ばせ、区間ごとの連絡バスまで走っている、まるでちょっとした小都市の有様だ。 ただいずれの建物もタワーにあわせて白で建築され、なんの面白みもないような四角いものばかりである。知らない者が入り込めばまず迷うだろう。 英二もご多分に漏れない。 なにせ自分の体が、自分の意志に寄らず動かされるままにともかく走り続けてきたのだ、どのあたりにどう、等と言うことまで気など回るはずもない。 行っても行っても、鈍色に沈んだ四角い建物ばかりの街である。 英二が転がり込んだその場所は、主に資料やちょっとした物資などを管理保管する区域で、恒常的に人が少ない。 ましてこのように突然の停電となれば、何事があったかと己の持ち場を離れてむやみにおもてに飛び出す者もいない。それでなくとも少ない数の所員達は、それぞれ緊急時のマニュアル通りに自分の担当箇所を律儀に守っているだろう。もちろん、建物の外に一歩たりとも出ようとはしないに違いない。 英二はもちろんそんなこととはつゆ知らなかったが、このゴーストタウンめいたグレイの街にだんだんと気味の悪いものを覚え始めていた。 白く揃えられた街並が灰色に沈み、行けども行けども似たような四角い建物ばかりで、人の気配はない。 この街――と言ってよければ――のあらゆる角には大きめのビジョンがが設置されている。そこには現在地の説明や連絡バスの運行状況、また特定の所員に対する連絡事項、緊急通達などが映し出され、またちょっとした検索などを行うことも可能な端末の役割も果たしている。 常であるならばそのビジョンが移動の大切な目印になっているのであったが、電源が落ちた今、それに頼るすべもないのだ。画面はいずれも暗く沈黙している。 時折、おそらくは警備の人間だろうが足音が響いて、建物の影に身をひそめた英二の体を強ばらせる。気をせき立てるようなあわただしい足音はあちこちからしていたが、ひと声もしない。 追い立てられる。せき立てられる。意味もなく気ばかり焦る。 どれほど走ろうとも、同じような建物、視界を奪う薄明かり。 何もかも同じに見えるその街角から、人ならぬものがにやにやとのぞき見しているような。 やってくるあの足音は人か人でないものか。自分がいるところはどこで、行こうとしているところは何処なのか。 そもそも何故自分は此処にいて、逃れ続けなければならないのか。 灰色のキューブの街並み、薄い灯りと、闇にぼやけて天高くそびえる不気味な塔。 その現実感の無さが眩暈を誘う。 取り込まれまいと英二は大きく息をついて、オーディンズタワーを見上げる。 今は闇に浸され、その輪郭すらもぼんやりとぼやけてしまっているが、確かに確実に自分はそちらへと近づいてきてしまっているようだ。 どうしたものだろう。 これからどうするべきか。 ここまで街の中をかけずり回って……正確には駆け回らされて、いったいどちらから自分がやってきたものか、探すのも今となっては不可能だ。 だが、桃城と神尾が心配しているだろう。なにより自分がこんな勝手な行動をとってしまっては、彼らにも身の危険が及ぶ。 とにかく今は出来るだけ見つからないようにすることだ。 見つからず、息を潜めて。 この街のマシンセキュリティの精度がどれほどのものかはわからないが、異分子が紛れ込むのを徹底して嫌ってはいるようだし、あまりなめてかかるわけにもいかないだろう。 とにかく、今は一刻も早くこの街から逃れでなければ。 どういう理由か判らないが、街の中は全て電気が落ちている。だから自分が紛れ込んでも、すぐに居場所が知られることもないのだろう。 桃城達と合流して、できればもと来たところに、というのは英二にしてもやまやまだったが、そうそう多くは望めまい。とにかく、少なくともこの白い不気味な区画から外に出れば、まだやりようはある。 ここは、場所が悪い。 『彼』に――近すぎる。 そう思って、英二はぶるりと頭を振った。 もう英二の体を乗っ取ろうとする狡猾な意志の存在は感じられない。ひょっとしたら今も、英二の喉元あたりで息をひそめて薄笑っているのかもしれなかったが。 しかし英二自身は、決してこのような後先考えない行動をとりたかったわけではない。桃城たちのこともあるし、いかに策を弄しても現時点で出来ることと出来ないことがある。 なによりこんなうかつな近づきかたをして、肝心の『彼』のところに近づく前に殺されてしまうわけにはいかなかったからだ。 自分は必ず生きて『彼』に会わねばならない。 生きて。 そうして、必ず『彼』に。 ――最期まで、いっしょに。 その誓いを果たすために。 とにかく何としてでも桃城たちの処へ戻らなければ、と英二がそっと建物の影から顔を出したとき、また複数の足音が響いた。物陰からちらりと見た服装からすると、やはりセキュリティの人間のようだ。 あわててまた建物の影に引っ込んだものの、今度は違う方向から人の足音がする。 よく足音が響くせいで、どちらに隠れればいいのかわからない。今英二がいるのは建物の間の比較的狭い道筋であったが、見通しは決して悪くないはずなのだ。 英二はあわててまたもうひとつ奥の、どこもかしこも同じように見える建物の狭間に入り込もうとしたが、足音はまた別の方向から聞こえてくるような気がする。 たぶん、この沈黙にしずんだ街の中を警備に回る人間も少なくないのだろう。それならば近づいてくる足音も、一方向だけとは限るまい。 英二は冷や汗をかきながら懐の、例の小さな銃を握りしめた。 しかし「万が一」の時に持たされただけのことであって、予備の弾倉も何もない。ましてここで不用意に発砲して、自分の存在を知らしめるだけのことになってもよい事態にはならない。 どうするか、と英二が唇を噛んだときである。 不意に何かがぱっと明るく点滅したので、英二はぎくりとしてそちらを見やった。 それは、この「小都市」の中に幾つもあるビジョンのひとつのようだった。突然の停電に見舞われ、帝都中心部からの非常に頼りない灯りだけでなんとか薄闇程度に落ち着いているこの街の中で、それはあまりに唐突で英二の心臓を跳ねさせた。 ビジョンはぱっ、ぱっ、と幾度か明滅したかと思うと、不意に赤い矢印を浮かび上がらせた。 「……?」 英二が警戒を解かずにそのビジョンを睨みつけていると、矢印はじれったそうに幾度か明滅した。 英二はおそるおそるそのビジョンに近寄り、矢印が指し示した方向を見やる。 薄闇の中で気づかなかったが、そこには細くはあったけれど、うまく建物との間に潜り込んでゆけそうな狭い通路があったのである。 「――」 英二はその通路と、ビジョンの矢印とを見比べていたが、やがて思い切ってその通路へと足を踏みいれる。 英二の姿が闇にまぎれて遠くなったころ――セキュリティの人間がこの地区に異常はないかとやってきたときにはもちろん矢印はとっくに消えており、勝利を確信した画面は、すまして沈黙を保っていたのである。 英二のゆく先々で矢印が現れる。 赤い、赤い色の矢印。 それがまた、仕組まれた何者かの――おそらくは『彼』の意志によるものだと気づきはしたが、英二にはどうすることも出来ない。 矢印に逆らって別の道へ折れようとしても、そこにはもう例の、あわただしい足音が響いていたし、その数はだんだんと増していくようでもある。 また少しずつではあるが、あちこちに予備電源が灯りだして、闇に隠れなければならない英二の居場所はますます少なくなっていく。 走り続けているうちに、さすがの英二も息が上がってきた。だがもうこうなっては闇の中をひたすら走るしかない。とにかく見つかるわけにはいかなかったのだが、英二の進む道はだんだん狭められてゆくようだ。 ――また目の前にあの矢印が現れる。 今度の矢印は斜め上を向いている。どうやらそこにある塀を飛び越えろ、ということらしい。 英二はもうふらふらになりながら、その20メートル近い高さの白い塀に向かってジャンプした。 英二の体はふわりと浮き、また重力に僅かに逆らいながら落ちてゆく。 膝をついた場所は固いコンクリートだかなんだかの、整然と舗装された地面である。帝都に来てから妙に足が疲れると思っていたが、そう言えば剥き出しの地面を見たことがない。これだけ固い場所を走り続ければ疲れるはずだ。 降りたところはこれまた何かの建物の影だったが、英二はそこでしばらくうずくまったまま立てないでいた。 さすがにもう走れない。 いま見つかればもう逃げられないだろう。 とにかく、体力を少しでも回復したい。 ほんの僅かでいい、休める場所を、とはいずるように動き出した英二は、すぐにぎくりとなって体を強ばらせた。 すぐ近くに人影が見えたからだ。 しかもこの距離で、英二のことが見えないはずはない。確実に発見されてしまっている。 しまった、と英二が体を無理矢理起こし、身構えたときだった。 「なんで、あんたがいるの」 声は思ったより幼かった。 少年の声。 まだ声変わりにも届かぬ、10代前半ぐらいの。 英二も息を呑んだが、相手も相当驚いたことだろう。 ぽかんとして英二を見おろし、ようやくともりだした非常用の予備照明に背後から照らされながら。 その小柄な――ほっそりした少年の姿をした人ならぬ生き物。印象的な目を見開いて、英二を見おろす彼は言う。 「どうして、あんたが」 その目には見覚えがある。 その顔には。 ふっくらした唇と、子供の幼さを残す顔つき。つり上がり気味の、時折金色に輝くその双眸。 英二は――英二も、その顔に確かに見覚えがあった。 あの日、確かに『彼』が呟いた言葉。 終焉の使者の名。 決して忘れたことのないその名を、英二は半ば呆然として口にしていた。 「――『ロキ』」 |
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