オーディンズタワー――古代の神の名を冠したその白銀の塔。 天に向かうほどゆるやかに細く、繊細なクリスタルのカラフェに似たシルエットを持つ、帝都最大の研究機関。 惜しげもなくライトアップされ、遠目からのロマンチックな外観とはほど遠いほど機械に埋め尽くされた人工の城。 帝都の技術の粋と、決して白日の下にさらされるわけにはいかぬおそるべき秘密とが詰め込まれたその白銀の巨城が、何者かの侵入と暴虐を防ぎきれず、自ら闇の手に落ちる――その少し前のことである。 「どこまで近づけるんだ?」 小さく聞いた桃城に、神尾は少し黙って考え込んでいるようだった。 その視線はあやまたず白銀の城――中央研究所の核たる「オーディンズタワー」を睨みつけている。 神尾も、もちろん桃城ももと研究所所属の人間であったから、そのタワーにも当然出入りした経験がある。ただそれはあくまで『ラグナロク』前のことであって、あの災厄を経た後にこの建物の内情、セキュリティなどがどう変化しているかは、桃城の知識にないのだ。 「俺だってそうは詳しくないんだけどな」 神尾はあとから黙々とついてくる英二を気にしてやりながら、小さく答えた。 先刻よりもずいぶん近くにやってきていた。遠くから眺める、と言うよりはもう見上げなければならないような巨大なタワーを睨みつける。他の家族連れやカップルにまじって、いかにもその幻想的な展望を楽しんでいるのだというふりを装いながら。 「たぶんそれでも……もう少しいけるだろう。うん、たぶんな」 周囲はまだ商業施設が多い。この美しくライトアップされた白銀の建物が眺望の彩りになっていることを売りにしたレストランやバーなどが立ち並んでいる。 しかしそこからもう少し奥へ行けば、突然ものものしい金網が張り巡らされた光景が出現する。その向こうには白い高い壁。そうしてさらに、さまざまな手続きやカードや指紋照合などを要するいくつかのゲートをくぐって、ようやく研究施設に入ることが出来るのである。 「相変わらずマシンセキュリティだけか」 「人間が配置されているところも増えてるぞ。柳のヤロウにしちゃ珍しい」 神尾は皮肉げに言って肩を竦めた。 どうやら、彼の話によればその『柳』――中央研究所所長柳蓮二博士は、とかく人よりも機械の正確さを好む傾向にあるという。 必ずいずれかに傾倒する「感情」というものがなく、それに判断を邪魔されることもない。グレイゾーンは存在せず、ただ白か黒かと言うだけ。 1と0。有か無。YESかNO。 実に判りやすく、明快で、ロジカルだと言う。 いろんな意味で人情味あふれる桃城などにしてみれば、そういう思考もさることながら、そうと本気で思ってしまっている人間の存在自体が初めは信じられなかった。 その柳の「ロジカル」な判断のもとに命を狙われる羽目になり、逃れついた先にも似たような性格の男が存在していることに、最初は驚いたものだ。 確かに彼の思考の正確さ、またいろんな意味での才能などには舌を巻くが、どうも好きにはなれない。これから先もそうだろう。 柳蓮二のこともそうであったように。 あの幼い、痛々しいほど小さかったドールをそれは愛して育てているあいだに幾度も面会はしたが、結局は彼にはひとかけらの好意も抱けなかったままだからだ。 「乾サンはなんか言ってたのか」 神尾から、たったいま思い比べていた人間の片割れの名が出たので、桃城は少し驚いたが直ぐに答えた。 「とりあえず乾さんとタカさんが調べてきたルートだと、西方面の……ええと、そうだ、何か食料専門の入口があるんだって? 帝都の外から仕入れてくるヤツ」 「ああ、そう言えば近いな。このへん、あのタワー見ながら食事、っていうのが謳い文句のレストランが多いから、中央の供給所だけじゃ事足りないんじゃねえかな。それがどうした?」 「一日何度か入ってくるうちの、ちょうど今ぐらいの……暗くなったぐらいが一番搬入量が多いらしいんだよ。そのどさくさにまぎれたら金網近くにまで近づいても少々は咎められずにいられるんじゃないか」 「そうかあ?」 神尾は首を傾げた。 「でも、そんなことあっちもちゃんと考えに入れてると思うぜ。そういう、帝都外からの流入に関しちゃ一番神経尖らせるところだろうと思うしな」 と、半信半疑だったのだが――。 実際、桃城と神尾があれこれと探し、頭をつき合わせて地図を確認し、ようやく辿り着いたそこは確かにずいぶんと雑多に人々が行き来し、桃城達には有り難いような賑やかさであった。 そこで作業している人間はすべて帝都の住人のようで、胸に許可証を兼ねたIDカードを下げ、あれこれと走り回っている。しかし金網で囲まれたそこは「立入禁止」の文字が大きく看板として掲げられているだけで、特に侵入者を防ぐトラップなどはないようであった。 これならば少しばかりかいくぐってゆけば、少なくともその雑踏の中への侵入程度は果たせそうである。 「いける?」 「いく」 神尾の簡単な問いかけと桃城の簡潔な応えで、彼らの行動は決定された。 帝都にしてみればその向こうの研究所への侵入こそは阻まなければならないのだろうが、この程度の物資の搬入場ならばさほど目くじらをたてているわけではなさそうだった。 桃城の指示――正確には英二の指示で、監視カメラの死角を見つけだして金網を乗り越えたとき、神尾はひゅうと口笛を吹いて見せたものだ。 それはもちろん研究所の中へ侵入したわけではないから、この程度のことでいちいち喜んではいられなかったが、それでもその手際はよく、10秒にも満たない時間であった。 「ずいぶんこっちの腕はあげたんじゃねえの、桃城。乾サンのとこにいると、そうなるのかね。あのひとけっこうやり手って聞くけどな」 それに、桃城は曖昧に笑って頷いただけであった。ついでにそのへんに放ってあった作業員の帽子をちょっと拝借すると、神尾に渡し、英二には被せてやる。 大丈夫ですか、と小声で聞けば、英二はまた黙って頷くばかりであった。 三人してそのあたりにつんであった木箱を抱え上げ、いかにも作業員を装って歩き出す。作業員、というには英二は少し幼すぎたかも知れないが、そんなことにいちいち目を止めるほどこの現場の人間達は暇ではないらしく、桃城と神尾が間に挟んで歩いているだけでも十分のようだった。 作業者達にまぎれ、その白きタワーをそろそろと伺い見ながらも、桃城は傍らの英二のことが気になって仕方がない。 (どうするんだろう――このひとは) 小柄な彼はその姿だけでなんとも痛々しく見えてしまう。 桃城がそういう、小さい仔猫のような生き物にはまた格別の愛情と憐憫とを覚えるたちであるせいもあったろう。が、どれほど特殊な能力を備えているとは言っても菊丸英二が乾のいう通りに銃を携えて駆け回り、時に酷く負傷し、またこんな危険なことをやらされている事そのものに、桃城は酷く怒りに似たものを覚え続けている。 もちろん自分も乾の駒のひとつであるに違いないが、それでも彼にとって有能な駒である間は乾は自分を生かしておき、その安全にも注意を払うことぐらいはしていてくれるだろう。 自分はそれでいい。よく納得している。 結局、自分ひとりではなにもできないのがよくわかっているからだ。 どれほど憤ってみたところで、帝都には――その上層部にのさばり続ける妖怪じみた老人どもには、傷ひとつ付けられないのだ。 それならばせめて、少しでも深く彼らの懐に入り込んでゆける道を探すべきだという結論に辿り着いた。 桃城はただ、仇をうちたいのかも知れない。 己の両親と幼い弟妹を焼いた「シグルド」と、そもそもそれを生み出した醜い欲の権化たちに対して。 そうして、それらを生み出すことに何の疑問もなく手を貸していた己自身も含めて。 そういうわけで桃城の心は、何の迷いもなく、いっそすっきりとさだまっていると言ってもよかったのだが、しかし英二はどうなのだろう。 桃城が英二と「シグルド」とのかかわりに関して知っていることといえば、先述の通りだ。「シグルド」の気に入りであり、ラグナロクの間は人も来ぬ荒野の建築物に軟禁されて、「シグルド」が軍に確保されたときに、彼ひとりが逃れでた。 そこを乾達に保護された、と言う、それだけである。 彼が、シグルドを憎んでいるかそうでないかさえ桃城は知らない。 二年間ともに暮らした相手の傍近くにゆくことに、何か胸中複雑な想いがないでもなかろうに、と桃城は再び、傍らの英二を見おろした。 だが。 「英二センパイ。……英二センパイ?」 桃城は慌てて周囲を見回す。 確かに今までそこにいて、如何にも手伝いなのだというように、大きな木箱を抱えていた英二の姿が何処にもない。 「どうした桃城」 「センパイがいない」 「なんだって?」 神尾も不審に思われない程度に周囲を見回す。 人々はあわただしく行き交っている。キャリーの軋む音やコンテナの扉が開け閉めされる音、飛び交う怒声に近い叫び声、それらのただ中にあって。 たった今まで横を歩いていたはずの、小さな人影がない。 「センパイ、英二センパイっ」 「おい、なんでだよ。たった今までいたじゃんかっ」 神尾もあせる。 「わかんねえよ、英二センパイっ?」 そのあたりを見回し、目立たない程度に呼ばわってみるがもちろん返事はない。それらしい騒ぎも持ち上がらなかったから、特に目立って捕まったとか言うことはないのだろう。 しかし、こんな場所ではぐれるのは危険だ。 焦って周囲を見回す桃城たちを、さらに厄介な事態が襲う。 「おまえら、何処の所属だ。それどこの荷物?」 ふいに声がかけられたのだ。 桃城達がぎくりとして振り向くと、そこには中年の、あきらかに作業員ではない男がいた。服装から言ってセキュリティ関係の人間のようだ。不審者が入ってこないようにチエックする役割の男なのだろう。 別に彼とて特段桃城たちに何かあやしい動きがあって目を止めたというわけではなく、毎日の仕事の一端であったのである。彼はこうして時折声をかけ、荷物の滞りがないかを確認しがてら、不審人物がまぎれこんでいないかをチェックする為の人間なのだ。 しかし不意をつかれた桃城と神尾は、とっさのことで言葉が出ない。 その様子に、何気なく細いペンタブレットで手元の端末を叩いていた男も、不審そうに顔をあげる。 「なんだ?――おい、所属と認識番号と、荷物名だけ答えてくれりゃいいんだよ。いつもしてるだろ」 もちろん、そんな所属だの番号だのなど知らぬふたりは答えようがない。顔色の変わったふたりを見た瞬間、男のそれまでのつまらなさそうな表情がさっと引き締まった。 「おい、おまえら……」 桃城と神尾の背中を、一筋の冷たい汗が流れた――まさにそのときである。 ふいに、彼らの周囲がかげった。 それなりの夜間照明があったにも関わらず、いきなり周囲の視界が奪われたような感覚に陥る。 彼らの手元を明るく照らしていた白き巨塔――輝かしく照らされ、不夜城の如く誇らしげに輝いていたオーディンズタワーが突如として闇へと呑まれたのだ、ということに気づくには、もう少し時間が必要であった。 そのころ。 いや、そのほんの僅か前であったか。 桃城と神尾に挟まれ、白いタワーと、それに少しでも近づける位置とを探していた英二は、作業員達が行き交うその向こうに、それを見つけた。 そこはいくつかの端末機器が置いてあるちょっとした事務手続きのためのような場所で、男達が何かカードを差し出しては受け取り、また端末の画面で何かを確認しては去っていくということが繰り返されている。 20台近くある機械のうちのひとつから、男がカードを差し込み、何かを確認して去っていく作業を終えて退いた。 小さな、小さな家庭用端末機器のモニタと変わらぬぐらいの大きさの画面であったが、そこに英二は見たのである。 E。 I。 J。 I。 また、あの文字。 あの赤い文字だ。 しかし、その瞬間に現れた文字はもう狂奔したように踊り狂ってはいなかったし、実に静かに落ち着いて――そう、ある意味、非常に理性的(!)に、英二に向かって例の点滅を繰り返している。 ――英二。 ――英二、おいで。 そんな声が聞こえたのは気のせいだったか。 ――ここだよ。 ――だから、おいで。早く。 ――ここだよ。……こっちだよ。 その声もあるいは気の迷いだったのか。 だが英二の足は、呼ばれるままに動いていた。 ここでこんなことをしてはいけない、という考えが浮かんだが、何故か体が引きずられるようにそちらへ向かう。 英二の体はごく静かに――そう、桃城たちに気づかれぬほどごく静かに彼らのそばを離れ、そのまま人混みにまぎれてゆっくりと歩き出した。 (俺――俺、いったい何、やって……) 英二は自分のとった行動に驚いて、何とか足を引き戻そうと試みる。だが、まるで誰かが英二の体の運動機能だけを乗っ取ったかのように、英二自身の意志ではそれはどうにもならない。 (駄目だ、こんなことしてたら、桃達が危なくなる) (違う、こんなことしちゃいけない。ここからタワーに近づくなんて、まだ時期尚早だ) (でも) (でも……ああ、なんで) 何故、体が言うことを聞かないのか。 ――いい子。 ――英二は、いい子。 目を細めて、何者かが満足げに笑ったようだった。 ――はやく、おいで。 英二は次の瞬間かけだしていた。 正確には英二の意志をおいて体だけが。 小柄な少年が突然飛び出、行き交う人々の間を縫うようにタワーの方向へ走り出したとき、さすがにそれを見とがめた何人かがいた筈だったが、それでも誰一人、英二を止められる者はいない。 計ったように堕ち来た闇に阻まれて。 |
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