英二を助け起こしたのは――大石秀一郎だった。
 どこをどうしたのか。いったいどうやって彼はあの、研究所の奥の奥、ひたすらに秘匿された場所からここへやってきたというのだろう。
 英二の頬にはざらりとした感触があたった。編み目の粗い、生成色の大きな布が大石の身体をぐるりと包んでいる。それにひたと抱き寄せられたのだ。
 布にはなにやら不吉な赤黒いしみが大小さまざまに染み付いていた。
 抱き上げられた姿勢から英二が首を巡らせてみると、その赤黒いしみは新たに、彼の身体を包む布の裾からじわじわと染まってゆくのに気づいた。
「大石、血……」
 最初はこの青年が怪我でもしたのか、と思ったが、そうではなかったようだ。
 床にどろりとたまった赤い液体が、彼の衣を染め変えているのだ。しかし大石はそんなことには頓着なく、布をふわりと翻らせるとそのまま英二を抱いて歩き出した。
 一瞬目の端をかすめた真っ赤な物体のことを、英二は特に疑問に思わなかった。目前に現れた青年の変貌ぶりですっかり動揺していたのだ。
 今の今まで自分を襲っていた男のことを、英二はすっかり忘れて果てていた。彼はどうしたろうか、などと思って、その肉塊に目をこらさなかったのはせめても幸いだったろう。
 己の頸動脈から吹き出した血で白衣を赤く染めた男――頭を握りつぶされた、もっとも信じがたく醜い有様のヒトの残骸をこの部屋に残して、青年は涼やかに微笑しながら部屋を出る。
 彼の顔は、いとしい宝を今まさに盗み出そうとする、その誇りに輝いている。

「大石」
「――」
「大石、ねえ」
 英二は不安になって、幾度も彼の腕の中から呼びかけた。
 サイレンの音は高く高く鳴り続けていて、何故かしら不安な、切羽詰まった空気を伝えてくる。どうしても落ち着いていられないその耳障りな音声を聞きながら、英二は必死に大石を呼ぶ。
「大石、どうしたの、ねえ大石」
 大石は英二を優しく抱きおこし、服を剥がれた彼を寒くないかといたわって布でくるんでくれたが、英二の手錠のことはそのままだ。
 失念しているのか。
 それとも。
 とにかく、後ろ手に戒められその上で布にぐるり巻かれた英二は、ほとんど身動きが取れない状態で、それでも大石に呼びかけた。
「大石。大石、いったいどうしたの、何があったの」
「――」
「勝手に出て叱られない?」
「誰が俺を叱ると言うんだ」
 大石は驚くほど穏やかに、そうして理知的な話し方をした。英二の知る限り、聞いたこともないような。
 姿勢も非常に良く、背筋をぴんとはって歩いてゆく。ぺたぺた、と足音が聞こえた。はだしなのだろう。
「誰もいない」
 大石は、また――笑った。
 優しく。

――サイレンの音が、まだ響いている。

「あの、音――」
「館内の防犯設備のシステムが作動し続けたままなだけだ。停止させる人間がいないから鳴り続けている」
 そう言いながら大石は、英二の気に入りの――例のマジックミラーが嵌められた、中庭に面した渡り廊下へとさしかかった。
 外は暗い。
 中庭のライトは皓々と照っていたが、空はやはり今にもしたたり落ちそうな、腐った闇の血の色だ。
 その、とき。
「いたぞ!」
「おい、D2も一緒だぞ、処分したんじゃなかったのか」
 男達の慌てたような声がした。しかもすぐ近くでだ。
 英二は慌てて首を巡らせたが、同時に何かが破裂するような音が聞こえた。
 それも続けざまに、2回。
 そして3回。
 破裂音はすぐに治まったが、英二がこわごわと目をあけたときにはもう誰もいなかった。
 ただ――その、廊下は。
 嫌味なくらいに清潔にされ、まるでそのひと色しか知らぬのだと言うくらい真っ白に保たれていたその壁、床、天井は、全てどろりとした赤黒い色に染め付けられていたのだった。

――ああ。
――ああ、サイレンの音が。

「うるさい」
 大石が小さく言った。
「まだ残っていたとは思わなかったな」
 そう言いながら、彼は、一瞬で色の変わった廊下を歩いてゆく。ぴちゃぴちゃと不思議な足音がした。
 大石の目的はその少し奥の、なにやら秘密めかした部屋のようだった。
 英二も幾度か見たことがある。なにやらご大層なセキュリティカードと、複雑な数字の組み合わせがなけれぱ入れない場所だ。
 カードスロット、その上に数字のテンキー、そしてなにやらの液晶画面がある。
 大石がひと睨みすると、カードスロットはひとりでにグリーンランプを点滅させ、液晶画面は複雑な波形や数字記号の羅列を繰り返したかと思うと、彼の入室を許可した。
 大石は手も触れていない。
「英二。そこで待っていて」
 コンピュータのサーバルームのひとつらしいその部屋に入ると、大石は英二を壁にもたれさせる形でそっと床に置いた。
 英二は言葉もなく従うしかない。
 明滅するランプ、様々な画面とキーボード、無数の配線、壁一面の銀色のコンピュータ。
「此処で最後だ。だから、もう少し」
 そう言いながら大石はばさりと彼の身体を覆う布を落とした。
 布一枚の下、彼は全裸だった。
 背を向けたその姿に、しかし英二は違和感を感じて息を飲む。
――傷がない。
 あのプレートも。
 大石の身体中に無数につけられたプレート、切り開いてまた縫い合わせた傷。それがただのひとつも。
 いや。
 プレートは残っている。
 左肩のうしろ、背中から見る心臓の位置に。
 しかしたったひとつ。
 たった一枚、ひとつだけ残されているだけだ。それは他に比べればなんということもない小さなプレートで、大石も失念してしまっているのではないかと思うくらいのものだった。よく目を凝らして見なければ判らない程度の大きさだったし、英二もそこに在る、ということを前もって知っていなければ見逃してしまっていただろう。
 ただその他は綺麗なもので、なめらかな、少し美しすぎる青年の背中に過ぎない。
「要領は判ったからすぐに済む。そんなに待たせない」
 大石はまた英二に微笑んだ。
 振り返ったとき、大石の両の腕にも大きめのプレートが残されているのに気づいた。
大石は英二に背を向けると、そのまま両腕をたかだかと差し上げる。
 まるで何かに祈るような仕草に見えなくもなかったが、部屋の中の様子が一変したのに気づいて、英二はぎょっとした。
 動いている。
 蠢いている。
 機械同志を繋ぐケーブル、ありとあらゆるコード、目に見えるもの全てが、うねうねといやらしい蠕動をくりかえしている。
 何かに期待する蛇の群、節足動物の不気味な足の揺らめき、それとも男に媚びる女の身体。
 モニターのあらゆる画面が、激しい明滅を繰り返し始める。
 意味もなにもあったものではない記号を、はてはただ1と0の数列を、垂れ流し始める。
 大石は動かない。
 やがて、コンピュータの方がたまらなくなったのだろう、男をねだる女の舌のように、機械の隙間隙間から、コードの嫌らしい腕を伸ばし始めた。
 何十。
 何百。
 何千。
 いや、何万の、命在るコードの群れが大石に向かっていく。
「大石」
 英二は不安になって呼んだが、大石は背を向けていてその表情は伺えない。
 やってきた蛇のようなコードの群れが彼の腕に絡んだが、しかし次の一瞬には白い火花を上げ、悲鳴のようなばちばちという音を立てて黒こげになる。
 命を失ったコードの束を乗り越えてまた次の束が。同じようにして断末魔の白い火花を上げ、そうしてまた次が。
 呆然と見ている内に、英二は気づいた。
 彼らは、コードの群れは大石の両腕のプレートに触れようとやってきているのだ。
 そうして触れて、あのように火花を上げて、歓喜の内に死を迎える。灼ききられるのだ。
 まとわりつくコードも全てが灼かれ、黒こげになるころには、機械のモニターも忙しい明滅をやめ、しんと静まりかえっていた。
 機械特有の小さな振動音すらない。
 この部屋の機械は、死んでしまったのだろう。
「これでいい。全部取り込んだ。もう要らない」
 大石はおもむろにそう言うと、まず右手で左手のプレートに指をかけた。肌に深く食い込み、埋め込まれている筈のそれを、なんの躊躇もなく引き剥がす。
 もちろん皮膚と言わず、その下の肉も、けっこう太いはずの血管すらもひと息に剥がされた筈なのだが、血が吹き出たのは一瞬で、次にはもう美しく張った皮膚がその上を覆っていた。
 そうして、右も。
 英二は皮膚を引き剥がす痛みを想像して首を竦めたが、おそるおそる顔を伸ばす頃にはそれは終わっており、大石の両腕には何の傷も残っていなかった。彼がコードの黒こげの死体の群れの上に残していったプレートには、ぞっとするような生々しい肉片がこびりついていたのだが、元通りに布をまとい英二に近づいてきて彼をだきあげた大石の腕は、綺麗に筋肉のついた逞しい、形良い青年のものでしかない。
「大石」
 英二が不安そうに問いかける。
 これは確かに、大石なのに。
 あの幼い獣のように荒々しい、そして子供のように不器用な、あの大石なのに。
 大石はまたも優しく微笑んで、英二をぎゅっと抱きしめた。
「これで大丈夫。全部取り込めた」
「――」
「もう、あの何も知らない俺じゃない、英二。俺は何でも知ってる」
 その唇は微笑む。
 彼が取り込んだ何かの中に、笑みを造るような情報でもあったのか。
「それでもそろそろ特殊部隊が来るだろう。ここは、扱っているものがものだけに、なにか異変があればすぐに自動で連絡が行くようになっている。ここからの距離は5.192q。到着時刻は……そうだな、警報の始動から計算すれば、いまから16秒後ということになる」
 大石はそう言うと、やや足早に英二を連れて部屋を出る。
 もう邪魔するものはいなかったが、中庭に出た時点で、英二に目を閉じるように言った。
 英二は理由を聞き返すこともなく、大人しくそのようにする。
 次の瞬間、ふっと一瞬からだが浮いた気がしたが、たぶんそのまま気が遠くなっていたのだろう。
 英二、と呼ばれて再び目をあけた時には、英二の視界一杯に優しく微笑む彼の顔が映る。
 優しい顔。
 優しい笑顔。
 笑うことを知らなかったの彼の――ほほえみ。
 闇にとけそうな黒い目が、慈愛をこめて英二を見つめていた。
 ひゅう、と言う風の音がいやに耳に付く。そのとき、英二はあのサイレンの音にも気づいた。
「――まだ……鳴ってる」
「ん?」
「あの、音」
 大石はしばらく考え込んでいたが、それに思い当たったのだろう、ああ、というふうに薄い唇を笑ませた。
「見てごらん、英二」
 英二を抱えていて手の使えない大石は、軽く顎を動かして足下をしめす。英二がそれを覗きこんでも落とさないから、と言うように英二の身体を改めて抱きかかえた。
 英二が彼に言われるまま、足下に視線を落とす。
 足下は真っ暗な闇だったが、何か小さな火のようなものがちかちかし、サイレンの音はそのあたりから微かに風にのってやってくるのだ。
 少し違和感を感じて英二はよくよく足下を見つめた。
 すると闇の中に、点々とした光る砂粒のようなものがある。
 光る砂粒は街の灯であり、英二は大石がなにやら非常に高い建物の上に佇んでいるのだと気づいたのは、もうしばらくしてからだった。
 どうやら、何かの電波塔の上らしい。
 ひょうひょうと鳴り続ける風も、よほど高い位置にいるせいなのだろう。
「あれはなんだか判るか」
「――」
「あの火。燃えているところが何か」
 大石は面白そうに問いかけた。
「俺達がいたところだ、英二。政府の生体兵器研究所――表向きはなにやらの薬品開発機構の一部門だった」
「……燃えてる……火事なの?」
「燃やしてきた」
 大石はおそろしく優しく言った。
 ライトアップされたその鉄塔の上から、まるで彼こそが帝王であるかのように、闇の下界を見おろしながら。
「何人か潰し損なったのがいたかもしれないけれど、あれで皆いなくなっただろう。大丈夫だ、英二。お前を虐めた奴はみんな殺した」
 大石は、さも愛しそうに英二の顔に頬をすりつけてきたが、英二はまだ呆然と彼を見上げているだけだった。
「英二」
 そんな英二を見おろす大石の目が、すうと細められた。
 初めて見る――あの幼い、獣のようなあの大石でさえ見せたことのない、冷たい理知的な目。
 氷のような美しい黒瞳。
「お前の同胞は、俺を殺しに来るだろう」
 闇。この世で一番深い闇のような。
「己で創り出したはずの俺の力を恐れ、そうして俺の息の根を止めようとする。――俺が逃れ出たことは、もうとっくに帝国の中央に届いているはずだ。彼らは全力をあげて俺を『処分』しにくる」
「――」
「俺からお前を奪いに来る」
 目を見開いたままの英二の頬を唇でたどり、やがて震える英二のそれに重なる。呼吸ごと食らいつくそうというような、甘い、深い口づけ。
 でも、彼はこんな接吻の仕方を知っていただろうか?
 どれほど英二をひどく抱いても、彼の唇が英二の頬や額に触れるとき、彼はいつも初な少年のようにおののいてさえいたのに。
「でも大丈夫、英二。――俺は、俺の力を押さえつけてきたものから解放された。俺を止めるものは誰もいない。俺にかなうものは誰もいない」
 英二の唇から熱い吐息が引き出せて、大石は満足そうにまた笑った。
 自分の所有物、己の美しい恋人を誇る男の笑いだ。
 初めて見る、残虐な征服者の微笑でもある。
「おまえは、この世界で最後の『人間』になれ」
「――」
「俺がお前の同胞にする復讐。ヒトの受ける災厄を、見届ける役割をやる」
「――」
「俺を創り出し、理不尽に消そうとし、お前を踏みにじろうとした帝国に、俺の手による滅びを」
「――……大石」
「この国を焼き尽くしたら、その跡に花の種をまいてあげようと思っている、英二」
「大石」
「英二は綺麗な花園の中で、暮らすんだ」
「――」
「英二のために、ここを花の国にしてあげる」
 そう繰り返す大石に、微かにあの幼さが見えた。
 乱暴ではあるけれど、ひたすら英二を慕う彼の面影が。
 いじらしいあの彼の表情のようなものが垣間見えて、やはり彼は大石秀一郎なのだと、今更英二は思い知る。
「知っているか、英二。空の色は本当は青い」
「――」
「この国を灼いたら、見せてあげられる」
 その手の力が悲しかった。
 彼のほほえみも、その優しい言葉も。
 彼の体に巻き付けた布から未だ立ち上る濃い血の匂いも。
 遠く遠くの、サイレンの音も。

「……どこか痛いか? 英二」
「ちがう」
「じゃあ、どうして」
 大石は心底不思議そうに尋ねる。
「どうして、そんなふうに泣いている」
 本当に英二の泣いている理由が判らないようだった。
 虐殺と、花園の夢。
 あまりにかけ離れたそのふたつは、けれど大石の中ではきっと綺麗に、なんの問題もなくおさまっている。
 そのふたつは、ともに英二に捧げられる。彼は――大石は、その為に力をふるうだろう。
 あの研究所で、あまりのことに呆然として見過ごしてきたけれど、連れ出される英二の目の端々に映ったのは、潰れたりひしゃげたり、あるいはばらばらになっていたけれど、確かに人の残骸であったのだ。
 同じことを、すると言う。
 この国全てで、同じように振る舞うという。
 それがどれほど途方もないことで、どれほど恐ろしいことか。
 彼には判っていないのだ。
 嗚呼、と英二はまた涙をこぼした。
 彼は、やはり、まだあのままだ。
 幼いままの彼でしかない。
 英二への愛と、そうしてそれを奪うものへの憎しみ。
 それだけが彼を構成する。
「どうして」
 英二は大石の胸に顔を押し当てながら、黙って泣く。
 大石は困惑し心配そうに聞いてきた。彼の身体に巻き付いた布が風に煽らればさりと翻るたび、隠しようのない血の香りが匂い立つ。
「その顔は好きじゃない、英二。俺の、好きな顔をして」
「――」
「オレンジジュースがないと駄目か? クッキーがないから?」
「違う」
「まだ読みたい本があった? でもこれからは俺が何でも教えてあげるから、英二」
「違うよ、大石」
「じゃあ、どうして」
「――」
「英二、俺の好きな顔をして」
「――」
「笑ってみせて」
 このまま大石の手を逃れ、恐ろしいほど高い位置にあるこの場所から、身を躍らせたくなる。自分が砕けてしまえば、大石はそんなことを考えなくなるだろうか。
 そう思いもしたのだが、大石の腕は強靱で、まして未だに手錠の戒めから逃れられていない英二にはとうてい無理な話だった。
 だから彼には泣き続けるしかなかったのだ。

 やがて電波塔に佇む謎の影は、ふいと闇の中に姿を消した。
 翻る布の具合で、地上から見上げればそれは巨大な鳥のように見えたか。
 あるいは、有翼の魔物であったか。
 そのふところにいだかれ、闇の中に連れ去られてゆく少年が地上へと帰るのは――はからずもこのとき願ったように、「堕ちて」ゆくのは、これより二年も後のこと。
 そうしてその二年ものあいだ、世界は滅びの炎の中で灼かれ続け、身もだえ続けることになる。

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