『現状維持のまま待機せよ』。

『現状維持のまま待機せよ』
『現状維持のまま待機せよ』
『現状維持のまま待機――』
 何度見直しても同じ。
 何度見ても同じだ。
『現状維持のまま待機せよ』
 モニターには、冷たくそんな文字が映し出されるばかりで、英二の訴えになど耳を貸そうともしない。
 もうこれでどれくらいになるのだろう。
 英二はあれから、この部屋にずっと閉じ込められたままだ。


 食事も自動供給、生活必需品もなにがしかのラインを通って勝手に部屋のボックスに入れられるだけである。英二はあれから、大石はおろか研究所員の顔すら見ていない。
 なにかこちらから訴えかけられぬかと、ドアの向こうに呼びかけた。
 監視カメラに向かって叫び、それも聞き届けられぬとなると、無反応な機械を腹立ち紛れにばんばんと両手で叩いてみたりさえしたのだ。
 精密機器だからと言われていたのもお構いなしだ。壊れようと知ったことか。
 もしも機械が誤動作をすれば、メンテナンスの係が顔色を変えてすっとんでくるだろうから、少しでも大石秀一郎に関する情報を聞き出そうと思っていたりもしたのだが、端末は存外に丈夫だった。
 機械などにあまり縁のない「下町育ちの粗暴な人間」が扱うのだからと、ソフトもハードもそれなりのプロテクトがされているのだろう。
 考えてみれば、英二がこの部屋から何らかの意思表示が出来るのは、身の回りの品々の要求の時だけだった。それも数字を打ち込むだけで、なんの血の通ったやりとりもない。
 それでも今までは週末に大石秀一郎の部屋へ訪れるという習慣があったから、英二はここで、自分の立場――本当にあらゆる意味で孤立しているという事態を、自覚はしているにせよ、あらためて思い知る必要はなかったのかしれない。
 大石秀一郎に会うから。
 彼と話が出来るから。
 英二を抱く手つきは幼く獣じみて乱暴でも、英二を大事にしてくれようとする彼の心に偽りはない。
 高い知性と、制御しきれない幼さを見せる彼を、素直にいとしいと思う。
 英二と大石は、この白い冷たい建物の中で、たったふたりの同族のようなものだ。もしかすると大石秀一郎の考えはまた違うかもしれなかったが、少なくとも英二はそう思っていた。
 英二の言葉を聞くのは大石だけで、また大石の言葉も、英二にしか聞き取れないのだ。
 もともと、ここでは英二の意見、大石の言葉など、誰も問題にしないだろう。
 そんなものがあるということさえ、忘れてしまっている節がある。
 だから、英二にはどうしてなのか聞くことが出来ない。
 誰かの口から――どれほど冷酷であっても、人の口から発せられる血の通った肉声をもって、理由を聞くことも出来ない。
 どうして此処から出してもらえないのか。
 彼に会えないのは何故なのか。
 大石秀一郎がいま、どうしているのかも。
 いつも週末は、部屋を出るきっかり30分前に、このコンピュータ端末から機械音声が流れる。
『30分後に移動。準備を開始せよ』
 英二が聞き逃さないように、ご丁寧に数度繰り返して機械音声が流れて、そうしてきっかり30分後に、白衣の男達がやってくる、という仕組みだった。
 しかし、それもない。
 今週も大石のところに行けない。
 今週も。
 先週も。
 その前も。
 なんだかんだでひと月近く、彼の顔を見ていないことになる。
 苦し紛れにタッチパネルを適当に押してみても、どうにもならない。いつも機械音声が流れてくるスピーカーに向かって、どうして出られないのだと叫んでもみたが当然のように徒労に終わる。
 それも、もう何度も繰り返した。
『現状維持のまま待機せよ』。
 その文章が明滅するパネルを眺めることなど、何百、何千と繰り返した。ひょっとしたら、何かこの事態に変化があるかもしれない――そんな期待を、その都度裏切られながら。
 誰もこたえない。
 誰も英二の言葉に応じない。
 英二は、大石の部屋に行けないどころか、この部屋から出ることさえも禁じられてしまっていたのだ。
 最初の週は、それでも大石の具合が悪くなったのかと少し案じてみたりもしたのだが、少し妙なことに気づいた。
 まず、週があけた途端英二の、この部屋からの外出すら禁じられた。
 端末には例の、『現状維持のまま――』の文言がひたすら点滅し、英二はまさにケースの中の実験動物よろしく、四角い入れ物の中で餌を与えられるだけの状態になっていた。もともと、研究所の人間達の英二に対する認識は、最初からそんなものだったのかもしれない。
 それでも実験動物ならまだいい、だいたいにして彼らは、外界から何らかの接触がある。
 しかし、英二にはそれもない。
 気を紛らわせる為に本を取りに、図書室へいくこともできない。もっとも本を取り揃えて部屋に戻ったとしたって、たぶん大石のことが気になって集中が出来ないことぐらいは、英二自身百も承知であったけれど。
 英二はしばらくタッチパネルを睨んでいたが、やがて諦めたのか部屋の隅にある、まるで病院のように銀色のパイプベッドへと寝ころんだ。
 ベッド、書き物のための机、浴室、そして機械端末。
 観葉植物ひとつないこの部屋に、外界との接触がなにひとつないまま閉じこめられ続けているのは、いかな英二といえども相当精神的にまいってくる。

――大石。

 英二は小さく、声に出さないで呟いた。

――大石、今どうしているんだろう。
――会いたい。会いたい。顔が見たい。

 英二がそんなふうにとりとめもなく、けれどただひたすら大石の名前だけを念じつづけていると、ふいに部屋全体が揺れた。
 一度、どん、と言う、振動があったと思うと、今度は続けざまにどん、どん、と揺れる。
 たぶん、英二の部屋どころかこの研究所すべてが同じように揺れているだろう。
 下から突き上げるような――かと思うと、子供が癇癪を起こしたみたいに、がたがたと横に揺さぶられる。
 英二は驚きもしない。
 と、いうよりは、最近になってやたら地震が多いのだ。
 この研究所へ来て半年になるが、地震がこれほど頻発したことなど今までになかった。
 最初の内こそ驚き、出口のないこの部屋で建物ごと崩れたらどうしようと不安に思ったものだが、最近では慣れてきた。
 地震が怖くなくなった、と言うよりも――何故か英二には、これが大石の怒りのように思えて仕方ないのだ。
 もちろんそれにはなんの根拠もない。
 ただ、手も触れずものを動かすことの出来る大石のことや、彼のさまざまな不思議を考えれば、あるいは彼ならそのくらいのことはしてのけるかもしれない、という漠然とした確信があったからかもしれない。
 それに、この地震は、つい最近になっておこりだしたものだ。
 つい最近。
 ここひと月ほど。
 それは、英二が大石の処へ行けなくなった時期と一致している。
 それをただちに結びつけてしまうのは乱暴かも知れなかったが、それでも、英二はどこかで、自分の考えが最後には正しかったと知る日が来る気がしていた。
 地震はいったんはおさまったが、まだなにか怒りのような――不満なことがあるときの大石のうなり声のような、そんな不穏な気配を見せて、建物を軽く軋ませている。
 英二はぼんやりと、けれど今度ははっきりと言葉にして呼んだ。
「大石」
 がたん、と身を震わせるように建物が揺れる。
 机の上のペンスタンドが跳ねた。
「大石」
 再び、揺れる。
「大石、今どうしてるの」
 がたがたがた、と小刻みに。
「会いたい」
 どん、と突き上げるような振動があったかと思うと、今度は今までになく、激しく揺れだした。
 英二はまるで彼に抱かれているときのように、目を閉じて大人しくその振動に揺られるままになっている。どこかで機器のトラブルでもあったのだろうか、あわてふためいたサイレンが微かに聞こえる。
「大石」
 英二はふたたび呟き、振動はそれに応えた。
 その振動に悲しみはない。
 ただ、感じられるのは怒りだけだ。
 呟き続け、そしていつの間にか英二はうとうととまどろみ始めた。
 振動は少し気遣うように部屋を揺らしたが、英二が寝息をたて始めたのに気づいたのか、ぴたりとやんだ。
 そうしてその日はそれきり、二度と地震も起こらなかったのだが。

 その夜のこと。





 しん、と静まりかえった部屋の中で、静寂の中で眠っていた英二の耳に届いたのは、かすかなサイレンの音だった。昼間のことがあるのでまだ何か、地震が続いているのかと思ったが、どうして静かなものだ。
 サイレンの音はまだ鳴っている。
 夢の続きか、それとも自分は少しうとうとしていただけか、と英二が壁の時計のデジタル表示を見れば、もう夜半に近い。
 ずいぶん長く眠っていたことになる。
 とうに夕食時も過ぎている。たいして空腹でもなかったが、そんなことを考えながらちらりと、ドアのとなりの空間を見る。
 そこは、外部から某かを滑り入れることが出来るようになっていて、いつも銀のトレイに何種類かのレトルトパックと、その中身を開ける為の区切られたプレートが決まった時間に機械によって差し込まれるのだ。用が済めば部屋の中にトレイごとダストシュートにまとめて放り込んで、というなんともつまらない、味気ない食事である。
 それでも三度三度きちんと食べられるだけで英二には有り難かったが、どういうわけか今夜は食事が差し込まれた気配がない。
 いつもなら英二が食べようが食べるまいがトレイは、例により一秒たりとも遅れずその場に差し入れられて、英二が片づけるまではいつまでもそこにおいてあったものだが。
 英二は不審に思って、そのがらんとした場を見つめた。
 別に食事が欲しくてたまらないほど空腹ではなかったのだが、それでもこういうことは初めてだった。その、意固地なまでの規則正しさを崩す理由が見つからない。
 英二はふらふらと立ち上がってそこに近づこうとした。
 しかしそこへ辿り着く前に、ドアが突然ひらいた。
 突然、サイレンの音が大きく聞こえ始める。
 驚いた英二が声をあげる前に、そこから入り込んできた人物が、有無を言わさず彼に掴みかかり、床に殴り倒したのだった。
 いきなりのことで、何が起こったかすぐには理解できなかった。
 相手がさらに自分を殴りつけようとするので、英二はとっさに倒れた姿勢ながら足で相手の向こうずねを蹴り上げてやる。
 下町にいた頃も、危ない目にはよくあったのでこの程度の反射神経はあるのだ。男はみっともなく喚きながらも、逃すまいと英二の身体にのしかかってきた。
「何すんだよっ離せっ」
「黙ってろっ」
 襟首を掴み上げられ、数度頬を張られた。
 いくら大石が自分を扱うのに容赦がないとはいえ、それでもこれほどひどく顔をぶたれるようなことだけはなかった。
 最後にもう一度大きく撲たれ、床の上に突き飛ばされる。頭がくらくらとしてひるんだ隙に、男は英二の両手首を後ろ手に捻り上げて手錠をかけた。英二がこれ以上邪魔をしないように、ということか。
 英二は、襟首を掴まれ引きずられるように仰向けにされた。
 見おろしてくるのは白衣の男。この研究所の制服を着、IDカードを胸ポケットにつけた男だ。確かに英二にも見覚えのある顔だから、この研究所の所員なのだろう。
 しかしその所員がこんなことをする理由が判らない。
「暴れんな、このクズがっ」
 足をばたつかせ、何をするのかと抗議の声を上げようとした英二だったが、額の皮膚を抉るようにして押しつけられてた銃口にさすがに口をつぐんだ。
「騒ぐなって言ってんだろ。すぐに殺されたくなきゃ、黙ってろよ」
「――っ……」
 相手がひるんだのを見て取って、男の手が英二のシャツの襟元を力任せに引き開けた。
 英二は男の目的を悟って暴れようとしたが、その前に男は再び銃を脅しに使った。銃口は彼の喉元から突き上げるようにして、不気味な冷たさを肌に伝える。
「小汚い男娼のくせして一人前に嫌がるふりなんかすんな」
 そのねちねちとした言い方に、英二は彼が、いつもなんのかんのと下卑た嫌味を自分に言い続けてきた男だと気づいた。
「お前はもう用済みなんだとよ」
「――」
「好きにして良いから殺しとけってさ。せめて此の世の名残に楽しませてやろうってんだから、ありがたく足開いとけっ」
 銃口が引いたかと思うとまた顔を撲たれ、そうして男は英二のジーンズも引きずり下ろした。
「やめろよ……っ!」
「うるせえっ」
「嫌だ、やめろっ」
 英二はここへ来てはじめて、この研究所の人間に激しく逆らった。
 何を言われてもおとなしくうつむくばかりだった英二の暴れように、男は一瞬ひるんだが、このノラネコが、と忌々しそうに呟いた。
「うるせえってんだろ」
 髪を掴まれて、こんどは続けざまに男の手が閃いた。
 ぐったりとした英二が、今度こそようやく抵抗できなくなったと知って、男はまだ英二を罵倒し続ける。
「あんな化け物になめ回されて突っ込まれてひいひい喜びやがって。誰にでも腰振るようなクズ、同じ空気吸ってるだけでも吐き気がする。俺のような人間に最後に可愛がってもらえるだけでも喜べよ」
 くらくらした頭で、けれどなんとかそれを奮い起こしてこの男を睨みつけようとするのだが、それもままならない。
 それどころか、英二がまだ刃向かう気概があるのだと悟った男からは、さらに数発、今度は拳で殴られた。
「そら、足開け。おまえの好きなモンなんだから、ありがたく銜えろってんだろ」
「いやだ。誰が――」
「男と寝るのは得意なんだろうが」
「おまえとなんか、どんだけ金もらったってごめんだよっ」
 英二は必死に叫んだ。男は、彼らが下等と信じてやまない人間から拒絶されるのが余程思いもかけないことだったのか、これまた鼻白んだ。
 けれども男の立場が英二と比べて有利なのに違いはない。ようやくそのことを思い出して、男はことさら嫌味にせせら笑った。
「よっぽどあの化け物のが良かったのか」
「――」
「心配しなくたって、あいつも用済みだ。ちゃんとした完成品が別にできたんであいつも処分されんだよ。おまえと一緒だよ、よかったな。せいぜいあの世でも腰振ってやれよ」
 その言葉に、今まで朦朧としていた英二の目がはっと見開かれる。
 と、まるでそれを悟ったようにがたがたと建物が揺れた。
 男はち、と舌打ちしたが、揺れがすぐに治まったのでまた根拠のない自信を回復させたようだ。
 サイレンの音はまだ続いている。
「くだらない抵抗しやがって――どのみちプロトタイプなんだから長持ちしやしねえんだ、ちょっとの間でもこんなとこで大事にされたんだから、あいつも幸せだろうしな。せいぜい感謝して死んでくれるよ」
「……大石」
「毎日なんにもしねえで、こういう可愛いのを好き勝手出来て、いいご身分だったじゃねえか。お前も不自由しないでよかったな、ええ?」
「大石」
 呆然と呟いた英二にはかまわず、男は力の抜けた英二の身体をこじ開けにかかった。
「それにしたってずいぶん長持ちしたもんだな」
「……」
「今まで連れてきたのはたいがいひと月ほどで殺しちまいやがって、あの化け物。いい女もけっこういたのに、もったいない話だぜ。結局こんなガキのほうが好みだとはな」
「――」
「よっぽどよかったんだろうな。俺も味見てやるよ、ほら、腰あげろ」
 足を開かせてなんとかその細い身体に侵入を果たそうと試みていた男の残虐な愉しみは、しかし途中で遮られた。
 男の視界はふいにまっくらになり、そして赤くなる。
 何事がと男が思うあいだもなく――そう、今しも征服出来そうだったか弱い身体のことを惜しく思う時間すら、許されなかったに違いない。

「英二に触るな」

 低い、どこかで聞き覚えのある声が間近でした。
 男の意識は其処までだった。
 喉へかかった圧力の正体がなんなのか知らぬ間に――蛙の潰れるような無様な声が自分の声だとは気づかぬ間に、男は声の正体に考え至ることは、永遠に出来ぬままだった。

 なにか、生理的にとても嫌な、何かが砕ける音がした。
 同時に何かが勢いよく吹き出すような、水音。英二のすんなりした白い足には、その音の源と思われる液体がびしゃびしゃとかかる。
 その思わぬなま暖かさに、英二がゆっくりと首を巡らせたときだった。
「英二」
 それが。
 その――いかにも親しい友人に、町中でばったり出会ったとでも言うような。
 優しい、柔らかい物言い。
 育ちの良さそうな、とても穏やかな声。

 サイレンの音が――ますます大きくなって。

 彼の穏やかな声に被さった。
 彼は、後ろ手に手錠がかかったままの英二を助け起こすと、しっかり胸元に抱え込んで優しく囁いた。
「大丈夫か、痛かったろう」
「――」
「酷いことをするもんだな。可哀想に、英二、こんなにかわいい顔をしているのに」
「――……」
「もう大丈夫。もう大丈夫だからな」
 英二は言葉もなかった。
 あまりの違和感に――変貌ぶりに。
「英二、どうした。まだどこか痛いのか」
「――どうして」
「寒いのかな。ちょっと待ってて」
 彼がふいと視線を巡らせると、英二のベッドからシーツが一枚ふわりと飛んでくる。小器用にそれで英二の身体を包んでしまうと、改めて自分の腕に抱き上げるのだった。

 優しく。
 柔らかく。
 英二の身体に負担がかからないように。
 自分の力の入れようで英二が痛がらないように。

「どうして」
 彼の腕の中から、英二は見上げる。
 優しい顔。
 切れ長の、美しい黒曜を囲う眦。驚くほど長い睫毛と、薄い唇。
「どうして」
 それが優しく、恋人をいたわる男のように甘く微笑むさまを、呆然と。
「大石」


 サイレンの音は、まだ響いている。


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