帝国、と自ら名乗るこの国がどれほど栄華を誇ろうとそれは一部分の人間達だけのものだ。 国庫のほとんどを軍備に傾け、武装し、殺人兵器の開発に躍起になっている。いもしない、どこにいるかもわからない敵に向かって空威張りばかりを繰り返して、足下で餓えて死ぬ貧しい国民のことは知らぬふりだ。 荒廃しきり、一部の金持ちだけが我が世の春を謳歌する――汚泥と鉄くずと人々の貧困の上に、無理矢理土足で踏み固め作り物の花でかざりたてた、歪んだ王国。 自分たちはその足下で、息をするのもやっとのことで、日々を生きている。 声を上げることもなく殺される。死んだことすらかえりみてもらえずに、汚い土と同化する。 死骸を土台にして、この奇形の帝国は繁栄を続けてゆくのだ。 静かな、穏やかな昼下がりのことだ。 「英二」 大石が突然獣のように唸って、彼の側にいた自分を抱きしめた。 「英二、英二、いやだ」 「大石」 興奮しだした大石を宥めながら、英二は彼らからもっとも遠い場所、入口の扉を見つめる。 その時の英二は背中から大石に抱かれる形で、ベッドを背もたれに座り込んでいる姿勢だった。立てた膝に分厚い本を載せ、几帳面に音読していた最中のことでもある。 それまで大石は、腕の中に英二がいることに安心して、至極おとなしかった。 専門書を読み上げる英二の質問にもまめに答えてくれたりもしていた。難式や理論を易々と解するその知性と、あいかわらず英二に対する動物じみた執着を見せながらも、精神的には安定していたようだったのだ。 性戯などとはまったく関係なく英二の身体をなで回していたり、その可愛い赤い髪をくわえたり匂いを嗅いだりしていた最中、突然身体を強ばらせたかと思うと、英二が悲鳴をあげるほどその身体を抱きしめにかかった。 「英二、英二」 「いたいっ」 「いやだ、英二」 抱きしめ、かかえ込み、そのままうずくまろうとする。まるで大事なものを誰にもとられるまいと駄々をこねる子供の、行き場をなくした最後の手段のようだった。 分厚い専門書が膝から落ちた。身体を捻り切られそうなほど締め付けられて、英二は痛いと叫んだ。 それでも自分を、出来るだけ小さくさせて懐に抱え込もうとする、大石がこういう行動をとる理由はたったひとつだ。 ――48時間経ったのか。 時計のないこの部屋で、大石がどうやってそれを知るのかはわからない。 けれど、彼が指一本触れずにモノを動かすことが出来るように、前もって何かを感じ取る感覚にも長けているのだろうと思う。 果たしてそれから間もなく、白衣の男達が無言のまま部屋に踏み込んできた。 嗚呼、と英二は、大石に抱きしめられながら小さくため息をつく。 大石の部屋で、一緒に眠ったり食事をしたり、いろんな話をしたりするうちに48時間などあっという間に過ぎる。 決まった時間にドアの小窓から入れられる食事、大石が要求するのだろう英二の為のさまざまなお菓子。そのけもののような欲求と英二に対する愛着とを葛藤させながら、大石秀一郎は彼なりに英二をいとしんでいる。 だから、彼から英二を引き離そうと男達がやってくるたびに、最近はひと騒動だ。 今までこんなことはなかった、と男のひとりがぼやくのを英二は耳にした。 「英二」 「大石、またくるから」 なだめるように言って大石の腕を解かせようとすると、彼はまるで子供のように首を振っては、白衣の男達に威嚇の声をあげる。 「英二」 「大石、離して」 「いやだ英二」 「また来るよ。ちゃんとくる」 「いやだ」 「大石が離してくれないと、もう会えなくなるよ」 子供にするように大石の背をぽんぽんと叩くと、大石は低いうなり声を上げた。 「ね。俺は来週もまたちゃんと来るから」 「――」 「だからお願い。大人しくして、このひとたちのいうこと聞いて」 英二はそんなことを言いたいわけではない。 大石の身体を好きに切り裂き、縫い合わせて遊んでいるような男達の言うことを聞いて欲しいなどと、本心から思っているわけではないのだ。 けれどそう言わなければならない。 逆らえば――下手をすれば殺されるかも、とちらりと危険な考えが英二の頭の中をかすめる。英二が此処で殺されても、誰も何の問題にもしないだろうし、下手をすれば殺されたことさえ公にならないだろう。 ここへ連れてこられたときから、漠然としたものであったけれど、危険な物を感じている。表向き穏やかな、大石に乱暴にされる以外はしずかな生活であったけれど、それとても薄氷を踏むような、なんとも言えない居心地の悪さがある。 自分の命などいつでも、ここの連中は握りつぶせるのだと言うことを英二は悟っていた。彼らは秘密裏に、自分を闇へと葬ることが出来るのだ。 そうなった場合、残された大石はどうするのだろう。 乱暴ではあるが無邪気で、獣のように自分を抱くくせに子供じみたところのある大石。 彼がこの研究所で、どういう立場のものでどんな扱いを受けているかも、英二は表だって質問することは出来ないにしても、うすうす気づいている。 ――けれどそれを言葉にすることは出来ない。 「いやだ」 「ね、いい子だから」 「英二……」 「また今度ね。次の週にね」 「いやだよ、英二、いかないで」 「今度また、オレンジジュース用意しておいてね、楽しみにしてるから」 大石は泣きわめくことはしなかったが、まだ往生際悪く英二の身体にしがみついていた。母から離されようとする子供のように。 それをなだめすかし、あれこれと言い聞かせて、ようやく腕を解かせる事に成功する。待ちかまえていた白衣の所員達がふたりの間に割って入る。所員数人によってたかって押さえつけられた大石に、英二は出来るだけ平静を装って声をかけた。 「またね、大石」 自分も所員に腕を引かれて強引に部屋から連れ出されようとしているさなかに、英二はつとめて優しく言うのだ。大石の視界から消える最後の瞬間まで、たとえ刹那の間であっても、その間すら惜しんで。 それぐらいしか出来ない。 「また週末ね」 「英二」 「ちゃんとおとなしくしててね。またくるから」 英二、英二、と自分を呼ぶ大石は、所員のひとりに腕を取られてシャツの袖をまくり上げられている。彼が英二に集中しているので、所員は彼に某かの注射を行うのも容易だったようだ。 銀の針が彼の皮膚に吸い込まれる瞬間を見届けることもなく、英二は部屋の外へとつれだされてしまったのだった。 「あの化け物が、おとなしいもんじゃないか」 英二を、定められた部屋へ送り届ける役の所員が、聞こえよがしに言った。 英二の身体を心配してのことではなく、単に彼が良からぬことを考えて逃亡したり、立ち入ってはならないところに足を踏みいれようと考えたりしない為の見張り、というだけの話だ。 特にこの辺りは、限られた人間しか立ち入ることの出来ない大切なエリアなのだろう。英二がここから出ていくまで――きっちりと安全なところに『追い出す』まで、彼らとて安心は出来ないらしい。 「よっぽどお前が気に入ってるみたいだな。あんな化け物でもイイことはわかるもんだ。さぞかしよく教えてやったんだろう」 こんなふうにおもてだって英二に攻撃してくる人間はあまりいない。それなりの待遇を許されたと言っても、みな英二に対してはよそよそしい。 と、言うよりも、出来うる限り気をつけて無視している、という感じだ。 ねちねちと遠回しに、卑猥な事で英二に嫌味を言う男の存在の方が珍しかったが、英二も今更、と言う思いがあるので反論はしなかった。 どうせ皆に見られている。大石に自分が何をされているのか、なにをしているのか。 下町で自分がどんなことをして日々の糧を得ていたのか、皆知っているはずだし、こういう消毒薬の臭いで充満した場所で暮らす人間達には、英二のような存在はおそろしく不道徳で不潔で、唾棄すべきものなのだろう。同じ人間とすら見られていないかも知れない。 それでも、死にたくなかったのだから仕方ない。 生きていくためには最低限食わねばならず、食うためには金が必要で、自分が稼ぐ手段はこれしかなかったのだ。 そんなふうに、彼らにとっては「人間以下」の存在であったから、店で品物を選ぶように適当に自分に目を付け、無理矢理に連れてくることもできたのだ。 あの場所に放り込んで、たとえばその日のうちに自分が死んでいたとしたって、彼らは誰一人痛痒を感じなかったに違いない。 あの日。 はじめて、大石秀一郎なる青年の部屋へと、押し込まれた日。 逃げるな、と言われていたが、その、どう見ても尋常ではない様子の青年に恐ろしくなって、英二は閉じたばかりのドアに手をかけた。 開くはずのないそれと格闘していると、ふわりと身体が持ちあげられる。 見えぬ手が彼の身体をすくい上げたように、どういうしかけか英二は空中に浮かんでいた。 恐慌に陥る英二の目の前で、部屋の中の花瓶やグラスと言ったものが、つきつぎひとりでに持ち上がっては、床にたたきつけられて壊れる。 まるで誰かが怒りのままにそれらをぶつけて壊し続けているようだったが、当の大石は平然とその場で佇むだけだった。 冷たい目が英二を見上げてきたと思うと、次の瞬間床に叩きつけられた。朦朧とした意識の中で、どうやらそのまま彼に犯されたことだけは判ったが、途中で気を失ってしまって覚えていない。 その一件に限らず、この部屋とその主である青年は英二には不可解なことだらけだった。 この部屋では、物が勝手に持ち上がったり、動いたりすることに、英二は疑問を持ってはならないようだった。どうやら大石秀一郎なる青年の意志で行われるらしいそれを、研究所員に問うことも出来ない。 たしかに英二は自分から彼にそれを問うことは出来なかったが、少し時間が経った頃、彼から英二に語った。 英二はそのとき大石のベッドでぐったりと横たわっていたのだが、無意識のうちに水が欲しいとかなんとか呟いたのだろう。部屋の隅から、こんな場所には不似合いな銀の水差しとグラスがやはり飛んできて、英二の目の前に浮かんだ。 そればかりか、銀の水差しはひとりでに傾き、いかにも丁寧にグラスに水を満たした。英二がおそるおそるグラスを手に取った後は、水差しは怒るように床に放り投げられたのだったが。 珍しいのか、と彼が口を開いたので、英二は素直に頷いた。 『俺は、こういうことが出来るように造られたんだ。皆はドールと呼んでいる』 彼は怒ったように言った。 『もっと凄いことも出来るらしい。けれど俺が気の向くままに暴れると困ることのほうが多いらしい。だから、こんなものをつけて』 英二の前に、彼の手が差し出された。例の、金属のプレートが巻かれている。 『毎日毎日、何かを調べるとか言って、コードに繋いだり、薬飲ませたりする。そのほかにすることもない。俺はそれでいい。なのに、向こうが勝手に判断する。向こうは、俺が倦んでいると勝手に考える。・・・・・・俺が退屈をして暴れだすといけないからと、時々こういうのを部屋に入れてくるんだ』 こういうの、と言いながら彼は、英二の髪を掴んで引きずりあげる。英二は痛みに悲鳴を上げたが、なんとか手の中のグラスは落とさずにすんだ。 この場所に来て、ふた月あまりがたっていた。 毎週末、英二はこの部屋に連れて来られて、この青年の相手をする。 二日間。 48時間。 一秒たりとも遅れたことはないし、一秒たりとも超過することはない。機械のような不気味な正確さで、48時間。 青年は少しも笑わず、それどころかいつも何かに怒っている風で、突き飛ばされるようにして部屋に押し込まれる英二のことを空気か何かのように無視したし、かと思えば部屋の隅で怯えてうずくまっている彼を無理に引きずりおこして、打擲じみた、愛撫とも言えないようなことを繰り返す。 48時間中無視されていることもあったし、48時間中、猫が獲物を嬲るような、残酷な玩弄に遭うこともあった。 その日は彼の気が、英二を嬲ることに向いたようだった。 『おまえは泣かないな』 『――』 『みんな、俺が怖いと泣く。うるさいから、ここを掴む』 彼は、空いた手で英二の喉を掴んだ。このまま絞め殺されても抵抗できない。 『力をこめて握れば静かになる』 英二は身を震わせたが、なんとか言葉を絞り出す。 『手、はなして』 『お前も泣くのか?』 『……』 『泣くのなら、泣いたらいい。静かにさせてやる』 英二は首を振った。 本当は青年のその様子は恐ろしかったし、泣けるものなら泣きたかったが、必死に堪える。 『みず、のませて。……せっかくいれてくれたんだから』 微かな、か細い声ではあったけれど、なんとか彼に届いたようだ。 彼は少し虚を突かれたようだった。 英二の喉から手を離すと、次にはどういうつもりか水のグラスをも取り上げてしまった。しかし、英二の手からそれをとりあげてから、一瞬困ったような顔をする。 そのままどうしようかと迷っていたようだったが、やがておぼつかない手つきながらグラスを両手で持つと、英二の唇にそっと押しあてて傾けた。 素直に目を閉じ、それをごくごくと飲み下す英二に、彼の目が少し動揺したように瞬いた。グラスの傾け方が急だったので、水は結局は半分以上こぼれて英二の胸や腹を濡らしたが、なんとか乾きはいやして英二は再び身体を倒した。 身体を倒した先は、青年の膝の上だったのだが、彼は怒るかと思いきや不思議そうな顔をして横たわった英二を見おろしてきた。今しがた英二に含ませたグラスを両手で持ったまま、どこか途方に暮れたように。 『……俺ね、英二っていうの』 『エイジ?』 青年は首を傾げた。 『俺の名前だよ。――英二って言うんだ』 『英二』 『うん』 どこか不安そうに見おろしてくる彼と、まともに話ができたのはこれが初めてだったかもしれない。男に慣れた身体でさえ痛みに軋むほどひどくされた後だったので、本当はそのまま気を失ってしまいかった。 だが目をこじ開け、彼を見上げる。 もっと話してみたい、とその時強烈に思ったのだ。 『――おまえには名前があるのか』 『みんなにあるよ』 英二は、青年のその物の言い方が妙に幼かったので、少しだけ微笑んだ。 見おろしてくる彼の顔立ちはやはり美しく、すっきりと整っていた。綺麗な形の眦に見おろされていると、なにやら妙に胸がざわめいて落ち着かない。 『俺、知ってる。大石秀一郎って言うんでしょ』 英二は手を伸ばし、青年の顔に触れた。青年は戸惑ったように頷いた。 『俺、大石、って呼んでいい?』 『誰もそんなふうに呼ばない』 『じゃあここの皆、大石のことなんて言ってるの?』 『こいつ、とか――これ、とか』 バケモノ、とか。 英二が眉を顰めたのに気づいたが、青年はまだ何かに困惑しているようだ。 『俺に呼ばれるの、いや?』 『いや……ではないけど、何か』 胸がざわざわする、と青年は瞼をぎゅっと閉じた。 頬に触れた英二の手を握りしめて、また瞼をあける。持っていたグラスを放り投げると英二の手をとり、両手で柔らかく包む仕草に英二のほうが驚いたほどだ。 大石が見せた初めての優しい仕草はそのときはそれきりだったが、彼はそのときはじめて他人の様子に興味を持ったようだった。 自分のすることで英二がひどく疲れたり痛がったりしていることに戸惑いはじめた。 己の欲望に忠実な彼であったので英二を抱く手を緩めることこそなかったが、それ以外では英二を気遣う様子も見せ始めた。 英二が苦痛を訴えれば抱く手を止めることもあったし、息も絶え絶えな彼の為に髪を撫で、呼吸が整うのをじっと待っていてくれさえした。 大石が英二の為に菓子やジュースを用意するのは、一度英二がそれをとても喜んだからだ。美味しい、と言って笑う英二の顔を大石はぽかんとして見つめていたが、どうやら彼はその英二の表情がとても気に入ったようだった。 けれど大石自身は決して笑いはしない。 いつも気難しそうに、何かに怒っているようにその怜悧な顔立ちを動かさないが、英二の笑うところは好きなようだった。 もっと笑え、というように頬を子供じみた仕草でひっぱられるたび、英二は嬉しいような、そしてこのひとがとても哀れなような気がしたものだ。 今も、そうだ。 おそらく――大石の口振りからすると、彼はたぶん、某かの実験の対象なのだろう。 本来なら生体実験などは、許されざる行為であったろう。下町で育った英二でもその程度の一般常識的な考えはあったが、この研究所にかぎらずこの帝国では、形骸化しているものでもあった。 その程度の破倫はなんとも思わずやってのけるだろうし、現に大石秀一郎のような存在がある。生きた玩具として、連れてこられた自分も。 そういう意味では、彼と自分とはただふたりだけの同族のようなものだ。 頑ななこの白い牢の中で、ただふたりきりの。 移動の制限がされた限られた敷地内ではあったが、大石と過ごす以外の時間は、英二にはそれなりの自由が許されている。 所員の為の図書室からいくつか本を抜き出すと、英二は施設の中庭、綺麗に手入れされた芝生の上にそれらをひろげ、腹這いになって読みふけっていた。 いつも黄昏のような、薄暗いこの世界でも、文字を浮かび上がらせる頁は白くて綺麗だ。 文字は、本当に基本的なものしか英二は知らなかった。満足な教育が受けられなかったせいであったが、読めないものや知らなかった事柄は大石が教えてくれた。 大石の部屋に本や筆記具を外部から持ち込むことは出来なかったが、意味の分からない言葉や数式はとにかくそらんじて、そのまま大石に伝える。そうすると大石は存外なこまめさで意味合いや、それに関するいろんなことを英二に教えてくれたし、今では英二の為に、彼は前もって何冊かの本を用意してくれたりもする。 此処にいる間に英二の知識は飛躍的に向上しただろう。 もうかなり専門的な本も読めるし、理解も出来る。 けれど大石が、あのときぽつりと漏らした『ドール』のことだけは、詳しくは分からなかった。 あまりかぎまわっていると思われてもよくない。 大石のことを知ったからと言ってどうなるものでも、まして今の状況から彼の少しでもいいように改善してやれるわけでもなかったが、英二は増えてゆく知識を楽しむように、書物に没頭していた。 こうやって文字の中にいるときは何も考えなくて済む。 大石の部屋にいるとき以外の、孤独をひしひしと感じなくてすむのだ。 生活に不便があるわけではない。英二の部屋には小さなモニターがついていて、手で触れれば所内の案内、地図、利用規約までを一覧にして画面に映し出す。 英二が生活するのに必要な衣服や身の回りの細々とした物も、ここに手で触れて請求画面を呼び出し、必要な数を入力する。翌日にはそれが部屋に届いているという仕組みだ。 それはちょっとした衛生品から嗜好品、筆記具や衣服、果ては避妊具とまで言った細々としたものが滞りなく揃えられていたが、それ以外のものはなにをどうしても手に入れることは出来ないらしい。 逆に、ここに提示されたものは、正確に、そして安定して供給される。 たとえば英二が、綿シャツを100着要求したとしても、拒まれることはあるまい。翌日には部屋やクローゼットの容量など考えず、そもそもそんなものをどうするのか、いったいどういうつもりなのかなどという興味すら持たないで正確かつ冷酷に、英二のもとに100の綿シャツが届くだろう。 要求は許された範囲で通り、しかし誰も英二のことは実験動物の面倒を見る一環のようにしか思っていない。 英二にしても、あの部屋で過ごす48時間だけがひそかな楽しみであり、獣のような――そして深い知性を時折垣間見せる彼のもとにいるときだけが、心の安まる、何かしらほっとする時間であった。 周囲はあまりの白に満ちていて、清潔で、潔癖で、そして寸分の狂いもない。 希薄になっていく現実感の中で、彼の身体の熱だけが確かな気さえする。彼が自分に向ける剥き出しの欲望と、幼い慕わしさだけが。 白い頁にびっしりと書かれた文字をたどっていた英二の指先に、ふと影がかかった。 見上げると、そこにひとりの子供が立っている。 膝までの白いスモックのようなものを着せられていて、まだ12歳くらいの年齢のようだった。 この所内でこんな子供を見かけるのは珍しい。と、言うより初めてだ。 「おまえ、何処の子?」 英二は尋ねたが、子供はその大きな目でじっと英二を睨みつけてくる。 綺麗な猫のような目。 寝ころんでいた姿勢から起きあがると、子供はびくりと身体を震わせて退いた。 「なんだよ、なんにもしないよ」 にこりと笑ってみせると、子供は不思議そうな目をして英二を見おろしてくる。 「だいじょーぶだよ。怖くない」 そのまま動かないでいると、子供は警戒しながらそろそろと英二に近寄ってくる。 英二はまだ動かないで、じっとしている。 そのうち、子供はそっと手を伸ばして――英二の赤い髪が珍しかったのだろうか、ぷくぷくした子供らしい指先でそれをそっとつまんだ。 あどけない仕草が可愛らしくて、英二はまた笑いかけてやる。 「俺の髪の色、珍しい?」 「――」 「俺、英二っての。おまえ、名前は?」 「ナマエ」 子供はしばらく考えていたが、やがてその大きな、不安そうな目がきょろきょろ動いて、やがて瞼に隠される。 「ナマエ……」 「うん。なんて呼ばれてるの、お前」 「――バケモノ……」 子供は、うつむいてぽつんとそう漏らした。 その物の言い方に、その言葉に嫌な既視感を覚えて英二が目を見開いたとき、所員のひとりが、中庭に続くドアから慌てて芝生を踏んでやってくる。 「リョーマ、こんなところにいたか。駄目じゃないか、勝手にうろついちゃ」 口早に叱ると、彼はその少年の手を引いた。そうして、芝生の上に座り込んでいる英二を汚らわしそうに一瞥すると 「親子揃って同じ好みをしているのか、まったく」 と、意味の分からぬことを呟いた。 子供はたちまち嫌そうな顔をして、所員の手を振り払う。そのときに獣のような唸り声を立てたが、それが何故か大石と似通ったものを思わせたのだ。 子供は所員をあとにおいて、今し方彼が出てきたドアへと一目散に駆け寄る。所員もあわててその後を追うが、建物の中に入っていった彼らの様子は見えない。芝生広場からは建物の内部の様子が伺えないようにマジックミラーになっているのだ。 内部から外の様子はよく見えるが、逆は駄目だ。 だから、子供が駆けていった先で、何が起こったのか英二は見届けることは出来なかった。声だけが響いてくる。 「おまえ、こんなところにいたのかあ」 若い男の声がする。あの所員の声ではない。 こんな場所には不似合いな、わざとらしさのないほがらかで明るい声だ。 「駄目だろー、俺に黙ってどっかいっちゃ。ほら、こっちむいて。怪我してねえか? んー、よしよし、おもしろいもんでもあったか」 ある意味、久しぶりに聞いた、人間らしい声でもあった。制約に縛られない生き生きとした声。どんな人物だろう、と英二は少し気になったが、ここでわざわざそれを見届けに行くのもためらわれた。 先生、と、ミラーの向こうで所員の咎める声がした。 「困ります、先生、ここでそのように大声で」 「あー、わりィ、俺地声でかくてさ」 豪快に笑い飛ばす声がする。 「桃城先生、頼みます。あなたはこの子のメンタル面での責任者でおいでなんですから、もう少しそのあたりを謹んで頂かないことには」 「慎むったってなあ。コイツのいいようにしてやるのが俺の仕事だし――ん?」 若い男は何かに気づいたようだった。 「あれ、誰?」 「ああ」 所員の声に、はっきりと判るほど嫌悪感が混じった。 「うちの――例のあいつの、遊び相手ですよ」 相手は黙ったようだった。 どうやら話題は自分のことらしいと英二は察して、見えるはずのないマジックミラーの向こうを見やる。 「ずいぶん可愛い顔して――それに、まだ子供じゃないか。なんで、あんな可哀想なぐらいちっこいのを」 「ここに来る前は、毎晩男の袖を引いてたような奴ですよ」 所員が吐き捨てるように言った。 「先生がお気にかけられるようなものじゃありません。いくら『消耗品』だからって、あんなのが同じ屋根の下にいると思うと、自分など気分が悪くてたまりませんがね」 「そりゃずいぶん苦労してんだよ」 男はとがめるように言った。 「あんな小さいのに大変だったろうなあ。おまえにゃ想像も付かないんだろうけど」 男の敵意――と言うか、不快感は、どうやら自分ではなく所員に向けられたようだった。これもほとんど初めてのことだったので、英二はぱちくりと目を瞬かせた。 所員に続いて、自分への罵倒の言葉が出るものとばかり思っていた英二は、いったいどんな人物なのかとますます興味がわいたが、そっとドアの向こうを覗いたときは、白い曲がり角の向こうに翻る白衣の裾と、手を引かれてゆく子供の姿が目に入っただけだった。 その週末。 不思議な子供がやってきた、その週末。 何故か英二は部屋から出ることを禁じられ、大石のところに行くことが出来なかった。 それはこの研究所へ来て、はじめてのことであった。 |
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