空が、本当は青くて美しいのだと、誰から聞いたのだったか。それはあまりに幼い記憶で、覚えていること自体が奇跡のようだ。
 自分が知っているのはすえた匂いの裏通り。ゴミのたまった路地。男の酒臭い体臭と、汚れた紙幣。
 いつも黄昏だけの空。
 浮き出た錆、摩耗した鉄の疲れた顔色。そんなふうな、どんよりとした黄昏。
 昼間はたれ込めた灰色の雲に閉ざされた、この国には青い空はない。
 青い空など、想像もつかない。


「英二」
 そんなことを考えながら窓の外を見ていると、名を呼ばれた。
 早く来い、ということだろう。
 自分を呼んだこの研究員の顔は知っているが、名前は知らない。自分が此処へ来たときから、ここでの生活の細かい注意事項をあれこれうるさく言って聞かせた奴、というぐらいの認識だった。
 白い迷路のようなこの建物がどれほど広いのか、または中にどんな場所があるのか、彼は知らなかった。
 何やらたいそうな研究所のようで、自分の立ち入りが許された限りのある区域からでも、忙しそうにあちこち行き来する白衣の人間達が見える。なかなか結構な数だ。
 まだ一度も、自分と顔を合わせたことも無ければ口を利いたこともない所員達も存在するのではないだろうか。
 此処へ連れられてきてから半年になる。
 薄汚れた下町から、ゴミの饐えた匂いに混じって死臭さえするあの場所から。
 この場所は綺麗で清潔で行き届いて何の不自由もなかったが、整然とし過ぎているせいか、あの場所以上に生気が感じられない。
 英二、と言うのは、少年の名だった。
 赤みの強い髪の毛先がくるんと跳ねてその可愛らしい顔を縁取っている。少女のような顔立ちは大きな目がとても印象的だ。
 その髪のはねようの愛くるしさとあいまって開いたばかりの野の花にもたとえられそうだった。しかしまた一方で、若い身体からはち切れんばかりにあふれる生命力のようなものが、その可憐さからは思いもよらぬ強靱さも見せつけている。
 少しつり上がり気味の胡桃の形をした目のせいで、「綺麗な洋猫の仔」のようだと、よく評されもする。
 彼は今年で一五になる――たぶん。
 確かそれぐらいのはずだと『英二』自身もぼんやりと思う。
 貧乏だった家から、金持ちの家に下働きに出されたのが十歳くらいのとき。そこを一年ぐらいで飛び出して、行き着いた下町で多分四年間ほど暮らしていた。
 新年をいわう祝砲とやらを――金持ち達だけに許されたみやびやかな記念行事のそれを、確か四回ほど聞いた。
 あるときは街の片隅でうずくまって寒さと餓えをやり過ごしながら。
 あるときは汚い連れ込み宿のベッドの上、ゆきずりの男の汗にまみれながら。


 一度ではきっと覚えられないであろう数の廊下の角を曲がり、扉をあけ、エレベータを経て英二は今日もそこにたどり着いた。
 研究所の一番奥まった場所、秘密めかしたその部屋に辿り着くには、幾度もセキュリティをくぐり、限られた人間しか持つことの出来ないカードや認識システムを使って通過しなければならない。
 英二自身にそんな権限はない。それを持っているのは、英二と同道する数人の研究員たちだ。
 白衣をきたその研究員に無言で背を押され、英二は部屋へ入った。
 洗いざらしの綿の白シャツに、紺のジーンズ。気持ち悪いほど白で固められたこの建物の中で英二の格好は浮いていたが、この部屋も似たようなものだ。
 アイボリーの壁紙や部屋の隅に置かれた観葉植物、優しい木目調の家具などが良い位置に配置され、普通よりは広々としているとはいえ、この部屋は一般家庭で見るようなものとかわらない。窓がなく、部屋の天井の四隅にそれぞれ監視カメラが設置されているのをのぞけば、なんということもない普通の部屋だ。
 背後でばたんとドアが閉まる音を聞きながら、英二は部屋の中に目をやった。
 部屋の真ん中には、小さなテーブルとソファがおいてある。その向こうの壁にぴたりと寄せられたダブルベッドがあるのだ。
 この部屋で暮らす青年が、その上で小さくうずくまっていた。
 長い手足を無理矢理ちぢめて膝を抱えている。たてた膝に顔を埋めるようにしていたが、眠っていないのはよく判っていた。
 英二と同じように、ごく簡素な普通の青年の格好だ。黒いズボンの裾から覗く足は裸足で、その足首のあたりに、銀色の薄い何かが見える。
 一見すれば、何かのベルトのようなものが巻かれているのかと思うのだが、それはごく薄い金属性の「プレート」と呼ばれているものだ。
 ここからではよく見えないが、彼の両の手首、喉元にも同じものがつけられている。それは直接肉体に縫いこまれるようにして取り付けられ、決して取り外すことはできない。
「大石」
 英二は小さく声をかけた。
 途端に、かちゃん、と小さな音がする。
 テーブルの上においてあった綺麗なグラスがひとりでに空中に持ち上がる。そうしてそれは物凄い勢いで英二のほうへ飛んできたのだった。
 英二は、それは決して自分にはぶつからないことを知っていたので、避けようとはしなかったが、自分の顔のすぐ横の壁にぶつかり砕けるガラスの派手な音に、思わず首を竦めた。
「やめてよ」
 英二はごく静かに言った。
 けれど『大石』は顔をあげない。
「大石」
「――」
「起きてるんでしょ、大石」
「――……遅い」
 やっとのことで大石から返ってきたのは、ごく静かでそっけない言葉だった。
 ベッドの上で膝を抱えたままの、彼の声。
「遅い、英二。ずいぶん待った」
「遅くないよ」
 英二はいつものように、宥めようと優しく言った。
「いつもとおんなじ時間じゃん」
「朝から待ってたんだ」
 大石は拗ねたように言う。
 テーブルの上には、グラスと、オレンジジュースの満たされたクリスタルのカラフェが置いてある。その隣には水のなみなみとはいっているアイスペール。きっと最初は氷が山盛りにされていたのだろう。銀のトングが水の中にむなしく沈んでいる。
「待ってたんだ、英二」
「うん、ごめんね」
 もうこうなると、何を言っても大石は取り合わないので英二は素直に折れた。
「悪かったよ、ごめんね。そんなに待っててくれたのに」
 小さな籐かごにたくさん盛られているクッキーやチョコレートの類を横目で見ながら、英二は優しく言う。
「ごめん、大石」
「――」
「ね、俺が悪かったから、機嫌治して」
「――」
「大石」
 まだ膝を抱えたまま、顔もあげない大石を覗き込もうとした英二は、次の瞬間その大石に手を取られ、ベッドの上に引きずり上げられた。あっという間もなく仰向けにされ、身体を押さえられて逃げ出せなくなる。
 英二は騒がず、大石の思うとおりにさせている。もう慣れているのか目を閉じて身体の力を抜き、逆らわないよと言うように黙っている。
 英二の身体の上で獣のように唸ると、大石は彼の喉元に顔を寄せる。
 微かな息づかいが首筋に感じられて、英二は少し眉を寄せた。
 ふんふんと鼻を鳴らしながら、大石は英二の身体の匂いを嗅いでいる。耳元、喉、顔全体や胸元、腹の辺り。
 いつもこうされていると、英二は奇妙な気分になる。大石の理知的でよく整った顔立ちと、その動物的な行動がアンバランスで、どうしていいか判らなくなるのだ。
「大石」
「――」
「ね、大石」
 ある程度好きにさせ、大石が納得したような顔つきになりだした頃を見計らって、英二はそっと大石に声をかけた。
「大石、ジュース飲も」
「――」
「俺、好きなんだ。大石が用意してくれたの、嬉しい。お菓子も食べたい」
 それは嘘ではない。幼い頃に限らず、そんな嗜好品が口に出来るような生活ではなかったから、英二はなかなか真剣な声で頼んでみた。
「氷、とけちゃったけど、俺がもらってくるよ。だから一緒にジュース飲もうよ」
 答えない青年を刺激するまいと、英二は出来るだけ気をつけて彼の身体を押しのけようとした。
「――……大石っ」
 それまでどこかぼんやりとしていた大石の目に、鋭い怒りが走った。
 英二が彼の身体の下から抜け出そうと試みた瞬間、大石は英二を押さえつけたまま、英二の白いシャツをひきちぎりはじめた。
 何かに非常に怒りながら手で布を掴み、歯までつかって噛み裂く。それはまったくひどい有様で、けだものそのもののようだ。 服が無くなってしまえば、次は自分の身体をちぎり始めるのではないかと、英二はいつもこの瞬間だけは怖くてたまらない。
 けれどどうせ逃れることも出来ない。
 あきらめて天井をあおいだ英二だったが、端に取り付けられている監視カメラのレンズが目に入ったので、あわてて目を閉じる。レンズ越しに誰かと目があったかもしれないな、と場違いなことを考えて、自分でおかしくなった。
 どうせ見られているのだ。監視されているのだから。
 自分ではなく、大石が。
 大石はこの部屋にいる間も、英二のいない他の時間も、監視され続けているのだ。
 彼にプライバシーはない。
 ここにいる間の英二も同じ。
 週末の二日間、48時間を英二はこの部屋で大石とともに過ごす。彼の話し相手になり、玩具になり、ストレスのはけ口になり――その一部始終をカメラ越しに見られているのだ。
 ふたりで話すいちいちも、食事も、シャワーも、トイレも、眠るときも。
 彼が英二を抱くあいだも。

 英二は決まった時間にしか此処に訪れられないと言うことを知っているくせに、彼はいつも「遅い」と言っては苛立つ。
 少しでも自分から離れようとする様子を見せると、さらに怒って英二を痛めつける。男に抱かれることに慣れている英二ですら悲鳴をあげてしまうほどひどいやり方で、彼を失神させることもしばしばだった。
 かと思えば英二のために、たどたどしく菓子や飲み物を整えたりするし、幼子よりあぶない手つきで彼の身体を清めようとタオルを持ち出したりもする。
 いつも大石は笑わない。
 笑わず、その綺麗な顔を少し怒らせて、けれど鋭く視線で英二を追う。
 今日も大石は英二の服をもうほとんどずたずたにし、時折勢いあまってその少年らしいきれいな肌にひっかき傷をいくつも造りながら、ようやく彼の身体に性的欲求をぶつける気になったようだった。
 大石の怒りと性欲がどのあたりで繋がるものか、英二にはいつもよく判らない。
 どうしていつも大石はそんなに怒っているのか、ということも。
 英二の喉元に唇を下ろした彼は、小さく唸った。荒々しくそのあたりをなめ回しているが、本当は噛みちぎりたいのではないかと思う。
 じっさいそうだったのだろうし、しかし喉を噛み裂けば英二が死んでしまうと言うことを判っているようで、彼は必死に自分を押さえているのだ。
 此処で彼に喉を噛み裂かれて死んだ人間がいるのだろうか――今の英二と同じようにされながら。
 自分の裸の胸にぴたりとあてられた大石の胸の一部分に、ひんやりとしたものを感じて英二は身体を竦ませた。
 金属の薄いプレート。大石の喉や手首に直接埋め込まれている。
 そのプレートの周囲に英二にはとうてい判らないような、難しい記号がいくつも書き込まれていた。
 大石の背中に手を回すと、いやな感触が指をかすめる。
 肌を切り開き、また縫い合わせたあと。
 先週触れたときよりも、数が増えている。
「大石」
 英二はそっと聞いた。
「ここ、痛くない?」
 聞かれると、大石は目を微かに瞬かせた。何を問われているのかよく判らない、と言った表情だ。やや和らいだ瞳の色が英二を見おろしてきていたが、すぐにそれも何処かへ行ってしまう。
 けれどどうやら、ほんのすこし大石の怒りはおさまったようだった。
 英二の身体に掴みかかることをやめ、そのかわりにその手を英二の髪に滑らせる。
 そうして大石はついこのあいだ覚えたばかりの――英二に教えられたばかりの、頬に唇だけをそっと押しあてるキスを、幾度か繰り返す。
 大石は確かに何かにつけ乱暴だったが、けれどそれは彼の気質ではない。
 手加減や力加減を知らない、幼稚な乱雑さにすぎない。器用そうで綺麗な長い指をしているから、きっと本来は細やかなことが得意だ。
 綺麗なペンを持たせたら、きっと上品で流麗な文字を書くだろう。
 弦楽器を操らせても、よく似合う。
 でも彼はそんなことは知らない。
 知らずに生きてきた。
 彼はこの白い建物から、一歩だって出たことはない。

「英二はどこから来ているんだ」
 大石は、英二の身体で気を鎮めると少し機嫌をなおしたのか、やや穏やかな声音で聞いてくる。
 ベッドの中で、くしゃくしゃになったシーツの中で、さらに身体を搦めて。英二が逃げられないように、とでもいうのだろうか。そんなことをしなくても逃げやしないのに、彼はいつも何か不安そうだった。どのみち、唇の柔らかさより牙の鋭さを感じることの方が多い情交の間に、いつも英二はぐったりとなってしまって、そのまま殺されると言われても逃れられないだろう。
 逃げられはしない。逃げたくてもそう出来ないし、逆も同じだ。
 あと40数時間も経てば、行きたくなくてもここから連れ出されてしまうのだから。
 こうしている大石は少し幼く、行動の乱暴さ――と言うより、幼稚さは拭えないながら英二に対するすなおな慕わしさを見せる。
 そうされると英二も彼のことが少し愛しくなって、自然言葉も柔らかくなった。
「言ったじゃん。この建物の中に、俺は部屋もらってるから、そこから来てるんだよ」
 そっと大石の頭を抱きよせると、大石は黙ってそれに甘える。変わらず鼻を鳴らして、英二の汗の匂いを嗅いでいる。
 そのうち、身体の下でぐしゃぐしゃになっていたシーツがひとりでにふわりと広がり、英二と大石の身体を包むようにしてくるりと柔らかく丸まった。
 最初のうちこそ英二は驚いたが、もう最近では慣れっこになってしまっている。
「英二の部屋をここにしてもらえばいい」
 大石は少し怒ったように言った。
「ここにいればいい」
「俺も頼んだけど、駄目なんだってさ」
「どうして」
「判らない。俺じゃどうしようもできなくて」
「英二が来てくれればいいのに」
「――」
「ここにずっといてくれれば」
 まるで子供のように駄々をこねる大石に曖昧に頷きながら、英二は大石の背を撫でる。
 大石はそのまま、しばらく心地よさげに英二の手の感触を楽しんでいたようだったが、やがてふと目を上げた。
 テーブルの上におかれたままのカラフェとグラスがひとりでに浮かび、いかにも馬鹿丁寧な様子でグラスを綺麗なオレンジ色で満たした。
 その間に大石は身体をおこし、空中をすべるようにやってきたグラスを手に取った。布でくるんだままの英二を大事そうに腕に抱えると、英二の唇にあてがう。
 目を閉じて従順にそれを飲み下す英二を見るたびに、大石は満足そうだった。
 この行為に限らず、大石は英二が自分に逆らわず、身を預けて大人しくしている状態を殊の外気に入っているようだった。
 もらわれてきたばかりの小犬に世話を焼きに焼いて、ようやく少し心を開いてくれたときに感じる喜びと似たようなものなのだろうか。
「英二」
「――ん?」
「英二、見て、ほら」
 相変わらず表情は硬いままの大石に促されて英二は目を開く。
 白いシーツの上にいつの間にかクッキーの籠が飛んできている。焼き菓子はおどけるようにそれぞれひとりでに飛び上がると、くるくると円を描き空中で踊った。それを見て愛らしくほころんだ英二の顔に、大石は腕に力を込めてくる。汗が引いた肌は、それでも僅かの湿り気を残してしっとりと合わさった。
 ぴたりと吸い付くようなその感触の中に、冷たいものがある。
 大石の肌の上に厳然と存在する金属プレート。
「英二、楽しい?」
「うん」
 大石は、英二がその感触にかすかに眉を顰めたのにも気づかず、どこか無邪気に尋ねてくる。
「英二、嬉しい?」
「うん」
「もっとその顔、して」
 子供のようにおぼつかない手つきで、大石は抱え込んだままの英二の頬をぎゅっとつねった。力の加減を知らないのだろう、痛いよと言いながらも、英二は大石を見上げて笑ってみせる。
「その顔、もっと見たい」
 頬をすり寄せてくる大石を愛しく思って抱きしめると、背中に増えた傷に手が届いた。
「此処にいて」
「うん、明後日まではいるよ」
「ずっといて」
「――駄目だよ、俺、叱られて、二度と来られなくなっちゃうよ」
「……」
「また来週も来られるよ。だって俺、この建物の中にいるんだから。また来るよ」
「こんなものがなければ」
 大石は英二の身体に搦めた腕を伸ばして、いくつか埋め込まれた金属のプレートを忌々しげに見やった。
「こんなものがなければ、勝手にさせないのに」
「……」
「ずっと英二といられるようにするのに」

 英二の暮らす場所がこの建物の敷地内にある、というのは本当だった。
 この研究所での仕事をもちかけられたのは、半年前。
 それまで英二は、薄汚れ、いつもどこかで誰かが野たれ死んでいる、そんな下町の片隅で野良猫の仔のように必死に生きてきた。
 子沢山の貧乏の家の末っ子で、食わせていけないからと幼い頃どこかの家に下働きに出され、そこもいやで飛び出して――気づけば英二は名も知らぬ町で暮らしていた。下働き先の主人が傲慢に教え込んだとおりに、男の袖を引いてひとばん体を預ける方法でなら、なんとか食べられるだけの日銭を稼げたのだ。
 英二に夢中になった男達からは、帝都へ連れていってやろうと言われたり、専属の愛人になれと誘われたりもしたが、そのたびに逃げ出した。
 不思議なことにその手の男達は、けっこうあとからあとから出現して英二を困らせたものだ。さっさとすませて、金だけをおいていってくれればいいだけなのにとぼやくと、あんたは可愛いからと、気のいい年増の娼婦にからかわれたことがある。

 あんたはひとなつこいところもあるし。可愛くて可愛くて、あたしですら、あんたはどんな声で鳴くのかと不埒に思ってみることがある。男もそんなところに気を引かれるんじゃないの。

 同じ下町のその娼婦はそんななまめかしい言いぐさとは裏腹に、彼の面倒を母親のようにして見てくれたが、病気にかかるとあっけなく死んでしまった。薬もないし、医者にかかるほどの金もなかった。具合が悪くなればこんな場所に生きている者は、その半数は死んでいく。
 その娼婦が死んだことで寝泊まりする場所を失った英二が、そろそろ次のねぐらを探さなければ、と考えていた矢先に、英二の前に謎めいた男が現れ、研究所で働かないかと誘ってきたのだ。
 提示された金額は英二が一生かかっても稼げないようなもので、契約期間は一年。
 研究所の敷地内に住まい、毎週末の二日間、48時間きっかり、ある青年の相手をする。
 彼には逆らわないようにすること、けれどよけいなことは喋らないこと。研究所の敷地から外へ出ないこと、指定された場所以外からは動かないこと。
 もっと細々と注意をされたが、要約すればそういうことだ。
 曖昧な返事を返しているうちに、男達は痺れをきらしたのかほとんど英二を拉致するようにここへ引きずってきた。もちろん下町の男娼ひとりいなくなったところで誰も探してはくれない。
 英二は生まれてこの方見たこともないような立派な建物に連れて行かれ、殺風景ではあったが清潔な、浴室付きの部屋を与えられた。
 研究所の敷地、とは言っても広くて立派な場所だ。身体を動かす程度の場所はあるし、所員のリフレッシュの為のスポーツジムや娯楽室、図書室も英二には使用を許すという。その待遇と報償に英二が疑問を持ったのも、無理からぬ話であったろう。
 けれど、逃げ出したほうがいいのではないのか、と考えるいとまもなしに、次の日にはこの部屋へと英二は連れてこられた。
 小汚い子供だと思っていたがそれなりの格好をすれば結構見られるものだと、所員達の無遠慮で、少々下卑た意味をも込めた感想を聞かされながら――はじめてこの部屋に入れられた日。
 逃げようとするな、と言い含められて部屋に入れられた英二を、彼は冷たい目で見やってきた。
『また新しいのが来た』
 つまらなさそうにそう呟く声が、はじめて聞いた彼の声。
 それまでうずくまっていたベッドから立ち上がると、ふらふらと英二に近づく。
 喉元、両手首に、何やら薄いバンドのようなが巻かれている。金属のような冷たい輝き。
 はだけたシャツから、彼のしっかりした胸元にも幾つもそれがつけられているのが見えた。
『すぐこわれるくせに』
 彼の目元はうつろで、どこか病的だった。
 立ちすくむ英二を、射殺さんばかりの視線で――氷のような黒曜の瞳で睨みつけてきた美しい青年。
 それが大石秀一郎だった。
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