「まだ判明しない、とはどういうことだ。最初の報告の遅延だけでも十分致命的だというのに、まだこの上後手後手に回ってどうする。セキュリティの意味がまったくないだろう」 いらいらとした友人の声が響き渡る。結構な広さのある研究室なのに、たいした声量だと柳は少し肩を竦める。 部屋に入った途端に響き渡る友人の怒りに満ちた声に、これは少しばかり長くなるかと思ったのだが、彼の友人はちらりと入室したばかりの柳に目を走らせると、少し待っていてくれと言うように手を挙げてみせた。 研究室の中は白い。この部屋に限らず、この巨大な『タワー』こと、オーディンズタワーそのものが白と銀の不夜城なのだ。すらりと天高く伸びていく白銀の塔は、神の長の名よりも、世界を支える巨大樹のほうを連想させる。 壁一面に埋もれた機械類も外観と意匠を統一したのかメタリックシルバーで、余計に壁面の白さを際だたせた。明滅するモニタが数字をひっきりなしに打ち出し、機械独特の作動音が数十、数百とも重なり合って、太く重たい振動として空気を不安定に揺らす。 その中で作業をするスタッフは時折、その声を上げる男をちらりと見るか、または入室したばかりの柳に軽く会釈するかで、黙々と仕事をこなしていた。 同じような白衣で淡々と作業をしている彼らのようすは妙に機械じみていて、この中で生きて動いている人間はそれこそ自分と、今電話に向かって話し続ける男だけなのでは無いかとさえ錯覚する。 「わずか? ダウンした時間が僅かだからと言って、報告を30分も怠る理由にはなっていない。侵入しようと思えば十分に可能な時間だ。その前後48時間の出入りを徹底的にチェックして軍司令部に提出しろ、そこからこちらにも回させる。少しでも不審なIDは、その人物がどうであろうと、たとえ生まれたての赤ん坊でも全て対象だ。ああそうだ、たとえ政府高官でもだ。いかなる閣僚どもでも、最高幹部でも、例外はない」 電話の相手が何か余計なことを言ったようで、真田は眉をさらにつり上げて、低く言った。 「その研究所の所属の俺が、ここまで言わねばならぬような失態だということを今一度自覚してもらいたいものだ。事と次第によっては、越権行為だの何だのという細かいことになど関わっていられなくなるぞ。軍司令部にはこちらから既に話を通してある。これ以上何が言うことがあればあちらの柳生に直接話をしろ。以上だ」 受話器を叩きつけたりはしなかったが、それでもいらいらとした様子を隠すこともなく、真田弦一郎は友人を振り返った。 「すまないな。待たせた」 「いや」 短く応答して、柳は首を振った。 「どうした」 「帝都外壁のセキュリティシステムが落ちたんだ」 真田は苛々と言った。 「時刻は15:54、今から45分前だ」 「それであのお説教か、弦一郎。相手はどこだ。おおかた保安部のシステム部門だろう。頭でっかちの研究所勤めがあまり口出しをしては、そちらへ配置換えされたいのかと勘ぐられるぞ」 「配置換えなどできる立場か、我々が」 「もっともだ。しかしお前ならあの仰々しい軍部の制服がなかなか似合うのではないかな。白衣なんかよりよっぽど見栄えがするし」 「笑いごとではないぞ、蓮二」 真田は難しい顔をした。 「いいか。システムが完全に遮断されたのは、時間にして0.83秒」 「一秒足らずか」 「そうだ。ほんの一瞬、電気関係のトラブルと言ってもおかしくはないし、あり得る長さでもある」 「ふむ」 「だがその一秒足らずでも侵入は可能だ。――しかもネットワークにではなく、物理的に」 「……ああ、確かに」 柳は大人しく頷いた。 「ドールならばな」 柳もそのあたりはよく承知していたので、そろそろこの生真面目な友人をからかうのをやめて真顔に戻った。 「お前の心配ぐらいはよく判っているさ、弦一郎。しかし、からかったのはすまなかったが、閣僚連中に手を出すとまたプライベートだの何だのとうるさいことを言ってくるぞ」 「たった2年前の『ラグナロク』を忘れたというなら、言わせておけばいい」 真田はにべもなく言った。 「テロリストの手にドールが何体か渡っているんだ。それを考えれば、用心し過ぎるに越したことはない。何をしてくるかわかったものではないしな」 そこまで言って、真田はふと気づいたように柳の顔を見た。 彼らの言う『テロリスト』の手にドールが渡ったのではなく、正確にはドールを連れて出奔した人間が政府に対する抵抗組織を立ち上げたのだったが――その人間が、目前にいる柳蓮二の幼なじみにして同僚であったことを、今更のように思い出したのである。 その『同僚』は文句の付けようのないほどの、「天才」であった。 どのドールにもつけられている基幹プレートが肌表面に存在しない、まったく見た目は人と変わらぬ、というのが柳蓮二と彼の同僚とが共同開発した、新しいタイプのドールの特徴である。 状況に応じて柔軟に能力を変化させ、プレートを介する情報入力に頼らず自らの判断で自分の肉体を進化することが出来る。そのために柔軟性に富む子供の年齢に固定され、順調に育成されていくはずだったのだ。 彼らが育てていた二体のうち、“ヘイムダル”だけがある日ロストした。 柳の同僚はそのあと突然、誰にも何の理由も知らせず、もう一体の“ヴァーリ”と、そうしてそのとき滞在していた研究所の同期生、その上そこにいたドールをも連れて出奔した。 柳の同僚の名は乾貞治。 同期生は河村隆と言い、“ヴァーリ”の他に連れ出された二体のドールは“フレイ”と“フレイヤ”であった。 それが、“ラグナロク”の始まった、ほぼ直後の出来事である。 しかし柳はどう思っているのか、真田のその微妙な意識のうかがえる視線を何とも思っていないかのように、もっともらしく頷いてみせた。 「扱いを知らぬ人間の手に渡った、というならばともかく、彼奴の場合は変に事情に通暁しているから、よけいにこちらも対応が難しくなる。お前の懸念に関しては俺も同感だ。俺からも軍部の方には根回ししておこう。『老人達』にもな」 「ああ」 「特に『老人達』のほうは、俺が対応にまわる。お前は顔を出さない方がいいだろう」 「――……」 「まだ以前の、幸村の一件でお前に恥をかかされたと思っている爺が、あのメンバーに入っている限りはな」 「判っている。迷惑をかける」 真田は、神妙に言った。 「いや、弦一郎。あれはお前のせいじゃない。むしろお前が正しい。ドールは貴重な研究成果で、稀少な軍備でもある。老人どもの変態じみた趣味のためのおもちゃではないのだからな」 「……」 「どちらにしろ、俺は今日はやはり此処に残った方がよさそうだな」 「いや、それはかまわない」 真田は首を振った。 「引継だけをしてくれたらいい。予定通り、家に帰って休んでくれ。もうふた月近く帰っていないだろう」 「ふた月近く留守にしているから、家の中の様子が非常に心配なんだ」 なんとも気軽に柳は言った。 「出来れば見たくないような様子になっているかも……」 「お前の家のクリーンシステムは正常に作動中だ。誤作動は報告されていない。空気は清浄だし空調も完全で、清掃もまったく滞りなく完璧だ。安心して帰って休んでくれ。なんだったら此処から夕食の手配をしておいてもいいぞ。何か食いたいものはあるか」 「――……おまえのことだから、真剣に、他意なく心のそこからそう思って言ってくれているんだろうがなあ」 「?」 「いや何でもない。俺はお前のそういう、なにごとにも真摯で真面目なところを心底買っているよ」 ぽんと肩を叩かれ、真田は何がなんだかわからないまま辞去しようとする柳を見送った。 「何かあればすぐに呼び出してくれ。特に、『地下』の彼のことに関しては」 「――ああ」 「どんな些細なことでもだ。それこそ0.83秒程度の、人間には取るに足らないわずかなことでも。……頼んだぞ、弦一郎」 おびただしい色彩の溢れる街中を、柳は急ぎ足で歩いていく。 とくべつ急ぐようなことは何もないし、それが彼の癖というわけではない。ただ、この街の空気の中に長くいたくないだけなのだ。 車を回させる、という真田の申し出を柳は断った。車に乗らなければ帰れない距離ではないし、渋滞が常態となっている道に車などで乗り出ては、よほど時間がかかるというものだ。 高層ビルが乱立し、銀色の光を反射する。 あちらにもこちらにも、大小さまざまなスクリーンや、文字を写しだすパネル、色彩豊かな看板などが目に付く。それひとつひとつは最新技術が使われたものであるのに、どうにも乱雑な感が拭えない。街の景観の調和のことなどなにひとつ考えず、我先に飾り立てたせいだろう。 歩道のタイルが美しい模様であればあるほど、隅にたまった埃や煙草の吸い殻、空き缶などが目に付く。流線型の最新モデルのスポーツカー、黒塗りのどっしりしたクラシックカー、色合いもさまざまの車が何台となく道路を走り抜けていくが、意味もなくクラクションを鳴らしたり、甲高い排気音をさせたりしている。 人間達も似たようなもので皆だらだらと歩き、てんでに好き勝手に大声でわめき、哄笑し、意味もなく不機嫌に他人にやつあたりし、似合いもしない色彩にはしゃいでいる。 柳などからすればこの街の全てが聞くに耐えず、見るに耐えない。 決して皆が皆、好き放題に無法なことを其処此処で繰り広げているわけではない。それなりのルールにのっとって行動し、子供を突き飛ばさない程度の節度、信号を守る程度の常識は持ち合わせている。 しかし、それが何故かなどとは誰も考えたことはなく、何故そういったさまざまな規制が存在するのかも、深く思い直してみる人間はこの帝都には少ないだろう。誰から言われたかも判らない、七面倒くさいルールに不平を鳴らし、赤信号に意味もなくいらだち、よちよち歩きの子供が歩行の邪魔になったと言っては舌打ちをする。 世界は己と己の周囲だけで完結し、それ以外は彼らにとっては絵空事だ。他愛もない恋愛や目先の贅沢にうつつをぬかし、ショーウインドーの新製品や、広く豪奢な住まいばかりに目がいっている。 全体的にだらしのない、しまらない、何の緊張感もない街だ。ものだけは溢れるほどで、かたちばかりの豪華さで、破壊的なにぎやかさで、だらりだらりと今日も明日も続いていく――それが麻薬のように人々の心をただらせていくのかもしれなかった。 この街中にいると、今出てきたばかりなのに研究所がもう恋しくなる。自分の住まいよりもあちらのほうが余程懐かしいし、いて落ち着ける。 専用の部屋もあるし、身の回りを整えるのに不自由はない。柳は美食家ではないし、栄養さえ足りていれば研究所の食堂で提供されるレトルトの食事でも十分であった。 白ひとつに統一され、無駄な儀礼や格式は一切ない。整然としていて、人々すらも余計なことは話さない。 これ以上の様式美はないだろうと思うのだが、しかしそれとてもまた、自分が己の世界のみで完結していると言えなくもない。 (なんとも度し難い) 柳は誰言うともなく、呟いて苦笑した。 そういえば自分の友人は――かつての幼なじみであり、学友であり、同僚であったかの友人の、身辺の乱雑ぶりはひどいものだった、とふと懐かしく思って柳は口元をゆるませた。 柳などからすればあの生活態度のだらしなさというのは、信じられないぐらいであったが、不思議とあの男の頭脳は時として柳よりも余程鋭い冴えを見せたものだ。 何よりも整然と、そして適格に。突拍子もないように見えて、実はとてつもなく核心をつく――そういう思考を。 思考が誰よりも整然としているぶん、現実の日常生活にまで神経を裂く余裕は無かったのかも知れない。しかしあれほど乱雑な身の回りでも、何処に何があるかをきちんと把握していたし、『整理整頓というのは、必要なものを必要なときにもっとも効率よく揃えるための手段であり、それならば傍目にはどう見えようともこれが一番自分にとって最良の状態だ』ということを公言してはばからなかった。 子供じみた言い訳だ、片づけるのが面倒なものだからと、あのときは友人の意見を一蹴したが、きっと彼は本当に、心の底からそう思っていたに違いない。 そのとき。 小さな子供の声がした。 珍しく昔の追憶に囚われている柳に、後ろから誰かがぶつかったのだ。 追憶から現実の猥雑な街中に引き戻され、柳が多少不快な思いをしながら振り返ったとき、そこにはぺたんと尻餅をついて座り込む子供の姿があった。 濃い色のシャツと、子供らしい半ズボンから覗く足はまだ幼い。11か2か、そのあたりだろう。 「――すまなかったな。大丈夫か」 一応、声をかけてみる。 子供はどうしたのか座り込んだまま、俯いたままで顔もあげない。 「どうした。ひとりか。親は一緒じゃないのか」 そう言いながらしゃがみ込んできた柳に、子供はやっと顔をあげた。 子供は別に泣きもせず、さりとてこの大人を睨みつけるようなこともせず、ふっくらした唇を引き結んでただ無表情に彼を見上げている。 大きなつり上がった目が間近で柳を見つめた。 柳は、その瞬間、息をのんだ。 「――……まさか」 自分が呟いた言葉も、自覚してはいなかった。 「“ヴァーリ”」 子供はしばらく柳を見上げていたが、ふいに立ち上がって彼に背を向けた。 そのまま振り返りもせず駆け出していこうとするので、柳は慌てて彼に手を伸ばした。 「待て!」 子供はちらりと肩越しに柳を見たが、それだけだ。一声も発しない。 腕を掴もうとする柳の手から器用に逃れ、人の間をすり抜けて走り出す。 「待て! とまれ!」 のたのたと歩く人混みの中を、子供はひらひらと舞うように走り抜けていく。長身の柳はなかなか子供と同じようにはいかず、時折怒鳴られ、舌打ちされながらも人々をかき分け、後ろも見ずに走り続けた。 そのうち子供は、ふとビルとビルとの間の、薄汚れた路地に入っていく。 「頼む、待て! 待ってくれ!」 このように華美を極めた都市にはつきものの、薄暗い場所――不穏な取引や、陰惨な暴力や、不衛生なもののわだかまる、そういう路地に走り込んでゆくのだ。 子供は、柳がついてきていることを確認するかのようにちらりと後ろに目を走らせると、さらにその奥に駆け込んだ。 何も考えず同じようにその路地を曲がり、子供のあとを追い、そうしてついに行き止まった路地のその先で。 柳蓮二は、めあての子供ではなく、意外な人物と真正面から相対することになった。 「久しいな、蓮二。なんだ、こんな時間に、仕事上がりだったのか」 そこで、飄々と笑っていたのは――袖口と襟のあたりの擦り切れた白衣を着込み、やや猫背の姿勢の、そうして表情も見えないような分厚い眼鏡の青年であった。 つい先ほどまで柳がとりとめもなく思い出していた友人の姿である。 「貞治……」 「覚えていたか。忘れないでくれていて嬉しいな」 「忘れるものか」 柳はうっすらとほほえみさえした。 頭の中では様々な仮説や仮定、真田弦一郎から報告を受けたばかりの一瞬のシステムダウンのことや、この状況に対する対応策などが物凄い早さで渦巻いたが、そんなことはおくびにも出さず、柳はすずしげに言った。 「お前のことを一日たりとも忘れたことはないんだぞ、貞治」 「光栄だな」 「そうさ。――お前のことを考えて気が狂いそうだったよ」 柳はゆっくりと、右手を眼鏡の青年に向けた。そこには一般人でも扱いやすい小型の銃が握られている。柳や真田など、研究所のなかでもごく一部の人間だけは、銃の所持が認められているのだ。 「“ヴァーリ”は何処だ」 「おいおい。久しぶりの再会じゃないか。他人の名前を出すなよ、蓮二」 「ごまかすな」 もはや笑いも消えた柳の顔を一瞥し、青年は――乾貞治ははっきりと嘲笑した。 「必死だな」 「貞治。言え」 「必死すぎて、無様だ。哀れみさえ感じる」 「――」 「お前の中でそれが正当なら、俺の思考もお前には何ら否定すべきところなどあるまい。否定する権利など無いはずだ。“ヘイムダル”の為に」 「何のことだ」 「お前が必要以上にあのバケモノに固執している理由を、俺が判らないなどとは思ってくれるなよ」 乾貞治は口元だけでうっすらと笑うと、間違いなく己に向けられている銃口にもまったく動じないまま、一歩、二歩と柳に近寄った。 引き金に掛かった柳の指に力がこもる。 見透かしたように、乾は軽く呼ばわった。 「薫」 ふっ、と空中に影が動いた。 何が、と柳が思うまでもなく、その薄暗い空間に解け出すように現れたのは、先刻柳を此処まで導いた小柄な子供の姿である。 彼はふわりと空をおり、柔らかく乾の腕にしなだれかかって抱かれた。 「どうした。よだれでも垂らしそうな顔をしているぞ、蓮二」 虚を突かれ、乾が近寄った分後ろへ下がってしまった柳を見やりながら、乾は低く、だが心底楽しそうに笑った。 「さあ、薫。いい子だ、あのひとのことを見てごらん」 長身の男は、片腕に抱きあげた子供の髪に鼻先を埋め、柳を挑戦的に見やりながらその額にしつこく口づける。子供はおとなしく、どこかうっとりとさえしながら男の腕に抱かれ、されるままになっていた。 「あれは誰だか、覚えているかい」 男が優しく問うのに、子供は目を細めて柳を見やると少し考えて言った。 「柳――蓮二、博士です」 「そうだね。他には?」 「生体兵器研究部中央研究所所長。プレートに頼らないドール研究の第一人者であり、現在、オーディンズタワーの統括責任者でもあります」 「他には?」 意味ありげに柳を見ながら、さらに青年は子供に聞いた。子供はしばらく首を傾げるような仕草をみせたがあどけなく、しかし冷淡に言い切った。 「それ以外には特に列挙すべき点はありません。個人的なプロフィールは必要でしょうか。それなら詳細を挙げられます」 「いや、必要ない。ああ、お前は本当にいい子だ、薫」 「はい、お父さん」 子供は嬉しげに青年の首にしがみつく。柳は射殺したそうな目つきで、彼らを見やっていた。 「貞治――貴様」 「悔しいか、蓮二。そうだろう、もっと悔しがれよ。全身の血液が沸騰するぐらい悔しがって、歯ぎしりして、地面に頭を打ち付けるぐらい苦しんで、俺を憎むがいい。――俺がそうしたようにな。まだまだそんなもんじゃ終わらない」 乾は笑った。まぎれもない嘲笑が、柳の耳を不快に打った。 「お前を殺したぐらいじゃものたりないんだよ、もっとあがいてのたうちまわってくれ。俺の気が済むように」 「何をしに来た、貞治」 銃口を構えたまま――しかし決してその引き金を引けないことを承知の上で、柳はまだ虚勢を張り続ける。 「わざわざそれを連れて、何故俺の前に姿を現した」 「お前の顔が見たかったんだよ、蓮二」 「貞治!」 「こうやって薫を抱く俺を見て、お前がどんな顔をするのかとね」 乾は、どこか艶めかしいような手つきで子供の顎から肩をひと撫でする。 いらいらする気持ちを抑えながら柳は必死に虚勢をたもち続け、言った。 「まだ聞きたいことがある。あのデータは何だ」 「――」 「おまえたちは何を隠し持っている、貞治」 「そっちで考えろよ、そんなことぐらい。だいたい俺に聞かずとも、おまえは見当ぐらいつけているだろう」 学友ととりとめのない話でもするかのように、少し眉をあげて乾は言った。相変わらず子供の体を、手触りのいい愛玩動物さながらに撫で回しているのが、なおのこと柳には気に入らない。 「まあ、あまりお前の貴重な休日を邪魔するわけにもいかないしな。とりあえず今日の処はこのあたりで失礼するよ。――薫、お別れのご挨拶に、あのひとに何か言うことはあるかい」 子供はきょとんと目を見開いた。 何故そんなことを訊ねられるのか、判らないと言ったふうに。 「なんでもいいんだよ、お前の思ったことを。――好きなことを」 その乾の言葉に、思わず子供を見つめたのは柳だった。小首を傾げるあどけない子供のようすを、彼は固唾を飲んで見守っている。 子供はまだしばらく首を傾げたり、青年の白衣の襟元を手慰みにいじってみたりして、困っていたようだったが、やがて柳と、彼の手の銃をじっと睨みつけるとはっきりこう言った。 「お父さんにむかってそれうったら、ころすから」 柳が息をのむのと、乾が珍しく大声で哄笑するのとは同時だった。 その腕に抱かれた子供の、おそろしいほど明確ではっきりとした敵意。 先刻の冷徹な口調とは裏腹の、あどけない子供の言葉で言われた殺意。 たまらず柳は叫ぼうとした――次の瞬間には、烈風が彼らふたりの方向から吹き付けてくる。 意図的に柳に向けて創り出されたその鋭い空気の流れは、その路地に溜まりたまっていた不潔な埃や不衛生なゴミもろともに渦を造り、柳の視界を一瞬奪う。 その一瞬に――柳の想像するところ、それこそ0.83秒のあいだに。 彼ら二人の姿は、その場から忽然と消え失せていた。 柳はただ呆然と――構えた銃を下ろすのも忘れて呆然としていた。あるいは耳に届くかも知れないとかすかな期待を込めて叫ぼうとしていた名は、風に押しとどめられた。 肩で息を付き、彼はまだその場から動けないでいる。 今から研究所にとってかえして顛末を報告し、システムを再チェックしなければ。 真田弦一郎と対策を練り、上層部へのそれなりに体裁の整った報告――だが肝心なことを一切知らせずにおいておく――のことも考えなければ。 それから、『地下』の彼のことも。 (それから) (ああ、それから) 柳は、だが自分の中で正しく奔走する思考とは裏腹に、冷徹であるはずの精神を乱され続けている。 ――“ヘイムダル” 苦しい呼吸のあいだから、ようやく彼の唇は動いた。 だがそれは音に成らず、彼の呼吸をさらに乱し、ついには彼は膝を折ってその場にくずおれた。 誰にも見せたことの無い、弱々しいその姿――奇しくも祈る者のようなその姿で、彼は再び呟いた。 ――『赤也』 |
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