目が開いたとき、英二は自分が違う世界にやってきたのだ、と思った。 それは、彼が大石から聞かされ、教えられた様々な此の世のことどもに混じっていた、どちらかと言えばたあいのない天の花園だの、死後にゆく幸福の国だのという絵空ごとに似ていただろう。 英二が好んで見聞きしたがったそれに、これほど稚拙に変換された宗教観念がおもしろいのかと、大石は真面目に考え込んでいたものだった。 幼いもののために用意されるものが、いつもやさしく、やわらかい色づけをされたものであること、その意味など彼は知らない。 無機質な白の中でただ一輪の花だけを想って、彼は生きていたのだから。 彼が目をあいたとき、目前には世にも美しい、はかない白い花のような顔がかすかに微笑んでいて、その薄い琥珀色の瞳からすうと涙を一筋こぼしたのだ。 透き通るような白い指を英二のほうに伸ばし、頬をそっと撫でさする。自分は何処かに横たわっていてその白い人影を見上げているのだと気づいたが、その顔に見覚えはなかった。慈愛と底知れぬ憂いに満ちた美貌は確かに英二に向けてほほえみ、白い指先は彼の頬を慰撫し髪をくしけずる。 その人影がこれほど儚く美しい容姿でなければ――ふと周囲に視線を走らせた英二の目に映ったのが、コンクリートの剥き出しになった埃っぽい天井などでなければ、英二はここを死者の導かれる天の花園だと信じて疑わなかっただろう。それほど、その人影の容姿はこの世の存在からはかけ離れているような美しさがあった。 『不二、どうした』 英二がぼんやりその白い美貌を見上げていると、急に低い声がかかった。 『どうしたんだ。――ああ、その子の目が覚めたのか』 白い人影の背後から顔を覗かせたのは、凛とした美しい顔立ちの青年だった。彼もまた、どこか浮世離れした、高貴凛然たる美貌の青年である。 玲瓏たる容貌に相応しくひややかな目つきの彼であったが、ごく薄い眼鏡のレンズのむこうの目が、ふと柔らかく微笑んだ。と、言ってもそれは英二に向けられたものではなく、この白い人影へのほほえみだったようだ。 『よかったな、不二』 どういうわけか、白い人影は一声も発さない。嬉しそうに背後の青年を見上げ、また英二に視線を戻した。 『――君がどうしていたか判るか』 無表情に戻った青年に問われ、英二は目を瞬かせた。 『W−0056、198Xのポイントで君は発見された。発見当時は全身に23カ所の擦過傷と、やや重度の裂傷4カ所、骨折6カ所と打撲11カ所が見つかったが、今はほとんど完治している。ただ体温の上昇が顕著だ、正常範囲値より3.5℃高い』 『……』 『ここは政府管轄H−669地区の薬学研究所だ。君が発見された場所からは……そうだな、直線距離にして391.77q』 『手塚、そのへんでいいから』 少し苦笑する声がして、3人目の人物がその青年の言葉を留めた。 『乾』 『そんな固い説明を続けられても、多分一割も理解できまいよ』 どうやらこの部屋の中にはもうひとりの人間がいたようだ。 青年は何気なしにそちらを振り返り、白い人影は――不二、と呼ばれていたその人物は、いままで英二にほほえみかけていたことが嘘のような、凄まじい憎悪の目つきで背後を振り返った。 そのとき、英二は、不二なる人物の喉元に巻かれた銀色のプレートに目を止める。 ――ドール。 喉元にぴたりとはりついたそれは、まぎれもなく英二の見慣れた、ドールの『プレート』だった。喉元、うなじのあたりの小さなもの、手首に巻かれている細いもの――それは間違いなく、ドールの持ち物であった。 有機体と無機物との奇怪なインターフェースであり、ドールの能力を左右する。反抗心の抑制、恐怖の払拭とさまざまな役割のある、無機質な烙印である。 か細い喉にはあまりに不似合いな、というより、いっそ痛々しいそれをじっと見やっていた英二の視線を、第三の人物は興味深そうに見守る。 『やあ、気が付いてなにより。だがまだ熱が高いので、つらいだろう』 現れた第三の人物は、長身の年若い青年だった。乾と呼ばれていた。 先刻の青年の、薄い玻璃のような眼鏡とはうってかわって、目の表情をも隠すような分厚いレンズである。しかし彼がもっさりと着込んでいる摺りきれた白衣とほんの少しの猫背で、いかにも学者然としている。長年の研究三昧の結果の近眼であろうと誰もが推測するだろうし、また実際にそうであった。 『まずは簡単に君の今置かれている状況を説明しておこう――ここは、政府の管轄区域でH−669と呼ばれている地区だ。政府管轄、と言っても、元、と言うべきなのかも知れないが。ただ、急に言われても何処なのかピンとこないだろうし、我々の正体の方が君には気がかりだろう』 言われるままに英二は頷いた。 『我々は少なくとも政府の手先ではない。どちらかと言えば現政府とは敵対する存在だ。言ってみればレジスタンス――本来は侵略者に抵抗するときに使う言葉だが、我々にしてみれば今の政府の老人どもは、我々の生命に対する侵略者に他ならないからね』 『……』 『君がどちらに属する者なのかは知らないが、君がたとえ政府側の人間だとしても我々もそこまで野蛮人じゃない。即座に殺したりはしないから安心してくれていい』 青年のその言葉の間にさきほどの不二なる美しい人物が、英二の傍らにひしとすがった。肩越しに乾なる青年を睨みつけている。 『君に聞きたいことはいろいろあるが、ともかく体を治そうか。それから順序立てて話を聞こうじゃないか』 『……』 『声が出せるようなら、ひとつだけ答えてほしい――君の名は?』 『……英二……』 英二は素直に応じた。 『そう。では英二、よく休んで少しでも早く回復してくれ』 『――』 『そんなに長いことかかりそうもないが』 意味ありげに乾は言って、もうひとりの青年に退室を促しているようだった。彼らはさっさといなくなってしまい、英二の側には彼が最初に見た白い人影だけが残される。 白い人影――『不二』と呼ばれているらしいその人物の優しい手を頬に感じながら、英二は再び目を閉じた。 ここは人間の世界だ。 自分は地上へ、戻ったのだ。 あのひとと離れて。 とにかく、今は自分の体を休めたかった。 此処がどの位置で、自分ははたしてどういう状況で発見され、今現在どんな立場に置かれているのかを知るのが先決であるのはもちろんだったが、すぐに危害をくわえられないと言うのならばとりあえず眠りたかった。 体はだるく熱を持ち、またすぐに眠気が襲ってくる。 『不二』は相変わらず英二に優しい慰撫を繰り返していた。きっとあの、天使とも見まがう美しい微笑を浮かべているのだろう。その美貌もドールならではなのか。 ああ、そうだ。 ここは天国などではなく――人の世界だ。 あの孤独な王の、鋼鉄の黒城でもない。そうだ、間違いなく人間の世界なのだ。 何を勘違いしていたのだろう。 この自分が、天国になど行けるはずがないのに。 ふっと英二は目を開けた。――何やら夢を見ていた気がするが、あまりよく思い出せない。 部屋の中はまだ薄暗い。気配からして朝のようだが、まだ陽が登っていないのかも知れない。 目覚めは悪くない。きっと久しぶりに、柔らかいベッドでぐっすりと眠ったせいだろう。寝具が色あせてかび臭いのをのぞけば、ずいぶんと快適な睡眠であった。 此処は帝都から少し離れた街の中だ。英二が今所属している反政府組織と友好関係を保っている、別の組織の面々が使用しているねぐらのひとつである。 ここ起点にして帝都へ潜入するという乾の言葉に従って、行動をともにしたのは六人。 桃城と河村と、それから英二。――そして、三人の『ドール』であった。 もとは何か城館だったらしいこの建物はところどころ崩れている。内部の豪奢な飾り物や家具などはいっさい取り払われていたものの、睡眠をとるためのベッドだけはいくつか残されている。 それも本当に、このような荒くれた男達が睡眠のためだけに使用しているせいか、ことさら磨いたり、擦り切れた寝具を新しいものに取り替えたりという心遣いは為されていなかった。英二達が休む場所として案内された部屋に置かれたベッドも天蓋つきの巨大で立派なものであったが、垂らされるべき布はとっくに取り払われ、金の刺繍のされたなめらかな寝具も色あせ、擦り切れてところどころの布が薄くなっていた。 それでもトラックの荷台などに比べれば、天国のような柔らかさであることには変わりない。 英二を真ん中に右側に不二、左側に薫、と、三人並んで眠るのにも十分広く、その寝心地のよさも加わって昨夜は珍しく早々に寝付いてしまった。 様子を見に来た河村が、ぴったりくっついて眠る『子供達』のようすに、まるで猫の子が昼寝しているようだとこっそり笑ったことなど英二は知るよしもない。 体をそっと起こしかけ――英二は、横たわる不二の手が自分の手を握っているのに気づく。ちなみに左側の薫は、英二のシャツの裾あたりを可愛らしく握りしめている。 英二は幼い薫や不二を気遣って自分がベッドの端で寝ようとしたのだが、どうしても英二の隣で寝たい不二と、おずおずと訴えかけられた薫に負けて、真ん中にされたような形になってしまった。 英二は気遣って起きたが、どうしてもドール達にはささいな気配でも気づかれてしまう。案の定、不二も薫も、ぱちりと目を開いた。 もともとドールは人間ほど睡眠時間が長くなくともいいのだ。先にめざめて英二を起こさないように気遣っていたのは、ドール達のほうかも知れなかった。 「ごめん、ちょっとだけ、外の空気吸ってくるよ」 英二はベランダの方を指さした。不二は自分もと英二について起き出そうとしたが、英二が優しく押しとどめる。 「不二はあんまり姿見せない方がいいよ。あのベランダ、外から見えるだろ?」 不二はたちまち不満そうな顔をした。 が、あまり不二の容姿を、この男ばかりの中であからさまにするのはよろしくない。乾にもそのあたりはよく言い聞かされている――頭から疑ってかかるわけではないが、用心するにこしたことはない、と。 薫も同じことを言われているのだろう、不二の服をちょいちょいと引っ張り、首を振った。 「すぐに戻ってくるよ」 今にも泣き出しそうな不二を軽く抱きしめ、背中をぽんぽんと叩いてやって英二は窓側へ歩き出した。元は白かったのだろう、塗装の剥がれた格子が張り付けられた大きな窓は、そのままガラス張りの扉の役割をも果たしている。 軋む扉を開けて出たベランダは広々としている。 まさに夜明けまであと少し、と言ったところで、街なみの向こうの地平線は僅かに明るくなっていた。ここから見える街並みは、皆一様に低い建物ばかりだ。ラグナロクの間に目に付く高層建築物はすべて倒されてしまったのだろう。 邪魔なものを振り払うように。 いとも簡単に、きっとなぎ払うように。 『彼』の手で。 空はいつもかわらぬ疲れた鉄錆の色だ。 ひんやりとした空気を肺腑いっぱいに吸い込んで、英二が大きく息を吐いたときだった。 「――起きたの」 ぼそりと声がかかって、英二は飛び上がらんばかりに驚いた。 いつのまにか英二の隣には、すらりと長身の青年が立っている。――あの、伊武とかいう青年である。 乾達の案内役であった彼は、少し遅れて着いた英二達を無愛想に出迎え、ここのリーダーである橘のところへ案内した。しかし、それから別にたいした話もしていない。 ふと見ると、英二達が眠った隣の部屋からも、この同じベランダに出られるようになっている。彼はそこから来たのだ。 「眠れた?」 「――う、うん」 「そう」 それだけ言うと、伊武青年はまたぼんやりと太陽ののぼってくる方向を見た。 「あんまりその柵にもたれない方がいいよ」 英二がどうしていいものか困っていると、伊武はそんなことをぼそりと言った。 「そこのベランダの柵、腐ってるから」 「あ――う、うん、ありがとう」 英二は素直に感謝して、柵には手を乗せるだけにした。そのままなんとなく、じわじわと姿を見せ始めた太陽を眺める。 伊武はそれきり黙り込み、英二に何を話しかけるでもない。 横目で彼を見たが、なかなか姿の良い青年であった。手足の美しい長さに、黒い服がよく似合っている。 細く美しい面輪で、繊細な髪の流れにふちどられて、非常に目を引く。しかしなよやかさや儚げな感じがまったくしないのは、意志の強そうな目の光のせいだろう。 ぼんやりと彼を眺めていると、伊武がちらりとこちらを見た。 「――君みたいな子供が、なんでこんなとこにいるんだか」 「子供じゃないよ」 英二はむっとして言い返した。 「あんただって若そうだよ。――いくつ?」 「18」 俺より年下じゃないか、と英二は言いそうになったが、口をつぐんだ。 自分の外見が15歳のときのまま、まったく成長していないのはよく判っている。これも乾からは、厳しく箝口令が敷かれているものだ。英二が一九歳だと自分で言い張って、それを子供のたあいない見栄だと笑い飛ばして終わってくれるならばいいが、不審に思われることはよくない。 確かに英二は、どうしても二十歳前には見えない。 例の『指輪』が原因だというなら――あれを体につけられてから成長が止まるというならまだ判らないでもないが、そうではないのだ。 もともとの体つきや顔つき、幼い頃の栄養状態の問題もあるのだろうが、何故か英二の姿は、あの鋼鉄の城へ最初に辿り着いたときからかわらないのだった。 姿は華奢で、手足も細く。少女のように愛らしく。男らしい筋肉が張り巡らされる前の、柔らかいしなやかな体。 ――『彼』の愛した姿のまま。 英二が黙っていると、どう思ったのか伊武は言った。 「君も帝都に行くの」 「――……わからない、乾に聞いてみないと」 英二は注意深く答えた。 「ふうん」 「アンタは、いったことないの」 「あるよ。て言うか、俺、帝都に住んでたから」 伊武は淡々と言ったが、英二は目を丸くした。 「帝都に住んでたの?」 「そうだよ」 「じゃ、どうして」 帝都にいるならば、衣食住は保証されている。ラグナロクの期間も、多少の損害は被ったもののお偉方のお膝元と言うことで、目の色を変えて死守されていたはずだ。『死の英雄』が攻撃した都市のなかでは、もっとも被害は少なかったはずである。 そこからわざわざ、何故このような反政府組織に身を投じたのだろう。 それとも、彼も乾や河村達と同じように、ドールの秘密を知って義憤を覚えたのだろうか。桃城のように、命を狙われかけたのか。 「――何もかもつまんなくなっただけだし。そんなまじめな顔で見られてもさあ」 英二の、いろいろとめまぐるしく変わる表情に、伊武はそれこそつまらなさそうにため息をついた。 「高層マンションに住んで、美味いもの食って、仕事で綺麗な服着て適当なポーズとって写真撮られて、女にうるさくきゃーきゃー言われて、政治家だのなんだのの気持ち悪いおっさんの目に留まったら嫌でもベッドの相手して。そういう生活が嫌になっただけだよ」 ひたすらぼそぼそと声の調子も替えず、激昂も自嘲もすることもなく、伊武は言った。 「帰りたくならないの」 「あんな気持ち悪い街に?」 「家族の人とか」 「いないよ――君こそ、誰か、家族の人とかいるんじゃないの。こんな物騒なとこに来る子じゃないよね」 「……」 黙り込んだ英二に、伊武は小さく肩を竦めた。 「何か、あの乾さんって人に言われてしていることなら、よく考えなよ。――大人ってさ、もっともらしいこと言うようだけど、結構いいかげんだから」 「誰に言われて、しているようなことじゃないよ」 英二が存外はっきりと、そしてしっかりと答えたので、伊武は僅かに目を見開いた。 「……俺が決めたことだから」 「――」 「決めたことを、やろうとしているだけのことだから」 「君がそう思ってるなら、いいんじゃないの」 伊武は別段、英二の言葉に感慨など受けたふうもなく、ひとつ怠惰なのびをして英二に背を向けた。 英二はちらりと伊武の後ろ姿へ目をやったが、ここで何を言っても仕方ない。そもそも、声高に主張すべきことなど何もない。 英二は、もう決めている。 地上に降りたあの日から――人の世界に立ち戻った、そのときから。 「誰に言われてもいないよ」 英二はまた小さく言った。 もう伊武の耳にも届かないだろう、彼は自分の――かどうか判らないが――部屋へ戻ってしまっている。 誰に聞かせるためでもなかった。 小さく拳を握りしめた、自分に言い聞かせているだけだったのかもしれない。 「俺が決めたんだ――俺の意志で」 自分が考えた。 己に、そうと誓ったのだ。 そうだ、己の意志で決める。 知らずに流されることも、知らされずにまどろむだけの日々も、もう終わりだ。 全部選ぶ。 自分で決めるのだ。 「だから泣かないで」 きっと上げた顔は、地平線の向こうを昇り来る太陽の光を浴びる。痛々しい決意に満ちたその表情を、誰を思ったのか英二はふとなごませた。 「俺が、ずっといっしょにいてあげるからね」 最期まで。 |
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