凄まじい地響きが英二の体をゆさぶった。 次の瞬間には英二は、ぴたりとたしかに寄り添っていた大石の体からはるか右方――そう、このふたりの位置とはちょうど三角形になるような場所へと飛ばされていた。 大石が己の背後に英二を庇わなかったのは、少年が大石に向ける力があまりにも強すぎて、自分の背後へ英二を移動させた場合にはその力のあおりを英二が間違いなく喰らうであろうと判断したからであった。 事実、もうもうと立った砂煙が落ち着いたときには、大石の背後の地面は凄まじい勢いでえぐられまたは亀裂が入り、もしも英二がそこにいたなら怪我ではすんでいなかったことが明白であった。 しかしこの位置では、英二が少年の隙を見て要塞の中へと逃げ込むことは非常に難しくなった。それをはかっていたのかどうかはわからないが、よろよろと身を起こした英二が見たものは、不敵に笑んでこちらに視線を寄越す少年と、相変わらず眉根を寄せた難しい顔をした大石だった。 しかし周囲の惨状に比べれば、大石もこの少年も場違いなほど、なんとすずしげなことか。 少年は両手を行儀悪くズボンのポケットに入れたまま、とんとんと爪先で地面を踏んだ。 次の瞬間には再び地面が大きく揺れ、大石の周辺だけが、ぼこりと綺麗な円形のクレーターのように沈んだ。 少年はまだにやにやと笑っている。 大石は、少しばかりうつむいた他はまだ何のかわりもない。 ――ないように思えるのだが。 「まだつぶれない?」 少年は無邪気に大石に尋ねた。 次の瞬間、またその“クレーター”が、大石を中心に置いたままえぐれて低くなった。 「つぶれないの、これでも?」 ふたたびそれが低くなる。 「お、大石……」 英二がそれでも彼のところへよろよろ戻ろうとすると、見計らったように少年が甲高く言った。 「今あそこにアンタがいっちゃだめだよ」 「――」 「あんたなんてつぶれちゃうよ。ぺったんこだ。――『ドール』だから死なずに済んでるだけなんだから」 英二は気圧されて、息をのんだ。 ようやく大石の周囲にひどい重圧がかけられていて、それで彼は動きも出来ず立ちつくしたままなのだと気づいた。 しかし気づいたところで、英二にはどうすることもできない。 ほうりだされたそこで――ちょうど少年が乗ってきたヘリの脇でへたりこみ、『ドール』なる存在の未知にして静かな、そして強烈な争いの様子を見つめているしかないのだ。 英二には、向かいあった二人のうち、どちらがどう手を出したのか判らない。 そもそも大石も少年も、指一本上げようとしなかったし、大仰に何事かを思わせるようなかまえは見せなかったからだ。 どうするのかと英二が固唾をのんで見ていると、そのうち少年のほうがふと目の前に手をかざした。光が眩しいので避けようとするような何気ない仕草だった。 だが次の瞬間、凄まじい勢いで少年の周囲に風が渦を造った。周囲の砂塵が巻き上げられたことによって、小型の竜巻のような形がはっきりと見える。 風の渦は少年を中心に唸りを上げ、唐突に細くなった。まんなかにいる少年を押しつぶそうとでもいうのか、ごうごうと言うあの低い風の唸音が響く。 しかし少年は、気に入らなさそうにまた再び足をとんとん、とやった。 舞い上がっていた小石や砂粒が、静止画のようにぴたりととまる。 次の瞬間には雨降る勢いでそれらが地面に降り注ぎ、英二の顔にもぴしりと小石のいく粒かが当たった。 「これっぽっち?」 少年は唇を尖らせた。 大石は、もうあのなにやら恐ろしい重さの圧力からは解放されているらしく、体に巻き付けた布の裾を優雅に振り払って砂を落としている。 その半ば伏せた目がゆったりと上げられ、少年を睨みつけた――次の瞬間。 また恐ろしい地響きが英二を怯えさせた。 びし、と大きな裂け目が地面に生まれる。 今まで確かにその場には少年がいたのに、彼はすばしこいリスのように空中に逃れ、あろうことかそのままふわふわと浮かんでいた。 地面の亀裂は大石が打ち付けた拳が生んだものだ。裂けめは空気の中にも見えない刃となって走った。 それは少年の首を貫き損なって前髪を数本飛ばす。 続けて何度か白い光が矢となって少年をめがけたが、それぞれすべて美しく少年の前ではじけとび、時ならぬ白い花火のようであった。 「大石っ」 必死で呼ばわる英二を、少年は空中からおもしろそうに見つめていたと思うと、ふいに英二の側に降りてきた。 驚いて見上げる英二の髪をつかみ、酷い力で引きずって悲鳴を上げさせたあと、少年は高らかに笑って言った。 「おとなしくね」 「い、いたっ」 「壊れちゃったらもったいないでしょ、こんなに綺麗な髪してるのに」 「離せよっ!」 英二はもがいた。 少年を突き飛ばそうと暴れ、なんとか髪から手を離させようとする。 「離せ、このちびっ! 大石になにしてんだよ、やめろよっ」 「はねっかえりネコ」 くくく、とのどの奥で少年は笑う。 「いいな、可愛いな。俺、猫って好きなんだよ。ずいぶんねだったんだけど彼処じゃ飼えなくってさ。“ゆき”はしかたないことだから我慢しろっていうんだけど」 「――いた、痛いっ」 「人間の格好した猫っていうのもおもしろいね。こんなに可愛い。安心しなよ、かわいがってやるからさ。ちゃんとあったかいミルクもあげるよ」 「ふ、ふざけんな、そんなこと――……あっ」 殴りかかろうと手を動かした瞬間を見抜かれ、髪をまた引かれて英二は地面に押しつけられた。 英二よりわずか幼く、背も小さく、少女のような腕や足をしているのに、力はひどくて容赦ない。 「英二を離せ」 少年の後ろから低い声がする。 「うるさいんだよ、バカ親父」 「英二に触るな。離れるんだ」 いつの間にか大石は少年の背後に来ていた。 「よく“場”から抜け出せたね」 「他に気を取られているからだ」 「ふーん。あんたもこの子気になってしかたないくせに」 「英二を離すんだ」 「ずいぶんこの子綺麗な髪だね」 少年は大石の言葉など聞いていないふうで、あっけらかんと言い放った。 「どうしてこんなに綺麗なのかな。赤くてきらきら光ってて。――俺の目には、他のどんな人間の髪より綺麗に見える。……あんたもそうでしょ?」 「――……」 「ドールには、この子の髪は眩しい宝物みたいに見えるんだね。この子連れてかえったら“ゆき”も喜ぶ」 花でも摘んで帰ろうかと言った風に言う少年は、きらきらと目を輝かせて英二を見おろしてくる。 「うん、やっぱり俺がもらって帰ろ」 「英二から離れろ」 「なんだったら、首から上だけでもいいしね」 「『ロキ』」 「――……俺さあ、一応名前リョーマって言うんだよね」 少年は苛々とした風で、背後を振り返った。そのときにようやく英二の髪から手を離す。 大石は何のかわりもないふうで、しかし英二の目には明らかに冷酷な怒りに満ち満ちて少年を睨みつけている。 「あんたに『ロキ』って呼ばれると、なんかすっごいムカつく」 大石は少年を無視し、あろうことか彼を手で押しのけた。少年はむっとして何か文句を言おうとしたらしかったが、大石が英二の側に膝をついたのを見て、しかたなく手を出すのを止める。 「英二」 「だ、大丈夫……?」 「なにも問題はない。――そこでじっとしていろ。おまえにはなんの影響も及ばないようにする」 「……」 「いい子だ。おとなしくしているんだ」 大石が英二にかけた言葉に、少年は目を見開いた。 「おどろいた。あんたがそういうこと言えるようになったんだ」 少年の揶揄にも大石は動じなかった。 動じず少年を睨みつけ、顎をしゃくってもといた位置に戻るように示す――英二から出来るだけ離れる位置へ。 少年は大石に従うのは、どんなささいなことであれ嫌でたまらない様子だったが、しかしそこで無力な英二を巻き込むのは彼にも不本意だったようだ。 「おとなしくしててよね」 「――」 「……だいたいこういう狭いところでやりあうのが間違ってんだけど、あいつあんたから目を離したくないみたい。心配しなくても、俺もアンタを傷つけたくない。だから、イイ子にね」 大石の真似をしたわけでもあるまいに、そう念押しして彼もともあれ英二から離れた。 「よっぽどあの子お気に入りだね、『親父』」 「……」 ふたりして生真面目に英二を気遣い、そこから離れている最中、少年はおもしろそうに言った。 「――あんた、あの子になにしたの?」 「……」 「あの子、触って判ったよ。――連れて帰ったら、喜ぶのは“ゆき”じゃなくて柳のほうだね」 「――……」 「まあ俺としては別に柳を喜ばせる気はさらさらないから、あの子のそういうことはどうだっていいんだけど……でも、そうしたら、あんたのほうが気になるね」 少年は、大石に向き直って言った。 「今のあんたは、あの研究所にいた頃よりずっとずっと弱くなってる」 「――」 「そんな体で俺とまともに戦えるつもり?」 はらはらしながら、向き直るふたりを見ていた英二だったが、すらりと佇む大石の周囲に、再び風が渦巻き始めるのを見てごくりと喉をならす。 それはたちまち小さな渦を巻き、赤い色を帯び始め、いつか軍隊を一瞬にして焼き尽くしたあの赤い宝玉にかわり始める。 深紅に育ったその球体が、凄まじい勢いで少年に向かっていったが、少年はひと睨みで消し去った。 「ほら、やっぱり」 赤い光は生まれては消え、消えてはまた生まれた。 そのあいだも少年はけらけらとたかく笑いながら、ゲームか何かに興じているように次々に生まれる赤い光を睨みつけては消してゆく。 「やっぱり、勝負になんないじゃん」 「――」 「あんたウザい」 と。 少年の頭上に、一際大きな明るい光が生まれた。 しかしそれは今の今まではじけ続けた深紅ではなく、紺碧の深い色合いだ。それはおそらく大石ではなく少年が造りだしたものなのだろう。 英二は小さな悲鳴をあげた。 その巨大な紺碧の球体はあっという間もなく大石を飲み込み、なにか非常に重たいものが落ちたかのように今まで彼がいた位置をぼこりとえぐったのだ。 穴の中を、少年はおもしろそうに覗き込んでいる。そこで大石がどうなっているかまでは見えない。だが少年はトリックスターよろしくおどけて空中に浮いたまま、ふたたびあの紺碧の球体を創り出した。 それが球体の形を崩し、細く長い刃の形になり、おそらくは大石がいるとおぼしき場所をめがけてつぎつきに突き刺さる。 「――やめて」 英二はふらふらと立ち上がったが、間断なく揺れる地面に足をとられ、よろけて手を付いた。 転んだ隣には少年が乗ってきたあの黒いヘリがある。 英二はほとんど無意識のうちに、そのヘリの黒光りする胴体に左手を這わせていた。 どこになにがあると知っていたわけではない。何を見つけ、どうするつもりだったのかと明確な目標や意志があったわけではなかった。 何かにすがるようだった左手はやがて入口にある小さなパネルに届く。と、どうしたことか薬指の指輪を中心に、ぽう、と彼の左手全体が発光しはじめた。 (パネル) (コントロールパネル) (ドアの開閉、エンジンのスタートとストップ、回転の調整、高度の調整) 英二は無我夢中で、左手から頭に流れ込む情報の中を探っていた。 手探りで武器をさがすようなもので、きっと彼自身、自分が何をおこなおうとしているものか――そもそも、何を“さぐって”いたものか、自覚はなかっただろう。 (スタートアップ) (制御システム――制御システムのロック) (解除) 英二は確かに、そう念じた。しかしそれは、そこにある武器を拾い上げるのに、邪魔な小石を払いのける程度の意識でしかなかった。 無人のヘリの操縦席のパネルが、ひとりでに動き始める。 (攻撃システム起動。スタート) (機銃の安全装置。ロック。暗号化されたパスワード) (起動の条件から逆に検索。最終候補は13、可能性の高いものから試行) (該当有り――ロック解除) 英二は、ただただ大石のことを案じて叫び続けている。 自分がしたことも、何がおこなわれたかも知らず。己の左手が不思議な光を放ち続けていたことも、気づかなかっただろう。 やがてヘリは少年の知らぬうちに起動し、操縦席の上につけられた機銃の筒先をくるりと回した。 ヘリが動く。 銃口が、くるりとひとりでに少年の背を向く。 たいした間をおかず、傍らで聞いている英二の鼓膜が破れそうな、それは凄まじい爆音が続けざまにとどろいた。 銃口はその小ささにも関わらず、恐ろしいような音を立てて弾丸を弾きだした。 少年とその周囲には、もうもうと土煙があがるほどだ。 しかし。 ――しかし、少年は。 何百という弾丸を背から浴びた、彼は、 『ロキ』は。 「なに、おまえ」 彼は――当然のように無傷だった。 大石がたとえ同じ場面に遭遇しても同じであろうごとく、少年も、何百発と浴びせられた銃弾には少しも痛痒を感じていないようだった。 銃弾は全て彼の肉体に届く前に地に落ちていた。 土煙は少年の体を外れた何十かの弾丸によるものだった。 視線を背後に流して、少年はひどく不機嫌になった。 「なんなの、おまえ。今、なにした?」 「あ……」 英二は怯えて、そのヘリにすがるようにもたれた。 「なにしたんだよ」 「――……」 「何したって聞いてるんだから、答えなよ」 少々癇癪持ちらしく、答えない英二の周囲の地面がどん、と弾むように揺れた。 英二はひっと首を竦める。 だが少年は、何を思ったかかすかにほほえんだ。 「ホントおもしろい猫飼ってるね」 「――」 「したらいけないことは、あとで俺がゆっくり教えてあげる。泣いてごめんなさいって言ったら許してやるよ」 「……」 「それから、もう手出ししないでよ。あんまりムカつくことすると、手が滑って殺しちゃうかもしれないでしょ。駄目だよ、アンタは俺のD2になるんだから。感謝してよ? 柳なんかがあんたを見たらきっと大喜びして切り刻んじゃうよ」 少年はさらに言い募りながら、英二になにかちょっかいをかけようとしたらしかったが、地面がぐらぐらと揺れてバランスを崩した。 「なんだよ、ウザいな、もう」 深くなった穴を見やり、呟く。 「そんなに大事なら守ってみせなよ。俺を倒せよ――今のアンタにはできないだろう」 「大石……っ!」 悲鳴のように英二が叫ぶ。 今度は少年が竜巻を創り出した。そのあたりにある砕けた石を舞い上げ、細く長い風の筒を生み出す。 竜巻はくねくねとうごめきながら少年の誘導に従って、大石がいる場所を目指す。その竜巻の根本は不気味なドリルのような役割を果たしているらしく、地面をがりがりと抉りながら滑稽な通り跡を刻んでいった。 「さ。もういいでしょ」 「あ……」 英二はがたがた震える。 地面をあれだけの力でえぐり取る巨大な風の刃は、無惨にも大石の体の上に突き立てられたのだろう。彼の体を覆っていたあの布が、いくつもに千切れて空中に舞い上がっている。 「もうあいつはダーメ」 少年は悪魔の如く微笑んだ。 「もうアンタを助けに来られないよ。ま、とりあえずあいつはあそこまでやっとけば、あとは軍部がうまくやるでしょ。アンタは俺と一緒に来るんだよ」 「大石っ!」 叫んで駆け出そうとした英二をつかまえ、乱暴に地面に突き倒して少年は宣言した。 「これでアンタは俺の。さ、おいで」 差し出された手に噛みつかんばかりの勢いで、英二は叫んだ。 「やだ! 誰がお前の言うことなんか聞くか、そこどけ!」 少年は英二のその必死な様子をせせら笑う。それだけでなく、いかにも傲岸に英二の顎を掴んで上向けさせた。英二はそのとき初めてこの少年の顔を間近に見る。 大きな、少しつり上がった感じの両目はきらきらと輝いて、まだまだあどけない感じがする。丸みのある頬も可愛らしい顔立ちも、唇がこれほど皮肉げに笑っていなければ少女とも見えたかも知れない。 「可愛い」 少年は少年で心ゆくまで英二の顔を鑑賞できたらしく、満足そうに笑った。 英二は間近に迫った少年の顔の、あまりの幼さに暫し呆然としていたが、あわててその手を払った。 にやにやと笑う少年の方の向こうで、もうあの恐ろしい竜巻は姿を消していたが、代わりにいつのまにか岩が小高く積み上がっている。 その下には、大石の体があるのだ。 「おっ……とっと」 駆け出そうとした英二を、少年はあわてて抱きとめる。英二は少年の思った以上にすばしこく、もう一瞬遅れたら掴みそこなっていただろう。 「離せっ!」 「だから行ったって無駄だって」 「うるさい、離せよっ」 「あのね。あそこただ石つんであるだけじゃないの。さっきみたいに物凄い重力かけてるんだから、近寄ったら駄目だって」 「だったら、さっさとそれやめて岩どけろっ!」 「無茶言わないでよ」 少年は呆れた声を出した。 「それに今、あんまりあいつのこと見ない方がいいよ。ぐちゃぐちゃで、原型とどめてないからさ」 「どけっ、このちびっ」 英二は叫んだが、少年は動じない。動じず、冷たい声でこう言った。 「あいつ、プレートあんたにあげたんだね」 「……っ」 「だから俺に勝てなかったんだ。……本当なら、あいつのほうが強かったんだよ、わかる?」 「――」 「あれはドールの能力の基礎の基礎。決して書き換えることの出来ない根幹のDNA。あとからつけられるプレートとは違って、あれだけは決して体から外しちゃいけない。生きたまま外したドールは、『シグルド』が初めてだと思うよ。どうなるかは、あいつが身を以て証明してくれたけどね」 「……」 「それをきちんと体に融合できた生体も初めて見たよ。Dコードの完全融合体ってわけだ。おもしろいことができるみたいじゃん、柳じゃなくたっていろいろ調べたくなるよ」 英二は唇を噛んで少年を睨みつけ、性懲りもなく差し出された手を振り払った。しかし、さらに逃れようと後ずさったとき、ふいに背中を冷たい風が撫でるのに気づく。 「はい、もう後がない」 少年は楽しそうに笑った。 この鋼鉄の要塞は、高くそびえ立つ岩山の頂上を削り取り、平らにならした場に造られている。断崖絶壁に囲まれた鉄の王城であり、下も見えぬほど高いその位置に建設されていることで天然の防壁にめぐまれているのだ。 英二の裸足の足は、絶壁のそのぎりぎりふちに辿り着いてしまっていた。 「おっこっちゃうよ。危ないからこっちおいで」 「……」 「おいでって」 肩越しにちらりと見やっても、まったく地上のようすなど見えない。足を滑らせれば地獄へでもおちていきそうな、高い高い崖である。 身にまとった布が、風にあおられて大きく揺れる。それだけでもバランスを崩してしまいそうだった。 「どうすんの。飛び降りでもする?」 「――」 「いくらあんたが、ちょっと小手先でおもしろいことが出来るようになったからって、それはさすがに無理そうだね」 少年にせせら笑われても、英二は少年と、少年の向こうの岩山をかわるがわる見つめているだけだった。 確かに――どうしようもない。 胸あたりの布をぎゅっと掴みしめて、立ちつくしているしかないのだ。 なんと力のない――役に立たぬ、無力な。 それでも、このままこうしていても、恐れていた最悪の事態になってしまう。 大石は軍部に囚われ、あの白い場所に戻される。あのとき以上に遠慮も呵責もなく、切り刻まれ責めさいなまれるだろう。 それだけは――あの絶望の白に満たされたところへ彼を戻すのだけは。 彼を連れ去られるわけには。 いっしょにいるからと、誓ったのだから。 英二が、とにもかくにも目の前に立ちはだかるこの少年をどうにかして、そうしてなんとかして大石の出来るだけ近くに戻ろう、と考えたときだった。 地面が、今までになくぐらぐらと激しく揺れだしたのだ。 「……!」 「大石?」 英二ははっと気づいて、少年が造った時ならぬ岩山を凝視した。 揺れのみなもとは、その『岩山』だ。 少年もまさか、まだ彼が抵抗するとは思っていなかったのだろう。一瞬虚を突かれたようにそちらを振り返った。 英二はその瞬間を見逃さなかった。 「大石っ」 「……このっ」 少年から今度こそうまく逃れられたと思ったのだが、少年には残念ながら手も使わずものを動かす能力がある。 駆け出した途端見えぬ力に引き戻され、また地面に突き倒された英二だったが今度はそれだけで諦めようとしなかった。 「くそっ……!」 「暴れんなよっ」 「うるさい、おまえこそ退けっ」 少年の方がやや小柄とは言え体格的には似たようなものだ。再び駆けだそうとした英二と、それを押しとどめようとする少年の間で、もみ合いになる。 ドールの力とはなんの関係もない、ずいぶん子供っぽいつかみ合いが暫し続いたが、もともと崖っぷちにいた英二のほうが、何かの拍子に押しやられてバランスを崩した。 「あ」 英二の体はふわりと浮いた。 少年の腕を振り払い、決して捕らえられるまいと身をよじった――次の瞬間に。 英二の足は、断崖のその向こうの空を踏んでいた。 「ちょっ……」 少年が慌てて手を差しのべてくる。手を伸ばし、掴めばまだ助かる距離とタイミングであった。 しかし。 その差し出される手を力一杯はたいて振り払い、英二は少年を睨みつけた。 睨みつけられた少年の――驚いたような、そのまなざし。 重力に体を引きずられ、そら恐ろしいほどなにもない空中に背中から落ちてゆきながら、そのまなざしのがんぜなさに、英二は確かに大石との相似を見いだしたのだった。 最後に見たのは疲れた鉄錆色のよどんだ空。 それが、あの鋼鉄の城との――その孤独な主との、別離の瞬間であった。 英二、と呼ばれる声を聞いた。 もうそのときには、あの虚空の王城からはずいぶん離れていただろうに、耳元でその人の声がたしかにしたのだ。寝床でささやくような、あの優しい声。どこへも行かぬかと尋ねたときの、あの悲しげな声。 英二、とたしかにその人の声がした。 凄まじい勢いで落ちてゆきながら――気が遠くなってゆきながらも、それでもたしかに聞こえた。 英二、と彼は呼ぶ。 俺はここだよ、と答える。優しく、慈しみをこめ、そうして贄にさだめられた乙女のように、心を決めて。 俺は此処だよ、大石。 心配しないで、だいじょうぶ。ずっといっしょにいてあげるよ。 ――さいごまで。 |
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