夜。 思えばあれが、最後の夜。 終焉を告げる使者が、少年の姿をしてやってきた――あの朝の、ほんの僅か前のこと。 鋼鉄の城での、それは最後の夜だった。 薄闇の中、あまやかな熱に満ちたひとときののち、まだなにか足りぬふうで大石は英二の赤い髪をいじっている。 指先に素直にまつわる赤い髪を、目を細めて見ている彼の顔を見上げながら英二は囁くように言った。 「ふたりでどこかに行こうよ、大石」 髪をいじる指先は休まなかったが、彼は英二の言葉を注意深く聞いている。 「どこか遠いところ。――誰も、知らないような処で、ふたりでいようよ」 「とおいところ……」 「うん」 大石がおそるおそる、英二の頬に指先をすべらせた。 「どこかいこう。ここじゃなくていいよ、うーんと遠いとこ」 「……」 「ここにいたら、誰かに見つかっちゃうんだろうしね」 「――既に向こうに知られている可能性の方が高い」 吐息に熱を残しながら、大石の言葉は冷静だった。 「この場所のことは、政府高官でも一部の者しか知らない。だがここから帝都のサーバには幾度もアクセスしているし、出来うる限りの偽装はしているがそれも100%確実ではない。――いつか、ここには追っ手がくる」 「うん」 英二はさからうことなく素直に頷いた。 「見つかりたくないのは、俺も同じだもの。――だったら違うところに行こう」 「違うところ」 大石は英二の肩にそっと頬を寄せ、小さく呟いた。 「風の吹かぬところ。雨のかからぬ処。静かなところ、英二が落ち着いて眠れるあたたかい場所のあるところ――」 英二はあわてて大石のひとりごととも言えぬそのつぶやきを遮った。 「ちがうよ、大石。そんなとこじゃなくて大丈夫だよ。俺のこと、そんなに心配しなくても」 「だが」 「俺は大石にこの指輪をもらったから、寒くても熱くても、きっと少しくらいは大丈夫だと思うんだ。ちょっとした傷ならすぐ治るし。――だから」 大石はそれでもまだ納得していないようだったが、英二の細い手が彼の背を撫で、まだふさがり切らぬ傷口のあたりを慰撫するのに目を細めた。 「俺はちゃんと大石についてく。大石が探してくれたところが無理みたいなら、ちゃんとそう言うよ。だから――だから、大石も、この傷が辛かったらちゃんと言ってね」 「辛くなどない」 大石は判で押したような同じ言葉を繰り返した。 「だが何処へ行きたいんだ、英二」 大石が尋ねてくる。 「どこでもいいや」 英二は素直に彼に肩を抱かれるまま、身を寄せた。 「どこでもいい。誰も来ないところがいいな。誰にも邪魔されずにさ。狭くても良いから」 「そんなところはない」 大石は冷酷に、しかしどこか悲しげに言った。 「此の世界の何処にもあの国の手が届かないところはない。いつか見つかる。――何処にいても」 「――そうしたらまた、別の処へいこう」 「いつまでも追われ続けることになる」 英二を見る大石の目が、ゆらりと不安定になった。何処かへ視線をさまよわせ、なにごとかを考えるような顔になる。 英二ははっと気づいて、大石に取りすがり彼の身体を揺さぶった。 「大石。大石、俺は何処にいてもいいんだ。寒いところでも暑いところでも」 「――」 「ふたりでいられればいいんだよ、大石がもうどこか行かないで、ずっと一緒にいてくれればいいんだよ」 言いながらも、このときの英二は、それでも大石の言うことを何よりもよく理解していたのだ。 彼の言うとおり、いったいこの世界のどこに、「誰にも知られずふたりきりで、いつまでも」などという子供っぽい願いを叶える場所があるというのだろう。 何処にいても追われ、何処にいても許されぬ。 たとえもう二度と大石自身が破壊も虐殺も行わないとしたところで、それでも彼らを許すものなどいるはずがない。 大石の犯した罪はなにより重く、そのみなもととなった己のことを英二は忘れてはいない。 まして死による喪失について――なにを言うにも英二がその対象となることについて、大石は過敏なまでに反応する。もしもいまふたたび、帝国の軍と相対してしまうようなことになったら、また多数の人命がそこなわれるだろう。 失う恐怖を一度味わったからこそ、以前にも増して彼は、自分から英二を奪おうとする存在を憎悪しているのだ。 それに――その冷静な考えは考えとして、英二はまったく治る気配を見せない大石の背の傷のことも気になっていた。 胚の状態から装着されると言うそのプレートが、ドールの体にどれほどの影響力を持っているのかは判らない。だが、英二の命を救おうとして大石の体から剥がされたそれが、何か彼という存在に対して致命的なものにならないか、という懸念もあったのだ。 英二が大石を戦闘から少しでも遠ざけようとするのは、その傷によって取り返しのつかぬ事態になることを恐れたからでもあった。 決して許されぬことであろうが、それでも英二は大石をむざむざ追っ手の手にかけさせることだけはしたくなかったのだ。たとえ逃亡の果てにのたれ死んだとしても、まだそちらのほうがよほど、せめて人がましく、彼にとっても安らかに違いない――そうなるときには自分もいっしょなのだから。 「……ひょっとしたら、俺の言ってること、大石にはまだわからないのかもしれない。大石には全然意味のわかんないことだらけかもしれない。でも、それならゆっくり考えていけばいい」 大石は長らく黙っていた。黙っていたが、ややあって小さく呟いた。 「――お前の言うとおりだ、英二」 「大石……」 「俺にはまだ、判らないことが多すぎる。俺のこともお前のいうことも。――だが、英二の言うとおり、ゆっくり考えることにしたいと思う。だから」 「うん」 「だから俺から離れようとしないでくれ」 「うん、いいよ」 英二の声にはいたわりと、わずかな哀れみがこもった。だがそれはこの上もなく、誠実で優しさに満ちたあわれみであっただろう。 「いいよ。それに、わかんないなら、無理に今考えなきゃいけないことでもないし。時間は、きっといっぱいあるよ。大石にも――俺にも」 「――」 「心配しなくていいよ、俺がずっといっしょにいてあげる。さいごの――最期まで」 「――」 「だからもう、泣かないで」 彼はもう英二の言葉には応えず、穏やかな、険しさのとれた表情で英二の肩あたりに頬を寄せる。どちらともなく握りあった手が離れぬようにと、互いに気づかいながら眠りについた。 夜明け前の、優しい時間であった。 ――そうして、それが最後の夜でもあった。 ずっといっしょにいてあげる。 最期まで。 夜明けである。 けわしく尖った山々の重なる、その向こうから朝日が現れる。疲れた黄昏色の空も、暁の一瞬だけは不思議な金色にきらめいて、美しいと言えなくもなかった。 この城に来てどれほど経つのか、英二には判らない。短いようで長くもあり、その逆でもあった。 大石は英二を連れ、その朝早く城を出ようとしていた。 しばらく身をひそめていられそうなところへ、と言う英二の願いに従って、条件に合いそうな場所を探そうとしていたのである。 なにも今日すぐにここを出て移動する、というわけではない。朝と夜とで気象条件や環境が激変する場合もあるし、大石の傷や英二のことも鑑みなければならない。 すぐにそれほど都合のいい場所が見つかる、というわけではない。 コンピュータの中から探し出すわけにも、もちろんいかなかった。機械の中に登録され検索できる場所、というのは、とりもなおさず帝国の人間達の掌握できる範囲内であると言うことだからだ。 長くかかるかも知れないが、それでもふたりは――少なくとも英二は、以前に比べれば余程はれやかな表情をしていた。体は大丈夫かと気遣う大石にも、にこりと笑ってみせる。 もうそればかりを身にまとうようになってしまった長い布をまた巻き付けなおすと、大石と、同じ格好をした英二とは言葉少なに身を寄せ合う。 大人しく彼に体を寄せてくる英二の肩をしっかりと抱き、大石が鋼鉄の城の、その黒門をくぐって外に出たときだった。 「……大石?」 突然険しい顔をして、大石は歩みを止めた。 英二を抱く手に力をこめ、無意識に出来るだけ自分に寄り添わせようとする。 「どうしたの、大石」 大石は鋭い目で、天空の一点を睨んでいる。 英二もつられるように目を凝らした。 大石の――ドールのDNAを体に融合させた英二は、それまでとはあきらかに違った能力が備わっていた。視力ももちろんそうである。 だがその、集中すれば空中の微粒子まで見分けの付く英二の目をもってしても、天空のその向こうに何があるのかを見ることは出来なかった。 「どうしたの、大石」 「――」 「どうしたの……どうかしたの」 「『Loki』」 大石は、英二の聞いたことのない言葉を口にした。 「え?」 「――英二、中に戻れ」 「お、大石」 「中に戻れ。地下へ続くシェルターがあっただろう。少し大変かも知れないが、エレベータを動かさず、階段を使用して下までおりろ。おりたら、この位置から出来るだけ離れるんだ」 「どうしたの。シェルター、ってなんで」 「エレベータを動かすと電動音で彼に気づかれるおそれがある。出来るだけ足音をたてないようにするんだ」 「彼。――彼って」 誰のこと、と英二が言いかけたときだった。 英二の耳に微かな虫の羽音のようなものが聞こえ始める。低く、耳障りな音だ。 そのとき、ようやく英二の目にも視認できるほどの近くに、『それ』は現れたのだ。英二が見ているうちにも、それはぐんぐん距離を縮めているようであった。 それは黒い、それこそこの城と同じような鋼鉄で造られた軍用ヘリコプターであった。搭載されている機銃などは他の軍用ヘリと同じらしかったが、ずいぶん小型である。あれではよくて二人、ともすれば操縦者ただひとりぐらいしか搭乗できないだろう。 ただ――それは、たった一機だった。以前に英二の見たような、数にものを言わせて大石を害しようとしたのとは、少々わけがちがうようだった。 ヘリが近くに来てからは、大石は英二を背中に庇う。もう、城の中に逃れろとは言わなかった。 お互いがはっきり視認できるこの位置で英二ひとりを城の中に逃がしたところで、相手には気づかれてしまっているからだ。 いまここで英二が逃げ出したとしても、その背をヘリにつけられたあの機銃が狙うかも知れない。 ヘリはいよいよ近くに来て、ついに彼らの目の前で地上に着陸する準備をし始めた。 そのプロペラが巻き起こす風にまぎれ、大石は英二に言った。 「いいか。俺が足止めをするから、隙を見て城の中に入れ。さっき言ったとおりに下まで逃れろ」 「大石」 「お前が逃れるくらいまではなんとか時間を稼げるだろう。言うとおりにするんだ」 大石はいつになく厳しい顔で英二に言った。 何事がとおろおろする英二の前、ヘリはあのうるさいけたたましい音を出すプロペラの回転をようやく止め、落ち着いたところだった。 こうして間近で見ても、本当に小型なヘリである。ヘリ独特の流線型、というよりほとんど円形に近く、これは本当にひとりぐらいしか乗れないだろう。 そのヘリコプターのドアが何の躊躇もなく、それこそ自分の部屋のドアをあけるように気軽に、勢いよく開かれ――おりてきた人物を見たとき、英二は驚いて目を見開いた。 子兎のように元気よく、そうして身軽に飛び降りてきたのは、13歳ほどの少年だったからである。 「あー、ったく。オートパイロットだからって、このヘリ乗り心地悪すぎ。どいつもこいつもバケモノのとこに来たくないって後込みしやがってさあ」 そうボヤキながら、彼は腹立ちまぎれにヘリの壁をひとつ叩いた。 大きな眼差しの、なかなかに可愛らしい少年だ。ジーンズと、奇妙な模様の描かれた明るい色のTシャツとで、なぜこのような軍用ヘリから降りてきたのかがはなはだ疑問になるような少年であった。 生意気そうな笑い方はするもののまだ全体的に幼い印象が強い。これほど意志の強い、凛とした表情をしていなければ、ただ我が儘な子供としか見えなかっただろうが、少年にはその外見とは裏腹に非常に大人びた一面があるらしかった。 少年は恐れげもなく、とことこと歩いて大石と英二のところへ近寄ってくる。食事のテーブルを挟むほどの近距離まで近づいて、おもむろに立ち止まる。 皮肉げにゆがめた口は大石を睨んでのちに、ゆっくりと開かれた。 「お出かけするとこだった?」 まだ子供の甲高さを残した、甘い声だった。 「悪いけど、俺の用事すませてからにしてもらうよ」 大石は答えない。 少年はゆっくりと視線を巡らせ、大石の側で呆然としている英二を見つけると、小さく笑った。 「悪いけど、アンタちょっと離れててよ。邪魔だし怪我したくないでしょ」 「邪魔、って」 英二は目を瞬かせた。 「な、なんだよ、いきなり。お前、誰だよ」 「誰って……この人は俺のこと知ってると思うよ」 大石を、挑むような目つきでねめつけ、ついでにふふんと笑いながら少年は言った。 「アンタは俺のこと知らなくてもね」 英二はその小馬鹿にしたような口調に、かちんときて言い返した。 「知らないけど……だからって急に来て、何なんだよ、ちびのくせに」 「ちび……」 今度は少年が目を丸くする番だった。 「あ――あんたに言われるほど、背は低くないよ、俺」 「だって俺より低いんだから、ちびはちびだよ、おちび!」 「――なんかアンタ、ムカつく」 英二の言い方の幼さに怒るに怒れなかったらしく、ぼそっと少年は言った。 「ころっと俺のこと忘れて『誰だ』とか言うしさ――俺は忘れなかったのに」 思春期らしく少々何かに傷ついたような少年であったが、すぐに気を取り直して顔をあげた。 「とにかく、ちびはちびなのかもしれないけど、早いとこ離れててよ。俺、アンタに怪我させたくないんだよ。これが上手くいったら、俺、アンタのこと、もらえることになってんの」 「な、何言って……」 「アンタは俺のD2にしてあげる。ずっと欲しかったんだ。真田あたりはぎゃあぎゃあ言ってたけど、柳はいいって言ったしね」 そう言って笑う少年の、その喉元に――そうして手首に。 銀色のプレートがつけられていることに、英二は気づいた。 「さて、と。そういうことだから、悪いけどちゃっちゃとすまさせてよね、『親父』殿」 英二はあわてて傍らの大石を見上げたが、彼は相変わらず厳しい表情で口を引き結んでいる。 「お前を寄越すとはな、『ロキ』」 ややあって大石は、英二に離れるように促してから低く言った。 「もうよほど、軍部は人手が足りないか」 「死ぬと判ってて、来たくないんじゃない? 人間は死ぬのが怖いもんでしょ?」 「――……」 「俺には……俺達にはわかんない心理だけどね。なにが怖いんだろうね。どうせ死んじゃえば、なんにもわかんなくなるのにさ。自分が死ぬのにも、他人が死ぬのにもぎゃあぎゃあ喚いて、うるさいったらさ」 「確かに、おまえには判らないことかもしれないな」 その大石の言葉に微かに哀れみを感じ取って、少年はすこし不機嫌になったようだった。 「なんだよ」 「――」 「ほんっと、わけわかんないよね、あんたさ」 少年は吐き捨てるように言った。 「ま、いいや。とにかく、俺は俺の用事をすませるから」 「――」 「あんたを帝都の中央研究所へ連れてこいって言うんだ。まだあんたは利用価値が十分あるんだって。俺も出来たらよけいな体力つかいたくないんだよねー。とりあえずあんたも、あんたの大事なそのひとも殺されたりしないみたいだから、俺と一緒に帰ってよ」 「断る」 「――言うと思った」 大石の即答に、少年は首を竦めて笑った。 「じゃあ、仕方ないなあ」 少年は何かの悪戯のように、くるくると人差し指を回して見せた。 そこにはみるみるうちに某かの光が集まり、少年の指先で恐ろしいほど冷たく青い、踊る球体となった。いつか大石が英二に見せた、あの恐ろしい破壊力を秘めた深紅の宝玉と同じものなのだろう。 深紅と紺碧で色合いを違えても、その爆発の威力は決してどちらとも劣るまい。 少年はその球体の出来に満足したように、にっと笑い、そうして大石に言った。 「ちょっと俺と戦おっか、『シグルド』」 |
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