――白。 一面の、白――である。 白く、冷たく、固く、無音。 鼻をつく刺激臭は消毒用アルコールの匂い。 時折視界の端をかすめる深紅の血の色。 だがそれ以外は、白。 白。 一面の白。 寸分の狂いもなく計ったような四角い白のなかで、もそもそと不気味に蠢き続けている固まりもまた、白である。 この世界は、一面の白。冷たく、固く、無音の白なのだ。 蠢く『白』は、白衣のようなものを着ていて――と、言うよりも、どうやらその『動く白』は人間の形をしているらしかったが、みながみな、同じ姿をしていた。 時折己の方へと近づいてくるその白い人間達には、表情がないと言うより顔そのものがなかった。のっぺりとした顔の部分には、目鼻や口など、人間の表情を表すものが何一つないのだ。 彼らは時に近づき、また離れ、周囲をぐるぐると滑稽な踊りのようにしてめぐっていたが、おおよそどれも表情、感情、と言ったものとは縁遠く、時折うるさく意味の計りがたい言葉で話しかけてきては、また離れていく。 出来ればそれをすべてどうにかして自分の周囲から遠ざけてしまいたかったが、そのために拳をふるおうとすると、己の首や背中、両腕、肩などのあちこちから、冷たい重みが伝わって身体の動きを鈍くする。 腕を見ると、医療器具の如き銀色のプレートが、これでもかとばかりに縫いつけられている。これが肉体の反抗の動きを察知して鈍らせており、また有機体と無機物とを繋ぐ奇怪なインターフェースともなって、さまざまな、残酷な試しの場で役立つのだ。 白。 一面の白。 その何もかもが、気に入らなかった。 気に入らない。人間も、この環境も。 己が生きて意識のあることそのものすらも気に入らない。 ひっきりなしに苛々し、何もかもに当たり散らした。実験材料なら意識も意志も無くせばいいし、実際そのように提案もしたのだが、白い固まり達は愚鈍なまでにそれを拒否した。意志ある「ドール」でなければ意味はない、というのだ。 白い固まり達は、時折奇妙な人形を自分によこした。それで好きに遊べと言う。 だが人形達は揃いも揃って泣きわめき、取り乱し、自分の処から少しでも逃れようと狂乱する。そんなもので遊ぶ気になどなれないというのに、白い固まりは次々に、同じような人形をあてがってきたのだ。 白い固まり達と同じように、その人形にも顔はない。目も鼻も、口もないのにあげる泣き声や悲鳴は自分の気に触って仕方なく、たまにその人形で性欲を発散させてみてもつまらなかった。自分の言葉など白い固まり達は聞きもしないので、人形の頭を潰しては、もう不要だという意思表示をし続けてきたつもりなのだが、それも通じない。 自分の中で鬱屈はさらに増したが、それでも日々は白の中で淡々と、そうして滞りなく過ぎていった。 日々、というほど、その時の自分が時間というものに固執できていたかどうかは判らない。時間は、実験の経過の為の、実験の開始または終了の為の、そうして自分の肉体が再生不能な壊滅的な打撃を受けない程度を見計らう為の、ただのめやすに過ぎない。 早くも遅くもなく、単調で、時折あてがわれた人形を壊す以外は、なんの変化もない。 そう。何の変化も、なかったのだ。 けれどあの日。 あの日。 白の世界に、花が咲いた。 オレンジ色の、いや薄紅色の。 時折鮮やかな深紅の。 悲しげな薄青の。 清らかな純白の――。 たったひとつの身体に、『彼』はいくつもの鮮やかな花の色をもつ。 気を引かれ、目を奪われ、心を魅了された。 花は人のかたちをしており、大きな仔猫のような目を持つ、世にも愛らしい少年の姿で現れた。 ――英二 それが、この白い世界にただひとつだけの、咲き誇る花の名。 これは、何だろう、と考える。 意志――意識。 けれど、自分のものではない。 そう考えると、ゆっくりと自分の意識というものが回復してくる。 流れ込んでくる、時折不鮮明で不明瞭な映像を交えたものは、あきらかに誰かの記憶であった。 記憶。意志、意識。 流れ込んでくる、という表現も、本当は正しいかどうかは判らない。誰かの記憶、思い出を傍らでたどっているようでもある。 その記憶には誰をも拒否するような冷たさと、そうして僅かなとまどいがある。傍らにいて、そっと触れようとすると思いがけぬ冷たさで指先を拒まれる。 だが、氷の激痛に耐えて再度指を伸ばせば、記憶はふと傍らにあるものの存在に気づき、苦痛に抱えていた頭をゆっくりと起こすようにしてこちらへと歩み寄ってくる。 ――英二。 ――この世界で、ただひとつの花。 白の苦痛で満たされたその記憶と意識は、大石秀一郎のものだと、そのときはじめて気づいた。 そのときまで彼は――彼自身は、己が『英二』であることも忘れていた。何処かおそるおそると言ったふうに寄り添ってくる『意識』に抱きよせられるように包まれて、それが不安定な質感しかないにもかかわらずに、うっとりと安堵してしまう。 英二。 英二、英二。 彼は英二の顔を両手で包みこみ、その眼や唇、可愛らしい鼻先などをそれはそれは愛しそうに指先と唇で愛撫した。 肌を介して触れる時とは違う、もの悲しいほどの感情が英二をいだく。指のひと撫で、英二にかかる大石の吐息のひとつひとつまでが、全て彼の、英二への哀れなほどの思慕に満たされていた。 ――英二。英二。英二。 ――英二。 彼はただその名を呼び続け、その存在が確かに在ることを、何度触れても確信しきれないように、幾度も唇と指と吐息で英二の顔を撫でてゆく。 思えば、彼が英二を見る目にいつもどこか焦燥じみた、切羽詰まったものが隠しきれずにいたのは、そういう理由があったのだろう。 彼自身、おのれのその焦りに対しての自覚が、まったくとは言わないまでもほとんど皆無であった、と今の英二には感じ取れる。 大石の心に一番近いところにいる、今の英二には。 彼の心にはいつも、彼自身そうと知らぬ焦燥があったのだろう。 どれほどそば近くにおいても、英二を手に入れたと確信できぬ不安。 あの鋼鉄の城から逃れることなど出来ず、大石の力にあらがうこともかなわぬか弱い存在を、その上にこれほど頑強に閉じこめておきながらも、まだ彼が何処かへ行ってしまうのではないかと疑心に苛まれる苦しみ。 それは大石に限らず、誰しも心にある、愛しい者へのほんの僅かな疑念と不安なのである。 人の心など判らぬ。 その真実が何処にあるのか、本当のところは誰も永遠に判らない。 どれほど互いに信じあい、結ばれあっていてもだ。愛し愛されているという確信の中に、蟻の穴ほどの疑念がけっして紛れ込んでいなかった試しなどない。 いつか失うかも知れないと言う恐怖であり、相手の心が判らぬ故の、その疑念。互いにどれほど愛しあう者どうしであったとしても、それは愛情の甘やかさのなかに必ず混じる一本の銀の針なのだ。 針は大石の心を、想像を絶する鋭さと激痛で突き回して苦しめた。どれほどの痛みも、痛みとして自覚せず、それを『痛い』『苦しい』ことだと知らずに白い日々の中でやり過ごしてきた彼が、初めて受ける苦悩でもあった。 『大石』 英二は、恐慌のように自分の顔を撫で、確かめ続ける大石にそっと手を伸ばした。 彼は、似ている。 苦痛を苦痛として知らず、癒される快さに身を委ねることをも知らずにいた、彼は自分と似ている。 『大丈夫だよ』 包まれ続けていた英二の意識はゆらめき、優しい広がりをもって大石の、どこか怯えたような意識を包み込み始めた。大石は、最初は英二のその動きにおののいたようだったが、やがて目を閉じてされるがままになっている。 苦痛を苦痛として悟ったとき――己の傷に気づいたそのあとに、英二が彼によっておだやかに癒されたように、英二もまた、出来得るならば彼の苦悶をやわらげたかった。 やはり自分と彼とは、この世にただふたりきりの同族であるのだ。 『俺が、大石のこと大好きなの、わかる?』 大石は返事をしなかった。だが、包み込まれるその心地よさに、黙って身を委ねているようであった。もう先刻の恐怖はなく、英二の存在そのものにうっとりとひたっている。 『大丈夫。どこにも行かない。……ずっといっしょにいてあげるよ、だから』 目を閉じ、黙って英二の身体に身を預けている姿は、幼子のようで痛々しい。手を伸ばして大石を、出来るだけ驚かせないように抱きよせながら、英二はささやいた。 『だから泣かないで、大石』 「英二」 突き落とされるように、目覚めた。 どこか遠い優しい夢の国を漂っていた意識が、突然うつつの、肉体の中に突き戻されたかのように感じる覚醒だった。 「英二」 ゆっくりと視線を巡らせると、薄い闇の中に大石の顔が見える。 いつもなら目が慣れるのに時間がかかるのに、不思議といまはすぐに彼の表情がすぐに見えた。 血の匂いがする、薄闇。 あの鋼鉄の城の、一番奥のひそやかな寝室。 「おおいし……」 喉から出る声は少しかすれていた。身体を動かそうとすると、途端に眩暈がする。 「まだ動くな、英二」 寝台に腰かけ、仰向けに寝かされた英二を覗き込んでいるらしい彼が、いつもの冷静な声でそう言った。 「――……大石」 「血液が急激に増えた。たぶん、まだ身体がそれに慣れていない。……内臓は完治しているが、皮膚の表面はまだ再生の途中だ」 「――大石、どうして」 「もう少しだ。誤差はあるだろうが、あと25時間と39分……02秒。それだけのあいだ、動かずにいるんだ。そうすれば、身体は元に戻る」 「……」 「たぶん問題なく融合している。経過を見てみないと判らないが98%の確率で深刻な問題は起こらない」 英二には何のことだか判らなかったが、体中がなぜか痺れたように重く、腹や足、呼吸するたびにおこる鈍痛に眉を顰める。 たしか、大石にどこかのほろびた街に連れて行かれたのだ。 美しい灼熱の宝石が破裂し、人々や鋼鉄の戦車を何の苦もなく溶かしていく様におののいて絶望し――そうして、誰かが背後から近づいてきたのに気づいた。 振り向いた瞬間、バケモノの仲間、と言われたことは覚えている。 だがそのあとは記憶がない。なにか、軽い破裂音がして、体中を叩きつけられたようなひどい衝撃が起こった。……そこまでしか、覚えがないのだ。 「おれ……どうしたの」 「至近距離から狙撃された。だが、もう身体は大丈夫だ」 大石は淡々と言う。 その言葉だけ聞いていれば、とてもけが人を見守る者の口調とは思えないほど、冷たく感じる。 しかし。 「ねえ、何故」 「――」 英二は、腕を大石の方に伸ばそうとしたが動かなかった。 「どうして」 察した大石が無言で、英二の手を影響のないようにそろりと握った。だが、表情はまだ変わらない。いつものあの冷静な、美しすぎるほど美しい端正な「ドール」でしかない。 だが、英二は暗闇の中で彼の異変に気づいていた。 「どうして、大石」 「――」 「どうして、泣いているの、大石」 「泣く?」 大石は少し首を傾げたようだった。 ほんのわずか眉根を寄せるその表情は、英二が見慣れたものだ。この鋼鉄の城に来てからと言うもの、時折ふとほほえみも見せる彼であったが、この感情だけは――この表情だけは、いまだかつて見たことがない。 彼は英二をのぞき込み、その身体の回復具合を気にしながらも、表情だけはいつもと変わらぬ、造られた仮面のようであった。 だがその美しい、黒曜石のような双眸からは涙がこぼれ落ちている。滂沱というわけではなかったが、ひっきりなしにひとつぶ、またひとつぶと、闇の中で光り輝きながらベルベットに吸い込まれ消えていく。 「そうだよ――泣いているよ、大石」 英二は、不思議な感動すら覚えながら、その美しい瞳からぽろぽろと生まれ落ちる宝石を眺めていた。嗚咽に顔をゆがめているというわけではなく、堪えきれずに目のふちを赤くするわけでもない。 彼の顔立ちはいつもの美麗な無表情にすぎない。 だが涙はあとからあとから溢れ、手元に残せぬのを惜しいと思うほどにきらめいて滴ってゆくのだ。 「泣く……泣いている?」 「うん。――どこか、痛いの、大石」 「――痛い……そんなことはない」 困惑しながら、大石はようよう答えた。英二は先刻から、この寝室の中に満ちている血の匂いを気にしながら、かすれた声でさらに問いかける。 「どこか、血が出ているところはないの、大石。血の匂いがしてる」 「――」 「大石」 「――背中からの出血だ」 大石は少し身をよじり、あの布に包まれた自分の背へ視線をやった。英二に促されてその布を身体から落とすと、美しい裸の背の一部分、心臓の真後ろにあたる位置に、横一文字の傷が出来ている。 その傷は、どういうわけか塞がっておらず、僅かずつながらずっと血が流れ続けているようだった。大石のなめらかな背はその血にまみれ、濃く匂いが立ち上っている。 「そこに、あったプレート……どうしたの」 「剥がした」 大石は淡々と答えた。 「剥がした、って……どうして」 「英二に」 大石は答え、握っていた英二の左手をそっと持ち上げてみせた。 英二は目を見張る。 その左の薬指に、きらきらと輝く金色の指輪がいつの間にか嵌められていたからだ。 「これは俺の身体のDNA情報を集約しているものだ」 指先でそっとその『指輪』をたどりながら、大石はよどみなく言った。まだその目からは涙が落ち続けていたが、他人事のように大石は己の涙のことを気にしなかった。 「ドールは胚の状態からこのプレートを装着されて育成される。ドールの個々の能力はここに書き込まれた情報に従って決まり、そのように成長する。……ドールをドールたらしめる、もっとも基本的で原始的な『種』のひとつだ」 「……」 「俺は、他のドールと比べて治癒力の値が高い」 じっと聞いている英二に気圧されたように、大石は何故か視線を逸らした。 「成長した人間の身体にこのプレートを装着しても細胞が耐えきれずに破壊されてしまう。いままで成功例はない。――英二の身体が俺の情報と融合できるかは、非常に低い確率だった」 「大石」 「だが融合できれば、英二は助かる。俺ほどではないにしても、ドールの治癒能力があれば」 「大石、ねえ」 「お前を助けるには、これしかなかったんだ。お前は勝手なことをしたといって、怒るかも知れないが」 「そうじゃないよ、そんなことじゃなくて」 英二は、横たわっていても彼を襲う気持ちの悪い眩暈に翻弄されながら、必死に大石の腕を掴んだ。 「大石は、大丈夫なの」 「――……?」 「そんな、とても大事なものを剥がしてしまって、大石の身体に影響はないの」 「――わからない」 大石は、長いまつげを伏せた。 「このプレートが剥がされるのは、ドールが死んだあとだ。次のドールの育成に使用したり、成長の経過をしらべたり、さっき言ったように人間の身体につなげてみたりする。生きているときに剥がしたら……どうなるのだろうな」 データにはない、と呟いた彼に、英二は必死に言い募った。 「大石、これ、大石に戻して」 「英二」 「この金色の。俺はもういいから、もう直ってるから戻してよ」 「駄目だ」 大石は首を振った。 「それをとると、英二の心臓は止まる。俺がそれを英二の身体につけたとき、もうお前の心臓はほとんど機能停止の状態だった。そのプレートで生きているようなものだ」 「……」 「それにもう、それはお前の肉体と癒着している。外したいなら腕ごと切り落とすしかない。指を切ったぐらいでは、すぐに元通りになるからな」 「大石、でも」 「休んでいろ」 大石は、もういつもの彼に戻ったかのようにベッドから立ち上がった。だが何故かその視線はおろおろとさまよい、英二をかつてないほど愛しそうに、そして悲しそうに見つめては、また辛そうに目をそらす。 「まだ動けないだろう。なにか栄養のあるものを探してくるから、大人しく寝ているんだ」 「大石」 「心配しなくても、どこにもいきやしない」 「……」 「ここにいるから」 立ち上がりざま、彼はまたその黒い双眸から涙をひとつふたつと落とした。しかし大石本人はもうそんなことなど気にもせず、あの布を身体にまき直して部屋から出ていった。 どこか怯えるような、いたたまれない様子を見せて。 流れ続けているのであろう血の匂いを、濃く残して。 |
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