乾いた大地と、人と、人の作りだした醜い鉄の塊を熱で溶かしていた彼は、そのときその音にふと気を引かれた。
 パン、という乾いた音。
 本来なら、炎の燃えさかる轟音にまぎれて聞こえるはずもないかすかな破裂音であったのだが、当然は彼の耳はその程度の異音を聞き分けるのは造作もないことだ。
 二度、三度と続いて聞こえてきた音がどうも銃声のようであったが、何故かそれは彼の攻撃対象である目前の軍隊からは距離にして遠く離れている。方向的にも、物陰に隠してきた彼の大事な宝物のことなどがどうにも気にかかった。
 何か、嫌な予感がする。
 嫌な、とても気に触るような、苛々する気分がする。
 胸の奥がざわつく。手足が先から冷えてゆく。
「――……英二」
 炎をようやくのことでかいくぐった戦車の一台が筒先をこちらに向けるのを、指先ひとつで灼熱の朱に溶かして、大石は今し方来た方向を見やった。
――問題はないはずだ。
 あの場所は軍隊が集合するための道筋からは外れている。
 上空からも見えはしない。
 熱反応のセンサーで手広く探されればまた話は別だが、軍の集合した時点でそれを展開する理由はない。
 あれほど小さな少年ひとりなら、隠れおおせるはず。
 そのはずなのに。
 いまだかつてない焦燥感に苛まれ、その苦しみを苦痛と思い知ることもないまま、大石はふらふらと今し方やってきたほうへと向かいだした。
 生き残っていたヘリからの銃撃が背を打ったが、大石は振り向きもせずそのヘリを、まるで紙をくしゃくしゃに丸めるようにして小さく潰す。そのあたりをふらふらと逃れでた人間たちと一緒に忌まわしい篝火の中にくべておいて、彼は次の瞬間にはもう先刻の場所に近づいていた。
 その場所にようやくたどり着き、英二、と声をかけようとする彼の耳に、再度、パン、という乾いた音が聞こえて、ぼそぼそとした、けれど焦った男達の声が聞こえた。
「なんだ、おい。女の子じゃないか」
 しまった、撃っちまったよ、と言う男の声がした。
「だがさっきこいつと一緒にいたのは、あのバケモノじゃないのか」
「しかし、ほら、あんなふうに手を繋がれてる。ひょっとして捕虜にされていたのか。だったら可哀想なことをしちまったかな」
「そんなわけないだろう」
 男達はどうやらふたりいるようだった。
「あのバケモノが捕虜なんかとるものか。人間と見れば殺すんだ、どうせこいつもバケモノの仲間さ、殺しておいてよかったんだ」
 がちゃ、と何か鉄のような重たいものがこすれる音がした。
「おい、まだ息があるみたいだぞ。――きっちりとどめさしとけよ。そんで早く逃げるんだ。あのバケモノに見つかる前に」
「自分でやりゃあいいだろう、ったく」
 男はぶつくさ言っている。
「まあ運が悪かったな。可愛い顔してるのに惜しいもんだ。あのバケモノさえいなきゃ、ちょっとばかしかわいがってやるぐらいはしたのに」
「そんな悠長なことしてる場合かよ。ありゃ全滅だな、おい。集合に遅れてきて正解だったかもしれないぞ。まったく、俺達は軍でも落ちこぼれだが今回ばかりは」
 幸運だった、という言葉を、その男はついに口にすることは出来なかった。
 砂利を踏みしめる音に気づいて振り返ろうとしたふたりは、そこにすらりと立つ青年の姿を見た次の瞬間には、まるで上から酷く重いものが落ちてきたようにぐしゃりと、頭から潰された形になったからだ。
 ほとんど四角の醜い肉の塊がふたつ、思い出したように血を吹き出すのを見向きもせずに、大石はその向こうにあるものを見つける。
「英二」
 彼は、地面に横たわっていた。
 繋がれた右手だけを空中に留めたまま、あの長い布にぐるりと身体を巻かれた状態のまま――大石が気に入り、飽きずに愛撫を繰り返した華奢な造りの裸足の足先を、投げ出して。
「英二」
 彼は、まだかすかに意識があるようだった。
 英二の小さく柔らかい身体を覆った布には、3カ所ほどの赤黒い染みができはじめていた。
 足のあたり、腰のあたりと――左肩に近い、胸元。
「英二」
 近寄って抱き起こしたが、英二は悲しげに目を見開いたままかすかに痙攣するばかりだ。
「英二」
 大石がもう一度呼ぶと、英二は微かに目を動かし、ようやく大石の姿を認めたようだった。だが唇からは多量の血液があふれ出ただけで、英二はその名を口にすることは、出来なかったのだった。

 その直後。
 その大地は、一瞬白く光って爆発した。
 山も、廃墟としてかすかに残っていた街の名残も、そうして何人かはいたであろう軍の生き残りも。
 熱はもはや白い閃光となり、そのあたりの地形全てを一瞬にして焦土へとかえた大石は、彼の出来得る限りの早さで、英二を抱えあの鋼鉄の城へととってかえしたのである。
 あの場では、英二の傷に満足な治療が出来ない。
 その移動にかかる時間と振動とが英二の身体に与える悪影響をさしひいても、まだあの場所へ戻った方が良い方への可能性が多い。
 そのあたりの、冷静にして合理的な判断を下したとは裏腹に、大石の唇からはひっきりなしにうめきが漏れ焦燥に歯ぎしりを繰り返していた。
 銃弾は3発。
 左足太股、右の脇腹と、心臓に近い胸のあたりを貫通している。
 血管を多数傷つけ、内臓もやられている。
 あの鋼鉄の城に医療設備はあったが、それまで英二の身体は生命活動を維持できない。損傷に治癒が追いつかない。
 大石ならばひと息のあいだに修復可能な傷だが、英二はそうではない。失われた血液を英二の身体が創り出すのにも、また損傷した内臓がもとの状態になるにも、あまりに時間がかかりすぎる。
 それまで、英二の身体は持たない。
 人の身体はドールにくらべて、あまりにも脆弱だ。


「英二」
 ようやくのこと、鋼鉄の城へと舞い戻った大石は奥の寝室へと英二を横たえた。
 可能な限りのスピードで彼は此処へと戻ってきたつもりであったし、その速さが他に比べて劣るなどと言うことは決して無いはずだ。だが、今日ほどそれが遅く感じたことはない。何も己の『性能』が鈍ったわけでもあるまいに、大石には、自分がこれほど無能だと思えたのはいまだかつて無いことだった。
「英二、英二」
 大石の呼びかけに、英二は再度目を動かした。
 さまようような目つきをしてみせたが、すぐに身体を弓なりに反らせて再度大量の血を吐き出した。
 肺も傷ついている。呼吸の力が弱くなっている。
 内臓損傷。心肺機能低下。
 そんな言葉はぐるぐると頭を巡り、治療をせねばと思うのだが、大石の知識は、もう英二の現在の状態を死に等しく判断している。
 今はまだ、生命の名残はあっても、間もなく生命維持が出来なくなるだろう。
 人間の身体に施すどんな治療も彼の生存には繋がらない、と判断しているのにも関わらず、大石は英二の名を呼び続け、その目が再度自分を見つめてくれぬものかとあり得ぬ期待をしながら、彼のそばに付き添っていた。
 彼は――そう、大石は、生まれて初めて、まごうことなき「恐慌」状態に陥っていたのだった。
 英二の心臓には致命的な傷が入っているはずだ。
 血は、止めようもなく流れ続ける。
 酸素の供給量は低下し、脳も働かなくなり。
 彼は――英二は、死ぬ。
「英二」
 大石は震える声で呼んだ。
「英二、英二」
 英二は死ぬ。
 動かなくなる。
 もう声を発することもなくなる。
 少しだけ甘えることを覚えて、すりよってくるあの愛らしい仕草も。
 「大石」と呼ぶ、少し舌っ足らずな声も聞けず。
 からみつく腕の熱さも、薄い紅色に色づく肌も。
 花開くように笑う、大石には好ましくてならないあの顔も。
 もう二度と。
 二度と。
「……ア……」
 そう思うと――それが、そのことが間もなく現実になるのだ、と気づくと。
 大石の口からは、名状しがたい、今まで彼が発したことの無いような声が漏れた。
「アアア……ア……」
 大石は、この気持ちを言い表す術を持たない。
 この、とてつもなく気持ちの悪い、身体がひっくり返りそうなほど苦しいこの状態がどういうことなのか、彼には判らない。
 感情ひとつがこれほどの苦痛をうむことだと、彼は知りもしなかったのだ。
 英二は、いままさに彼を掴み去ろうとする死のかぎ爪に抗うことなど知らず、ただおとなしく横たわっていた。
 ゆっくり流れてゆく血も、だんだん冷えていく身体も、大石がどれほど叫ぼうととめる事など出来ない。
 大石はカッと目を見開き、頭を抱え込み、自分の体中に爪を立てて傷を付けながら叫び続けた。今までどれほど過酷な実験に晒されても、たとえ麻酔もなく腹を開かれるようなことがあっても一声もあげずにいた彼が、のども裂けよとばかりに獣じみて咆吼している。
 彼の、生まれて初めての苦鳴は、その身体を傷つけられることではなく、英二を失うことによって初めて上げられたのである。
 今まで英二を連れ去られようとしては幼子のような怒りばかりを表に出していた彼であったが、それはまぎれもなく気に入りの玩具を取り上げられる子供の怒りであり、喪失の恐怖ではなかった。
 失う――死して、二度と復活しなくなる、ということが……それがほかならぬ英二であるということが、大石自身にこれほど苦痛をもたらすど誰が想像しただろう。
 大石自身、死に関しては「生命活動の停止」という、無味乾燥でありながらも、この上なく正確な認識を持っていたにもかかわらず、である。
「英二、英二、いやだ、英二」
 大石は英二にとりすがり、子供のような泣き声をあげていた。
 本当に泣いていたかどうかは、判らぬ。
 だが、そのとき、聞く者とてないこの鋼鉄の王城に響き渡る大石の声は、確かに言いしれぬ悲痛な嘆きの声であった。
「いやだ、英二。――いやだ、いやだ」
 英二は、もう反応も返さない。
 まだ彼の内臓や血管は最後の力を振り絞り、かすかな活動を続けていたが、やがてそれもとまるだろう。
 宝石のような赤い髪は力無く広がり、白い肌は春の花のようであった桜色を失って、死者の青白さを垣間見せ始めていた。
 涙を浮かべたままの双眸は見開かれたまま、ゆっくりと焦点を無くしてゆく。
 その様子に、転げ回るようにして苦悶していた大石は、ほとんど気絶せんばかりに絶叫しながら、自分の身体を包んでいた例の粗目の布を引きずり下ろす。
 右手を自分の左肩にやり、もどかしそうにかきむしりながら背のなかばにただひとつつけられたままの、薄く細い金色のプレートに爪をかけた。
 形の良い指先が肌に食い込み、一気にそのプレートを引き剥がす。
 肉は剥がれ、血は吹き出す。――だが不思議なことに、いつもならばみるみるうちに塞がるはずのその傷口は、いっこうに治らなかった。
「英二、英二」
 大石は自分でも何をしているか判らない状態で、まだ己の肉片と血が生々しくこびりつくそのプレートを手にして英二の身体に覆い被さる。
 血に染まった布を英二の身体から剥がし、弱々しくなってゆく英二の心臓の鼓動を肌ごしにたどり、行き着いた彼の左手をとった。
「死ぬな。――死なないでくれ、英二、たのむ」
 大石の爪が、英二の左の薬指の付け根をひっかいて、傷をつくった。
「受け入れてくれ。拒否しないでくれ、英二」
 大石の震える指先が、そのプレートを注意深く押し曲げる。それは円を形作るとすぐに、どういうわけかつなぎ目を失って世にも美しい金色の、しかし内側に生々しい血をしたたらせた円環となった。
「英二。……頼む、拒まないでくれ」
 徐々に冷たくなってゆく左手の薬指を確かめるように撫でると、大石はそっとその金環を、手にした。
「俺をこばまないでくれ」
 もはや死者のものといっても不思議ではないその冷たい指先。
小さな小さな、か細い薬指に――付け根の傷を目指して、指輪の形に変化したそのプレートを嵌めていくあいだも、彼は震え、恐れおののき、誰にともなく祈るようにして呟き続けた。どこから来るとも知れぬ震えに、その端正な顔をゆがめ、息を乱しながら。
 そう。彼は恐れていた。
 彼は生まれて初めての恐れに、震えていたのだ。
「英二、どうか」


「俺を、嫌わないで」











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