彼の背はいつも傷だらけだった。 背、だけでなく。 胸も腹も腕も足も、うなじや耳の裏、指先、微妙な陰部に至るまで、細々と切り開いて縫い合わせた跡、またあきらかに何やらきつい薬品を塗りこんで爛れた箇所などが見受けられた。 大石は英二などより――と言うより、常のほとんどの人間よりずっと早く傷を回復し、またもとのなめらかで美しい白い肌になってどんな傷も醜い爪痕を残すことはなかったが、それをいいことに彼の身体はしょっちゅう切り刻まれていた。 体中に銀の、薄い表面に幾何学模様が走ったプレートが埋め込まれていた彼の身体は、英二があの白い研究所にいたときから、毎週のように新しい傷跡を刻み込まれ、科学者達の稚気に満ちた実験に供されているようであった。 決して人がたちいってはならぬ領域に、かの人間達は狂気の声を上げ土足で踏み込み、思うかぎりに荒らしまわった――結果が。 この美しい、幼い獣。 彼は、愛情と憎悪、もっとも両極のその一番純粋な部分だけしか知らず生まれた。 「起きたか、英二」 大石は、彼の出来うる限りで優しく、これ以上はないくらい優しく英二を呼んだ。 カーテンはしめられたままだ。今がいつぐらいの時間帯なのか判らない。 ベルベットの濃緑も薄闇の中に沈み、横たわる英二、そしてその傍らで彼を飽かず眺め下ろしていた大石の身体だけがぽかりと白い。 英二はぼんやりと、いつのまにか目覚めたこともさして意識せず、目の前にあるなめらかな白い背中を見上げていたのだった。 彼の背中にただひとつ残されたプレート――それだけ不思議な、まるで他のプレートとは一線を画すことを示しているような、鮮やかな金色であることに今更ながら気づいた。 あの日。 あの研究所から逃げ出したとき、大石は、己の体じゅうからプレートのたぐいを引き剥がしたが、何故か背中のそれだけは残されている。 小さな、細い金色のプレート。ちょうど左の背中、心臓のあたりに位置している。 「英二」 大石は困ったように呼んだ。 その彼から顔を背けた拍子に、頭の上で銀色の枷ががちゃりと音を立てる。 英二の両方の手首をベッドの上の柱に繋いでいる手枷は、無論その程度のことでどうなるはずもない。城の中で見つけだされたそれは、あきらかに人の手首に合わせてつくられ、妙に重たく、鎖も長い。そして異様なほど磨かれて美しかった。 この鋼鉄の城の本来の持ち主がどういう趣味をしていたか知らないが、こうして意志有る者を、家畜のように繋いで辱めるためのものには違いないだろう。 英二は、彼を呼んだ大石に視線を合わせることもせず、彼の存在にも気づいてなどいないというように――いや、だからこそ余計に音を立て、はずれるはずのない枷をがちゃがちゃ言わせた。 「英二」 まだ彼は、これみよがしに枷を動かし続ける。 大石は慌てて英二に向き直る。鎖と枷に繋がれながら出来る限り暴れつづけている、その華奢な手首を押さえた。 「英二、傷がつく」 英二は覗き込んでくる大石からふたたび顔を背ける。 どんな表情をしているか不安になったのか、大石は彼の顔を掴むと無理に己のほうを向かせた。大きな可愛らしいまなこに、涙がまた盛り上がり始めたところだった。 頬に残った涙の跡をたどってこぼれ落ちる。 「空腹だろう。何が食べたい」 「――」 「喉が乾いているだろう」 「――」 「もうすぐ出かけなければいけないのに。ちゃんと食べておかないと、高いところでまた目を回す」 「いやだ」 英二はかすれた声ながら、きっぱりと言った。 「――外になんか、行かない」 大石に押さえ込まれあらがうことも出来ずにいる英二であったが、それでもその心ははっきりと覚悟を決めてさだまっているようで、彼の懇願のような誘いや問いかけに、ことごとく拒否を示してきた。 力ではもちろん、英二など大石に勝てようはずもない。少々暴れてみせたところで大石には掌の中で跳ねる生まれたての仔猫ていどものでしかなかったろう。指先でひねりつぶせる、とまでは言い過ぎだったとしても、それに近い力は大石にはあるのだ。 「英二――英二」 しかし大石は、己の片手で簡単にひしがれてしまう英二の存在を、いとしいと思いこそすれ傷つけるつもりだけはまったくなかったので、この強情ぶりに少々彼を扱いかねていたのだ。 「手が痛いのか、英二」 「痛いよ。さっさと外して」 「これから先も俺の処にいてくれるなら、すぐに外してやる」 大石はどこかおろおろさえしながら言った。 「こんなふうに手を固定していたら、身体に悪いことぐらい判っている――だが、これを外したら、英二は何処かへ行ってしまうつもりなんだろう」 「……」 「英二が此処にいたければ、もう無理に連れ出したりしない。外であんな大きな音を聞いたり、地面が揺れたりすると、怖くていやなんだろう? 英二が俺の処からどこにもいかないと約束してくれるなら、今日は外に連れていったりしない」 「大石がやめてくれればいい」 英二は咳き込みながら言った。喉がひりついて、咳をするにも力を使う。 「英二」 「俺がしてほしいことなんか、たったひとつなのに」 「……」 ここしばらく、なにひとつ口にしていない英二はみるみる弱りはじめていた。それは大石は困惑させ、いままでに彼が感じたこともない恐慌に陥れはじめてさえいたのである。 英二は、大石のように灼熱にも極寒にも乾きにも耐えられないばかりでなく、傷の治癒には時間がかかり、餓えれば途端に動けなくなる。ドールより10倍近くの時間を眠って過ごす生活を送らなければ本復しない。それも、暖かく、柔らかい場所でなければ、眠っていてさえ回復もはかばかしくない。 一番良いのは栄養のある食物を摂取させて、暖かいところで十分な睡眠をとらせることだと大石にはよく判っているのだが、肝心の英二にそれを拒否され続けている。見かねた大石が栄養剤の注射を施すものの、そんなものではこのみずみずしい若い肉体の回復には間に合わないのだ。 無理に外へ連れ出したりしているのもよくはないのだろう。 もともと、それでなくても英二の姿が目の届くところにないと気の落ち着かない大石であったが、英二の『いっしょにいられない』という悲痛な宣言からこちら、その強迫じみた思いはさらに強くなったようであった。 大石がこの鋼鉄の城にいるときは、英二は奥まった寝室にひっそり閉じこめられている。自分一人で出てゆく細工のいっさい出来ぬように手を繋がれて、英二に飽かぬ彼の愛撫を受けたり、また食事をとるように懇願されたりしながら、鬱々と時間を過ごし続けていた。 何が何でもそば近くに、という大石の考えは強く、あの惨いつとめを果たすために城の外へ出るときにさえ、英二をともないだした。 先日と同じように安全なところを見極めて英二を待たせておくのだが、目的を果たして戻るたびに英二はひどく打ちひしがれて、さらに弱っていくようだった。 逃れられぬように繋いだ枷が捕らえた手首が、そのたびに擦り切れ、傷ついた。英二にとってのここ何度かの外出は、気晴らしになるどころかさらに彼を打ちのめしていくばかりである。 「――街を焼いたり、関係ない人を殺したり。俺は、そういうことをやめてほしいだけなんだよ、大石。それはそんなに難しいことなの?」 「英二こそ、どうしてそんなことにそれほどこだわるんだ。そんな、何の関係もない人間達が死ぬことで、どうして英二がここまで感情的にならなければいけないのか、俺には理解できない。英二は俺が、人が死ぬことがどういうことか判っていないというが、死など単なる生命活動の停止だろう――ただそれだけのことだ」 「大石……」 「それが、どうしておまえにはそれほど重要なことなんだ」 これはこの数日、もう何度も交わされ、お互いに平行線をたどり続けている議論だった。 きっとまた大石には伝わりはしないだろう。英二は涙を溢れさせながらそれでも言わずにはいられない。 つめたい枷はがちゃりと鳴る。 人を殺してはいけない。 それは、何故か。 そうあらためて問われ、英二は言葉につまった。 何故殺してはいけないのか。 言葉を持たぬ動物ではないのだから、殺人にまで発展する齟齬が起きる前に意志の疎通をはかれという者もいるが、では言葉があったとしても、生命活動の一環以外に同族で殺し合うこの生きものはなんだというのだろう。 はからずも大石が言った、むやみに人を殺さぬのが人であるというのなら、兵器などはそもそも必要ないものではなかったろうか。 大石のその言葉に英二ははっきりとした反論をすることができない。 人を殺すのがいけないことだと言い続けることは出来ても、何故と問われれば相手が納得するような言葉を返すことはできないだろう。 まして大石の行動のもともとのところは、すべて英二だ。英二をあたため、癒し、この先も心穏やかに暮らせる為の世界を作るのだという。大石のその愛情を感じないわけはなかったが、英二はそれでも、大石の言葉と行動を肯定することは出来ない。 彼は確かにわずか一五歳の少年であり、大石のその激烈で、いっそ明快でありさえする主張を退けるだけのものは、正直なところ持たない。だがその痛々しいほど純粋な愛情に流され、受け入れるにはあの破壊はあまりにも強烈であり、殺戮はあまりにも冷酷で非道であるのだ。 あのとき、英二の前に投げ出されたみにくくひしゃげた肉塊を、英二を最初に抱いた男だと大石は言った。 正直、英二はその男の顔など覚えていない。大石にそう言われても――そう、たとえきちんとした、生きているときの顔だったとしても、思い出せなかったに違いない。 そんなことを思い出して己の中で苦痛に代えねばならぬほど、英二の精神が闇の中にさまよい続けているわけではなかった。彼はとっくに大石に癒され、傷跡が残りはしてもその痛みに苦しむことは、もはやなかったのである。 だからその男のことは、英二にしてみればはるか過去のことであったのだが、大石にとっては、幼い英二を虐待したという事実は許し難いものがあったらしい。 もともと人間に対する憎悪の著しい彼である。その上英二を傷つけた事実があるなら、彼の無情な刃が見逃すはずはなかったのだ。 英二が黙りこくっていると、大石は痺れを切らしたように立ち上がった。彼はもうこの議論には、よほど辟易しているらしい。 「今日はそれほど時間に余裕はないんだ、英二。一緒に来い」 「やだよ」 「少し時間がかかる。だが、これを終えたら当分はここにいても大丈夫だ。だから、今日だけ、大きな音がしても、地面が揺れても我慢してくれ」 「やだったら、行きたくない」 抗ったが、無論英二は勝てない。 彼はたちまち大石の腕に抱きあげられ、稀少な宝のように扱われながら城を出なければならなかった。 今まではうっとりと彼の腕に身を預けているだけでよかったが、こうなってみると自分の力の無さが途端に情けなくなってくる。知識は増えてもそれは本当にそれだけのことで、大石を説得するだけの知恵は持たず、まして彼に抵抗するだけの力もない。 このまま手をこまねいて彼の殺戮と破壊を許し続けるくらいなら、いっそ自分から命を絶とうかとすら思ったのだが、大石は聡く見抜いているからこそ英二を閉じこめ、目を離さずにいるのだろう。 悶々と英二が考えている間に、当の大石はつつがなく今日の目的地であるらしい場所についていた。 「――英二。今日はこのあたりにいるんだ」 「ここ……」 英二は、珍しげにあたりを見回した。 それは、今まで大石に無理矢理連れられていった先のような、賑やかな街や板張りの家が何処までも続く貧民街、または街の外れの軍隊の駐屯地、と言ったところではなかったせいだった。 どのみちどんな場所に連れて行かれても、そこはたちまち紅蓮の炎に包まれるか、あるいは酷く爆発するかして、不運で不幸な者達が誰一人逃れ得ることもないままに焦土と化すだけのことであったのだが、今日は最初から違っていた。 そこはどこかの街の跡であった。この冷酷無比な破壊者が来る前に、何かもっと別の原因による壊滅がもたらされて久しいと思われる、コンクリートの白や灰色の瓦礫だけが広がる場所であった。遠くには、さして高くない山々が見える。山肌は砂黄色で、緑の木々など一本も見あたらない。 その残骸だけの街の外れに大石は英二を下ろした。 いつものように物陰の、空からもそのあたりの道からもすぐには見えぬ場所――自分が破壊を行う位置から出来る限り近いところ、いつ何時、なにがあっても駆けつけられる場所、爆風や炎の熱風の届きにくい場所、そうして英二の手を鎖で繋いでおける丈夫で都合のいいものがある、そういうところだった。 「ここ、なに」 英二は少し怯えたようにあたりを見回し、無意識のうちに少し大石に身を寄せた。 その英二のわずかな仕草に気をよくしたのか、大石は目に見えて表情を和らげ、英二をことさら大事そうに抱きよせて髪まで撫でた。 「まあ、見ていてごらん。――予定時刻より遅れているようだ」 大石はそう言うと、英二をそっと抱き寄せたまま、自分もその瓦礫で出来た物陰に身体を隠してしまった。 いつもと違う様子に英二は逆らうことも忘れて大石の腕の中でじっと身をひそめ、からからに乾いたその不毛の大地を見やっていた。 と。 「ほら――来たみたいだ」 遠く、遠くから何やら、低くとどろく音が聞こえ始めた。最初、何かの羽虫の唸りにも似ていたそれはみるみるうちに大きくなる。 最初、地平の彼方にうっすらと黒く見えていた影は、あっという間におびただしい数のジープや軍用トラック、戦車、というものになり、たちまちこの街の中を埋め尽くし始めた。 巨大な羽根が旋回する音も加わり、黒光りする長い胴体をもったヘリコプターが現れる。それらはそれぞれにまったく同じ印章を刻みこんでおり、英二の記憶に間違いがなければ、この帝国の随所で見られる国家の印のようであった。 ヘリや戦車、軍用ジープ、たくさんの乗り物から降りてきたおびただしい数の軍人達、それらがたちまち規律正しく並び、一糸乱れず整列していくありさまを英二はぽかんとして見つめていた。 「俺があの黒い城にいることを、かぎつけたんだ」 大石は優しく言った。 「今までのように、各地に駐屯している軍隊ではらちがあかないと思ったのかな。俺に気づかれないように此処に動かせる軍部を集めて、あの要塞ごと破壊しようという魂胆らしい」 大石はそう言いながら、英二を抱き寄せているのとは別の掌を、英二の前にかざしてみせる。 そのてのひらの上で、小さな風がくるりとまきおこる。そのあたりの埃を巻き込んで風の形はたちまちのうちに、ごくごく小さくはあったけれども竜巻の姿になり、やがて炎のような赤い色を宿し始めた。 英二がぽかんと見ているさきで、その赤い風の渦巻きはみるみる丸くなり、小さなボールのような形に最終的に落ち着いたようだった。 ボールの中では相変わらずぐるぐると空気がうねり、赤く明滅している。色合いの美しさに英二はおもわず近寄って見ようとしたが、大石に止められた。 「そんなに近寄って火傷するといけない、英二」 「やけど?」 「一二〇〇度ある」 思わず息をのむ英二の目の前で、大石はその赤い風の球をたてた人差し指の上にひょいと移動させた鮮紅色に見入る英二にじゅうぶん眺めさせ、また自分でもそのできあがり具合を確かめてから、ぴんと指先で弾いた。 小石でも弾くような本当に軽やかな仕草だったのだが、それはたちまちのうちに天高く舞い上がり、英二達の頭上はるかに消えて見えなくなった。 「――……」 大石の行動の意味が分からず、英二が首を傾げていた――その数秒後。 その球の行方を微笑しながら見上げていた大石が、突然英二を胸ふかくに抱え込んだ、次の瞬間だった。 何か非常に巨大な、そして重い物体がおそろしいいきおいで落ちてくるときにたてる、あのひゅうという風の音。不吉なその音が突然うなったかと思うと、足下がぐらぐらと揺れ、恐ろしいような低い爆発音がとどろき渡ったのだった。 くっくっく、と喉の奥で冷たく笑っている大石の視線の先には、巨大な花が咲いていた。 赤い花。 ゆらゆらと揺れ、身もだえし、咲き誇る大輪の炎の花。 その不吉な花の咲いているあたりには、確か先ほどまで規律正しく並んだ車やヘリや――生身の人間がいたはずだったのだが。 「こうしてひとつところに集まってくれていたほうが、ずっとやりやすい」 大石は恐ろしいことを言った。 「余計な、後回しでもいいようなところばかり壊して、要らない力を使わずに済む――さあ、もう少しだけここでおとなしくしているんだ、英二」 へたりこもうとする英二に手を貸し、そっと座り直させながら、大石は優しく言い聞かせた。 「まだ向こうから、遅れた連中が何人かやってきているみたいだ。始末をつけてくるから、もう少し我慢してくれ」 「――……」 「終わったらすぐ帰ろう。いい子にしているんだよ」 そういうと英二の頬に口づけ、大石はふっと姿を消した。もちろん、瓦礫の鉄筋にきっちりと、英二の腕を枷で繋いでいくことだけは忘れずに。 英二は声も出せず、天高くまだ燃え続けている死の熱花を見上げていたが、ややあってがくりと力無くうなだれた。もう疲れ果てたせいか、涙も出ない。 止めようがない。 あんな、圧倒的な、凄まじい力を持つ彼をどうやって。 彼には英二の言う意味は――たとえ己自身のことでなくとも英二が死を忌み嫌い、恐れてさえいる理由が、本当に判らないでいる。 彼が知ろうとしない、というならまた話は別だ。だが彼は、本当に理解できないのだ。 英二を失いたくないと言う気持ちはあっても、それがただちに『死』というものに結びつかないのだろうか。 追われてただ殺されるのが嫌だと口にしても、『死』そのものに対する恐怖や、そのむごさに思い至ることがないのだろうか。 英二が動くたびにがちゃり、と鳴る銀の枷は、美しかったが冷たい。 ひっきりなしに続いている爆音と、そのたびに小刻みに震える地面に座り込んで、英二が絶望して顔をおおった時だった。 英二の背後で、小さな音がした。 固い靴が乾いた地面を踏みしめる音。 響き続ける爆音に耳を麻痺させていた英二が、背後の、大石以外の存在に気づいたのは、もう数秒あとのことだ。 はっと顔をあげ振り返ったときには、もうそれ――ひと目で軍人と判る灰色の服を着込み、僅かな恐怖で汗を額に滲ませた男――は、英二に銃口を向け、狙いを定め終わっていた。 そのか細い愛らしい姿形にこの軍人がわずかな憐憫を覚えるよりもはやく、英二がなにごとが起こったのかと考えるよりも早く。 引き金は、力強く引かれてしまっていたのだった。 |
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