英二が泣く。英二が世にも悲しげに泣き続ける。
 その理由がどうしてもわからない。

 英二の為に花を。
 こんなうら寂しい、荒涼とした場所など彼には似合わない。柔らかい緑の下草と、とりどりの色合いの花で埋め尽くされた世界こそが、彼には相応しい。
 英二の為に空を。
 かつて人の世界の空は、青かったと言う。抜けるような、それは美しいと皆が口を揃えてたたえた、かつての蒼穹の下で笑っていることが、きっと英二には似合う。
 街を焼き、人を消し去り、あの不格好なコンクリートを全てたたき壊して、花の種をばらまけばいいのだ。
 空と水と大地を汚すばかりの工場など要らない。無くしてしまえば、きっと青い空もよみがえるだろう。
 英二に花と青空を。
 やわらかいもので満たされた、なにひとつ彼を傷つけない世界を。
 そう思うことのなにがいけないのか、どこが英二をこれほど悲しませていることなのか。
 大石には、どうしてもわからないのだ。

 イルミネーションでごてごてと飾り立てられた街を焼くときに、ガラスケースの中にあったきらきら光る石をひとつかみ持ち帰った。赤や緑や紺碧の輝きに英二が喜ぶかと思ったのだが、そうはならなかった。
 それは英二の好きなものでは無かったに違いないと考え、その次にはレースで縁取られた美しい純白のベールを持ち帰った。赤い髪にかぶせてみるとよく似合ったが、彼はまたも悲しげにすすり泣いた。
 たからかに唄う小鳥のおもちゃ、とろりと甘い蜂蜜、毛糸で編まれた人形、銀の横笛、玻璃細工の花、瓶に詰められた星の形の砂糖菓子、ころころと鳴るオルゴール。
 しかしそのどれもが彼の心を慰めなかった。
 ただ英二は泣き続ける。
 泣いて、懇願する。
 どうしていいか判らず、大石はただ彼が深く傷ついていることだけを思い知らされる。
 その日も――その朝も、大石秀一郎は困惑し、立ちつくすしかなかった。
 泣きながら彼にすがり、懇願を続ける彼のいとしい宝珠を、どうしてやればいいのか判らぬままに。


「英二」
 大石は、泣き続ける英二の肩を掌でつつみ、何度目になるのかそっと抱きしめようとした。しかし、ここしばらくそうであったように、英二は彼の抱擁を首を振って拒んだ。
 巨大な寝台に座り込んだ英二は、そこから離れようとした大石を引き留めている。
 その英二の態度に、大石はどうしていいか判らないでいる。
 出かけようと身を起こせば、おそらく眠っていなかったのだろう英二が、必死の形相ですがりついてきた。なのに、口づけようとすれば顔を背け、抱きしめようとしたら身をよじり拒む。
「英二。どうしたんだ」
「お願い」
 彼は泣き続ける。
 おそろしいからと言うのでなく、願いが聞き届けられないからと言うのでなく、取り返しのつかない罪に恐れおののき、悔いて嘆く者のようだ。
 しかしもちろん、大石にはなにひとつ思い当たることはない。そんな心の動きが存在することさえ、想像もつかないのだ。
「おねがい、大石。いかないで」
 抱擁は拒むのに、目に涙を一杯ためて英二は言う。それを見るたび、大事に抱きしめてやりたいような、ひどく痛めつけたいような、相反する衝動がまったく同時にわき上がるので、それにも彼は困って――そう、ひどく。生まれおちて初めてと言ってもいいくらいに困りはてて――いたのだ。
「寂しいのか」
「そうじゃない」
「ひとりでいるのがいやか」
「そうじゃない。そういうことじゃない、判って、大石。お願いだから、俺の言うことを聞いてよ」
「聞いているじゃないか、英二」
 大石こそ途方に暮れて、英二を見おろした。
「どうしても寂しいなら、今日は出かけない。ずっと英二といるから」
「――」
「いっしょに本を読もう。いやならゲームでもいいし、飽きたのなら新しいプログラムを組んでやる。それともまたあの白い木の処へ行ってみるか?」
「――大石」
「そうだ、このあいだのあの青い花の咲いているところにしようか。英二が言っていた、『お弁当』とかいうのを作って持っていってもいい。英二がいきたいところはどこだ。したいことはなんなんだ?」
「……」
「たのむ、教えてくれ。そんなに――そんなに泣いてばかりいないでくれ、英二」
 英二はますます、それは悲しげに泣いた。涙をぽとぽと落として、それはこの薄闇の中でもまぼろしのように一瞬かがやき、ダークグリーンのベルベットに吸い込まれた。
「そうじゃない、大石。そうじゃない」
「――……わからない。英二」
 ついに大石は、英二を宥めかねてそんなことを口にした。
「どうしてそんなに泣くんだ。このあいだ大きな音がするところへ連れていったから、驚いて怒っているのか?」
「ちがう、大石。やめてほしいんだ――もうあんなこと、しないでほしいんだよ、大石」
「……」
「街を壊したり、焼いたり、人を殺したり。そんな恐ろしいことをもうしないで」
「何故」
 今度は大石が問いかける番だった。
「どうしておかしいことなんだ。なぜそんなことが泣くほどいやなんだ?」
「――大石」
「あのときだって、英二を苦しめた男を殺したのに喜んでくれなかった」
 大石は真剣に、あの一件が英二の喜びに繋がらなかったことに困惑している。
「あの男に限らず、おまえが今問題にしているのは、みんなおまえにはなんの関わりもない者のことばかりじゃないか。顔も知らないような人間のことで、何故そんなに泣かなければいけないんだ」
「しちゃいけないことだよ、大石」
 英二は、今度は彼の腕に身を任せて引き寄せられながら訴えた。大石の意に逆らわない、というよりも、ただ泣き疲れ、避け損ねてしまったせいなのだ。
「あんなふうに人を殺したらだめなんだよ、大石。誰も、あんなふうに殺される理由なんかないのに」
「人を滅ぼさなければ、俺は殺されるからだ、英二」
 大石は淡々と言った。
「人間は、俺があの研究所から逃れて生きのびているのを知ってる。……此処だって、勘づかれているかも知れない。――話したろう、英二。俺はあの日殺されるはずだったんだ。俺の後継の『ドール』が完成したから、プロトタイプで凶暴な俺はもう不必要だと言って、あの朝処分されるはずだった。俺達があの研究所を脱出した、あの日の朝に」
「……」
「俺があのときああしなければ、英二も」
 そういって大石は、腕に抱きよせた英二の顔を薄闇の中でしげしげと眺め、英二が生きて己の腕のうちに有ることをあらためて確かめるようにその頬を撫でさすった。
「俺にはおまえだけだ。俺を、殺さずにいようとしてくれる『人間』は、きっとおまえだけだ」
「大石」
「俺にはおまえしかいない、英二」


 『ドール』は人の姿をした兵器。
 精神の力をあらゆる物理的な動力に変換できる、生きた武器。
 胚から培養され、遺伝子を組み替えられ、さまざまな能力をもった『ドール』が創り出された。
 気高き『フレイ』。
 心を閉ざす『フレイヤ』。
 母なる『フリッカ』。
 失われし『ヘイムダル』と復讐者『ヴァーリ』。
 高慢なる『ロキ』。
 死の英雄『シグルド』。

 初代のドール『セヴリナ』が生まれて50年。
 愛らしい姿を与えられた少女人形が、現世の空気に触れて雪娘のように――しかしそれが決しておとぎ話の悲しくも美しいエンディングではないと思わせるように、醜くおぞましい肉塊を残して――解けて消え失せてから50年。
 技術者たちは熱心に、そして勤勉に、このかつてない兵器の性能の向上を目指した。
 それはかつて『神の領域』として、長年禁忌とされてきた場所に踏み込むことを許されることでもある。
 彼らの知的探求心と銘打たれた欲望は、その貪欲さを隠すこともなく、思いつく限りの方法でもって、人と同じ形をした生命を創り出しては弄んだ。人の形をした存在でありながらいかに人ならぬ能力を持つものかと、あるものを高温の炎で焼き、またあるものを氷の中に閉じこめた。人の何十倍あるという治癒力を確かめるためと言っては、意識のあるまま肌を裂き、骨を折った。
 惨いことにドールというものは、身体の損傷に対する修復能力こそ人の数十倍にも及び、また死そのものに対する恐怖感もなかったが、痛覚はまったく人のそれと変わらない。
 痛みを感じるならば快感もまた、等とまったくの下卑た思いつきから無惨な嬲りものにされたドールは恐怖を知って精神を病んだ。華奢で美しいそのドールは、それから間もなく「焼却処分」の決定が下った。
 名もつけられることなく、科学者達の稚気に満ちた実験の挙げ句に失われる人形も、決して少なくはない。けれど彼らは、飽くことも、罪悪感もなく、次々に人のかたちの兵器を創り出す。
「――まるで、パズルで変わった形を作りだして喜ぶように。科学者達の、高等な玩具のように」
「……」
「ただの玩具だから、用が済めば捨てられる。どんなに変わったパズルでも、組み上げてしまえば彼らは気が済んで、あとは崩しておしまいだ。彼らにとって『ドール』はそんなものだ。より高性能、高機能を、と、うたってみたところで変わりない。ドールもD2も、しょせんスパンの違う消耗品にすぎないんだ」
 大石は英二の耳に囁いた。
 英二は抱きしめられる腕の中で身をよじって大石の顔を仰ぎ見た。薄闇の中で、それでも大石は冷静で、解けぬ氷のようだった。
「このままだと俺は、人間から殺される。――俺は、人間ではないから」
 そう言いながら大石はゆっくり英二を抱きしめなおし、彼をもといたベッドの中へと押し戻した。英二を腕から逃さぬようにことさら注意深くした行動であったので、もちろん英二はそのまま囚われる。
 大石の意図は明らかだったが、それでも英二は往生際悪く身をよじって声を上げた。
「でも、でも大石。だからって、関係ない人をどうして殺すの」
「英二」
「大石が壊した街や、焼いた街には、政府の、そういう場所とは関係ない人たちがたくさんいたじゃない。大石を探して、捕まえて、殺そうとした人たちなんかいなかった」
「……」
「なんの関係もない、小さい子達だってたくさん暮らしてたじゃない。普通に優しい人とか、生まれたばっかりの赤ちゃんや、大石になんの悪いこともしてない人達だって、いたに違いないじゃない。――そんな人たちを」
「何故殺してはいけない、英二」
 彼は、優しく遮った。
「一方的な虐殺者が、何故いつも人間ばかりである必要があるんだ」
「――」
「罪なくとも力弱い存在はいつか滅びる。人間が多くの罪なき種族にそうしてきたように。……なら今度は人間がその弱い立場に立つことがないと、何故断言できる」
 大石はゆっくりと動いて、英二の身体の上に乗り上げる形になった。理由の付けられない恐ろしさに硬直している英二の顔を両手で包み、指先でまなじりや唇を撫でながら少しだけ笑った。
 その笑みの冷たさに、英二は、まるで悪魔に捕らえられているような気がする。
「それとも、理性あるものは無意味な殺戮を行わないものなのか? 英二が嫌がるのは、そうしないことが人だからか?」
「――」
「人間を殺さぬのが人間か。……そうでもないだろ?」
 そういいながら、彼はいきなり英二の喉元に噛みついた。
 軽く歯をあてる程度のものだったのだが、英二は恐怖に耐えきれずか細い悲鳴をあげた。
「意味もなく人を殺すのが人だろう。生きる為でなく、感情や欲などという不確定な要素のために、同族で殺し合うのが人間だろう。そうでないのなら、何故兵器が必要なんだ。どうしていつの時代も、性懲り無く同じ事を繰り返す。――何故俺を作る必要があったんだ」
「大石……っ、手、いたい……」
 英二は懇願したが、大石は力をゆるめない。
 あのことがあってから英二は大石を拒み続けてきたが、今日という今日は、彼も英二を逃さぬつもりらしい。もがく英二をおさえこみ、やすやすと肌を探りあてる。
 英二の肌の暖かみに触れるとき、大石はいつもほっと安堵するような、なんとも言えぬおだやかな表情を一瞬見せるのだが、このときでさえ彼は同じように表情をやわらげた。
「弱いものは滅ぼされると言うなら、今度は人がその立場にたってみるがいい。俺は、ただ追われるだけの者になどならない。行くところがないなら、この世界を俺達が住めるように造り替えればいいことだ。……英二、こんな冷たい、鉄の中ではなしに。英二に似合う――英二の好きな花のある世界に」
 くちづけてこようとする大石から顔を逸らし、英二は必死になって言い募った。
「そんなの、いらないっ」
「どうして、英二。――青い色の空を見せてあげるよ。透き通ったきれいなあおい色の」
「いやだ」
 英二は首を振る。だが、大石は彼を逃さない。
「もう誰も、英二を虐めたりしない世界を作ってあげる」
「いや――」
「花がたくさん咲いたら、みんな英二にあげよう」
「大石、やめて……!」
 英二は今度こそ悲鳴をあげた。英二に飽くことを知らない彼が、強烈な嵐となって圧倒的な力のもとに彼を巻き込みはじめたからだ。
 ごくおとなしく、従順だった身体が突然抵抗しだしたことに怒っているようでもあり、また久しく身をひそめていた獣性のようなものに心地よく身を任せているようでもあった。
 あらがい切れぬ弱いものに暴行する残酷なよろこびを時折垣間見せ、それでもそれは彼の英二に対する情愛の堰を越えることだけはなかった。
 健気な英二の抵抗はすぐに波に飲まれ、はかなく消え失せた。英二の身体は、彼に癒され、慈しまれ、与えられた快楽をひとかけらたりとも忘れていない。
 そうしてこんなときでさえ彼は、英二に対する愛情を一片も損なうことがない。
 英二のその悲しい気持ちはともかく、肌はそれを敏感に感じ取って、彼の指と唇にたやすくとろけた。
 ちいさなすすり泣きとあやしく喘ぐ声とが交互に大石の耳を楽しませたが、それでもいっときの波が過ぎれば、彼はふたたび世にも悲しく嘆くのだ。
「青い空なんか見られなくてもいい」
 うつぶせたままなかなか泣くことを止めない英二の背を、大石は困った様子で撫で続けていた。
「大石がいれば、俺は此処で、このままでいい。此処にいたら誰かに見つかるなら、ここじゃなくてもいい。ねえ、大石、ここが駄目だって言うんならどこか別のところにいこうよ。寝るところがこんな大きな、立派なベッドじゃなくたって俺は文句なんか言わない。寒くても我慢する。靴がなくても、足が痛くても、ちゃんと立って自分で歩いてついていく。おなかすいたってわがまま言わないよ」
「……」
「お願いだよ。大石には、人が死ぬってどういうことか判ってないんだ。判ってないから、簡単にそういう怖いことが言えるだけなんだ。――大石、お願いだから」
 世にも哀れな英二の願いであったが、それでも大石はまだ首を縦に振らなかった。
 なにも意地を張りとおそうということではなく、これだけ訴えかけられてもまだ大石には、英二が言いたいことの半分も理解できないでいたのだ。
 英二が喜ぶか、そうでないか――それだけが判断基準である大石にとっては、自分と英二が追い立てられず暮らす為に障害となる諸々を排除する、それだけのことがどうしてこれほどまでに英二に受け入れられないのか、まったくわからない。
 自分という『ドール』の存在に対して、帝国の中枢部は必ずなんらかの手段を講じてくる。それは避けようがない。
 研究所を逃げ出した時点で、自分は追われる者だ。たとえこれほどあちこちで破壊行為をおこなわなかったとしても、必ず何らかの手で自分を追いつめて抹殺しようと言う動きがなかったはずはないのだ。
 自分ひとりならばそれでもいい。そもそも己だけならばあの場で、あの研究所で『処分』されていても、最期の瞬間まで特段なんの感情もわかなかっただろう。死に対する恐怖心は、そもそも『ドール』にはない。
 しかしあのときは、英二がいた。
 自分があの場で殺されると言うことは、つまり自分のD2として連れてこられた英二も同じ運命をたどるということだった。どのみち、D2にされた人間は一年で『処分』される。大事な機密に近づかなかったとしても、『ドール』の存在を知った一般人が野に下される筈はないのだ。英二を失いたくない一心で――英二の笑う顔をまた見たいという考えだけで、ここまで来たのだ。
 自分一人ならば、そう作られているために寒さにも暑さにも耐えられるが、英二はそうはいかない。
 英二はか弱いただの少年であり、暖かくやわらかい場所に落ち着けてやることが必要だった。どんなものにも脅かされず、おだやかに暮らせる場所が必要だった。
 そうして彼が笑ってくれるためには――空が要るのだ。青い空と、一面の花が。
 こんな汚れてすすけた空ではなしに、青い、美しい空のある世界が。世界を満たす、花が。
 なによりそれは、英二には相応しい。
 だと言うのに、英二は泣いている。世にも悲しげに泣き続ける。
 それだけでも大石には、どうしていいかわからないほど困ってしまうことであったのに、やがて泣き疲れた英二が呟いたことは、ますます大石を混乱させてしまった。
「どうしてもやめてくれないなら、大石のそばにいられなくなる」
 大石はぎくりとなって、英二の背を撫でていた手を止めた。
「俺のせいで、このさきも人が死に続けるっていうんなら。俺がいるから、大石があんな酷いことをし続ける、っていうなら」
 顔をあげた英二の瞳が泣き濡れて、じっと見上げてくる。そのいとけなさに知らず胸を打たれながら、大石は言葉もなく彼を見つめた。
「俺は、もう大石といっしょにいられない」









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