ぼんやりとした白い光の中、ぽつんとひとりぼっちで立っている。
 これは夢だとすぐに気がつくほど、彼はこの光景を何度も彼自身の眠りの中で繰り返してきた。
 声は、出せるだろうか。
 呼びかけは届くか。
――おとうさん
 確かにそう呼んだはずなのだが、自分の声は夢の中では景色以上にぼんやりと揺らいで薄れ、声として発せられたかどうかはあやしい。
――おとうさん……
 白い光は圧倒的だった。
 高圧的にのしかかり、冷たく固まり、いつも自分を押しつぶそうとする。
 こんなふうに真っ白に、気分が悪いほど真っ白にする必要なんかないのに。
 白は好きではない。
 頭が痛くなる。
 消毒薬の吐きそうな匂いの満ちるそこが、生まれ落ちてからずっと暮らしてきたはずのそこが、どれほど嫌いであったろうか。
――おとうさん
 光の中、目を眩ませながらその人を捜す。
 隣には自分と同じ年格好の子供がいて、やはり彼も『父』を待っているようだった。
 自分と違い、彼は声高に呼ばわるようなことはしない。ただ黙って、必死に泣くのを堪えてうつむいて、手がさしのべられるのを待っている。
――おとうさん、どこいったのかな
 話しかけると、彼は不安そうに首を振った。
――おまえも待ってんの? 
 なんとはなしに自分も不安で、隣の彼の手を握る。
 慣れた暖かみで、安心する。いつも自分たちは、『父』の姿がどうしても見つからないときにはこうやって手を繋いだり、同じベッドで休んだりして、寂しさや恐怖を紛らわせてきた。
 それほどに、この場所の白さというものは、彼らにとっては言い表せぬほど冷酷で、そして馴染むことができないものだった。
 どうしてだろう。
 どうしてここはこんなに白いのだろう。

――それは、仕方ないんだ。

 ようやく、求め続けた声が聞こえてほっとする。
――人間は皆、白いことが清潔なことだと思っているからね。
 伸ばされた手が自分の髪を撫でた。そうされると、少し気が休まる。
 薬の匂いも、目にいたいほどの白さも、けっして代わりはしないが、それに耐えるための力を得られる気がするのだ。
 いつでも『父』は、彼にとっての力の源だった。
 早く部屋に帰りたい、と駄々をこねたか何かしたのだろう、『父』は苦笑して、もう一度自分の頭を撫でてくれた。
――おいで。嫌なことは早く済ませてしまおう。どうしたんだい、ふたりとも。今日は手を繋いでいくのかい?
――ううん。
 自分は首を振った。
――俺、おとうさんに抱っこしてってもらう。……おまえもしてもらえよ。
 隣にいた彼が、もじもじしているのを見て肘でつついた。
 本当に世話が焼ける奴だ、と思いながら。
 『彼』は自分と同時に生まれ、同じようにして育ってきた兄弟だ。だが、『父』と呼ぶ人物は別にいる。
 分け隔てなく同じように育てられたが、どうもこの兄弟は自分とはあまり似通ったところがない。人一倍甘えん坊なくせに、人一倍『おとうさん』が好きで仕方ないくせに、いざ甘えられる機会が来ても、うまく自分の感情と行動を表すことが出来ない。
――ああ、ではこちらもそうしよう。おいで。
 『彼』の『父』が、察して手を伸ばす。『彼』は恥ずかしそうにうつむいていたが、背の高いその人におとなしく抱き上げられた。ふっくらとして柔らかそうな唇は、ぎゅっと結ばれたままだったが、実は泣き出したいほど嬉しいのだろう。おずおずと、しかしけっして離すまいとするかのように、『父』の首にしがみついている。
 白い光の中を、大人達は歩き出す。それぞれに、似たような年頃の子供達を抱いて。
――今日の実験は、うまく行けばすぐ終わるからね。本当に少しの我慢だよ。
――静養期間の申請もそれで通るだろうし、そうしたら街の中にでも連れ出してやろうかな。蓮二、四人で何か美味いものでも食べに行こうか。
――ああ、それもいいな。しかし、この子達を連れ出すと老人達がまた何か言うかな。
――なに。人の間にいることに慣れさせる為と言えばいいのさ。『ヘイムダル』と『ヴァーリ』は、なにぶん初めての自然成長の個体だからな。他のドールのように外部から遺伝子を動かしたりはできん。精神安定にも、D2をあてがっておけばいいと言うものではないのだし。
――D2と言えば。
 自分の背をぽんぽんとあやすように叩きながら、耳のそばで声が聞こえた。
――東第七の『Sig』が最近ずいぶんおとなしいそうじゃないか。ようやくお気に入りが出来たようだ。大人しく、それはもう実に機嫌良く遊んでるそうだぞ。
――それはそれは。
 隣を歩く男が、くすっと嘲笑った。
――しかしまた、あれに気に入られるとは災難な。どんな人間なんだ。
――さあ? そんな『消耗品』に関してまでは俺の知るところじゃないがね。なんにしろ、これでD2の担当者も安心して休暇が取れるってもんだろう。
 笑った『父』に、となりの男も笑い返した。
 同じように、それぞれの『父』に抱き上げられ、おなじようにぺたりと甘えた姿勢から、自分はふと顔をあげる。どういうわけか、相手も同じように顔をあげ、こちらを見た。
鏡のようにまったく同時に、まったく同じ仕草で、彼らはお互いの顔を見たのだ。
 しかし白くぼやける光の中で、はっきりとした残像を捕らえる前に彼らの姿は薄れていく。
いままさに夢から覚めゆきつつあるのだ、と自覚する。
 白い光の中から、薄れ逝くその瞬間までをもおしむように、じっと此方を見ていたのは。

――鏡に映る、己自身の姿だった。




 半地下の研究所は、建築途中で遺棄されたせいもあって剥き出しのコンクリートが天上と言わず床と言わず、そのままのところがまだ結構ある。
 そんなところを裸足で歩いていると、冷えて足裏が痛むのだがそんなことをかまっていられない。
 冬は過ぎたが、まだ朝は冷える。
 毛布を一枚、頭からかぶって出てきたのだが、これを引っ張り出したがために『父』の身体が冷えるようなことはないだろうか、それが少し気になった。
 ベッドから抜け出す自分に気づいていなかった筈はないが、父親に声をかけられなかったのさいわいだった。
 目の奥が熱い。
 痛みはなかったが、ちりちり焼けるような感じがする。
 まだ明け方でさほど人もいないのを幸いに、子供は幼い足取りで廊下を走り続けた。
と。
「あれ、薫ちゃん」
 ぱたぱたと身を縮めるようにして駆けていると、すぐ近くから声がかかる。
「どうしたの、まだ朝早いよ」
 毛布の間から見上げると、どうやら声の主は菊丸英二であるらしかった。
「――……」
「そんなかっこでどうしたの。……うわ、裸足? 寒いし、痛いだろ。靴下とかないの?」
 どうしよう、と逡巡していると、彼はひょいと膝をおって、気さくに毛布に隠された自分の顔を覗き込んできたのだ。
 綺麗な――本当に鮮やかできれいな赤い髪。
 くるりと丸い目はとても可愛らしい。その世にも愛らしい瞳をいやが上にも引き立て、くっきりと印象づける、花のような顔だちがまた目を奪う。
 色あせたTシャツと擦り切れたジーンズと言う、お世辞にも可愛らしいとは言えない格好だったのだが、よけいにこの英二の愛くるしいおさないところが目立ち、かえって痛々しい健気な印象を与えるのだ。
 少年が覗き込んでくるので、とっさに布を深くかぶりなおしたが、遅かった。
 いつ見ても綺麗な、その赤い髪に見惚れていたせいもあるのだろう。
「薫ちゃん」
 少年は――英二は少し改まった、低い声になった。
「……乾には、気づかれたの?」
 首を振る。
「そう。それで出てきたんだ。――寒くない?」
「だいじょうぶ、ッス」
「そっか。じゃ、俺と一緒に外に散歩に出よ」
 そういうと英二は、毛布をかぶったままの薫の手を引きながら、いくつかある外への通路に向かう。
 普段から閉鎖されていない場所には、それぞれ役割を仰せつかった男達が見張りに立っている。彼らからもっとも手近な出入り口もやはり、見た顔の男が銃を肩に背負っていたが、英二はその男に軽く手を挙げた。
「薫ちゃんと散歩してくる」
「寒いぞ」
「うん、すぐ帰る」
「これ持ってけ、英二」
 男はぶっきらぼうに、英二に何かを手渡した。
 半分に割られた板チョコであった。銀の紙に丁寧にくるんである。
「ありがと。ごめんね、いつも」
「いや」
 男は相変わらず無愛想であった。貴重品である甘味のたぐいを渡したからと言って、さらに何事かを期待するようなあさましい目つきなどはせず、風邪を引く前に戻れ、とだけ告げて再び見張りの役に立ち戻ったようであった。
「乾もなあ」
 開けっ放しの、半ば崩れかけた出入り口を通りながら、見張りに聞こえないような小さな声で英二はため息をついた。
 戸外はまだ瓦礫で足下が危ないために、英二は薫をおんぶして歩いてくれている。
「なにも、そんなことで薫ちゃん撲つことないのにな」
「――」
「目が赤くなっちゃうのは、薫ちゃんにはどうしようもないんだろ?」
 答えに困って、薫少年は英二の背でうつむいた。
 その薫の双眸は、白目の部分が何故かひどく充血し、血で染まったように見える。
 ときおり薫の身体におこるこの現象であったが、そのたびにひどく乾は不機嫌になり、目に見えていらいらし、時にはあたりかまわずこの幼い少年を打擲しさえするのだ。
 そのことを知る人間は、この組織の中でも少ない。手塚と、不二と、そして偶然乾が薫を撲つ場面を目撃した英二ぐらいだ。
 ふだん、何事がおこっても感情をあらわにすることのない乾の豹変ぶりに、英二は最初仰天したようだった。それが昔からの乾の癖であり、どう諫めてもその行為を止めようとはしないことや、それ以外のときは彼はこの少年を、溺愛とまでは言えなくともさほど邪険には扱っていないことなどを聞かされても、納得はしていないようだった。
 薫自身、別にそれが虐待だとも、自分が父親に憎まれているなどとも思っていはしない。
 確かに彼の『父』は変わり者であったが、それでも気さえ向けば薫に優しい言葉をかけたりすることもあったし、幼い身体を恋人にするように慈しんだりすることもある。
 それだけでじゅうぶん薫に取っては幸福なのだったが、それが英二にはなかなか判ってもらえないようだった。
 だからといって、弁舌を尽くして『父』の擁護をするには、薫は何を言うにも幼かったし、またいじらしいほどの口べたであった。
 英二が自分を気遣ってくれるのは有り難かったが、だからと言ってどうにもならないことはあるものだ。
「――ふじ、せんぱい、は?」
「ん?」
「ついてなくて、いいんスか」
「ああ」
 白い瓦礫が重なる間を器用に抜けながら時折、あやしているつもりなのだろう、背中の薫を軽く揺すりながら英二は答えた。
「手塚が昨夜帰ってきたから、預けてんだ。久しぶりに手塚の顔見て不二も機嫌いいようだし」
「――」
 出入り口から少し離れた場所、瓦礫がうまい具合に重なった場所へふたりして上がる。やや小高いその場所からは、地平の向こうに半ばまでのぼった太陽が見えた。
 英二は薫の顔を覗き込み、少し赤みが薄くなったと言って無邪気に笑い、先刻のチョコレートをまるごと薫に持たせた。
 そのまま二人で座り込んでいたが、ややあって薫から小さく問う。
「――英二センパイも行くんスか?」
「ん?」
「いっしょに」
 薫の言葉は少なかったが、それが今度の帝都行きのことだと察せられたようで、英二は頷いた。
「ああ、行くよ。――帝都の近くで、しばらく身をひそめとくとこまでは一緒にね。でもじっさい帝都の中にまで連れて入ってもらえるかは別だけどさ、乾、なんにも言わないから」
「――……いきたい?」
「帝都に?」
 薫は頷いた。
「うん……まあ、ね」
 何事か深く思案しているようだった英二は、無理な作り笑いのような表情で答えた。
 まだ毛布をかぶったままの薫を覗き込んだときに、かわいらしく毛先が巻いた髪がふわりと揺れる。
 さわりたいな、と思ったが、恥ずかしくて口には出せない。
 そのひとの赤い髪が、登ってくる朝日に美しく透けて輝き始めるのを眩しく見ながら、薫は小さく呟いた。
「ほんとは行かないほうがいい」
「薫ちゃん?」
 英二は、意外なことを聞いたというように、目を見開いて薫を見た。
「俺もほんとはいきたくない。目だけじゃなくて、俺の体が赤くなる。……身体が赤くなって、もう動けなくなる」
 薫はさらに毛布を深くかぶり、身を縮めた。
「でも、おとうさんがそうしたいって思ってる。理由は判らないけれど俺を赤くしたいと思ってるのは、おとうさんだから。俺はおとうさんがそう思うなら、必ずいかなきゃいけないんだ」
 英二は意味が分からないようだった。意味が分からず、泣き出したらどう宥めようかと少し困った顔で薫を覗きこむ。
「ね、薫ちゃん」
「……」
「行きたくないなら、乾に俺も言ってあげよっか? お留守番しときたいみたいだよ、って」
 薫は首をふった。
「おとうさんはどんなことをしたって、俺を連れていくから。だっておとうさんはそうしたかったんだもの。そのために俺が要るの。でも、本当に必要なのは俺じゃない」
 薫の言葉の意味は判りかねたが、英二はつとめて優しく言った。
「いやなんだろ? 無理していくことなんかないんだよ」
「英二センパイは、どうして帝都にいきたいの?」
「……」
「英二センパイが帝都に行ったら、氷の中の悪魔が目を覚ますよ」
 ふいに言われた言葉に、英二ははっと虚を突かれたようだった。
「今でもセンパイを呼んでる。聞こえない?」
「……」
「みんなそれを待っている。おとうさんも待ってる。……でも、みんな燃えてしまう」
 見上げた先の英二の顔は、何故か呆然としているようだった。
 そうしているとじんわりとまなこの奥が熱くなった。
 その感触に、きっと自分の目の赤みが増していることだろうと薫は思う。
 うつむき、毛布をかぶり、隠してしまったそれを、英二が無理に覗き込もうとしないことに安堵しながら、薫は再び目を閉じてしまったのだった。




 








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