「やあお帰り、河村」 機械達のもつれあう、手のつけようのないほどの乱雑さの中から乾の声が聞こえた。 「うわ、相変わらずだねえ」 「いつものことだ」 淡々と応じる乾の姿を、薄暗い中、河村はきょろきょろと探している。しばらくして後、本の山、モニタの重なり合う向こうに、少し猫背になった白衣姿を見つけられたようだ。 「薫」 乾は相変わらず振り向きもせず、傍らにいるであろう少年を呼ぶ。 少年はいつもの如く、彼には少し大きすぎる椅子に座って爪先を空中に浮かせていたが、呼ばれてすぐ椅子から降りる。 「おかえりなさい――ここ、どうぞ」 礼儀正しく椅子を譲られ、河村は優しく子供に笑いかけながら礼を言い、続いてこう言った。 「薫、ロビーの所に英二と不二がいるんだけどね。お土産を持って帰ってきたんだ、薫の分もあるから、あの二人の所へいっておいで」 「――」 「チョコとキャンディとキャラメルだよ。薫の両手に一杯になるくらいにあるから、三人で食べておいで」 薫少年はぱっと顔を輝かせたが、すぐにどうしたものかと傍らの乾を見やった。 「行ってくるといい、今から大事な話をしなきゃいけないからね。おまえがいると邪魔だ」 「――はい」 邪魔、と言われたことに少し悲しそうな顔をしながら、しかし薫は大人しく乾の言葉に従った。 ぱたぱたと駆けていく子供の足音を聞きながら、河村はまず乾に礼を述べ、自分がひとつしかないこの椅子を占拠したが為に立ったままになるであろう桃城に謝って、ゆっくりと椅子にかけた。 「茶も出なくて悪いな。どうだった、帝都は」 「相変わらずだよ、街は綺麗に復興してる。もうラグナロク前と何ら変わりないよ」 人よさげに河村は笑った。 「ただ、帝都から離れたところはどこも酷いもんだった、魔窟さながらだな。人身売買や麻薬の取引なんかも昼日中から平気で、そのあたりの路上で行われてるんだよ」 「そういう半壊の街でも、まだ貨幣の価値があるのか」 「帝都が近いからね」 河村は顔を曇らせて言う。 「なんというのか、ヘタに貧困でなく、ある程度の帝都からのおこぼれが来るから、よけいにひどい有様な気がする。小さな、薫みたいな年頃の子供でさえ俺を見かけると、スリか物乞いか、でなきゃ身体を売ろうとするか。あれを見ていると、いっそこんなふうな、人も誰もいない街のほうが安心できるからおかしなもんだね」 こんなことを言ってはいけないけれど、とまるで言い訳のように呟いた河村を、乾は別に咎めだてたり、訳知り顔に宥めたりすることはなかった。 「政府の復興とやらも、自分たちの周囲を固めるだけで打ち止めのようだよ。表向きは、帝都だけでも昔のあのきらびやかさは取り戻しているようには思える。けれどその周囲の都市の復興は、俺が見た限りじゃ七割もいってないんじゃないのかな」 「そうだな、多分今の政府にはそれ以上の力はないだろうね」 乾はあっさりと言った。 「とりあえず自分たちの周囲だけでも固めてしまって、というところかな。イザとなったらご立派なお城に引きこもって、たいした長さもない寿命をまっとうするつもりなんだろうさ、彼処の老人どもはいつもそうだ。民を愛さない国に未来はないもんなんだがね」 これもまた、乾にしては別に皮肉のつもりでも何でもないらしい。 「たとえ本当に愛していなくても、ポーズだけでも見せておくとずいぶん違う。しかしそれすら出来なくなったんじゃ先はない。無理な歩みはそうそう長く続くものじゃないし――どのみち、あのバケモノが壊して回る以前からも、さして誉められた体制でもなかったしね」 「――……」 「金持ちどもは虚飾と頽廃に耽り、政治家はあるはずもない戦争に備えてバカのように金をつぎ込み、そのために貧乏人は身を削っても食うことすらままならない。人の尊厳すら金で売り買いできる国は、爛熟も過ぎて汚臭がしそうだ」 どぎつい事をさらりと言って、乾は河村の返事をまたず話題を変えた。 「それで、具合はどうだい。例の場所の」 「ああ」 河村は、少し顔を引きしめていった。 「とりあえず問題はないように思う。帝都からは少し離れているけれど、あの街なら俺達が紛れ込んでも判らないだろう。あまり治安の悪すぎるところでも、良すぎるところでも困るしね」 「その通りだ」 「一応いつ来てもいいように準備は整えておいたし、帝都へ入るIDカードも偽造できてる――でも、様子見はいいとして、乾の他に誰か来るんだい」 「ああ。あんまり大人数だと目立つし、連れて行くのは少しだけだよ」 乾は此処で初めて、河村の方を振り返った。 「とりあえず手塚と、不二と――あと、桃」 「ハイ。あ、俺もっスか」 「帝都に知り合いは?」 「これといって。俺ずっと『ロキ』につきあって研究所づめでしたから」 「なら結構。……それから薫も」 「薫も?」 河村は少し驚いたようだった。 「大丈夫かな」 「問題はないだろう」 「薫もだけど、不二も」 河村は、彼らしい思いやりで、あの心を閉ざした美しい少年を気遣った。 「あまり彼にはよくないんじゃないかな。いくら手塚がいっしょだと言っても、不安定な状態が続くと――それに手塚も不二も結構目立つよ」 「見せびらかして歩くわけじゃないから大丈夫さ。手塚と不二が、自分たちが『フレイ』と『フレイヤ』だと名乗って歩くというのならまた別の話だけどね。薫だって、俺以外に『ヴァーリ』と呼ばれても反応するなと言い聞かせてある。問題はないよ」 「だと、いいけど……」 「ああ、それから英二も連れていく」 「英二も?」 河村は目を見開いた。 「子供達をほとんど連れて行くのかい」 「そのつもりだよ」 乾は、この人の良い青年が彼らを――英二と薫はともかくとして不二までをも――ひとまとめに『こどもたち』と呼ぶのを、面白がってはいたが此処でそのようなことに言及するつもりはない。 「何もわざわざ帝都に近いところに連れて行くのは、どうだろう」 「近いからこそ」 乾は、そこでようやく河村のほうに向き直ってニヤっと笑った。 「近くなるからこそ、だよ、河村。それと知ったら英二なんかはなおさら来たがるだろうしね。あの子はそれが望みなんだから」 「……それは、確かに英二はそうしたいと言ってたけど……」 言いよどむ河村を、桃城はそっと盗み見た。 桃城あたりに対するときと、河村相手では微妙に乾の口調が違う。そのあたりは彼の狡猾さで、河村のような人情家には、乾の冷徹さが逆効果なときもある、ということなのだろう。 「まあ、俺としては不二についてはどうしても、というわけじゃないんだが、逆に俺には手塚が必要だからね」 「――」 「英二も、彼の能力を考えれば出来れば連れていきたい。そうなると必然的に不二を此処にひとりでおいておくわけにはいかないだろう。不二はあのとおりだし、俺たちのいない間によからぬことをされても、判らないかも知れないからな」 「……」 「それでになくとも不二は……『フレイヤ』は、そういうことに関しては酷いトラウマがある。廃棄処分が決まって、手塚の所にD2として預けられるまでの数ヶ月、研究所でさんざんおもちゃにされていたらしいからな。ここまで安定してきたものを、また壊されるわけにはいかないんだ。――同じ理由で、不二と一緒に英二も残す、というわけにはいかない。英二みたいな女の子顔の細っこいのを残しておくと、よけいなことを考える者が出てこないとも限らないからな。離れて心配しているより連れていくのが一番いいんだ」 「それは――……たしかにそうかもしれない」 口ごもった河村に、ここぞとばかりに乾はたたみかけた。 「大事なものは、ふところにいれて持ち歩いているのが一番いいんだよ」 薄い唇が笑う。 「誰にもみせずにね」 動き出した瞬間、ガタン、という大きな音と振動をたてたエレベータだったが、その後はすんなりと下降を開始した。 研究所の他のエレベータは、もちろんこんな、旧式のような音を立てたり、落ちるのではないかと不安にさせるような振動を起こしたりはしない。 やはり行く先が先だからか、と真田弦一郎は彼らしくもなく妙な納得の仕方をした。 エレベータの下降は、地下数百メートルにも及ぶ。 この地下の存在そのものを知る人間などごく一握りであったし、このエレベータを使えるのもその中の、さらに限られた人数だけだった。 ごうん、ごうん、という、如何にも不吉な機械の唸りを聞きながら辿り着いた先は、このような地下にありながら、また嘘臭いほど白に塗りたくられた場所であった。 帝都の中に存在する中央研究所、その地下に存在する巨大な施設は、しかしその広さにくらべてほとんど人の存在がなかった。もともと立ち入りが厳しく制限された区域であるし、まるで地獄に降りていくような、暗鬱な気分にさせるエレベータを乗り継いでやってきたいと思う物好きも、そうそうはいなかったからである。 現在ここには、機械の管理を行う数人の人間の他は、今やってきたばかりの真田弦一郎と――そうして、彼の同僚であり友人である、柳蓮二博士がいるだけである。 その柳博士は、コンピュータや計測機器が壁を埋め尽くす白い部屋の真ん中にひとりで居座り、大画面相手に三つのキーボードを凄まじいスピードで叩き、なにやらの文字を打ち込み続けている最中だった。 ちょうど柳の向かいの壁面は、全面が特殊合金のシャッターのようなもので閉ざされている。本来ならばそこはガラス貼りでその向こうには実験施設があったのだ。科学者達はここからガラス越しに施設の中を観察し、見おろしてあれこれのデータ収集を行ったりするものであったのだが、今はその向こうになにがあるのかを知ることは出来ない。 二年前から、ここは閉ざされたままだ。 「蓮二」 真田は声をかけた。 無論相手が振り向くなどとは、期待していない。 「一応、言われたとおりに第七の資料を一通り出してみたけれどな」 柳の背後で、たいして厚みのない紙の束をばさっと言わせて真田は言った。 「『Sig』のD2に関する記述は、全部でこれだけだ」 「それでもずいぶん数があるようだが」 「『Sig』に供与されたD2は全部で15人だ」 「それはすごいな。普通のドールの4倍近いじゃないか」 「14人までが、『Sig』……シグルドの部屋に入れられて10日以内に死亡――ああ、ひどいのになると、与えられたその日に殺害している」 真田は眉間にしわを寄せて、この心楽しくない資料に目を走らせた。 「15人目のD2が、例の、こいつのお気に入りというわけか。……だが、たいした記録はないようだぞ」 「かまわない、すまないが読み上げてくれ。D2当人に関する記述だけでいい」 「――」 柳が画面から目を離そうとしないので、真田は言われた通りにしてやった。 「『EIJI』。東部B58地区出身。推定15歳。家族の存在は確認されず。住所不定、不特定多数相手の売春行為により生計を立てていた模様。コード『Sigfried』の執着著しく、当初予定より2ヶ月繰り上げの、10ヶ月目で処分を決定」 「――」 「……」 「――」 「……」 「――それで?」 「それだけだ」 「本当にたいした情報ではないな」 「そんなものだろう」 一時間近くを費やして探し出した資料を「たいした情報ではない」と言われたことには、真田は別段思うところはないらしい。画面を睨みつけている柳の背にこう続けた。 「もう少し有ったかも知れないが、第七があの結果だからな。――しかしこのD2は死亡しているんだろう? 今更何なんだ」 「正確には死亡ではなく、行方不明だ。『Loki』もそう言っている」 「しかし、相当な高さの崖っぷちから転落したと言うではないか。越前が珍しくこだわっていた。――万に一つも、普通の人間なら生きてはいるまい」 「そうだな」 柳は、ふとそこでキーボードを叩く手を止めた。 「普通の人間ならな」 真田が見たところ、柳の眼前の画面に打ち出されているのは、彼独特の理論のプログラムのようであった。白い画面に黒文字でびっしり、多種多様な記号と数字とが並べられていたがまるでそれを後から追いかけるように――そう、ちょうど画面の上から赤い帯が現れ始める。 柳の書いたプログラムを浸食するような赤。 確かにそれは小さな文字の羅列で、左から右へと几帳面に文字列をなぞっていき、たちまちのうちに画面全体を赤い不吉な色合いで染め始めた。 「――ああ、やはり駄目だったか」 「なんだこれは」 「追いついてきた」 柳の言う意味が分からず、真田はただ呆然としてその赤いプログラムを目で追っていた。不穏に明滅しながら増えていく文字列の中、真田はふと、とある綴りに目をとめる。 『EIJI』。 しかしそれは本当に、何かの偶然でアルファベットがそう続いただけなのだろう、と彼はすぐに目をそらした。たった今まで読み上げていた報告書の中に同じ綴りの単語があったせいで、たまたま目に留まったのだ、と思ったようだ。 「……『Sig』め、どうあっても記憶のデリートは拒むつもりらしいぞ、弦一郎。何を後生大事に抱え込んでいるのやら、バケモノのくせに」 「――……」 「ま、今日はこのあたりだな。完全なデリートは出来ずとも、手段なぞいくらでもあるさ……それより弦一郎、お前に見て欲しいものがあるんだが」 柳は席を立って、真田を手招いた。 彼らは連れだってこの部屋の奥、ごく一般的な大きさのモニタとキーボードの前へと歩いていく。 「これはなんだと思う?」 柳に問いかけられて、真田は生真面目にその画面を覗き込んだ。 「――何だ、といわれても……」 「おまえ、これは何に見える?」 柳が真田に示したのは、先刻と同じ某かの、おそらく素人には違いなどまったく判らぬプログラムの文字列のようだった。 真田は言われるまま、画面を凄まじい早さでスクロールして大方に目を通し、少し困惑しながらこう言った。 「――『Sig』のDNAの配列に見えるが……」 「やはりお前もそう思うか」 「そう思うか、と言われても……実際、そうなのではないのか」 真田はますます困惑して、言った。 「俺とお前とでさんざん頭を悩ませただろう。多少の構成の違いはあれど、これは同じものだ――……おい、なんだ、違うのか」 最後の真田の一声は、彼の友人が珍しく何か吹き出しそうな、悪戯を成功させたような勝ち誇った顔をしていたからであった。 「先日、あちこちで悪さをしているレジスタンスとやらに、くだらないひっかけをしてやったことがあっただろう」 「あ、ああ」 突然話題が変えられたが、真田は戸惑いながらもこれまた真面目に頷いた。 「ああ、覚えている。少し前のことだったな。たしか、帝都へ来るトラックを狙った工作が続いていたから、それに逆ハックのプログラムをしかけておいたと言っていた」 「ああ、そうだ。その通りだ」 「――だがそれがどうした。たいしたデータも拾えなかったと、お前は報告していたじゃないか」 「たしかに、老人達にはそのようにな」 柳はにやりと笑った。 「しかし、そこで食ってきたデータがこれさ」 「――なんだと」 真田はますます顔を顰めた。 「どういうことだ」 「さて、困ったことになったよ、弦一郎」 柳は相変わらずつかみ所のない、そしてまったく困ってなどおらぬ口振りでそのプログラムを見やった。 「『フレイ』と『フレイヤ』にはそんな機能はないし、まして『ヴァーリ』でもない。と、言うことは、いったいどういうことなんだろうなあ、弦一郎」 彼は、それでもなんとか冷静さを保とうとしていたのだろう。冷徹で何事にも動じない柳らしくなく、しきりと身体を揺らし、足を踏みならし、まるで期待に身体を揺らす少年のようであった。 場所と彼の矜持さえ許せば、叫んで躍り上がりたいのを、必死に堪えているようだった。 それでもたまらず、くっくっく、と柳は喉の奥で笑う。 「何故、こんなものを拾ってきたのだろうな」 「……」 「あいつめ。とんだ隠し球を」 真田には意味の判らぬ言葉を呟き、そうしてのちはもう耐えきれず笑い出してしまった友人の姿を、真田は呆然として見やっていた。 異様な、どこか狂おしい熱のこもった笑い声が、柳蓮二の唇からこぼれ落ち続ける。 押さえても押さえ切れぬ、隠そうとしても隠しきれない歓喜の声である。 慄然とそのさまを見やり、言葉もない真田の前で柳は言った。誰に向かうともなく、異常に興奮した吐息とともに低い声を吐き出した。 「おまえか――そうか」 天を高く仰ぎ、もはや真実の狂者のように哄笑しながら、柳はひと呼吸のあいだに、誰にも――真田にすら聞き取れない小さな声で呟いた。 「我が愛しき『ヒルダ』」 そのころ。 柳があれほど固執していた画面はそのときにはもうまったく赤一色になってしまい、ちかちかと瞬き続けるばかりになっていた。 哄笑し続ける柳と、それを呆然と見守る真田の背後で、プログラムの文字は何か言いたげに、だが誰に気づかれることなく増えていく。 もう食いつぶすコードはなにひとつ画面上に残ってはいなかったが、静かに、ただ延々と赤い文字が伸びてゆくのだ。 ――『EIJI』。 はっきりと。 今度ははっきりと、あきらかに意図を持って、何処からか打ち出され続けるプログラムの中に、その文字が増えていった。 ――『EIJI』。 ――『EIJI』。 ――『EIJI』。 ――英二 どこからともなくひびき続ける機械の低い鳴動音の中で、それは。 ――まるで声なき叫びのように。 |
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