――いっぱいの。
 彼には、いっぱいの不思議をもらったけれど。
 彼がくれた全てに埋ずもれて、眠ったまま二度と目覚めなければよかったのかもしれない。
 彼の与えた、おそろしいほどたくさんの不思議、愛情、幸福。
 ――いたみ。悲しみ。

 罪。


 そのとき、彼が英二を連れてきたのは、またどこにあるとも判らぬ山の中の一角だった。あの鋼鉄の城からさえ、少し離れた場所にある。
 連なる険しい峰の稜線がはるかに遠く見える場所――世界はそろそろ夕暮れで、いつも黄昏たような色合いの空が、さらに濃くなり始めた時刻だ。
 その中で、その場所は白く浮いたように見えた。
 水をたたえたごく小さな沼と、その周囲を取り囲む立ち枯れた木々。
 山間のほんの小さな平地に出来たなんの変哲もない場所だったが、どういうわけかそこにあるものは、全てが真っ白だった。
 木々の細い幹も、伸ばされた枝先も、岩に食い込む根元に至るまで真っ白なのだ。
 またそれを支える岩も、純白というわけではないにしろ岩としては奇妙なほど白く、また水をたたえた沼も黄昏の時刻に相応しく底なしのように黒ずんでいたせいで、余計に周囲の木々や岩、地面の白色は光ってさえ見えた。
 石灰が混じっているのでこんなにも白く――実際にもっと暗くなれば、不思議な色合いに発光する、と大石は言う。確かに、そこだけはまるでまったく別の世界から切り取って持ってきたような光景だった。意図されたわけでもあるまいに張り出した枝々が絶妙の位置で絡み合い、どこか作り絵めいた、不思議な、そして奇妙な美しさを醸し出している。
 英二は、裸足の足でそっと白い地面を踏みしめた。自分が近づくことで、このもの悲しささえ感じる静寂の光景を壊すのではないかと案じていたが、大石が大丈夫と言ったように頷くのでおずおずとそこへ近寄った。
 そのときのふたりは示し合わせたように、またぞろりと長い布を身体に巻き付けた姿だった。防寒のために一番良い生地を探していたら、結局こういう姿になってしまう。
 自分たちのその姿に、英二はなんとも言えない気分になる。
 あの研究所から逃げ出したときも同じ姿だった。
 鋼鉄の城で目覚めた朝も。
 長旅に疲れた巡礼者のような――世界から追われて逃げる者のような。

 英二は大石と並んで池の側にうずくまり、そのまま空が暗くなるのを待った。
 夜になればなるほど木々はぼんやりと光を増し、眼を射るほどの強さではないにせよ十分にあたりを照らし出して、その光景はまるで夢のようだった。
『大石、あれ、なに?』
『あれ?』
『空に――何か、点々って光ってる』
『星だよ』
『ほし? ほしって何?』
『星は星だ。宇宙に浮かぶ惑星や衛星で――ああ、そうか、ふつうは街からでは見えないものだな。ここは時々こうやって、風向きや雲の具合で見られるときもある』
 大石は、空を見上げた。
『スモッグが晴れて、空が青く戻れば街からでも星が見える。月もあんなふうに雲に隠れたぼんやりした見てくれでなしに、くっきりとした円形に見えるはずだ。――俺も、実物は見たことがないけど』
『ふうん』
『満月の時の月光は明るいから、きっとここももっと明るく見えるだろう』
『へえ。そうしたら、もっともっときれいだろうね』
 呟く英二を、ぼんやりと彼は見る。
『俺には……よく判らない』
『でも、俺に此処を見せてくれる為に、連れてきてくれたんでしょ』
『珍しい、滅多に見られない現象だと英二が喜ぶかも知れないかと思って』
『嬉しいよ』
 花の開いたように微笑む英二を眩しそうに見ていた大石だったが、やがてぽつりと尋ねた。
『キレイ……美しい、というのは、どういうときに感じるものなんだ?』
『え?』
『どんなことを、美しい、と思うものなんだ?』
『どんなことを、って……』
 英二が答えられずにいると、大石は何故か少し拗ねたような口調で、けれど決まり悪そうに言った。これほど肩と肩を寄せ合っていなければ、聞き取れないほどの小声でもあった。
『人間はみんな、花が綺麗だと言うだろう?』
『――』
『ああいう色で、ああいう形であることがキレイ、ということかと思っていた。花とか、宝石とか。――……でも、英二は違う』
『――』
『違うけれど、そんなものよりよっぽど』
『大石』
『よく判らないんだ』
 そう言って、ぼんやりと光る白い光景を眺めている彼は、もはやあの自信ありげな大石ではなかった。
 英二をあの白い建物から攫いだし、まるで婚礼の祝い火に代えるがごとくかの忌まわしい場所を炎の海に変えて見せ――幼く無垢な花嫁を扱うように夜ごと英二をいとおしんだ彼の、あのあやしいほほえみや奇妙な不遜さはどこかへ消えてしまっていた。
 それこそ、あの白い研究所で英二と心を通わせ始めたばかりの、不器用で幼い青年そのものであった。
 彼の智をもってしてもどうしても判りかねる悩みごとが英二であったようで――そのたびに彼はこうして困惑し、せっかく手にしたたくさんの知識を活用することも出来ず、何も知らない少年のように途方に暮れるのだ。
『――判らないけれど、美しいというのはこう思うことを言うんじゃないのか。花や宝石より英二の方が、いつまでも見ていたいし触りたい。どんな顔もきれいだと思う。英二が何を話していても、ずっと聞いていたい』
 そっと伸ばされてきた大石の手が英二の髪に触れ、艶やかな赤毛を確かめるように撫でる。
『英二をうつくしい、綺麗、と思うのは、花や宝石のそれとは、また違う気がする』
『……』
『でも、どうしていいかよく判らない』
 いつしか白い光景は、ますますその輝きを強め始めていた。
 遠くに見える険峻な峰、小さな光の粒を巻いたような空はただ暗く闇の中に沈んで、白い木の幹と岩だけを浮かび上がらせている。それが黒い水面に夢のように輝かしく映りこんで、ここだけが世界の中でひっそり息づいているような気にさえなった。
 遠い街も、人々も、実はもうすべてが廃墟の中でむなしく朽ちてしまっており、生きているのは英二と大石だけで、ここが世界の最果てなのだと言われても納得しただろう。
 はるか昔からこの白い光景は人知れず在り、誰に愛でられなくともこうして美しく光り輝くことを繰り返して来、またこれからもそれが続いていく。
 その気の遠くなるような永遠の幻景のなかに、自分たちだけが切り取られてしまったのなら――そうであったなら、どれほどよかったのだろう。
 そう、彼にはいっぱいの不思議をもらった。両腕に抱えきれないほど、身体を埋めてもまだ余るほどの。
 いっそそれだけで、己の世界がうずもれてしまえばよかったのかもしれない。何も見ず、知らず、聞こえず、日だまりの中でただ眠る。あるいはあの白い不思議な景色の中で、自分自身もそのひとつと化してしまう――そんなことが本当に出来たなら。


 
『英二があんまり綺麗でいると、俺はどうしていいかわからないこともあるんだ』
 呟いた彼に顔を寄せてはみたが、英二はそのとき何も言い得なかった。
 大石の言葉の意図がわからず、意味もわからず、そうしてなにより彼はそのとき、世界が受けていた災厄のことを、まったく知らなかった。
 闇の中にぽかりと浮かぶ白い景色の中、この世にただふたりきりのような錯覚を起こして、相手があまりに不憫で可哀想で愛しくて、少しでも暖めてやりたいとすら考えていたのだ。

 それが、英二の背に今も姿なき十字架となって残る。
 彼の与えた、おそろしいほどたくさんの不思議と、愛情と――いたみと、悲しみと。
 そして罪とで出来た、黒い十字架。







 静かな昼下がりのことである。
 いかなレジスタンス、ほこり臭いぶっそうな反政府組織とは言っても、それなりに穏やかな時間、誰もがほっとひと息をつく時間帯というのはあるもので、この半地下の建物は、今がちょうどそのまっただ中であっただろう。
 特に今はリーダーである乾からの指令もない。何人かは少し遠出しているものの、まだ帰還には時間がかかる。決して気を抜くわけでもないが、非番の者にすればちょっとした、リラックスタイムというところだろうか。
 そのむくつけき男所帯のただ中にあって、まるで場違いな花の咲いたような一角が存在している。
「不二。ふーじ」
 くすぐったそうに笑う少年が、たまらずに声をあげた。
「もういいよ、やめてよ」
 不二、と呼ばれた方はにこにこと笑いながら、茶目っ気たっぷりに首を振った。
 例の、打ち捨てられた半地下の建物の一角であるが、少し広めのロビーと言った様子の場所だ。もともとリラクゼーションスペース、という格好を付けられていたようであったので、半地下の割にはそこだけ日当たりも悪くない。此処が遺棄される前々からのものであろう座り心地のいいソファなどがぐるりと並べられていたので、此処を拝借している組織のメンバーにはちょうどいい休憩場となっている。
 そのソファの一角で赤毛の少年と、そして白いケープのようなものをふわりとまとった琥珀色の髪をした少年とが、顔をつきあわせてくすくすと笑いあっているのだ。
 赤毛の少年は言わずと知れた『英二』で、今年一九歳になるはずなのだが、どうしたことかまるで十五ほどの幼い顔つき体つきのままである。柔らかい輪郭の頬や、少しつり上がってまろやかな形の眼などはどこか仔猫に似た愛嬌と、そして愛らしさを感じさせる。不二の方は、これはもう誰もが感嘆の声を上げるぐらいの美少年だったが、何故か言葉を話すことが出来ずにいつも黙っている。
 誰を見ても怯えたり威嚇をしたりと心を開かない不二であったが、今現在此処にはいない手塚と、そうしてこの英二にはいつも喜んで懐いている。
 とにかく不二は英二がいれば、にこにこと大人しい童女のようでいるので、手塚が不在の間は英二が彼をまかされている。
 彼も、手塚も、この組織には欠くことが出来ない貴重な『ドール』なのだから、と念押しをされて。
「不二。不二ってば」
 英二はまたも笑い声をたてた。
 不二は先ほどから古びたブラシをせっせと動かし、英二の髪を少しずつ束ねては、どこから手に入れてきたのか細長い布でリボンを作って飾り、またその結わえ方が気に入らない部分は丁寧に解いて梳かして束にして、を繰り返していた。
 どうも不二は英二のこの赤い髪がいたく気に入りのようだ。すその跳ね具合を指先でいじりはじめたぐらいは英二も好きにさせていたのだが、どこからかヘアブラシを持ち出して、少女が気に入りの人形に整えてやるように髪を結いはじめてからは、くすぐったいやら、いったい今自分の頭がどのようになっていて、いくつリボンがついているものやら、と少々不安にさえなった。
「もう、不二ってば」
 英二は少し嫌がってみせたが、不二には本気でないことはとうに見抜かれているようだ。ちゃんと座ってて、と言いたげに肩を押さえられた。
「髪、ひっぱったら痛いよ。もうリボンはいいってば」
 妙な方向へ引っ張られたまま結わえられた髪を、そっと左手で撫でた。
 不二は背後から英二を覗きこんだような体勢になっていたが、ふとその表情がかたく強ばる。
「どうしたの」
「――」
「不二、どうしたの。どこか痛い?」
 不二は、もちろんのこと何も答えを返すことは出来なかったが、その視線がじっと英二の左手に注がれているのに気づき、英二は自分の迂闊さを知った。英二が手を引っ込めるより早く、不二は英二の左手に飛びつく。
「不二」
 英二は慌ててやめさせようとしたが、不二は英二の左手の薬指をぎゅっと握りしめた。
「駄目だって、やめなよ不二」
 ぐいぐいと不二は英二の薬指をひっぱる。彼はそこに嵌められた金色の指輪を外そうとしているのだ。
 彼はこの指輪を何故かひどく憎悪していて、視界に入りさえすればそれを英二の手から引き抜こうとしてひと悶着なのだ。
「不二、無理なんだよ。……駄目だってば、とれないよ」
「――」
 英二ももう幾度めにもなることのことなので、静かに不二を落ち着かせ、言い聞かせようとする。
「不二。これはね、不二のここと同じだよ」
 英二は、出来るだけ不二を驚かせないように、彼の喉元につけられたプレートにそっと触れた。
「わかるだろ? これは、俺の身体の肉と――この部分と癒着してしまってるんだ。だから、取れないんだ」
「――」
「これを取ると、俺の心臓が止まるんだ。――だから取らないで、不二」
 ね? と顔を覗き込んだが、不二はたちまち目に涙を浮かべて英二にしがみついてきた。それも、自分の望みが聞き届けられなかった涙ではない。
 不二が言葉を話せたら、可哀想、可哀想、と英二を抱きしめてでもいるような、そんなしがみつきかただ。
 しばらくこのまま泣かせていたら気も済むだろう、と英二が不二の背をなで始めたときだ。
「英二センパイ」
 そう声がかかって、物陰から桃城が顔を出した。
「あれ、英二センパイ、どしたんですか。カワイイ頭しちゃって」
「不二のお遊びだよ」
 苦笑しながら不二を宥めている英二は、そっけなくそう言った。涙に濡れた目で不二は桃城を睨みつけたが、その桃城のすぐ後ろから現れた人影にはぽかんとしたような表情を作った。
「やあ、英二。不二も」
「わ、タカさん」
 英二もたちまちほっとしたような表情になった。
 いや、いつも時別緊張している、というわけではないのだが、彼は意識して無表情をつくり、傍らから出来るだけ他人を遠ざけようとしている――ように見える。
 少なくとも桃城から見た英二の印象はそうだった。
 先日目撃した、年上の大柄な男を恐れげもなく、嘲りながら蹴り飛ばしていたときでも、口調こそ小悪魔のようであったが目元は僅かたりとも笑っていなかったからだ。
 そういえばあのときの男をあれきり見ないがどうしたのだろう、と桃城は考える。
「おかえりタカさん。いつ帰ってきたの」
「たった今だよ。そこで桃に会ってさ。英二達は何処にいるかってきいたら連れてきてくれて……不二、どうしたの、またご機嫌ななめなのかい」
 タカさん、と呼ばれたこの男――河村隆に覗き込まれた不二は、泣くのを止めて彼をじっと見上げていた。
 河村は不二に、懐かれることはなくとも怯えられない数少ない人間で、精悍な顔立ちや体つきからはすぐに想像できないような、柔和な青年である。
 乾になにやらを言いつけられて、長く帝都へ潜入していたのだが、このたび久しぶりに戻ってきたようだった。
「英二はまたどうしたんだ、その髪の毛」
「不二が遊んでたんだよ」
「ははは、可愛いな、なかなか似合うよ。上手に結んだねえ、不二」
 そう言って河村に笑いかけられると、不二もはにかみながら少しほほえみを返した。
「そうだ、これを渡そうと思ってさ。ほら、おみやげ」
 河村は手に持っていた紙袋の中身を、ざらりと英二と不二の膝の上に広げた。
 大量の小さな銀色の粒は、どうやらひとつひとつ丁寧にくるまれたキャンディのようだ。キャラメルやチョコレートもかなりの割合で混じっているらしく、英二と不二は、それぞれが空けてみた包み紙の中身を確かめ合って嬉しそうな声を立てた。
「こんなにたくさん、凄いね」
「なかなかこっちじゃこういうものは手に入りづらいからね。ああ、あと薫はいる? それはあの子の分も入ってるんだ、三人で分けて食べてくれよ」
「ええと……薫ちゃん、多分乾の所だと思うよ。どうしよう」
 せっかくだし呼んでこようか、と立ち上がり駆けた英二を、河村は手で制してにっこりと笑った。
「乾の部屋なら俺が今から行くからいいよ。桃、それじゃ悪いけど一緒に来てくれるか」
「ああ、ハイ」
「またあとで、向こうの話し聞かせてよ、タカさん」
 無邪気に呼びかける英二に手を振り、河村は桃城と一緒にそのささやかな日溜まりを後にした。





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