俺が生まれたところの名前? 街の?
 さあ……覚えてないや。
 うん。でもなんか、ちっちゃくてせせこましくて、今にも倒れてきそうな家がおしあいへしあいで建ってるとこだった。そう、すごく狭くて汚くて。
 ほんとに覚えていないよ、そんなこと考えたこともなかったし、俺もう10歳ぐらいで、うちじゃ食わせていけないってよその家に下働きに出されたんだよね。
 そうだね、たぶん家族のいたところからはうんと離れたんだと思うよ。でも、連れてかれた先の街も、印象自体は同じだったな。働かされてた家は大きくてキレイだったけど。
 ちっちゃくてせせこましくて、風が吹いたら飛びそうな薄い板で出来た家が、みっしり建ってた。俺がいた大きなお屋敷は高台にあったから、街の中にあった赤い電波塔がよく見えたよ。ふたつ、街のこっちとこっちに建ってた。ふふ、その街の名前なんかも覚えてないってば、電波塔だけだよ、記憶にあるのは。
 俺はそのお屋敷で、下働きの、もうひとつ使いっ走りみたいなことしてたんだ。
 でも、ひとつきもしないうちにご主人サマに呼ばれてね。夜――そう、ベッドでの玩具代わりにね。
 ああ、そうだね。嫌だったな。
 痛かったし、気持ち悪かった。
 でも言うこと聞いて大人しくしたら、食事抜いたりしないからって言われたんだ。
 だって俺ちびだったから、けっこう意地悪されてゴハン取られたりしてたよ。うん、まあ、それからご飯はちゃんともらえるようにはなったけどね。食わせてやってる分が、俺の働きなんかじゃ全然足りないんだから、これで返せって「ご主人サマ」によく言われた。変な道具とか薬使ったりさ。
 泣いたら撲たれて、どんなに頼んでもやめてもらえなくて。そういうのが毎晩続いて、俺、きっと殺されるんだと思ってた。たぶん俺なんて、死んだってかまわないような、おもちゃみたいなもんだったんだろうね。でも俺いくとこなかったから。
 え? 「虐待」? 「ひどいこと」?
 ……ああ、そうか、俺、かわいそうなことされてたってことになるのか。
 そっか――そうなのかな……うん。
 ごめん、よくわからないや。
 そこにはそんな長いこといなかったよ。だから、辛かったのかって聞かれてもね。あんまり思い出せないんだ、痛かったこと以外。
 痛いのが早く終わるようにって思ってたこと以外。
 そこを出たのは、『ご主人サマ』のやることが酷くなってきたのもあったし――そこのうちの、オジョウサマだったかオクサマだったのかが、俺を目の敵にしてずうっと鞭で撲とうとするから、ある日とうとう逃げ出しちゃった。
 そんなことないよ、まだ子供だったし。いちにち歩いて、たどりついた街でぶっ倒れた。はは、だからそのときもおなかすいてたんだってば。誰か物好きな男がご飯くれた気がする。さあ、名前なんか知らない。食べるものったって、抱かれる代わりにくれたんだからさ、それっきり。ま、それで生き延びたようなもんだよね。
 あとは――そうだね、いろいろやったよ。でも、そのへんの男に一晩拾ってもらうのがいちばんマシだったし、金になったから自然にそうしたけどね。
 そうじゃないよ、親切な人もいたよ。俺の母ちゃんみたいな、俺と同じ仕事してる女の人がいてさ。そこにおいてもらってた。その人がごはんつくってくれたり、服縫ってくれたり。やさしいひとだったよ、俺にすごく優しくしてくれた人だった。
 うん、その人が病気で死んじゃってすぐだね。
 俺が、大石の処に行ったの。
 でも。
 でもどうして?

「どうしてこんなこと聞きたがるの?」
 かすれた、それこそ顔をそば近くに寄せていないと判らないような声だ。
 広く豪奢なベッドに仰臥し、ダークグリーンのベルベットと男の体とにあやしく絡まりながら、英二はゆっくり顔を巡らせた。
「大石?」
 汗の引き始めた肌をぴたりと密着させる心地よさに、英二は目を細めた。
 大石の手は優しく英二の髪や頬や、愛らしい耳朶等を慰撫する。指先は気まぐれに唇に代わり、こまやかに英二を慈しんだ。
「おもしろいことでもないのに」
「英二の話が聞きたい」
 ようやく口を開いた大石は、真剣にそう言った。
「英二が話しているのを聞きたいし――どうしていたのかとか、知りたい。俺の所にくるまで、どうして、どんなことをして、誰といたのか」
 闇の中ではあったが、互いの表情ぐらいはよく判った。長くこの薄闇の中にいたことで、かえって灯りなどは眼を射て痛いほどであったろう。
 この荒れ地の中、鋼鉄の城の中で誰の目があるわけでもなかったが、彼らは自然に声をひそめ、灯りを避けた。長く耽っていた惑乱の海からようやくうつし身に立ち返ったようであった。
「誰、というほど、知ってるヤツなんかいなかったよ」
 英二は肩を竦めて少し笑った。その英二のほほえみを見逃すまいと、大石は端正で無表情な貌をそろりと彼に近づける。
「あの女のひとのことは、普通にかーちゃんって呼んでたし。俺の名前を呼ぶ奴だって、別に俺本人のことなんかどうでもよかったんじゃない? 俺の名前なんか、それこそ突っ込みたくなったときに、俺を探す番号みたいな感じでさ」
「――」
「それが当たり前だったから、べつに辛いとも悲しいとも思わなかったけど――でも、何でかな。大石といると、もうあんなことしたくないって思うな」
 そう呟くと、英二は額を大石の肩のあたりに押し当てた。
 大石はそれには何も言わず――正確には何か言おうとしてはいたのだが、うまく言葉が見つからずに結局沈黙を保ったままになってしまっていた。
 相変わらず、己の感情を表現する言葉については幼児より乏しくたどたどしいばかりの大石であったが、彼なりの精一杯で英二を慈しもうとしていることは、今更改めて思い知るようなことでもないだろう。
 身を寄せてきた英二を抱きよせ、愛撫の範囲を顔のあたりから喉元、肩口と広げながら、彼はゆっくり英二の体に上から重なった。
「ねえ大石」
 おとなしく彼の腕に身を預けたまま、英二はふと気になったことを尋ねる。
「最近、時々いなくなるけど、どこへ行ってるの?」
「――」
「昨日も」
 大石は答えなかった。
 黙って英二の肌をあちこち探る。決まって英二が体を震わせたり、深くため息をついたりする肌の箇所を彼はきちんと覚えているのだ。
 そこばかり撫でていれば、やがて英二がたまらず泣き声をあげて、彼にすがってくるということも。
「英二はその男が好きだった?」
「その男、って?」
 息を弾ませて、英二はかすれた声で問い返す。
「英二を最初に抱いた男――小さかった英二に痛いことをした」
「好きか嫌いかって言われたら、嫌いなタイプかな」
 英二はなにも考えず、気軽に答えた。
「いつも威張り散らしてたし、お金に汚かったし。今の俺ならきっと殴ってるけどさ。でも、もうそんなことどうでも」
 いい、と言いかけた英二は、小さく喘いで喉を反らせた。
「あ」
「英二」
 耳元で囁かれて、身体をぶるりと震わせる。
「その男にこうされるのは、いやだった?」
「やだった、よ」
「いやなのに、されてた?」
「うん」
「されて嬉しかった人はいた?」
 英二は小さく首を振る。
「そんなひと、だれもいなかった」
「英二」
「大石の所に行くまで、そんな人はいなかった」
「じゃあ、俺にされるのは、嫌じゃない? 英二」
 囁く声は優しかったが、獣の猛りは再び英二を蹂躙しようとしている。
 その熱さと、やがて訪れる快楽に期待して、英二の体はふるえた。
「俺にこうされるの、本当に嫌じゃない?」
「いや、じゃない」
 答えてすぐ、英二は低く呻いた。
 獣が彼を喰らおうとしていた。
「いやじゃないなら、泣くのは、どうして?」
「うれしくても、泣くよ」
「嫌じゃなくても?」
「うん」
「嫌じゃない?」
「嬉しいよ」
 低い、悩ましいため息をついて、英二はそのまま彼の体にしがみついた。
 身体が、熔けそうになる。彼の狂おしい愛撫が、指先が、皮膚から染み渡り神経を冒して、脳髄を灼く。はじめてと言ってもよかったぐらいの、強烈な色情に翻弄される。
 荒んで痛々しい交わりしか知らなかった身体が、ゆっくり暖められ癒され、あらためて甘くとかされていく日々を、そのとき英二はうっとりと味わっていた。
 飢えに苦しむこともなく、自分をしいたげようとする存在に怯えることもなく、金と引き替えに体を弄ばれなければならないこともない。
 いつも追い立てられるように白い研究所の中を引き回されることもない。
 誰かの視線をいつも感じながら、不安定なこの青年を案じる日々でもないのだ。
 それは確かに、英二が初めて味わう穏やかな時間であったろう。はじめて彼は優しく暖められて穏やかに眠り、安らいで目覚めることを知ったのだ。
 それが薄氷の上にあり、恐ろしいような地獄の上に成り立っていることに気づくのに時間がかかったとしても、そのことで英二を責めては酷であったろう。どのみち彼は、いずれそのことを血を吐くほど嘆いて後悔し、己を恥じ、苦しみ、そうして悲壮な決意へと至ることになるのだ。

 微かな機械の作動音が鳴り続けている。
 現代の玉座に君臨することを夢見て、とある野心家が作ったこの鋼鉄の城は、彼が追われる王の如き最期を遂げたあとも勤勉実直に動き続けている。
 その巨大なホールは、この鋼鉄の要塞にいくつかあるサーバルームのひとつである。目の届く範囲だけでなく、いったいどうやってあんなところの機械を操作するのか、と首を傾げるような高いところにまで、なにやらの機械が埋め込まれている。
 音もなく、横滑りに開くドアをあけて入ってきた人間を迎え、壁一面に埋め込まれた画面は明滅して、主の降臨を声もなく歓迎した。
 入ってきたのは、大石だった。
 眠りに落ちた英二をひとり寝室に残し、例の、人の血が染みこんだ粗目の布で身体を包み込んだだけの、あの姿である。
 機械達はてんでに光り、意味もなく瞬き、あちこちの反射板に小さな光の粒子を踊らせては、主の寵を待つ女達のように大石を取り囲む。
「検索開始」
 彼は淡々と言った。
 よく響き渡るその声に、機械達は嬉々として己で勝手にプログラムを動かし始めた。キーボードに限らず彼は操作のための何の媒体も必要としないらしい。
「――東部B−58地区より、96q圏内」
 そこまで言って、大石はふと眉を顰めた。
「……十才児の歩く速度は、どれくらいだろうか。遅いのかな、早いのかな。……子供でも、走ったりするのか」
 英二に聞いておけばよかった、と彼はひとりごちた。
「訂正。120q圏内」
 機械は心得たように明滅する。
「十年以内に、赤色塗装の電波塔が同域に二台建てられていた地区。赤色の電波塔は生産期間が限られているから、設置されているのも多くはないはずだ。地区の開発レベルは不確定だがおそらくDクラス。貧困街地区の指定、もしくはその区域を内包している可能性も考慮のこと」
 機械は、一瞬沈黙した。
 しかし次の瞬間にはおそろしい早さで画面をあれこれの文字で埋め、検索結果を表示し、最終的に大石の口にした条件を満たした街をひとつだけ表示した。
 大石は手近のモニタに目をやる。うやうやしく表示される街の名と位置とに目を走らせると
「検索終了」
とだけ告げた。
 そのひとことで機械達は再び沈黙する。名残惜しげにちかちかと瞬いては消えていく粒子達が完全に沈黙したころ、大石は来たときと同じように、素っ気なく部屋を出ていった。

 寝室に戻ってきた大石は、ベッドの中に英二がいないことに気づいた。
 英二が選んでくれた服に手を通しながら、忙しく頭の中でこの要塞の見取り図を展開させていた彼だったが、すぐ近くのある一室で人の気配がするのに気づいてそこを覗き込む。
 そこは居住区域のはしにある小さな一室で、少なくともここを住まいにしようとしていた主が使う部屋ではなかったろう。主につかえる使用人達が、その御用を勤めるための一室のようであった。
「……何をしている、英二」
「あ、大石」
 ゆったりしたシャツの一枚だけを着込んだ英二は、にっこり笑って大石を見た。シャツは英二には少し大きすぎるのか、袖を何重にも折り曲げて着ているのがかわいらしい。
 ひらひらする白い足に気を引かれながら、大石はもう一度何をしているのかと尋ねた。
「ご飯、用意しようと思って」
「だからと言って、何故そんなものを持ち出すんだ」
 大石は唖然として、英二を引き留めようかどうしようかと迷っているようだった。
「そんなものって……だって、これがないと」
「危ない、手を離せ、英二!」
「わ、な、なに、大石」
「それは火だ、それに刃物だ! そんなもの、どうやって食べると言うんだ」
「ちょ、ちょっと料理するだけだよ。わわっ、大石こそ危ないよっ、手! 手ェ切るよっ」
 真っ青になって英二に飛びついてきた大石に、英二は慌てて刃物――ナイフを横に退けた。
「料理って」
「お料理」
「――食品を加熱調理したりする行為のことか」
「うん」
 とにもかくにも大石からナイフを遠ざけると、英二は言った。
「ああ、大石は研究所で、レトルトとパックのご飯しか食べてなかったもんね」
「――」
「器具はあるし、調味料も使えそうなのがいくつかあるから、ちょっとあったかいのを作ろうと思って」
「そんなことができるのか」
「出来るよ」
 おかしくなって、英二は笑った。
「あんまり凝ったことは無理だけどね。食堂みたいなところがあったでしょ、そこでご飯にしようよ」
「――」
「お皿を出したりするの、手伝ってくれる?」
 大石は頷くしかない。
 いくら知識として頭の中に存在していても、実際目の前で展開される『料理』などは、未知の領域だ。英二に皿を出せと言われたことも忘れて、彼はまじまじと英二の手元を覗き込む。
「え、英二。そんなに早くナイフを動かしたら危ない、手を切る」
「切らないよ」
「火も大丈夫なのか。火傷したらどうするんだ、跡がついたら」
「大丈夫だってば」
 保存を優先にしてある食料ばかりであったから、それこそ缶詰や真空パック、フリーズドライの野菜しか無かったが、英二は案外器用にそれらを混ぜたり、切り分けて煮込んだり、バターと絡めて炒めたりと手早くいくつかの料理を作り上げた。
 大石は呆然として英二のその鮮やかな手つきを眺め、簡単ながら暖かい食事が供される間も、しきりと彼らしい何やら小難しい言い回しで英二のことを誉めた。
「美味しかった?」
「――もう少し量が多くても、いい」
 野菜と煮込んだ肉と、優しいとろみのついたスープとを綺麗にたいらげた大石は、そんなことを言った。
「本当はそんなに多量を摂ったら胃に負担がかかるかもしれないが。確かに満腹なのに、まだ胃に入りそうな気がする」
 そういう気分にさせる味だ、と真面目くさって言う。
 たぶん美味しいのでもっと食べたい、と言う意味合いのことだろうと英二はおかしくなった。
「また作るね」
「――いいのか?」
「あまり作れないかも知れないけど、また違うものを」
「まだもっと別の種類の調理方法があるのか?」
「口に合うかどうかは判らないけど」
 にこりと笑う英二に釣られたように、大石も少し口元を緩めた。
 けれどそれが完全な微笑の形になる前に、大石は皿を重ねて片づけている英二に向かってこんなことを言ったのだ。
「少し休んだら俺と一緒にでかけよう、英二」
「――……?」
「英二にいいものを見せてあげる」
 いいものって? と首を傾げる英二に、大石は、今度はあの張り付いたようなはっきりとした笑みの形に唇をゆがめて見せたが、それ以上は何も言わなかった。


 確かに英二は、そのとき幸福の中にいた。
 幸福――あるいはそれに近いもの。
 近いと思わせるようなもの、思いこんでいるようなものであったかもしれない。
 はじめて許された優しい柔らかい日溜まりの中、英二がそこにうずくまりたくなっても、それは致し方なかっただろう。
 うずくまり、髪を撫でる優しい手に身体を委ねて、目を閉じてしまったとしても。
 それが為に、確かに視界に捕らえた闇から結果的に目をそらすことになってしまったとしても。
 傷を負っていた自覚さえなかった英二が、己の受けた痛みに初めて気づき、ゆっくりそれを癒そうとしていた、ほんの僅かな時間。
 決して長くない英二の生涯の中で、彼に与えられた優しい日溜まりの時間は、後にも先にもこの一瞬だけであったのだから。

 








back/next
top/novel top/Reconquista top