その部屋の状態を、事情を知らぬ者が見たら、よからぬやからに荒らされた跡か、と思うかも知れない。 それとも、ものぐさ者がとにもかくにもなんとか他の部屋の格好を付けるために様々な物品を後先考えずに放り込んだまま、長らく放置してあったのか、とも。 それほどその部屋は無秩序で、この上なく乱雑で、まったく物の無法地帯である。惨状、といってしまってもよかったくらいだ。 この部屋の主は整理整頓という言葉とは無縁の国に生まれたのかとさえ思わせるほどだ。 せっかく、かつての研究室としてそれなりの広さがあるにもかかわらず、規則性も何もなくスチール机が適当にいくつか置かれているだけである。 その上にはメモを書き取る為のちょっとしたスペースすらないほど、コンピュータのモニタを中心としてさまざまに記憶媒体だのキーボードだの何やらを読みとるためらしいあやしげな機械だのを並べ、分厚い専門書や何かの写真、資料らしき紙の束などがそれらの僅かな隙間も見逃さずにつっこんである。 それだけでも物凄い眺めであるのに、機械同士を繋ぐコードがあちこちにうねうねと絡み合っていて、嵐でも過ぎ去ったような有様だ。この部屋を片づけろと言われたら誰でも途方に暮れて天を仰ぐだろう。 機械を動かす為の電源を最優先にしているこの部屋の主は、部屋そのものの照明には無頓着だ。いくつもあるモニターのバックライトでそれなりに内部は見渡せるものの、薄暗がりのせいで、一種異様な雰囲気であることは間違いない。 だが部屋の主にしてみれば、どこに何があるかはよくわかっているのだったし、必要なものをもっとも手早くもっとも少ない動作で取れる範囲にものを置いたらこうなっている、と主張して止まない。 ある意味この部屋の乱雑さや異様さは、彼自身をよく表しているものであったろうか。一筋縄ではいかない破壊的な才能と、そしてどこか倫理的に破綻した性格とを。 時折余人には何がなんだか判らない発言をしてひとりで納得しているようにもみえることもあるが、彼の中ではそれは素晴らしく筋の通った、実に非の打ち所のない理論なのである。彼以外の凡才がそれを理解できなくとも当然であったし、判ってもらえなくとも彼はべつだん痛痒も感じず、今日も数字とアルファベットの羅列との会話に専念する。 あるいは彼は、いままさに此の世の終わりがきていると言われても、淡々と画面を見続けているのではあるまいか。 機械は簡単だから楽でいい、と言うのは彼の口癖だ。 イエスかノーか。 それだけだ。 ――打算、かけひき、愛情、同情、思慕、高慢も卑屈も何もない。 判断に困ることがない、と彼は言うのだ。 「またこんなややこしいプログラムを」 ひとこと呟いて、彼は口元をゆがめた。 モニタのバックライトに照らされる顔は若いし、それだけでなくなかなか端正でもある。瞳も見えない分厚いレンズの眼鏡は、彼が長い時間この画面とそれに踊る数字と過ごしてきたあかしのようなものであったが、それが彼の表情を余計に見えづらくさせていた。 袖口が擦り切れ、薄汚れた白衣を着込んで猫背気味になっていると、実年齢よりも年上に見える。 「ややこしいと言うか、ひねくれた書き方だな。こういう書き方をするのはあいつだ。……うん、そう思えば実にあいつらしい。――ここでこういうひっかけをしたって、俺ぐらいしか判らないだろうに」 それともそれが前提か、と呟いた男は、喉の奥で低い笑い声をたてた。 彼の膝の上に座り込んでいた小さな人影が、びっくりしたように顔をあげた。 彼が声をたてて笑うこと自体がずいぶん珍しかったのだ。 きょとんとして見上げてきた人影などには目もくれず――もちろん、キーボードに伸ばされた両腕のあいだにおさまるちいさな体がかまって欲しげに、けれど機嫌を損ねるのを恐れて遠慮がちに胸にすりよるのなどおかまいもせず、彼はくすくすと楽しげに笑い続けていた。 「判っていてやったんだろうな。それにしても、どれだけ情報を取ったかしらないが、見たら仰天するだろう――そう、もしかしたら、あいつのことだ、菊丸の存在に気づくか。……そう、気づく確率98%」 そこで彼はキーボードを操る手を止めた。 左手は唇に当てて何か考え込み、右手はとんとんと机の上の紙を叩いている。膝の上に座る人影――『薫』の髪を撫でてやる考えなどあるはずもなかった。 「まあ、それでもそれなりに邪魔はさせてもらうよ。――お前の気が済むような『邪魔の仕方』をね。お前が抱え込んでいるあのバケモノがお前の最後の希望とは、なんとも情けない、下らない話じゃないか。何十年前の純愛ドラマだ、いまどきの子供でもそんなものに気を引かれないだろうよ」 「――……お父さん」 自分の胸のあたりから、遠慮がちに呼ぶ声がする。 「どうした、薫」 「――……」 「ああそうだな、お昼寝の時間だ。そろそろ自分の部屋へ行って寝ておいで。夕食はいつもの時間だ、ちゃんと自分で起きるように」 男は『薫』のほうを見ようともしない。 薫少年は黙ったまま彼の『父』を見上げていたが、やがて小さな息をついてしょぼんと膝から降りる。 そのままとぼとぼと部屋から出ていこうとしたが、彼の『父』が珍しく薫を呼びとめた。 「お部屋に行く前に、菊丸を呼んでおいでくれるかな。ここにね」 「――はい」 「それから――そのバンダナはどうしたの?」 「……あ……」 薫少年はみるみる真っ赤になった。彼はいつも通りデニム地の短パンと黒いTシャツの格好だったが、今日はその可愛らしい頭を明るいオレンジのバンダナが覆っている。 「誰かがお前によこしたのかな」 「あ、あの……手塚、サンが……」 「そう。とても似合っているよ」 「あ……ありがとう、ござい、ます」 「うん、可愛いよ。こんど河村が帰ってきたら、見てもらうといい。きっと誉めてもらえるよ」 男はその会話の間中、薫を振り向きもしなかった。 それどころか薫がこの部屋に来、許されて彼の膝に座り、こうやって出ていこうとするまで彼が薫を見たかどうかさえあやしかった。 少年は、しかし幼い頭にくるりと巻いたバンダナを誉めて欲しくてたまらなかったのでとても嬉しくなったらしく、ぺこりと頭を下げて部屋を出ていこうとした。 そこへまた男が 「あとでもう一度よく見せてもらおうかな。今夜は俺の部屋においで。いっしょに寝よう」 などと言ったものだから、それこそ足に羽でもはえたかという軽やかさで、『父』の用を果たしに駆けていった。 遠ざかる幼い足音を耳に、男は――乾貞治は小さく笑う。 「お前の顔が早く見たいな」 誰に向けられたかも知れぬ冷笑である。 「絶望している、お前の顔をね」 再び、彼の指先はキーボードを操り出す。 芸術ごとになにひとつ縁はなくとも、キーを叩く手の動きは美しくさえある。 「せいぜい『ヘイムダル』を抱く夢でも見ておくがいい」 昼下がりのことである。 レトルトと缶詰、そうしてなにやらあやしげなサプリメントと言うわびしい食事を済ませた桃城武が、ある通路にさしかかったときのことだ。 この場所はもともとは政府が作っていた医療系研究所のひとつで、『ラグナロク』のあいだに放棄されたものだ。半地下に作られているのでちょっとやそっとでは発見される恐れもない。 大規模な施設や数ある部屋も半数は使っていなかったし、いましがた桃城が歩いてきたような、建物内にありながら一日中まったく人の通らぬ箇所も存在していた。 そこから何か、言い争う声が聞こえてくる。 桃城は、基本的には他人の揉めごとに積極的に首をつっこむタイプではなかったが、言い争う声の片方が菊丸英二らしいとなれば話は別だ。 物陰からそっと覗いてみると、壁際に追いつめられるようにして菊丸英二が、そうして彼より一回り以上いい体格の男が彼を逃すまいとして左手を掴んでいた。 いつものジーンズと額に細く巻いたバンダナ、という英二の姿は変わらないが、あの重苦しい物騒なベストは脱いでしまっている。灰色のTシャツ一枚きりの上半身が酷く痩せて、か細く見えた。 そうして、その英二を押さえつけようとしている男の方は桃城も見覚えがある。 このレジスタンスはたいして規模の大きいものではないが、それでもそれなりの人数で構成されている。その男の名前を失念してしまったが、とにかく若手にはやたら先輩風を吹かせていた。 それでなくても政府の研究所出身の桃城などは色眼鏡で見られることも多かったせいで、よけいにいろいろと絡まれることもあったものだ。 なにをしているのか、とまずは状況を確かめようとしたときだ。 「ふざけんな、このゲス野郎っ!!」 甲高い菊丸英二の声が響いてきて、なにやら鈍い音がする。 自分よりずいぶん上背のあるその男の顔面を、英二は何の遠慮もなく握り拳で殴りつけたのだ。 「なにすんだ、このガキっ!」 男も激昂して、両手に英二の肩をつかんだ。 「人が優しく言ってやってるうちに、言うこときいとけよ!」 「お前の言うことなんか聞く義理あっかよ!」 「るせえ! ガキだからってこっちが下手に出てやってりゃつけあがりやがって!」 男は暴れる英二を扱いかねてか、ひどく乱暴に壁に叩きつけた。 殴ろうとして幾度か手を振り上げているのも見えたが、殴れない理由でもあるのか、岩のようなその拳で英二を打擲しようとはしなかった。 「おまえあれだろ。腰振ってバケモノども喜ばせてるオシゴトだったんだろ。いまさら何気取ってんだよ、おい」 「だからってなんでお前につき合わなきゃなんねえんだよ」 唾でも吐き捨てたそうな顔をした英二の腕をようやく捻り上げた男は、余裕を見せつけるようにせせら笑った。 「女みたいな顔しやがって。どうせ手塚とか乾さんにも、この顔で気に入ってもらったんじゃねえのかよ、おい」 「ばっかみてえ」 強がりなのか、英二は物怖じせずに吐き捨てた。 「時々おまえみたいな勘違い野郎が出てくんだよ。手塚も乾も、俺みたいなのは好みじゃねえんだってさ」 「違うってんなら、なんでてめえみたいなチビがあのあたりとよろしくやってんだよ。それともおまえ、ほんとはドールか」 「俺はドールじゃねえよっ」 「まあな。ドールにしちゃはねっかえりすぎだ」 もがく英二を完全に押さえつけた男は、やっと勝利を確信したのか途端に気持ち悪いような猫なで声になった。 「あのな、何も乱暴なことしようってんじゃねえんだよ。俺も小一時間楽しませてくれりゃそれでいいんだ。――おとなしくしてりゃ優しくしてやらないこともないしな」 「……」 「それに、もちろんただとはいわねえよ」 英二はぎっと男を睨みつけていたが、その台詞を聞くと嘘のように大人しくなった。 「――ただじゃ、ないんだ?」 「おう」 急にしおらしくなった英二に気をよくしたのか、男は肩をそびやかした。 「まあこういうご時世だから、金ってわけにゃいかないけどな。ま、少なくとも損はさせねえぞ?」 男が英二の顔を覗き込む。 英二はふっと顔をあげたが、距離のある桃城が見ても息をのむほど妖しい微笑をたたえている。 「じゃあ、いいよ」 あれほど暴れていた英二の豹変ぶりに、男も、そして物陰の桃城も目を見張る。 「そのかわり、代金先払いで」 「あ、ああ、いいぞ」 「モノはいらない。代金は、あんたのカラダでね」 「おっ」 「ゆっくり楽しませてよ」 「おお、一年分ぐらい先払いしてやらあ」 相好を崩した男の横顔は、はっきり言って見られたものではない。 英二の肩を掴んでいた手を離し、遠慮もなく、そしていかがわしくももう英二の腰のあたりをなで回し始めた――次の瞬間。 ぐえ、とみっともない声が響いて、男は体を前半分に折ってうずくまった。 「それじゃ、きっちり払ってもらおうじゃん」 英二は思わぬ力でうずくまった男の襟首を掴み上げ、立たせると、再び股間に強烈な蹴りをいれた。潰れた蛙のような、悲鳴と言うにはあまりにも原始的で醜い雄叫びを上げ、男はそのあたりを転げ回る。 「おら、何やってんだよ。――まだまだ一年分どころか、俺の腰なでた代金にさえなってねえぞ」 「ちょ、ちょっと待て、てめ……ぐあっ」 体を起こそうとしたところを、今度は股間を思い切り踏みつけられ踏みにじられ、男は白目をむいてのけぞった。 「カラダで払ってくれンだろ? 俺、コレしないとその気になんないんだよな。ほら、先払いなんだから、もっと楽しませろって」 急所を隠そうと腹這いになったところを、こんどは尻を蹴り上げられ、男は情けなく床をはいずった。 「あと二十回ぐらいソコ蹴らせてくれたら、服の一枚ぐらい脱いでやらないこともないんだからさ。ほら、俺とやりたいんだろ? そっちが言い出したんだから、早く払うもん払ってくれよ」 「て、てめえっ、英二っ」 男は涙目になりながら、なんとか英二から逃れようと必死に床をはいずる。下半身のダメージはそれは強烈だったらしく、男は壁に手をかけて立ち上がろうとしては痛みのために無様に転んだ。 もう最初の勢いは何処へやら、冷や汗と脂汗とをかいた男の背後に、愛らしくも非情なる悪魔の足音が堂々と迫る。 ――そのときだった。 「まあ、そのくらいにしといてあげたらどうです、英二センパイ」 「――桃……」 「それやられたらマジで死にますからさ。そのひともいい教訓になったでしょ」 男がひいひいと手をかけた廊下の角から、背の高い青年が顔を覗かせた。 人好きのする笑顔で英二を、そうして少々哀れみを込めて自分の足下近くをはいずる男を眺めやる。 「英二センパイのことは大事にしてくれるように、って乾先輩から言われてるっつーに、いっけませんねー」 唐突に目の前に現れた桃城に文句を言う元気もないらしい。 男はふたりの見守る前で、脂汗を垂らしながらようやっとのことで起きあがり、ぜえぜえと肩で息をしながらその場をあとにする。 「どけっ」 男が桃城の後ろで突然叫んだので何事かと彼は身構えたが、そこには相変わらずよたよたと歩いてゆく男の後ろ姿と、そうして突き飛ばされたのか尻餅をついている小さな子供の姿があるだけだった。 「お」 「――」 「どうした。……大丈夫か、薫」 桃城が助け起こそうとすると、子供はぱんとその手をはたいてそっぽを向いた。 「――……菊丸センパイ、探しに来た」 「ああ。あのひとなら」 桃城が後ろを振り向くと、英二はとっくに彼らに背を向けて廊下の端、外への狭い通用口のドアを出ようとしているところだ。 「英二先輩に用か。――ああ、乾先輩が探してんのか?」 薫はこくりと頷いた。 「わかった。じゃ俺が追っかけて伝言しといてやるよ」 そう言って、桃城は薫の頭を撫でる。薫少年はそれをいやがって振り払おうと手を挙げる。しかし、 「このバンダナ可愛いな。よく似合う」 と、満面の笑みをたたえた桃城に言われ、たちまち顔を真っ赤にしてその場から駆け去っていった。 ひゅうひゅうと風が唸る音がする。 壊れたこの街の中を、崩れたビルの残骸の隙間を駆け抜けていくその風の音が、泣く声に似ていると言ったのは誰だったか。 壊しつくされたこの街の、恨みと悲しみの断末魔であるようだと言ったのは誰だったか。 耳にするのも哀しいその音を聞くのは、楽しいわけもない。 どこの街でもこんなふうに、寂しく風が唸っているのか。 「英二センパイ」 通用口を出てすぐ、桃城は英二の姿を見つけることが出来た。 大きめの瓦礫が重なって少し小高い丘のようになったところに、膝を抱えてうずくまっている。 「英二センパイ」 「――何だよ」 「薫ちゃんがお使いに来ましたよ。――乾センパイが呼んでるって」 そう言いながら、桃城は身軽にその『丘』の上まで昇って来、英二の隣に腰を下ろした。英二はちらりと彼を横目で見ると、少し距離を置くように尻をずらす。 「なんもしませんって」 「――」 「あいつ、おっかしかったっスねえ。涙目ンなって、へろへろ逃げて行きやがった」 「――」 「こんなこといっちゃあいけませんけど、あいつにけっこう絡まれてたんスよ、俺。あんだけぶん殴ってもらえりゃだいぶすっきりしました」 「――」 「けっこう英二センパイって腕っぷし強いんですねえ。見た目細っこい人だから、意外でしたよ」 「……別に、強くなんかない」 先ほど罵詈雑言を吐いていたのと同じ人間とは思えないほど、英二は悄然として言った。 「あいつの顔ぶん殴ったって、効きゃしなかった。――俺みたいなのは、ああいう場合、相手の急所狙うしかないんだ。笑ってみせて、油断させて、相手の気がゆるんだとこをさ」 「へえ。なるほどね。でも、たしかにそれが一番効率はいいっスよね。あ、でも俺が笑ってみせても相手がゆるんでくれるかどうかは別だなあ」 屈託のない桃城の言いように、英二はちらりと彼を見たがやがてまた膝に顔を埋めてしまった。 「英二センパイ? どうしました」 「なんでもねえよ。……もうかまうなよ」 「そう言われても」 「乾の用事だろ。――どうせこないだの、例のあのデータの取り残しがないかどうか調べさせろって言うんだ。ろくなの残ってないのにな」 英二はつまらなさそうに言った。 もちろん先刻の男の言うとおり、英二が乾に『ひいき』にされているのはあながち間違いではないのだが、それはあくまで英二のその特殊能力ゆえのことだ。 英二に限ったことではない。下っ端の人間や桃城、手塚や不二でさえ、乾にして見れば役に立つか立たないか、どれほど有益か無益か、いかに己の思った場所で思った通りに動く駒であるかというだけのことだ。 彼に、他人に対する情愛というものが存在しているかどうかすらあやしい。 しかしそれを抜きにしても、この決して小規模とは言えない組織がうまく動いていることに関しては、やはり乾の非凡な才能を認めざるを得なかったろうが。 「英二センパイ……」 「判ってるよ、行くよ」 立ち上がりかけた英二を引き留め、桃城は気になっていたことを尋ねた。 「あれ、つらいんですか」 「あれ?」 「その……機械のデータを読んだり、するの」 「別に」 英二はそっけなかった。 「水飲んだりするのと変わらないよ。データを俺の中から別の機械に移すときはちょっと眩暈がするぐらいだし。でも、どうやってするのかとか、データがどんなふうに俺ん中でなってんのか、って言われたら俺も説明に困るんだから、聞くなよ」 「――……」 「俺のこと、乾から聞いたんだろ」 「――ああ。はい。……まあ」 桃城は少し歯切れ悪くなる。 「どこまで聞いた」 「センパイが、D2で」 「うん」 「『あいつ』のお気に入りで、『あいつ』が軍に確保されるときまでいっしょにいた、っていうことぐらいです。――そんなふうに機械をさわれるようになったのも『あいつ』と一緒にいたからだ、って」 「――おおまかだけど間違ってないや」 英二は小さく嗤った。 「お前は『あいつ』のこと知ってんの?」 「そりゃまあ、俺は研究機関にいた人間ですから、データは幾度も見ましたよ」 桃城は何故か慎重に頷いた。 「実物を見たことあるのは一度だけでしたけどね。そのとき、俺がメンタルケアを担当していたドールとの合同実験があるって言うんで、第七まで一緒に出かけました。ちょうど、あそこが焼けるふた月ほど前のことじゃなかったかな」 桃城はそのとき見たか細い少年のことを何故かよく覚えていたが、英二のほうはどうかはわからない。当の英二も今はぼんやりとしているだけで、桃城の言葉を聞いているのかいないのかもよく判らなかった。 あのとき。 芝生の上でなにやら本を広げ、不安そうな大きな目を瞬かせていた少年。 D2として連れて来られていると聞いて、内心ひそかに同情さえしたものだ。しかし自分もドール開発の末端に関わっていた以上、訳知り顔にそんなことを言えたものではない。 あの空白の2年。 ラグナロクと呼ばれるあの地獄の2年の間に、何があったのだろうか。 聞いてみたところで、英二が答えるはずもないだろう。彼はもう立ち上がり、もう桃城には目もくれないでその小高い『丘』からジャンプした。 けっこうな高さがあるにもかかわらず、彼の小柄な体は着地直前にふわりと浮いて衝撃を殺し、やさしく地面に降り立った。 「ついてくんな」 ひとことそう言い捨てた英二を、まあそう言わずにと笑って桃城は追いかけていく。 ひねくれてあまのじゃくな子供の相手は慣れている。――そういう小生意気な性格のドールを、決して長い期間ではなかったがとても大事に可愛がって育てた。 無表情だった子供が笑うようになるまで、たどたどしい口調で自分を呼ぶようになるまで、それはそれは大事に、まるで掌中の珠のように。 だからこそ自分はあの都市を追われ、命さえ狙われたのてであったか。 案外すばしこい英二の後に付いて通用口を入りながら、あの小さなドールはどうしているのだろうとふと桃城は考える。 さよならもいわずに――言えずに、出てきてしまったから。 さて。 その夜のこと。 静まりかえった施設の中を、ひとりの男がふらふらとうろついていた。 今となっては貴重品であるアルコール飲料を胃に流し込み、ご機嫌であるかと思いきや何やらひとりでぶつぶつと誰もいない空間に向かって文句を垂れ続けている。 昼間、英二にしたたかに股間を蹴り上げられ、ほうほうのていで逃げ出した例の男である。 メンバーへの配給品からごまかして懐に入れたり、あるいは気の弱い後輩から脅し取ったりした酒の類をすべてやけ酒として飲み尽くし、それだけでは足りずに大事に取っておいた煙草までふかしつづけている。 よほど昼間のことがおもしろくなかったのか、酒の酩酊は男にさらなる苛つきをもたらし、煙草の煙は喉を刺激するだけでよけいに不機嫌になっていく。 なにもかもが男を苛立たせて、彼は誰もいないことを判っていながら大きく舌打ちをした。 と。 ふっ、と廊下の灯りが薄暗くなる。 思わず顔をあげた男の目の前で、すぐにまた照明は明るくなった。接触でも悪いかと目を細めた次の瞬間、また吸い込まれるように光が失せる。 「なんだ?」 ちかちかと照明がまたたき続ける。 それでなくても白く広く、どこまでも――どこまでも続く、廊下の真ん中だ。 真夜中、しかもちかちかとひっきりなしに明滅する照明や、しんと静まりかえった細長い廊下など、さすがに大の男でもあまり気持ちのいい物ではない。 やがて灯りはすう、と消え失せ、あたりは闇に落ちる。しかし非常灯はぼんやりと点いたままであるので、決してほんとうの暗闇にはならない。 その薄暗がりの中、小さなぺた、ぺた、という足音がしたので、男は文字通り飛び上がって驚いた。 不安定な灯りの中に、ぽつんと小さな影がある。 男は言いしれぬ恐怖でその人影を見ていたが、やがてそれがよく知った人物であることに気づいた。唐突に出現したそれを見て叫ばなかったのはさすがだが、動悸に息を切らせていることを隠し切れたかどうかはあやうい。 ふるえの残った声で男は毒づいた。 「薫かよ――……驚かせやがって」 子供は無表情に男を見上げていた。 真夜中だというのにどうしたのか裸足で、ぽつんと廊下の真ん中に佇んでいる。 よくよく見れば子供は素裸で、その上にどうやら白衣らしきものを不格好に羽織っているだけのようだった。 「なんだよ、こんな夜中に」 「――……」 「ガキはとっとと寝とけ」 「……お父さんから、伝言」 薫は、小さく言った。 「あ? 乾さんからかよ、なんだよ」 「俺のやり方が気に入らなければいなくなってもらっていい、だって」 男はわざとらしくそびやかしていた顔を、ふと傍らの子供に向けた。 「先輩風を吹かせて、年少者に望まない交渉を強いるのは全体的な乱れの元だ、って」 男は目を細めて小さな子供の顔を見ていたが、やがてけっと吐き捨てる。 「昼間のことチクりやがったのかよ、薫。ガキはガキだな、大人に言いつけて得意になってやがんのか」 男はまだ半分近く残っている煙草を、苛々したように足下に捨てて踏みにじった。 「乾サンは大げさなんだよ」 薫は答えない。 「桃城のことだってそうだろうが。ちょっと研究所に関わりがあるヤツだとなんでもかんでも目ェかけててさ。あのガキのことだって、俺は別にとって食おうってわけじゃねえじゃねえか。あれだろ、あいつD2ってヤツだったんだろ」 「――」 「相手がドールでも人間でも、やるこた一緒なんだったら別に俺でもいいじゃねえか。あのバケモノが暴れ回ってからこっち、さんざんな目にあってきたんだ。ちょっと楽しみがあるぐらい、かまいやしねえよ」 「――」 「ああ、出てけってんなら出てくよ。その前に、乾サンだろうがなんだろうが、言いたいことは言わせてもらうぜ。ああそうだ、せっかくだから行きがけの駄賃にあのガキでも、不二でもいいからちょっとお相手してもらうとすっかな」 「――」 「もうちっとかわいげがあったなら、お前でもよかったんだけどな――意味わかるか? 薫」 にやにやとした笑いで子供の方を見た男は、しかし次の瞬間息をのんだ。 はるか下方の位置にいた筈の薫が、いつの間にか男の顔面に迫る勢いで彼を覗き込んでいたのだ。 薫は幼い口調で、しかしはっきりと言った。 「菊丸を重用するのは彼が大事な役目を担っているからであるし、そのことは前もって皆に申し伝えているはずなのに、判っていてトラブルを起こすようなら必要ない。まして」 乾の口調を一言一句、間違えずに繰り返しているようだった。 「無益なだけならともかく有害となるなら論外」 子供の目が。 赤い。 白目の部分が、赤く充血している。 子供が何故真正面から自分の顔をのぞき込めるのか、などということにまで男は考え至らなかった。子供の体は不思議なことに何の支えも踏み台もなく、ふわりと空に浮いていたのだ。 驚愕している男の額は、冷や汗とも脂汗ともつかぬものでじっとりと湿りだした。 しかし男の恐怖が彼の運動神経に届く前に、小さくあどけない指先がちょん、と男の額をつついた。 「ばいばい」 それが、男がこの世で聞く最後の声であった。 頭を吹き飛ばされた男の骸は、薫がもう一度指先でつつくと、ぼっと音をたてて燃え上がった。 血の跡は飛び散らなかったし、どうせじきにすす汚れで判らなくなる。 少々ここをこんな風に汚したところで、誰も気にしない。長く誰にも使われていなかった施設であるし、乾以外、この施設の全ての間取りなど知るはずもないのだ。 この場所は最初からこうだったのだと言い通せば、それですむ。 「目――なおったかな」 子供はそっと自分の瞼を覆う。 あとで鏡で確かめなければいけない。すくなくとも、この人間の残骸を燃やし尽くしてしまうまでは見届けて、それから。そうでないと、おかたづけも出来ないと父親に思われてしまう。 「まだ赤いかな」 子供はぱちぱちと目を瞬かせた。 「どうしてこんなに赤くなるんだろ……」 以前は、研究所にいた頃はこんなふうにはならなかった、と思う。 それに目が充血して赤くなる特徴を、その状態でいる薫のことを、薫の養父は酷くいとう。こんな状態で部屋に戻ったら、みっともないと叱られるに決まっている。 目の前で炎が燃えていても何故か少しも暖かくはならなかった。それどころか裸足のつまさきはますます冷たく、手指もひどくかじかむ。 これがすんだら洗面所を探して鏡で見なければ。目が赤いままだったら、幾度も冷たい水で顔を洗えばいい。 目が赤くなくなったら、父親の寝室に戻ろう。 言いつけを守ったのだから、きっとほめてもらえるだろう。また可愛がってもらえるかもしれない。 薫はいい子だね、と。 あの大きな手で優しく頭を撫でてもらえるかもしれない。 指先に、はあ、と息を吹きかけ、すりあわせ、薫はじっと目の前の「モノ」が燃え尽きてくれるのを待った。 時刻は深夜。 暖房など届きもしないその場所で、子供はじっとうずくまって人の体の燃え尽きる一部始終を、睨みつけていたのだった。 |
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