空気が冷たい。 意識の戻ってきた体は、最初にそれを感じた。 投げ出されている両手首には、まだそれぞれ手錠がからみついている。真ん中の鎖の部分だけがきられていたので、拘束、という点では役に立っていなかったが、ずしりと重かった。 いや、重いのは腕だけに限らない。 意識はなかなかはっきりと覚醒せず、ここはどこだったか、と英二はぼんやりと考えた。 美しい造りの、見たこともないような豪華な寝台。薄暗い中にもその光沢が艶やかな濃緑のベルベットのカバーの上に、英二は横様に倒れている状態だ。 その体は優しい感触の布に包まれていた。体をくるむ柔らかい起毛の厚布は、このひんやりとした空気が彼に何の悪影響も与えぬようにと気遣われてのことらしい。 壁には美しい巨大な草原の絵が飾られ、調度品もいちいち懐古的な装飾がなされたものばかりで、ひと目で高価な、英二などには想像もつかない値段のものだろうと察せられた。 ここはどこだろう、ともう一度英二は考える。 あの白一色の、冷たい研究所ではない。 まして下町の、饐えた匂いのする連れ込み宿でも。 幼い頃にいた金持ちの家の寝室でも、これほどまでに立派なところはなかった。 場所に見覚えはなかったが、この気怠い体の感じは知っている。 男に貪り尽くされた後の感覚。 喉をからして叫んだ後の。 なにもかも、皮膚の下にあるありとあらゆるものを引きずり出され、嬲られ、食われつくしたあとの。 指一本上げたくならないだるさは同じとしても――しかし不思議なことに、今の英二にはそういうときにつきものの、妙にむなしくて寒々しい感覚はない。心はおだやかに満たされ、気分は落ち着き、そのけだるさは総じて快くさえあった。 体を起こすにも時間がかかったが、それでもそろそろと動くことが出来る。 「――……大石」 かすかに呟いた自分の声に、英二は驚いた。 彼には自覚はなかったが、昨夜幾度も呼んだ名を唇が覚えていただけかも知れない。懇願し、哀願して、身も世もなくすがりついた相手の名を。 そうだ、と英二は思い起こした。 あの研究所から、脱出してきたのだ。 サイレンの鳴り響く――いつしか不吉な深紅に染まった、血の匂いのするあの場所から。 そうして、ここへ連れてこられた。 大石秀一郎に。 微妙な手加減と技巧が織りまぜられた彼の愛撫が、果てもせず続いた夜も、いつしか明けを迎えたようであった。幾度も喉を逸らしてうち振っていたはずの自分の髪は、汗で張り付いていた頬から丁寧に梳かれて耳にかけられ、きちんとなでつけられていた。 自分がせめても記憶のあった間に手錠が外された覚えはないから、どうやら気を失ったあとに両手は自由になったのだろう。 物凄い力で左右に引きちぎられたような鎖の様子に、英二は眉を顰めた。 「大石……」 もう一度、今度ははっきりと意図をもって呼んだが相手の姿はない。 応答も返らない。 部屋の中は薄暗かったが天井に採光窓がとりつけられていたので、夜が明けていることが判る。 暗い黄昏色の空。 飾りガラスの向こうのそれは、奇妙に歪んで見える。 巨大なベッドから降りた英二は、身につける物もなく困り、仕方なく自分の体をくるんでいた布をもたもたと肩からかぶりなおした。 扉を開けるとやはり重厚な、古い洋館めいた造りの廊下だ。赤いカーペットの上では、かすかに振動音をさせながら小さな機械がいくつか行き来している。 「――掃除、してる……」 機械はちょうど手に持てるボールを二つに切ったような形だった。 半円のそれの動きは軽快で、英二はふと口元を緩めてしまった。おそらくはこういう機械が、あちこちを動き回っているのだろう。 無人の建物の中で蠢くそれらはコミカルであったが、もの悲しくもある。 健気なそれら機械の仕事を邪魔しないようにそっと横切り、英二はカーテンをくぐって例の巨大な、古代の王の謁見室のような仕様にしてあるホールに出た。 こんなものを作らせてどうするつもりだったのだろう、と英二は思う。その権力者の稚気というならあまりにも大仰だし、本気であるならますます愚かだ。 世界の王にでもなるつもりだったのだろうか。ここで己にひざまずくたくさんの人々を見るのが、夢であったのだろうか。 こんなところで、立派な椅子に座ったままで。 そうしたら世界の全てが見渡せるとでも、思ったのだろうか。 人の上に立ち、権力を握り、かしずかれて――そうしたら、何が手に入ったのだろう。 忠実な機械達によって磨き上げられた床は黒光りしている。 ちりひとつなかったが、冷たい。氷のようで、歩いていると痛みさえある。 足を与えられたばかりの人魚のように時によろけながら、英二は様々に機械に埋められたホールや通路をたどり、巨大な鋼鉄の門をくぐって外に出た。 内部よりもさらに刺すような冷気である。 山頂のせいか風も強く、遠くに延々と広がる山の峰の景色が四方を囲む。 今まで暮らしてきたあの街の中、白い研究所の中、それらとはあまりにかけ離れていて――そう、現実離れしている。 いったいどこへ連れてこられてしまったのだろう。 これは誰の、何者の、どんなたくらみだというのだろう。 越えてはならぬ境界を越えてしまった気さえして、英二は突然不安になる。頼りない布の合わせをぎゅっと握りしめて、目を細めたときだった。 「英二」 唐突に声がかかって、英二ははっとそちらを振り返る。 英二が出てきた門の側から僅かに離れたところに、探していた相手がいる。巨大な岩の上に片膝を抱えるようにして座っていた。 彼もまた英二が最後に見たままの、あのざらざらした布の中に体を埋めている。風にばさりとはためく布の端々に、黒ずんだ色が不吉に染みついていた。 「どうした、英二」 英二にかけられた声は、変わらず穏やかで優しかった。 変わらず――と言うべきか。 研究所にいたときの彼とは、うってかわって、というべきか。 答えない英二をすこし高い位置から見おろしてきたが、大石秀一郎は優しくこんなことを言った。 「ここからはおまえでは逃げられない、英二。見てのとおり山の中だ」 「そんなことじゃないよ」 英二は唐突に言われたことに、驚いて首を振る。 大石は大石の方で、英二のその反応がすこし不思議なようだった。 「じゃあ、どうして」 「……目が覚めたら……いなかったからどうしたのかな、って思って。だから探しに」 「――……それだけか?」 「それだけだよ」 沈黙が降りる。 相手はその美しい貌を、ことさらゆがめたりすることはなかったが、不思議な物でも見るように英二を見おろしてきているばかりだ。 「大石」 「……」 「俺が逃げると思っていたの?」 「――いやだと言っていたから」 「いやだ、って、俺がいつ」 「昨夜」 大石はじっと英二を見つめてくる。 「――英二の良いようにしてあげたのに、嫌だと言って泣いていた」 「あ、あれは……」 「いつも英二は、あの研究所にいたときも、俺に触られるときには泣いていただろう」 大石は羞恥することもなくさらりと言って、逆に英二を赤面させる。 「痛いようにしていたから泣いていたんだと思ってた。それなら、気持ちいいようにしてあげれば、俺の好きな顔をしてくれるかと思ったのに、昨夜もずっと泣いていたから」 そんなときに笑っていたら逆におかしいだろうにと思ったが、この彼に言ってはたして通じるかどうか。 英二はしばらく困っていたが、やがてゆっくり、子供に諭すような気分で言った。 実際彼のその様子は、己の好意が思ったように受け入れてもらえずに、黙って拗ねる子供のようであった。 「大石のことがいやだから泣いたんじゃないよ」 「――……だけど、ゆうべは、あんなに」 「腕が痛かったんだ」 英二は左手を大石に見せた。まだ手錠の枷がはまったままだ。 「……今は?」 「うん?」 「まだ痛いか、英二」 「外してくれたからもう平気。ちょっとこすれてひりひりするけど」 大石は黙って岩から降りた。ふわり、とすこしからだが浮いて、柔らかく着地する。 血の染みついた布の裾を王者のように翻して近寄ってくる彼を、英二はじっと見上げていた。綺麗な顔立ちがすこし高い位置から英二を見おろしてくる。 その目に優しい穏やかなものを見て取って、英二はほっと肩の力を抜いた。 なんとかして英二をいたわりたいが方法がよく判らぬ、と言いたげな――そう、それこそまさにあの研究所にいたときの彼のように。 無表情で乱暴ではあったが、不器用に英二の髪を撫でていた彼と同じ目だった。 彼は手を伸ばして英二の左手をそっと取り、手首とその銀枷との隙間に指をこじ入れ、ぎゅっと力をいれた。 ちり、とほんの微かに肌に痛みが走る。 次の瞬間枷を構成していた円形の一部は、黒く焦げて英二の手首から名残惜しげに離れて落ちた。 右手も同じようにした大石は、そのまま英二に手を伸ばす。頭の後ろに添えられた彼の手が、英二を彼の唇に引き寄せる。 「此処は気温が低い。湿度も低いし、喉を乾燥させて炎症を起こすことがある」 昨夜のことを思えばよほどもの静かな口づけを終え、大石は淡々と言った。 「お前の体に悪影響を与えるウイルスを取り込むかもしれない。中に入って、空調の利いたところにいたほうがいい。でなければ発熱や咳を伴う体調不良を引き起こす」 「――そういうのは風邪ひくって言うんだよ」 英二はすこし苦笑した。 「大石も入ろうよ。――風邪引くよ」 「――……」 「お互いにこんな格好じゃね。ここ、何か着るものおいてないかな。探そうよ」 「……着るもの……衣服か。別に必要はないだろう。第三者に面会するわけではないし、英二と俺だけでいるのに。最低限の防寒と乾燥対策さえしてあれば、建物内なら体調不良を引き起こすような室温では」 「だってなんか落ち着かない」 英二はあっさりと言い切った。 「こんなのずるずる引きずっていたら、動きにくいよ」 大石は何かしきりに考えこんでいたが、しばらくして彼の中で該当するものに行き当たったようだった。こういうときの大石は、自分の意識の中にあるものを探り探り、話をしているようだ。 「――つまり……その、移動の効率が悪いのか」 「うん、そういうこと」 生真面目に言う大石に笑いながら、英二は言った。 「いっしょに来てよ、大石」 期せずして同じようなかっこうをすることになってしまった自分と大石の姿を見比べる。こんなに行き届いた機械の中で、自分たちだけがなんという姿だろう。それにすこしおかしくなりながら英二は優しく促した。 「服、探そうよ」 両手で大石の手を包むようにすると、英二は彼の手を引いて建物の中へと戻っていく。 大石は何か言おうとしたがすぐに黙る。英二のほほえむ顔に憧憬にも似た眼差しを注いで、おとなしく彼に従った。 ――どうか、許して。 ――夢の中だけでも。 ――その夢を見ることさえ、深い罪だと知っていても。 世界の悪夢の始まり。 それが、自分にはいちばん幸福な時期であったことを。 「あ、気がつきましたね」 ふと目を開けたとき、そんな声が聞こえる。 最初に目に入ったのは、白い美しい不二の心配そうに見守る顔だったが、その差し向かい、ちょうどベッドを挟む形で笑いかける桃城にも気づいた。 「――……もも……」 「しゃべんなくっていいっスよ」 桃城は静かな、ことさら気遣った優しい声で言う。 「俺達が帰還してから、ちょうど24時間経っています。腹の傷はほとんどふさがってるみたいですけど、念のため一両日中は安静に、って乾先輩が」 「――うん」 「もうすこし寝ててください。今薬を取り替えたところです」 薬剤がなみなみと満たされた点滴の薬袋をちらり見やって、桃城が言った。 「ついててくれたの、もも……」 「いえ、ずっとついてたのは不二センパイですよ」 桃城はちらりと目を上げ、向かいのか細い人影を見やった。 「俺はたまたま、今様子見に来ただけで。……ハラへってるかもしれないけど、もうちっとだけ我慢してくださいね。明後日には普通に食べられるだろうからって」 「うん……もも……」 「はい」 「――……」 英二は何かいいたげだったが、やがて再び目を閉じた。 間もなく、昨日に比べればよほど穏やかになった寝息が聞こえてきて、桃城をほっとさせる。 体力を回復させる為の眠り。 体にある力の全てを、肉体の再生に使うために、その間彼は発熱し眠り続けるのだ。 その体の不思議、彼の謎を知る者はごく僅かだという。 ――英二の存在は誰にも知られるわけにはいかない。英二自身が、と言うわけじゃない。あの子の抱える秘密は、大なり小なり混乱を巻き起こすだろう。……つまりうまく使えば、この上なく素晴らしい切り札になる。彼自身はともかくとして、彼の秘密や事情は、利用価値が十分にあるんだ、そこのところをお前もわきまえてくれよ。 淡々とした彼の物言いは、のんびりし過ぎていてその冷淡さに気づくのにすこし時間がかかるのだ。 ――ちょっとばかり見た目のいい子供に過ぎないのに、どこがあのバケモノのお気に召したかは知らないがね。余程「具合が良かった」というのかも知れないが、残念ながら彼は俺の好みにはほど遠いので確かめる術がない。 桃城の顔にかすかな嫌悪が浮かんだのに気づかなかったわけはあるまいが、乾は淡々と言いたいことだけを言ったものだ。 ――英二とあのバケモノとの関わりが知れれば、利用価値もさることながら私怨で彼を害そうという者だって、掃いて捨てるほどいるだろう。それこそ、彼は世界中から命を狙われることだって、あっても不思議ではないんだからな。 桃城がかすかに動揺するのを見抜いたかもしれない。 ひょっとしたら、気づかなかっただけかも知れない。 ――だから秘密を守れ。 どちらにしろ、いつもこの男はつかみどころがない。気がつけば言いくるめられている。したたかで狡猾だ。 ――だからあの子を守れ、来るべき時まで、その瞬間まで。 ――俺達以外の者の手に渡すな、あれは世界を変える鍵になる。 分厚い眼鏡の向こうの目の色を、桃城は幻にでも垣間見た気がする。 何かを企む目。深謀をめぐらせて楽しむ者の瞳だ。 ――切り札は我が手にある。 ――秩序なきこの混沌の世界に、我らが手で浄化を。 乾の声なき声が聞こえた気がして、桃城はぶるりと背を震わせた。 「英二センパイ」 桃城は優しく、英二を起こさないように――目の前の不二を刺激しないように、小さく呟いた。 「あんたがあのときの子だったなんて、全然気づかなかったなあ」 あどけない寝顔だ。おそらく体の成長が止まっている、と乾は言った。 「『あいつ』を連れていった、あの研究所にいたんだ。……芝生に座り込んでたでしょう」 そこまで言って、桃城は刺すような殺気を感じてはっと顔をあげる。 白い天使のような顔が、冷たい怒りに満ちている。 「心配しなくても何もしませんから、このひとには」 「――」 「不二センパイ……」 うう、と小さなうなり声のようなものが聞こえて、次の瞬間、不二はがばっと英二の体の上に覆い被さった。 顔だけはあげて桃城を睨みつけ、悪意あらば噛み殺すと言わんばかりだ。 そのか細い手首や、ちらりと見える胸元に張り付けられた、冷たい金属プレートを眺めて桃城は小さく言った。 「あんたに罪はない。――俺は、俺達がドールやD2にされた人々に対してしてきたことを、よく知ってる……だけど」 「――」 「だけど、俺の家族は」 たまらず、と言ったふうに漏れた桃城のその言葉は、しかし睨みつける不二の蒼く燃える双眸に続きを留められた。 ――彼を恨むのはお門違いだ。 ――『死の英雄』の怒りを招いたのは誰だ。 まるでそう問いかけられているような気がして、桃城は鼻白む。 しかし。 「でもね、不二センパイ」 「――……」 「だからって、どうしても俺の両親や小さい弟や妹が、街ごと火に焼かれなきゃいけなかったわけじゃない」 「――」 「俺達のしたことが俺達に返るんなら、話は分かる。……でも」 「――」 「でも……」 なにやら激しいつらい己の記憶と、そうして目の前でこんこんと眠り続ける痩せた少年の顔を見比べているうちに桃城にもどうしていいものやら判らなくなったようだった。 たまらず両手で顔を覆ってしまった桃城に、不二はそれでも欠片も同情した様子は見せなかった。 微笑まない白い天使はそのか細い体を張って、眠る少年を守ろうとしている。 その唇は変わらずかたく閉ざされて、何の言葉も紡ごうとはしなかった。 ――どうか、許して。 ――どうか、どうか。 ――あのひとがいとしくてたまらぬことを。 再び英二は、夢の闇の中を漂っていた。 その眠りは決して、やすらかとは言い難くはあったが、それでもその中で、戸惑ったようにぎこちなく笑う『彼』を見つけて安堵する。 美しい青年の体と、賢者の如き知識と、幼子の心を持った彼。 いとしい彼。 英二がふり仰いだ彼は、すこし困ったような、神妙な顔つきをして見おろしてくる。 要塞の中で長年滞りなく、誰が為ともなく機械が動いていたように、人間の衣食住に関しても諸々がいっさいぬかりないように心配りがされていた。 清潔に濾過された水は、生活に必要と思われる場所の蛇口からすぐに溢れたし、たっぷりの湯にもなって広い浴槽を満たした。 互いに体を清めると、英二はクローゼットの中にしまい込まれていた衣服を拝借することにした。 サイズやごてごてした飾りなどで英二のおめがねに叶わないデザインの方が多かったが、それでもと英二が選んだのは黒くすっきりとした服だった。それを着て新しい黒革靴を履いた大石は、なかなかに見栄えのする美青年へと変貌した。もともと長身ですらりとして、姿はいいのだ。 当の本人は靴の感触が不慣れだったのか困った顔つきをしていたが、結局英二が手を打ち合わせてその姿を喜んだので、なにを言うでもなくそのままだった。 しかし、打ち捨てられていた布――ざらざらとした粗目の人の血を吸ったほこり臭い布を、それでも大石はそのあと、そっと拾い上げたのだ。 どうするのか、と聞いた英二には、彼はそのときは何も言わなかったが、これより後。 こののち。 彼があの研究所から英二と共に逃れて十日後。 その血の染みついた布は再び彼の身体を包み、王者のマントのごとく空中を閃く。 黄昏色の空に不吉に黒くはためいたそれは、悪魔の羽であったか。 死の王の翼であったか。 唐突に空に、しかも見た限り何の助けもなく空中に浮かぶ彼を目撃できたのは、その大きな街の中でもわずかな人々のみであった。 中にはその不吉な姿形を、昔語りの中に登場する、今となってはおさなごを脅かす手段にしかならない異界の存在になぞらえて想像した者もいたかもしれない。 どのみち、それらの人々に、どのような様子であったかと問うことは今となっては不可能だ。 街はそれから、わずか半日たらずで火の海の中で燃え尽き、壊滅した。 高く哄笑する悪魔の声を聞いたと主張する者も、助け出された先でやがて力つき命を失った。 ラグナロク。 世界の黄昏。 それが、その日が――世界の苦悶の、始まりだった。 ――どうか、許して。 ――夢の中だけでも。 ――その夢を見ることさえ、深い罪だと知っていても。 ――あのひとを、このうえなくいとしいと思うことを。 ――今でも変わらぬそのこころを。 世界の悪夢の始まり。 それが、自分にはいちばん幸福な時期であったことを。 |
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