「久しぶりだな」
そう言って巨人の頭上に立った養父は、眼鏡越しに僕を見た。
(ああ、やっぱり)
それがこの繋がりの薄い養父との再会に持ったシンジの感想だった。懐かしく、色あせた昔の記憶が戻ってくるのを感じる。
(この人は、やはり間違いなく僕を)
サングラス越しにでも想像できる。忌々しげでそれでいて哀れむような視線と、口を歪めるだけの卑屈な笑い方を。
『シンジは私の…』
そして、自分を息子として迎え入れてくれた養母の温かい笑顔と、自分が寝静まった後に行われていた、養父が彼女を諌めようと説得する姿を。
湧き上がってくる嫌な記憶、それに耐え切れず顔を伏せる。
しかしそんな事には関係なく、ゲンドウは頬を歪めたまま白衣に包まれた右腕をまるで宣戦布告をするかのように天に向けて伸ばし、
「フッ…出撃」
と宣言した。
これに慌てたのはミサトであった。チラリ、とシンジを見て瞳を揺らがせながらも、
「ちょっと待ってください!零号機は凍結中ですし初号機はパイロットがいないじゃないですか!」
と、返答の分っている訴えを叫ぶ。
「今、届いた」
「そんな、まさか」
気が触れたのか、それともやけっぱちになったのか。自分の上司が事も無げに言った言葉にミサトは絶句した。
助けを求めようと金髪の友人を見ると、
「シンジ君、あなたが乗るのよ」
と、まるで決定事項のように肩を掴んだシンジに宣言していた。
「無理よ!彼女たちでさえ最初エヴァとシンクロするのに7ヶ月もかかったのよ?今来たばかりのこの子に乗れるはずが無いじゃない!!」
「座っているだけでいい。それ以上は望まん」
ヒステリックに声を張り上げるミサトに、ゲンドウは微塵も揺るがぬ声で宣言する。
「そんな!」
「葛城一尉、今は使徒撃退が最優先事項よ。」
興奮するミサトを、リツコが諌める。
「その為には、わずかでもエヴァとシンクロする可能性のある人間を乗せるしかないのよ!」
「ちょっと待ってくださいよ!」
リツコとミサトの言葉に、シンジは慌てて助けを求めるように養父を仰ぎ見る。
「養父さん」
「何だ?」
「養父さんは何のために僕を呼んだの?」
しかし、その視線と言葉にゲンドウが応じた言葉は辛辣だった。
「お前の考えている通りだ」
さも当然と言った態度に、わなわなと震えてシンジは叫ぶ。
「何だよ、僕は要らないから捨てたんじゃなかったの!」
「必要になったから呼んだまでだ」
「そんなの!…勝手過ぎるよっ…」
養父の顔をこれ以上見ていられず、そしてミサトやリツコには助けを求めるわけにもいかず、シンジは自分の足元を見てワナワナと震える。
「いやだよ!こんなの見た事も聞いた事も無いのに、できるはずないよ!」
ゲンドウは、そう叫んだシンジをしばし見つめると自分の右に位置するコンソールを操作した。
「冬月」
「何だね」
小学校の机ほどの大きさの画面の隅に、管制室に残してきた老人の映像が映る。
「予備が使えなくなった。レイを起こせ」
「しかし、使えるかね?」
冬月と呼ばれた老人が、顔を顰めた。それが意味する事を知っているからだ。
「死にに行かせる訳ではない」
「わかった」
諦めたかのような顔の老人の顔が返事と共に消える。
「初号機にはレイが乗る。準備を急げ!」
「パターンをレイ書き換え!換装を開始して!」
ゲンドウとリツコの指示で、静まり返っていた空気が動き出す。
(レ…イ?…)
もぞり、とシンジは自分の中で何かが脈動するのを感じた。身体の底から熱く、粘着質で、驚いた事に自分よりも凄まじい怒りを秘めた何かが噴出すような感覚に、シンジは自分を掻き抱くようにしてへたり込む。顔色はもはや蒼白と言っていい。
「ぁ…ぅ…」
シンジの異常に気付いたミサトが、驚いて駆け寄る。がくがくと身体を震わせているシンジは、まるで重病人だ。
「ちょっ、ちょっとシンジ君?」
カラカラカラカラ…
シンジの肩を抑えようと手を伸ばした瞬間、ケイジに入ってきた移動用担架を見て、シンジの震えはぴたりと止まった。
「っ…!!」
ミサトは、突然沸いた本能的な恐怖に手を引き後ずさった。
初号機の近くまで担架を運んできた医師や看護婦は、何故か、非常識な事に患者をそのままにしてもときた方へ去って行く。そこだけが静寂を纏った様な、白い担架から必死に起き上がろうとする患者を見て、シンジは叫んだ。
「レイ!!」
「あ、ちょっとシンジ君」
止めようとして肩を掴んだミサトをどこにこんな力がというほど強引に振りほどき、シンジはその患者――レイの下へ駆け寄った。
「どういうこと…シンジ君は彼女を知ってるの?」
振りほどかれた時に痛めた手首をさすりながら、ミサトはゲンドウの方を見た。
彼はニヤリと笑い、駆けつけるシンジを見ている。
「やめろ、無茶するな!横になるんだ!」
有無を言わせぬ言葉とは裏腹に、シンジはレイを赤ん坊を扱うように優しく横たえる。
「はうっ…ハァ…ハァ…」
明らかに重傷を負って体中包帯だらけの彼女は、無茶をしたために殆ど意識が残っていないようだった。担架に再び横になった彼女の身体は、どこかしらの傷口が開いたのか包帯から滲み出た血で所々赤く染まっていた。
「ゲンドウ!これは、これは一体どういうことだ!!」
最早、それはただの事実の確認であって、予想はついていた。
「レイはエヴァのパイロットだ。貴様が乗らないと言うのならレイが乗るしかない」
淡々といってのけた男を、シンジは視線に憎しみを込めて睨んだ。最早どうしようもない事に気付いてしまったので、そうする事しかできなかった。
「貴様…自分が何をしているのかわかっているのか?」
悔しげな声でいうシンジとゲンドウの視線がぶつかりあい、くそっという悪態と共にシンジは目を伏せる。歯軋りをし伏せたその視線の先に、苦しむレイの姿が映った。
ぬるりとした感触にみた掌が彼女の血で赤く染まっていた事が、彼の決心を一瞬で固まらせた。
「わかった…俺が乗ってやる。だからさっさとレイを治療しやがれ!」
ミサトは自分の欺瞞に締め上げられる心と、突如豹変したシンジに圧倒され暫らくその場に立ち尽くしていた。
管制室、10数名のオペレーターがリツコの指揮下で動き出している。
シンジはつい先ほど技術部の人間から操縦方法について軽くレクチャーを受け、エントリープラグへ乗り込んで行ったところである。
「冷却終了!ケイジ内全てドッキング位置」
「パイロット、プラグ内コックピット位置につきました!」
「了解、エントリープラグ挿入!」
“命令されれば患者も見殺しにするのか?”と再びレイの元へ現われた医師や看護婦たちに侮蔑の言葉を投げかけ、“あいつに何かあってみろ、この命に掛けて貴様ら皆殺しにしてやるからな!”と、ゲンドウは勿論リツコやミサトに憎悪の視線を投げかける。
二重人格などと言う報告は受けていなかったし、それについてはリツコも否定している。彼女達の受け取っていたレポートには特にそういった異常はみうけられないと結論が出ていた。
それなのに、シンジの突然の豹変にも、まるで事前に知っていたかのように冷静なゲンドウ。
ミサトは早くも自分が指揮をとる事に不安を感じていた。
(何だってのよ)
「プラグ固定終了、第一次接続開始!」
「エントリープラグ注水!」
オペレーターの言葉と共に、エントリープラグへLCLが注水されていく。
『これは何だ』
「それはLCLと言って肺に取り込めば血液に直接酸素を供給してくれる物よ。気にせず深く息を吸い込んで」
詳しく説明している暇がなかったのか、LCLについて教えていないにもかかわらず、シンジは少しも慌ててはいなかった。眉を顰めながらも、いわれた通りLCLを肺に取り込む。
『気持ち悪いな』
「我慢なさい!男の子でしょ!」
苛々の所為か、思わず怒鳴ってしまった。
『貴様が言うな。喋るなら喋るでもっとましなアドバイスをしろ』
シンジの汚物を見るような目に、ぐっと言葉に詰まる。
事情を知らないオペレーター達は傲慢不遜なシンジのその言葉に驚くが、リツコが軽く咳をしたのを聞いて作業に戻る。
「主電源接続、全回路動力伝達。起動スタート!」
「A10神経接続異常なし、初期コンタクトすべて問題なし。双方向回線開きます!」
ごくり、と皆が固唾を飲んで見守る中、シンクロが開始された。
「自我境界線突破しました」
「エヴァ起動!シンクロ率42.8パーセント!!」
おお、と管制室にどよめきが走る。
「ハーモ二クス、誤差0.3。許容範囲内です」
「すごいわね」
メインオペレーターの女性の報告に、画面を見たリツコは驚きの声を上げる。
「行けるわ、ミサト」
友の確信めいた顔に、ミサトは頷く。そこで、
『…動くかどうかわからないのに俺を乗せたのか?』
心底あきれたと言わんばかりにシンジは小さく呟いた。
「エヴァンゲリオン初号機!発信準備!」
リツコから指揮を引き継いだミサトの高らかな声が響き、エヴァの封印が解かれていく。
「第一ロックボルト解除」
「解除確認、アンビリカブルブリッジ移動!」
肩を抑えていた拘束具が稲走りと共に外され、先程までシンジやミサトがいた場所がエヴァの前方へ滑るように移動していく。
「第一、第二拘束具除去!」
オペレーターのモニターに映された3Dグラフィックには、エヴァの両腕、両足を抑えていた拘束具が除去されていく様子が描き出されている。
「1番から15番までの安全装置解除!」
「内部電源充填完了、外部コンセント異常なし!」
最早、肩を押さえ付ける拘束具を残して初号機を押さえつける物は無くなっていた。
「エヴァ、射出口へ!」
エヴァの立つパネルが移動して、射出用のレールの上に乗る。
「5番ゲートスタンバイ!」
「進路クリア、オールグリーン!」
カシュカシュカシュッと軽やかな音を立ててレールの行く手をはさんでいたシャッターが開いて行った。
「発信準備完了!」
「了解!」
手際よく行われた作業の手並みは、当然とはいえ褒められた物である。
しかし、ミサトは少なからず自分たちのしている事に滑稽さを覚えた。これほどまでに厳重に拘束していなければ、パイロットが乗り込んで五分もあれば出撃できるのではないのだろうか。
その気持ちに錘をつけ心の中に沈めると、ミサトは最後に確認をとることにした。
「シンジ君、心の準備はいいわね」
『ああ』
たとえ傲慢だろうがなんだろうが、おどおどしているよりはよっぽどましだ。
ミサトは自分の苦い思いにそう踏ん切りをつけると、所長であるゲンドウを振り返った。
「構いませんね」
「ああ、使徒を倒さぬ限り人類に未来は無い」
組んだ両手に顔をのせ、隠れた口元からはその養父である男の表情は解からなかった。恐らく、何を考えているのか分らないと言う点において、血の繋がりは無くとも親子である事には違いないように思える。
(しっかりしなさい!)
大切な時に余計な事を考えてしまう癖は直したはずだ。ミサトは消しされぬ過去を手を握り締める事で振り切る。
「エヴァ初号機、発進!!」
『グゥッ』
瞬間的に加速したためGに歪んだシンジの顔は、違う何かに耐えようとしているという事を最後まで他人には気付かせなかった。