雨が降る。ポトポトと、単調な音と供に。
「嘆くのは自由だ、絶望しようが別にいい」
ただ、と僕は続けた。
「自分のしている事を振り返るのも時には必要だって言う事さ。振り返らないから自分にはもうど
うしようもないって事に気付けない」
誰に言うまでもない独白であった。
雨に、服や体についていた汚れが洗い落とされていく。もっとも、それだけでは完全に汚れが落ちる筈もないのだが。
僕は学校の湿り始めたグランドに、壊れた人形のように横になっていた。
「笑わせるな、貴様が何をしたって言うんだ。何もしないからこそこうなっちまったんだろうが… もういい、代われ」
しかし、独白を聞いていた何者かが見下すように言葉を返した。
暗転
「シンジ君」
燃え上がるガソリンの臭気が雨独特の匂いと交じり合う中、彼女はアイツを呼んでいた。
この期に及んで、一体何を言うつもりなのか―――――まあ、そんなことは俺には関係ないが。
俺の聴覚は近づきつつあるサイレンを捉えていた。
走り出す俺と、立ち尽くす彼女の背後、グランドのサッカーゴールの中で再び爆発するバイク。
「…って!!シン…」
幻聴。そう、これはアイツの望むただの幻聴なんだ。
全力で走りながらそそう思っただけなのに、俺は何故か夜空に向かって叫びたくなった。
一ヵ月後、第三新東京市・某所。
「はい、わかってますよ。また時間を見て電話します。はい、それじゃあ」
ガチャン。
暖かい気持ちが一変し、心が重くなる。そのせいか受話器を置く音が、溜め息と共にやけに空虚に響いたきがした。
「ここが……僕の住む新しい街」
深く息を吐いて、ゆっくりと吸い込み、大袈裟に咳き込む。
この大きなビルの立ち並ぶ街の空気は、整備され、清潔そうな街並みとは裏腹に綺麗というわけではなさそうだ。箱根・芦ノ湖周辺に建造中の日本の新首都と言うから、もとより期待はしていなかったのだが…それでもやはり、箱根=温泉というイメージを植え付けられていたシンジにとってはショックであった。
「まあ、父さんのいる街でもあるんだよね」
何やら父親に複雑な思いでもあるのか、シンジの中性的な顔の眉間に皺が寄る。ポケットから取り出された写真を見て、再び出た溜め息。
皺が更に寄る。
「誰なんだろう、この人」
写真の中には、前屈みでポーズをつけた女性がピースサインと笑顔を撮影者に向けている。理解不能なのは赤ペンで胸の谷間に矢印を引き、[ココに注目!!]などと描いてあった事だ。
父親の部下だと言う事は電話で聞いてはいるが、まさか僕に取り入って昇進を狙っているのか?それともショタとか言う人種で…夏の風が、性少年な雰囲気に悶々とするシンジの髪を撫でる。
蜩の声にまぎれて、かすかな風鈴の音が聞こえた気がした。
カナカナカナカナ…
カナカナカナカナ…
「いい…かもしれない」
本人は気付いていないようだが、こころなしかニヤケた頬が、少しピンク色に染まっている。
「あら、何が?」
「え…うわっ!!」
振り返ると頭の本人が写真の中とほぼ同じような格好でニヤニヤと笑っていた。
「聞いていた話と違って、ずいぶんと…」
口を押さえてウプププと、デフォルメされた絵で描けば、頬を膨らませて笑いをこらえているような仕草をしている事うけあいだ。何故か脳裏に、意地悪そうな丸い猫がウシシと笑ってる姿が浮かんだ。
先ほどの台詞の、いい、の後にあった少しの間に浮かんだトラブルの予感が当ってしまったようである。
「ち…っ違うんですよぅ」
慌てたあまり舌足らずな言葉になった少年と、大人気なくからかう女性のやり取りはしばらく続いた。
「あははは、もう機嫌直してよシンジ君」
「……」
クラスメイトの少女に肩を叩いて挨拶されるだけで頬を染めるこの純情な少年にとっては、いくら暑いからと言って、胸もあらわなタンクトップやファッションとはいえ眩しい太もも剥き出しのジーンズを履いた女性を至近距離で見られないと言うだけなのだが…如何せん、からかう事には慣れていても人との距離の取り方は苦手な葛城ミサトにはわからなかった。
その為か、シンジの第一印象は人見知りの激しい子であった。
「取りあえず、暇ならこれ、読んでみる?」
だからなのか、ともすれば声が擦れてしまいそうになる。昔の自分を連想させるから。
ワタシハ、ナニヲシテイルノ?
自己嫌悪と、本当にこんな子供も…という不安。後者の方は年齢など関係ないと振り切られる。戦争に大人も子供も無い。
「…何ですか?これ。」
「人工進化研究所、ゲヒルン。私や、あなたのお父さんの働いている所よ」
ようこそゲヒルン江。
歓迎の言葉である筈の文字が、前を見るふりをして目を逸らしたミサトには血の色に見えた。
「とうさん、か…」
「あら、シンジ君はお父さんが苦手なの?」
言葉の後の苦い沈黙をどう解釈したものか、ミサトが聞いてくるのをシンジは苦笑して答える。
「養子なんですよ、僕は。二親を無くした僕を、養母が引き取ると言ったらしいですけど…養父との記憶はあまり無くて」
「ごめん、何か悪い事聞いちゃったみたい」
「いえ…色々ありましたけど、尊敬している…んだと思いますから」
少し難しい顔をしてシンジは言う。
暫らく、お互い何とはなしに黙り込む。
国道をひた走る銀色のエステマの中に、しばし沈黙が満ちる。
「養母が死んですぐに預けられたんですけど、前の家族の記憶も、引き取られてからの記憶も、あまり無いんですよね」
窓の外を見ている為、そう漏らしたシンジの顔はミサトから見えない
「初めは、養父の事恨んでいたんだと思います。けれど自分が望んで…」
そこでふと初対面の人間に話す事じゃないと思い、ハハハ、と誤魔化す。
「すみません、何か緊張してるみたいで」
「しょうがないわよ、それに何となくわかる気もするわ」
「えっ?」
私も、同じようなものだから。
その言葉は、ミサトにはひどく空虚な物に感じられた。
「綺麗な建物ですね」
「まあ、ここの研究所は何年か前に立て直したらいらしいからね」
駐車場にはいる前に見上げた建物は箱根山麓に位置し、その立派な造りは高ささえあればホテルに見えなくも無い。しかし辺りに満ちる静寂が、何故か墓場のような薄ら寒さを感じさせる。
(そういえば、ここら辺は生き物の鳴き声がしないな…)
不自然さに首を傾げながらも、生態系が戻ってきていると言われ始めたのはここ数年の事であるので、これは単にこの辺りにはまだ戻っていないだけだと納得する。事実は違うのだが。
「随分変わった駐車場ですね。」
「え?…ああ、ここは確かに駐車場でもあるけどこれはカートレインよ」
「カートレイン?」
耳慣れない言葉に首を傾げるのと、車を停めた所の入口からシャッターが下りて床ごと動き始めるのは同時であった。驚きに身を竦ませたシンジであったが、光と共に目に飛び込んできた光景に眼を奪われた。
「すごいっ…地下シェルターだ!」
「ええ、セカンドインパクトの教訓を生かし、全く新しいコンセプトで建設された地下都市。そして私達ゲルヒンの本部――ジオフロントよ」
「初号機の冷却処理は第2フェイズに移行。内部電源充電完了予定時刻はヒトハチサンマル」
車を停めた後、国際空港の通路に見られるようなベルトコンベアの上を二人はかれこれ二時間は彷徨っていた。
「おっかしいわねえ、確かこっちでいい筈なんだけど」
どうやらミサトは、完全に迷っているらしい。
「ミサトさん、その台詞さっきも言ってましたよ」
「うっ…」
地図を片手に固まったミサトを見て、シンジは溜め息をついた。
(この人本当に研究所の人なのかな?人工進化研究所とか言ってたけど、これまでの言動からしてもとても科学者には見えないし)
内心かなり失礼なことを考え始めたシンジは、すでに来た事を後悔し始めていた。
必要なければ、平気で一年も二年も連絡をしてこなさそうなイメージであった養父――突然かけてきた電話で、直接会って話したい事があると言った時の形無き不安は、焦燥と共にぐんぐんと大きくなっている。
右手を閉じたり開いたりしながらシンジが俯いていると、小さくミサトが「まあ、仕方が無いか」と呟いた。
「うんうん、システムは利用する為にあるのよね」
ベルトコンベアを降りてどこかに連絡をとり始めたミサトを見て、シンジは迷子センターを思い出したという。
「まったく、ミサト、私はあなたのように暇じゃないのよ」
何故か濡れた水着に白衣という姿の金髪女性(睫や瞳は黒いので日本人だろう)は通路を歩きながらミサトに噛み付いている。所々濡れてしまった白衣が、逆に水着だけの姿よりも厭らしく感じてしまい、シンジはまたも赤面した。
彼女――赤木リツコは、自己紹介で技術部部長と言っていたからそれなりに偉い人のようだ。その彼女にミサトは僕を「司令の息子さん」と紹介した。驚いたように顔をじっと見つめてきてその黒い双眸に宿らせた光は、一体なんだったのだろう。
いや、それよりも…
「あの、ミサトさん」
「え?あらどうしたのシンジ君。不思議そうな顔をして」
「司令って、お養父さんの事ですか?」
そう聞いた途端、シンジの前を歩いていた二人の女性は顔を見合わせた。
「シンジ君、何も聞いてないようね」
呆れた顔でリツコは言った。
「あなたのお父さん、碇ゲンドウは、ここの所長。つまり一番偉い人なのよ」
「ええっ!!」
「…確かにここでの研究については守秘義務があるけど、もしかしてシンジ君何も聞いてないの?」
「人類を守る大切な仕事だとしか…」
「そうなの」
全くあの人は、と言った顔でリツコは言った。
「仕事内容の概要はシンジ君のもっているその本に書いてある通りよ。けれどあなたのお父さんはもっと重要な仕事の責任者でもあるの」
「重要な仕事?」
一体何の事か聞こうとシンジが思った直後、管内に赤いランプが灯り警報が流れ始めた。
「まさか使徒なの!!」
「そんな!!」
状況が理解出来ないシンジは、急に険しくなった二人の顔と、不吉な警報にごくりと唾を飲み込んだ。
「正体不明のエネルギー体が現在本所に向かって進行中!」
「パターンオレンジから青へ変化しています、間違いありません、使徒です!」
オペレーター達が、次々と流れてくる情報を分析し報告している。
「エネルギー体が海面に姿を現しました、メインモニターに回します!」
おお、とざわめきが広がる。
「十五年ぶりですね」
老人が、まったく驚いていない声で言う。声の主がいる場所はオペレーター達を一望できる位置にあり、慌ただしい管制室でそこだけが静寂を保っている。
「ああ、間違いない」
使徒だ―――
ゲヒルンが待ち構えていた敵の出現に武者震いをしている一方で、国連軍の湾岸戦車隊や戦略自衛隊は最早戦闘と言えない状況に追い込まれていた。
「退避!退避ぃ!!」
重厚な造りの装甲を持つ戦車が次々と爆煙と共に砲弾を打ち出し、空に散開した戦闘ヘリや音速で飛び交う飛行機が巡航ミサイルを解き放つ。
しかし何処の国籍の物ともわからない人型兵器は、着弾によって加熱され蒸発する海水に身を包まれながらも、まるで一歩一歩踏みしめるように防衛ラインに向かっていった。
「化物めっ!ミサイル攻撃が効かんのか!!」
「全弾直撃の筈だぞ!!」
松代、ゲヒルンのものとよく似た管制室のメインモニターは、唯一日本国防省直属として動かせる戦力が一方的に壊滅していく光景を映している。
『馬鹿どもが―』
突如人型兵器の胸部、顔らしき物が光ると同時に、雷に撃たれたかのごとく戦車隊が爆発した。
「加粒子砲です!!国連軍の戦車隊が全滅しました!!」
「おのれ…攻撃部隊総員退避!N2地雷を使用する!!」
「了解!攻撃部隊総員退避!N2地雷をセットします!!」
まるでモーゼの杖に打たれた海のように部隊が退避すると、人型兵器はそれさえも何ほどの事もないという風情で爆破ポイントへ接近していく。
N2地雷、着弾
街が、業火に焼き尽くされる。
「衝撃波、来ます」
カメラが爆発によって生まれた衝撃波と電磁波に一時的に使用不可能となる。
「これほどの威力だ、街は失ったがけりはついただろう」
「確認を急げ!」
『クハァ…』
「…なっ、爆心地にエネルギー反応!」
「何だとぉ!!」
「モニター回復、メインスクリーンに移します!」
爆発で盆地が出来上がった街の中心に、人型兵器は膝まずくように鎮座していた。N2兵器の直撃はさすがに堪えたようで全身に皹や欠損が認められたものの、傷の各所が修復されていく様をモニターから肉眼で確認できる。
「我々の切り札が…」
「化物め!」
そして、同時刻を持って戦略自衛隊は指揮を断念。自衛隊(陸海空)はゲヒルンの指揮下に入る。
「どういう事だよ…答えてよお義父さん!!」
「シンジ君、落ち着いて!」
同時刻――ジオフロント初号機ケージ。
「もう一度言おう。お前がこれに乗るのだ」
血の繋がらない親は、子に道を選ばせていた。
時間は少々遡る。
警報と使徒襲来、総員第一種警戒態勢のアナウンスに血相を変えた二人はシンジを連れて、説明する予定だった場所にかけつけた。
どことなく血の匂いのする液体の上をボートで渡ったシンジは、暗闇の中で何をされるのかと怯えていた。
「電気をつけるまで危ないからじっとしててね」
リツコはそう言うと一人離れて行き、ミサトは何故か黙っていた。
ザシャン
何か金属板どうしが軽くぶつかった時のような音と共に辺りがスポットライトで照らされる。
「わっ!ロ、ロボット!?」
「違うわ、これこそ人類最後の希望。汎用人型決戦兵器、エヴァンゲリオン。」
誇らしげに機体を見た顔をシンジに向け、
「これはその初号機。そしてあなたのお養父さんの仕事」
リツコは、シンジにそう言った。
「養父さんの仕事…」
「そうだ」
いきなり頭上から響いた声にシンジは弾かれたように視線を上げた。
「久しぶりだな」
初号機の頭上に位置する空間、階を隔てた場所。
シンジの養父、碇ゲンドウがそこにいた。
―――――――――――――――かくて運命の扉は開かれた。