私なりの推測すると!!さて皆さんの意見は??
古代丹後は現在の京都府亀岡以北全域と兵庫県丹波市・篠山市を範囲とする広大な旦波という地名であった。和銅6年(713年)旦波国からの分国で五郡(加佐郡.与謝郡.丹波郡.竹野郡.熊野郡)が丹後国と命名された。その分国以前の旦波国は現在の京丹後市峰山町であり「丹波」の地名が残されている。
旦波(丹後)王国は分国以前のことであり、本来ならば”旦波王国”と表現すべきかも?此所ではあえて丹後王国と言わせて頂く。
丹波の語源は田庭(たにわ)から。「峰山文化財」の記述から
もう一つの語源は
この地方に大きな池があった。ある時、女人が池のそばを通りかかると、大きな蛇が出てきて女を飲み込んでしまった。
その夫が剣で切り殺した。赤い血が池に流れ旦(赤い)血の波をただよわせた。
それからこの地を「旦(あか)い池の波」から「旦波から丹波」と呼ぶようになった。
「やさしい峰山の歴史 郷土のあゆみ」より
それと、豊受大神が「あなにえし、たには」と、この地がたわわに稔る稲穂を見て名付けられた。とも!
ユーチューブで丹後王国を紹介されていました。すごく参考になりました。
https://www.youtube.com/watch?v=DQ5xBgkziKI
ここから「古代丹後王国があった」について、熱く語りたい!私なりに思ったことを挙げると
@に,丹後地方には、「古事記」「日本書紀」の記述にもある日本海三大古墳が3基存在すること。それも百メートルを上回る規模であること。
百舌鳥古墳群にも劣らない同等の規模である。
ご存じのように網野銚子山古墳(198m) 丹後町神明山古墳(190m) 加悦町蛭子山古墳(145m)がある。
発掘調査でも誰のお墓かはわかっていないが、大和朝廷の前方後円墳の基礎創りに関与したと考えらる。
又、丹後地方は6千600基もの大小古墳があり、この多さは群を抜いている。このことから独立した王国があったと考える。
奈具岡遺跡からは水晶玉.赤坂今井古墳はガラス玉。京丹後市弥栄町の遠所遺跡から、製鉄工房と鉄製品が発掘された。
製鉄は朝鮮半島より伝わったものと思われる。
Aに、これだけ大きな古墳が作れるというのは、大きな集落と多くの人口、さらに経済的にも豊かな土地と強固なる勢力を持った集団がいたとしか考えられない。
Bに、この丹後地方は海に近接して良好な港(潟湖)と河川があり、大陸より日本海に開いた表玄関である。
そして、この海岸沿いは大成・岡1号・離湖・神明山と多くの古墳群があり、勢力をもった連(むらじ)が居た証拠でもあるとも思っている。
人類が発達したのは海(天..あま)であり、大陸と倭国海人族(あまぞく)の勢力(渡来人)との交易が盛んでもある。日本人のDNAでも証明されてる。
つまり、丹後王国が後の大和国・大和政権につながったと推測する。(反対に大和朝廷から丹後王国に影響をおよぼしたとの見解が多数を占めると承知している)
Cに、丹後の籠神社の国宝「海部氏系図」(あまべうじけいず)を解析すると大和朝廷と古代丹後王国の勢力図が見えてくる
ということは、(一息ついて語ろう)倭にはたくさんの環濠があったが、その中でも強大な旦波の環が少しずつ大和朝廷に呑まれていったということかな?
その後、大和朝廷は強大な権力をものにした。そんなんで、旦波王国が大和朝廷の前身ではないのか?。
さぁ!皆さんどう思われますか?こんな事考えたことありますか?私たちの祖先をうやまう時、一時を思いをめぐらせてください。
ちなみに、概算120代から150代ぐらい遡るとこの時代にタイムスリップするようですョ。
丹後から出土した久美浜箱石浜で出土したアジア大陸清の時代に鋳造された「貨泉」というコイン(AD8年〜AD23年)
奈具岡遺跡からは、1世紀頃のものと思われる水晶の原石「剥片」完成品2600点にも及ぶ大量に品が出土。
途中ガ丘遺跡.扇谷遺跡から発掘された「陶硯」(とうけん)という土笛。桃谷遺跡より「耳とう」ガラス製の耳飾り
これらからこの地がいかに大陸の文化を早くから受けていたかと推察され、この時代に丹後と大陸との交流があった事がことが証明される。
久美浜・湯舟坂遺跡からは黄金きらめく「環頭大刀」が発掘された。約6世紀後半のものと推定されたが7世紀には姿を消す丹後王国の最後の豪族の物か?
広峯古墳からは、景初4年の盤龍鏡、大宮・大谷古墳から女性の被葬者が発掘された。古代丹後の女王か?
年号が記載された鏡、「青龍三年鏡」を発見。卑弥呼が(景初3年239年)魏の国から銅鏡を下賜されたものである?。
これは魏志倭人伝に記されている。この鏡の原料は、鑑定結果大陸産である。
太田南古墳からも「青龍三年鏡」が出土している。
この事から言えることは丹後と大陸が日本海ルートで独自に直接交易をしていたもので、又、出土品から見ると
一時的に出雲山陰地方とはつながりがあったものの、丹後は但馬地方より活発であり、大陸文化をいち早く取り入れたと考える。
丹後王国の巨大古墳は誰の墓か?誰が作ったのか??
これらの巨大な前方後円墳は、前進の大和環濠に旦波王国を誇示したと考える。
誰の墳墓かはいまだにわからん!!遺跡から出土した物が誰々かわかったら、それはそれは大発見となるだろう。
ちなみに、銚子山古墳または神明山古墳は、丹波道主命または彦子坐王(ひこいますおう)または、竹野波津羅別王と推定と記載されている。
実際に大阪府の大山古墳も仁徳天皇といわれているが、実際にはわからんらしい??
もし、これらの古墳が天皇家の祖先の誰かだとわかれば大事であるに違いない?????????????。
丹後王国を築いたのは、神武天皇か?そんなわけないか!
大和政権が力を持ち始めたのが5世紀頃と考えると、古代丹波の興盛を2〜4世紀頃と考える。
丹後王国の影響力は、丹波.丹後を中心に但馬.山城.大和.難波方面にも及ぶことが国宝「海部氏勘注系図」からよみとれる。
神武天皇は、丹後の「倭宿祢命(やまとすくねのみこと)」であると考えられる。と、伴としこ氏は結論ずけている。
神武天皇はのちの4世紀後期から5世紀に大和に遷宮したと考える。歴史を見ても、遷宮は数多くされており、考えるに違和感はない。
5世紀の後半、雄略期22年(478)に日本書紀に浦島嶋子が蓬莱山(とこよのくに)へ行くと記されている。
ちょうどこの時、丹後の祖神豊受の大神が伊勢に遷宮されている。丹後の祖神の遷宮は、丹後の国譲りを表していると言える。
なんと、以上の事からつじつまがピタリとあてはまっているではないか?!
それと、開化天皇・垂仁天皇・丹波道主命の后妃は丹後にゆかりのある人ばかりである。
やはり、力のあった丹後王国とつながりを持たせるためには、血のつながりが必要であったのではと思っている。
この諸説は是非 伴としこ氏 著書丹後王国はあった」を読まれたい。
それとそれと、いろいろな記述には、中国とか、中国大陸とか書かれていますが、私は東アジア、またはアジア大陸と言う方が正しいのではと思います。
中国は、中華人民共和国の略であり、最近の呼び名ではないのかと思いますが??
丹後王国論(たんごおうこく ろん)は、日本古代史が専門の歴史学者・門脇禎二が提唱した古代王国説。古墳時代に丹後地方(今日の京都府京丹後市辺り)を中心に栄え、ヤマト王権や吉備国などと並ぶ独立性があったと考えられる勢力を丹後王国(たんご おうこく)と呼んだもの。ただし丹後国は和銅6年(713年)に丹波国の北部5郡を割いて分国したものであることから、これを丹波王国(たんば おうこく)と呼ぶこともある。 丹後王国は4世紀中頃ないし4世紀末頃から5世紀にかけてが最盛期で、6世紀中頃にヤマト王権による出雲征討に伴いヤマト王権の支配下に入っていったと推定している。
門脇禎二 『丹後王国論序説 日本海域の古代史』 東京大学出版会
増田于信の調査と京都府竹野郡誌
誠に勝手ながら、著書の「丹後王国はあった」を参考・引用させていただいております事、ご容赦願います。
私なりの思い込み記述も多数織り交ぜております事、ご理解お願いいたします。
謎だらけの邪馬台国と卑弥呼について