京丹後市峰山町鱒留(ますどめ)地域![]() (鱒留は久美浜代官の所管であった。また元豊岡市も久美浜県であった) 竹野川の支流鱒留川の上流に位置して、磯砂山系と久次山系に挟まれた国道312号沿い。国道が東西に走り、一番奥の比治山峠を越すと久美浜町豊岡市に至る。磯砂山の方へ入って技村に大路(呂)村・大成村がある。 地名の由来は、ここでは藤社(ふじこそ)明神の使いの鱒が竹野川をさかのぼり当地で留まったことによるものとも、豊受大神に仕えていた河上摩須郎女(カワカミノマスノイラツネ)が住んでいたことによるともいう。鱒を捕えて食すと腹痛をおこすと言い伝えられていて近年までは誰も鱒を捕えなかったという。かつて実際に鱒は遡上した。 又、比治山には立派な石が取れ、鱒留村には石屋が5.6軒あった。丹後の神社や鳥居にも数多く使われている 『中郡誌稿』 〈沿革 鱒留川を逆のほりて此村まで来る之を藤社明神の御使なりともいひ又参詣する者也といふ、固より俗伝なれと昔日敬神の情厚きより魚鳥に付会して自然にかかる伝説を胚生する事諸国に例多し但し此処のは村名の文字に付会したる者なる事無論也(神女の古伝によれは益富の方面白し> (五箇村誌草稿) <鱒留川源泉を大成の清水原及みそろ谷に発す比沼山川、茂地川、大ケ谷川を合し尚吉原に至り久次川(殿川)を合して流る竹野川の上流なり幅広きところ二十間程鮭鱒の漁あれど多からず鮎其他河魚を産す > しかしそうしたことよりも、マスは『古事記』に記録が見える。「丹波河上摩須郎女」は、開化の皇子とされる「丹波比古多多須美知能宇斯王(丹波道主命)」の妃で、「比婆須比売命(垂仁后)」、「真砥野比売命」、「弟比売命」、「朝廷別王」を生んだという。> 垂仁皇后を生む丹波河上摩須郎女は熊野郡川上郷だが、この摩須はマスドメのマスとも、丹波道主命はこのあたり丹波郷以前のオオモトの丹波の首長だった人とするならば、摩須郎女もまたここの人だったのかも知れない。 摩須郎女はマスノイラツメと読まれるが、郎女をオトメと読んでマスオトメ→マストメの説がある。ここには乙女神社があり、ここが摩須郎女を祀るのかも知れない、あいはオトメが地名になることはあるまいから、その母親かオバのトベ、女首長を意味するトベがいたとしてマストベ→マスドメだったかも知れない。また、乙女神社のオトメもそこからつけたのでは? 中世は益富保で、石清水八幡宮領。 「丹後国田数帳」では、丹波郷の後に「益富保 廿四町弐段三百五十八歩」と見える。江戸期の鱒留村は「慶長郷村帳」「延宝郷村帳」では益富村と書かれていた。 近世の鱒留村は、江戸期〜明治22年の村名。はじめ宮津藩領、寛文・延宝期に一時幕府領となり、享保年間からは幕府領。 明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年五箇村の大字となる。 鱒留は、明治22年〜現在の大字名。はじめ五箇村、昭和30年からは峰山町の大字。平成16年から京丹後市の大字。 鶏塚 『中郡誌槁』 〈 (五箇村誌草稿) 鶏塚、字鱒留の大石これなり正月元日に一番早く来たりしものはここにて鳥の聲をきき長者になるとの俗説あり明治二十年頃道路新設の時この大石を取除きたり惜むべし。此塚あるによりて此所の小字を塚沖と称す開発されたる石槨なり其名称伝説は諸国の例と同じ近傍今なほ稀に祝部土器破片を得> (五箇村誌草稿)<尚古くより火の雨を避けたりといふ石穴なるもの鱒留久次等に散在す 〉 藤社 小字大光田(おこうだ)(御供田とも記す。この地を通称真奈井ともいう)に鎮座。祭神は保食之神。丹波郡式内社の「比沼麻奈為神社」説がある。丹波(丹後)の比遅麻奈為は豊受大神の故地で、伊勢外宮の故地、すなわち元伊勢である。こここそが丹後各地の本家元伊勢の地かも知れない 社頭の案内板 〈藤社神社(ふじこそじんじゃ) 当社は、「止由気宮儀式帳」などの記録によると、崇神天皇の時代、比治山に降臨された豊受大神を祀ったのが始まりとされ、古老によると、丹波道主命の創始とも伝えられています。雄略天皇二十二年に伊勢に奉遷された後も引き続きその地に祀ったと伝えられ、五穀豊穣養蚕守護神として篤く信仰されています。 内陣は、正徳四年に再建され、明治四十年本殿を改築しましたが、昭和二年当地方を襲った丹後大震災により大半が破損しました。復興に際し、その由緒によって、昭和五年伊勢神宮の式年遷宮造営に関わる社殿の扉、柱等の古材を下賜いただくことになり、昭和十一年九月神明造りの本殿並びに、回廊、水屋、弁天池の真名井祠、和奈佐祠を建造、現在に至っています。 祭神 保食神(豊受大神) 境内社 和奈佐夫婦祠 大山祇社 武大神社 天目一社 天満神社> 平成十一年三月 峰山町教育委員会設置 五箇の枝村の茂地(持・母智)の奥にアザミ原という所があり、その奥にアザミ原山があり、その頂上には「男池」と呼ばれる一辺20メートルばかりの真四角な池がある、女池ではなくこれが本当の真名井ではなかろうかという話もある。 その地にあったと思われる阿佐美神社が五箇の天満神社に合祀されていて丹波道主命の娘、比婆須比売の妹、薊瓊入姫命を祀っている。 『丹後旧事記』 〈婦父社。丹波郡土形里桝富村。祭神=和奈佐老父、和奈佐老婦、豊宇気比売命。神記曰、和奈佐翁者土形里長也豊賀志飯女養為吾児世富後田畑神崇七月七日祭礼日本紀巻伝見監土伝可見。 〉 『丹哥府志』 〈【藤社大明神】(祭九月廿八日) <藤社大明神は蚕の神なりとて凡村々蚕を養ふものみな此神を祭らざるはなし。 〉 『峰山郷土志』 〈【藤社(ふじこそ)神社(五箇、鱒留、大光田、祭神 保食之神)】鱒留村は、寛永二年(一六二五)から、宮津藩主京極丹後守高広の領下となり、寛文六年(一六六六)高広の子高国流罪の後、天領(御料所)に加わったため、宝暦三年の『峯山明細記』および明治二年の『峯山旧記』その他、峯山藩記録に、その資料を残していないが、延喜式内社の比沼麻奈為神社、すなわち、伊勢外宮の故地として、長らく久次村の比沼真名井原豊受大神宮と論争をつづけて来た社である。 延享二年(一七四五)『鱒留村明細帳』では「一、社 式社八頭荒神、宮建 三尺社、藤社大明神 宮建 五尺社。外に小祠二社、八頭荒神宮守これなく候。八幡宮の宮守これなく候」とあり、当時「藤社」の神号であったことがわかる。延享二年は宝暦三年の八年前で、だいたい『峯山明細記』当時の姿であるとみてよい。 天保十二年『丹哥府志』では、祭九月二十八日、藤社大明神は蚕の神であるといって、どこの村々でも、蚕を養うものは、みな、この神をまつらないものはない−と記している。 明治二年『御料所旧記』は「久美浜代官管下の天領地域内の神社、中郡十ヵ村十四社の中に……比治麻奈為神社、式内 藤社大明神、祭 九月二十八日、鱒留村。蔵王大権現、祭 九月二十八日、同大路分」と、はっきりと『延喜式』による比治麻奈為神社の名をうち出している。 しかし、その翌明治三年、中郡の天領のうち、新治、鱒留、谷内、明田、久住の五ヵ村の社掌を兼ねていた新治村九丹大明神の神主安達数馬から、久美浜県御役所に提出した『調書』には、次のように記している。 明治三年(『神社調』) <藤社神社 祭神 不二相分一(あいわからず)、宮殿 五尺社、上家 二間半に二間、拝殿 四間に二間、……祭日 九月十五日、社地 平地二五〇坪、横 一〇八間 〔摂社−本社と末社の中間の格式〕八柱明神 天忍穂根命、天津日子根命、天之穂日命、活津日子根命、熊野久須毘命、多紀理毘売命、狭依毘売命、多岐都比売命、上屋 二間に一間半、祭日 九月十五日、社地 山中にあり。> また、同氏による別書には、式外八柱明神の摂社として藤社大明神をあげ、祭日十一月亥日、祭神、勧請年記は両社とも不詳としており、末社に吉野、乙姫、八柱の三明神と、八万宮(八幡か)を載せていて、式内社としてはとりあげていないことになる。 明治十七年(『府・神社明細帳』) 村社 藤神社、祭神 保食之神、社殿 二間二尺に二間半、籠屋 二間半に四間半、境内 二、〇七二坪、官有地第一種……社祠掌 行待政治 〔境内神社〕一、大山祇社、祭神 大山祇神、由緒不詳、建物四尺に三尺 一、武大神社、祭神 須佐之男命、由緒不詳、建物 五尺七寸に六尺三寸 一、天目神社、祭神 天目一箇神、由緒不詳、建物 四尺二寸四面 一、天満神社、祭神 道真朝臣命、由緒不詳、建物 二尺五寸四面 一、稲荷神社、祭神 受持神外四座(不詳)、由緒不詳、建物 二尺三寸に一間半 この処が士形の里であることは、『丹後旧事記』に記してある。『風土記』にいうところの伊去奈子山のふもとで、真奈井ノ神をまつり、社号の藤は泥、または比治から転じた語であって、五穀養蚕の神で、社殿は享保三年閏十月(一七一八)(または同四年正月)、再建の棟札があるが、その他は不詳である、と。 (頭注付記)明治三十九年三月七日許可、国有林反別 三町八反八畝歩、境内編入。明治四十年十一月十四日許可、神殿再建、回廊新築、拝殿新築。明治四十二年四月十二日、八柱神社を合併。 明治十七年の『明細帳』に、はじめて藤社神社の「社」の一字を省いて「藤神社」としている。 昭和十一年『五箇村郷土誌二』には、前記藤神社の由緒に添えて「雄略天皇二十二年秋七月、伊勢山田原に遷座ありし外宮の本地、すなわち、比沼麻奈為神社の本社なり」と書き加えている。 社格、大正元年村社に指定。社掌 金刀比羅神社、毛呂清春兼勤。 建物、神殿 二間半四面、回廊付、拝殿 四間四面、境内 二、〇七四坪、弁財天池(伊勢外宮の下御井の地形に似ている) 一、享保四年午正月再建の棟札あり。 一、明治四十年十一月、神殿再建、回廊、拝殿新築許可。 一、昭和十一年八月、神殿、拝殿、改築。伊勢外宮の御用材の払下げを受けて造営(社殿の扉も同じく)。村式祭九月二十八日、氏神例祭 十月十日、蚕飼育の頃、子、午の日ごとに蚕祈祷を行なう。 神事 太刀振り、三番叟、神符 天女が鱒に乗って波に浮かび、藤の枝をよじ上る神姿に、桑の葉の上に繭を配した図柄である。 お猫さん 養蚕期に、独狗祠の小石を借り、「お猫さん」と称して家にまつって、ねずみの害を除く風習がある。なお『五箇村郷土誌』および『中郡誌稿』に社蔵棟札(霊廟および鳥居重創)二枚の写しをのせている。 その一つ、丹後州中郡五箇庄鱒留郷藤社大明神霊廟重創上梁文 <神昔乗鱒留在此郊墟攀藤而結社永守我村盧夫神之垂跡不可執一辺随縁又赴感如月印清川霊廟久朽腐老幼共悲辛択材運斤斧棟宇此一新願常蒙擁護災生月悉消除嘉禾歳合穂郷閭楽有余 正徳四年甲午五月吉祥日 全徳寺見住 孝巖謹記> 藤社大明神 現在の規模(昭和二年三月七日、震災被害なし) 〔神社名〕藤社神社、本殿 一〇尺四寸に六尺三寸、昭和一一年九月二一日改修瓦葺。拝殿 一三尺六寸に一六尺八寸、上屋 一九尺に一七尺 〔境内社〕一、大山祇社 瓦葺 四尺に五尺。一、武大神社 瓦葺 八尺四面。一、天目社 同六尺五寸四面。一、天満神社 五尺に六尺。一、社務所(現存しない)、境内 一三、九一九・五坪、山林 六、二二〇坪、宅地 一五四坪、畑地 一五〇坪〔 社宝〕藤社神社真影 一巻その他 主な年中行事 公式祭、三月二十七日。例祭、十月十日、太刀振り 〉 乙女(おとめ)神社(大路) その昔は乙姫神社で後に乙女神社になったと聞く。七夕伝説の乙姫さんに基づくものと思われる。 現地の案内板 〈「丹後風土記」には日本最古の羽衣伝説が記載されていますが、それとは別に、狩人の三右衛門(さんねも)と一人の天女が織りなす羽衣伝説が地元には伝わっていて、天女と三右衛門の間には三人の美しい娘がいたとされます。天女は三右衛門に隠された羽衣を見つけ、娘を残し天に帰ってしまった後、毎年七月七日の夜に星となって三右衛門と三人の娘に会いにやってくるそうです。この乙女神社は、天女の娘の1人が祀られているとされ、お参りすると美女が授かるといわれています。 〉 『中郡誌稿』 〈乙女神社 (丹哥府志)乙女大明神、風土記に所謂天女八人の一なり (五箇村誌草稿)乙女神社、大路、田畑タナバタ神の姉天女八人の内の一人熊野郡より来る内殿は名工岡田藤四郎の作なり (五箇村誌草稿)岡田藤四郎氏 大路の名工乙女神社の奥殿を作る結構緻密行人の此社を過ぐるもの皆之を賞すといふ死後家に社殿の雛形を見る今ありやなしや五箇校の成るや六ケ敷合せ口など皆氏の力によるといふ 〉 『峰山郷土志』 〈【乙女神社(鱒留、大路〈大呂〉、祭神 豊宇迦能売命)】 天保十二年(『丹哥府志』) 乙女大明神、『風土記』にいう天女の一人である。 明治三年(『神社調』) 乙姫神社、祭神 不二相分一、二尺四寸社、上家 一丈一尺に九尺……社地 平地一OO坪、九丹神社 安達数馬報告。 明治十七年(『府・神社明細帳』) 無格社 乙女神社、祭神 豊宇迦能売命、由緒 ここは和奈佐夫婦の住まれた土地で、この神を祭って来たという。社殿 二尺四寸に二尺一寸、上屋一間二尺六寸に一間半、境内 一、三一四坪、官有地第一種、受持社掌 行待政治。 (頭注付認)合併 吉野神社、明治四十二年四月一日許可 (注)権現山にあった吉野神社に合併した。 昭和十一年〔『五箇村郷土誌二』)乙女神社、祭神 豊宇賀能売命、由緒 同上、豊受大神に奉仕した八乙女をまつる。乙女大明神、『風土記』にいう天女八人の一である。 現在 乙女神社、小字エベスドウ、祭神 豊宇賀能売命、社殿は本殿一五尺に一二尺(奥殿は大路の名工岡田藤四郎作)、例祭 十月六日(者、七月七日)、境内 四反三畝二四歩 〔境内社〕吉野神社、祭神 大山祇神、火産霊神 〔境外社〕八柱神社、祭神 豊受大神御伴神、本殿 四間に三間、境内六五坪 乙女神社の由来(『報告』)『日本紀』神代の巻の宇気持神と月読命の出来事、および崇神天皇三十九年に豊宇賀能売命が天降ったこと、さらに、雄略天皇二十二年七月七日に伊勢の山田原に遷幸したことなどを記し、また、文化七年『丹後旧事記』中の「婦父社 丹波郡土形里、桝富村、祭神 和奈佐老父、和奈佐老婦、豊宇気比売命。 <神記に曰く、和奈佐翁は土形ノ里の長なり。豊賀志飯女を養いて吾が児となし、世富みて後、田畑ノ神とあがむ。七月七日祭礼……」を例として、七月七日の七夕の星祭りは、田畑ノ神の祭りを誤り伝えたものであることを述べ、そのうえ、わなさ夫婦の養女となった天女は、三人の娘をうんだが、その娘から羽衣のかくし場所を聞いた母の天女は、早速天上へまい上って行ったので、腹をたてた老夫は三人の娘を追い出してしまった。そこで、三人の中、一人はこの土地にとどまり(乙女神社)、他の二人は丹波ノ里(多久神社)と、竹野郡の舟木ノ里(奈具神社)にとどまり、里のものは、この神たちの徳をしたって神社にまつった>という、七夕伝説をとりあげている。 大路ノ里 田奈畑祭(たなばたのまつり) 「崇神天皇三十九年壬戌秋七月七日、豊賀志飯比売の天降の日をもって祭礼とする。故に後俗(のちの人)二星に誤まる(牽牛星・織姫星)、婦父社真名為神社の所を見るべし(『丹後旧事記』)。」田奈畑祭は、八月六日から七日にかけて・和奈佐の末といい伝えられる大路の三右衛門(安達貞蔵)の家で行なわれている。また、乙女神社の境内は楓の巨木が多く、紅葉の季節ともなると、五色の葉を重ねて、仰ぐ目にもまことに鮮かに見事である。 【吉野神社(同、大路、祭神 大山祇神、火産霊命)】明治二年『御料所旧記』にある「蔵王大権現、祭九月二十八日、鱒留村大路分」とあるのがこの社であって、山祇社に吉野金峰山の蔵王権現を勧請したのであろう。 明治三年(『神社調』) 吉野明神、祭神 不二相分一、宮殿 一尺社、社地 山中に御座候……九丹神社 安達数馬 明治十七年(『府・神社明細帳』) 無格社 吉野神社、祭神 大山祇神、火産霊命、由緒不詳、社殿 一尺五寸五分 四面、上屋 五尺四面、境内 一、四四九坪、官有地第一種……祠掌 兼勤、行待政治……。 明治四十二年四月一日許可、乙女神社に合併。 【八柱神社(同、大路、祭神 豊受大神御伴神】 明治三年(『神社調』) 産神 八柱明神、祭神 五男三女神、二尺八寸社、上家 二間に三間、社地 平地 四間半 明治十七年(『府・神社明細帳』) 無格社 八柱神社、祭神 豊受大神御伴神、由緒不詳、社殿 二間四面、境内 六五坪、民有地第一種……祠掌兼勤、行待政治…。 昭和十七年(『五箇村郷土誌二』) 同上、例祭十月十日、神事 毎年湯立の神事あり、河辺村から巫女が来て行なう(釜の湯を笹に浸し、これをうち振って浄め、豊年を祈る)〉 八幡宮(大成) 『中郡誌稿』 〈八幡神社 (五箇村誌草稿)八幡神社大成にあり創立の由来記大成小倉儀平所持せり (村誌)八幡神社無格社……面積五百四十坪村の南方にあり誉田別命を祭る祭日八月十五日 〉 『峰山郷土志』 〈 【八幡神社(同、大成、祭神 誉田別命)】 明治三年(『神社調』) 八万宮、祭神 大神天王、三尺社、上家 二間に一間半、社地 山中に御座候 間数不相知……九丹神社安達数馬 明治十七年(『府・神社明細帳』) 無格社 八幡神社、祭神 誉田別命、由緒 勧請年月その他不詳。社殿 一間五尺五寸に二間二尺、境内 二三四坪、官有地第一種…祠掌兼勤、藤神社行待政治……。 (頭注付記)一、籠屋 二間半に五間半、右新築の件、明治二十二年四月十六日許可。 昭和十一年(『五箇村郷土誌二』) 同上、建物 二間に三問、草葺、明治四十二年新築、摂社 地蔵、境内 一五〇坪、例祭 旧八月十五日、神事 河辺村の巫女が来て毎年湯立の神事を行なう。 由緒、年月不譁、当地小倉儀右衛門所蔵の由(同誌、八幡神社の項参照=昭和十一年編)。 また、その他として「この土地の木地屋木椀つくりは皆八幡宮を氏神とし、隣りの兵庫県藤ヶ森にも八幡宮があり、また、出雲に大成という処があるが、小倉姓の故郷ではないか」と付記している。 湯立の神楽 新暦九月一日、または二日の二百十日に、河辺の巫女が来て神事を行ない、釜の湯に笹をひたし、それをうちふって豊年を祈願し、村では、強飯をむして参詣者にわけ与え、この年に犢を産んだ家は酒を買ってふるまう習慣がある。湯立とは、昔の探湯の遺風である。 寛文五年の木地挽運上上納の記録があるから、八幡宮を勧譜したのは、寛文十三年頃であったろう(寛文十三年九月二十一日に延宝元年と改元)。当時から木地作りに使用したロクロの棒(二本の中一本)と、最初につくられた木地椀(神具)二個が、小倉富雄宅に保存されている。なお、ロクロ棒一本と鹿皮の矢筒等は、郷土資料として出品したまま紛失してしまったという。 〉 曹洞宗安達山全徳寺 天和2年の丹後国寺社帳に「洞宗 鱒留村 全徳寺」と記される。 『中郡誌稿』 〈善徳寺 (村誌)全徳寺東西二十七間南北二十八間面積三百四十七坪村の東北に有曹洞宗智源寺末派なり僧円山素明禅師開基創建す (実地聞書)円山和尚の学深かりし僧にして円山録五冊の著あり云々もと慶徳院より分れたるものなりと云 〉 『峰山郷土志』 〈【安立山全徳寺(曹洞宗、鱒留、本尊 華厳釈迦如来、木像)】『丹哥府志』には、「安立山善徳寺…」とあり、『村誌』は「同、全徳寺…」、曹洞宗智源寺派末で、僧円山素明禅師によって開基創建されたとある。素明和尚は、永平寺派の中本山智源寺(宮津)の住職で、全徳寺を創建したのは享保四年(一七一九)のことであり、もと、慶徳院(五箇谷一円の寺であった)から分かれたともいう。しかし、慶徳院は享保以前、元禄八年(一六九五)にはすでに臨済宗に転宗していたから、分派したとしてもそれ以前の曹洞宗の頃ではなかったろうか。また、慶徳院は藩命によって転宗したが、全徳寺に隠居していた高僧霊源が、この命に従わなかったともいい伝えられているが、霊源は天明六年(一七八六)三月九日、嵯峨の鹿王院で亡くなっているから、元禄時代は九十年も前のことになる。全徳寺や、新治の十方院が、曹洞宗のまま残ったのは、当時この二村とも御料所すなわち幕料地で、峯山藩の命令が及ばなかったからではなかろうか。昭和二年三月七日の震災被害は軽微で、現在建物は次のようである。… 〉 わらび堂 『峰山郷土志』 〈【比治山地蔵堂(わらべ堂、一名藁火堂、鱒留、本尊 地蔵尊、堂三間に二間)】『五箇村郷土誌』によると、この地蔵は、江戸の八百屋お七の恋人吉左が、仏道に入って、お七の霊を弔うために建立した日本三ヵ所の地蔵の中の一つであるといい、また、ある年のこと、久美浜の代官が通りかかって、この堂で休憩していると、花のような美女がどこからともなく現われ、美味な茶湯をすすめて消え去ったので、里の者に問うたが、誰も「知りません」と答えた。これは必ず地蔵尊の化身であろうと、厚く信仰し、田地を寄進したという。 今も「地蔵田」として、その収穫で、毎年地蔵まつりを行なっている童堂の名は、ここから起ったのである。また、この堂を藁火堂とよんだのは、お堂の藁を松明にして比治山峠を越えると、狼など害獣におそわれる心配がないからであるといい、あるいはまた、お堂の藁を焼いても、おとがめを受けないからだともいわれている。 比治山峠は中郡と熊野郡を結ぶ嶮所で、「送り狼」といって旅人に尾行する狼が住んでいたが、この地蔵堂側の大榎まで来ると、地蔵尊の威厳に恐れて引きかえしたなど、この峠にのこる昔話は多い。新道が開さくされた時、旧道の側にあったお堂は、現在地に移されたが、明治四十三年頃、何か霊験があったというので、急に参詣者が増え、上屋を新築し、老人が交替で堂守をつとめた。久美浜代官が寄進したという田地は、高一石成りで、全徳寺によって管理されていた。 この天和元年(一六八一)の火事の相手の吉左について『丹哥府志』は小姓吉三郎木像の項に、吉三郎は同三年お七が火あぶりの刑に処せられた後、その霊をなぐさめるため、諸国の名勝や、有名な寺々を回わったが、丹後の成相寺に参詣し、ついに髪を剃って名を西運と改め、念仏修行者となって再び江戸へ帰り、毎日托鉢に一生を送ったよしを記している。 地蔵堂二ヵ所、大路二間半に二間、大成同 〉 鱒留城と陣の森 久美浜街道に近い南側の田の中に、樹木の茂った塚があり、陣(いくさ)ノ森とよばれる。天正10年5月、吉原城落城の日、奥吉原口で細川方の沢田仙太郎に首を与えた、一色方大谷刑部左衛門成家討死の地と伝える。 『峰山郷土志』 〈 笠縫団太郎 桝富城主笠縫団太郎は、天正十年九月(一説、五月)長尾城に加勢中、細川興元軍に破られ、城将楠田掃部頭と城を脱したが、途中で楠田とはぐれ、二箇付近まで引きかえして来たとき、比治山を越えて乱入した細川方の松井佐渡守の先手に出会い、桝富、五箇が落城したことを知って、その場で切腹した。しかし、笠縫自刃の場および桝富城の跡は不明である。 〉 鱒留の主な歴史記録
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参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『丹後資料叢書』各巻 『峰山郷土志』 .斉藤喜一様の「丹後の地名」より一部 その他 |