京丹後市峰山町久次(ひさつぎ)![]() 久次岳(咋石嶽541m)の南麓の久次川上流域に位置する。 「丹後国風土記」には奈具社条に見える「比治の里」は当地付近に比定される。また赤坂に鎮座する式内社・咋岡神社(くいおか)は、もと当地に鎮座したと伝えらる。 久次はヒサツギと呼んでいるが、本来はクジと読むと思われる。咋石とか咋とも書かれるが、豊受大神由縁の丹後の大聖地はクシフルと呼ばれていたと思われる。 中世の久次保で、室町期に見える保名。「丹後国田数帳」に、「久次保 九町四段百十二歩 此内二町九段二百七十歩嘉吉三永不 千福院様」と見える。 久次村は、江戸期〜明治22年の村名。はじめ宮津藩領、元和8年からは峰山藩領。明治4年峰山県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年五箇村の大字となる。 久次は、明治22年〜現在の大字名。はじめ五箇村、昭和30年からは峰山町の大字。平成16年から京丹後市の大字。 久次岳(ひさつぎだけ) 二箇郷から見て、左後方の峰が真名井岳、右の峰は来迎山と呼ばれる。 中・竹野・熊野の三郡境にあって、標高541.4メートル。咋石(くいし)岳・真名井山・真名井ヶ岳ともいい、熊野郡側では石(いし)が岳とよぶ。 南東10qあまりのところにある磯砂山とともに、古くより伝説が多く有名な山で、山麓に比治麻奈為神社がある。 「丹後国風土記」逸文の「丹後の国丹波の郡。郡家の西北の隅の方に比治の里あり。此の里の比治山の頂に井あり。其の名を真奈井と云ふ」とあるように比治山にあてる伝承もある。 『丹後旧事記』 〈咋石嶽。此地は往昔与謝郡の内なりしを和銅六年国造の後丹波郡と成る咋村の後の山をいふ、俗に久次嶽といふ。神記に曰く日本紀の伝神社の部に記す此所は宇気持神天降るの地なり山頂に二間四方平面の岩あり昔は此岩を以て神と崇祭りしとかや。岩の面に人の死影あり是宇気持神の身まかりし姿形なりと伝ふ中昔は真言宗にて四十余院の坊官ありて今も寺々の跡鐘楼の跡等あり。〉 〈天正府志に曰く当国丹波郡は與謝、竹野の二郡を割て置し新郡なり今五ケの庄本箇の里に道主将軍の城跡有里民府の岡と云此里に御饌都の神天降る跡とて咋の岡といふ邑あり、又此所の西の山を咋石ケ嶽といふ、今是を久次か村久次ケ嶽と云は非なり咋の仮名也御饌都の神天降るの事日本紀神代の巻に宇気持神死る時の伝あり又崇神天皇の朝に豊宇賀咋の命天降有ける事は風土記元々集に委し延喜式に比治真名為の神社とあり神社啓蒙に比治比沼同事也とあり比治は土形の里の仮名書なり升富村の古名なり此里の西の峠を今に至り比治山峠といふ、〉 〈稲代神社。吉原の里。祭神=稲荷大明神 豊宇気持命。 此神名伝に曰く稲を植るを以て名とす稲倉持命と云も同神なり吉原の里は峯山杉谷安村小西村の四ケ所にて今も此神を氏神とす。 合神 祇園牛頭天王 天正年中長岡玄蕃頭興元の家士清源寺大炊の勧請なり。 日本紀神代の巻宇気持の神之伝。 天照皇太神は高天原にいまして宣く吾てらす豊蘆原の瑞穂国に宇気持神座すを汝月読尊は見よと宣く月読尊は宣明をうけ則行て見るに宇気持神宿り玉ひしかばよろこびて月読尊を祭りの為に山にむかふに毛の和物毛の麁物口より出す又大野が原に向ひしかば甘菜辛菜により出す大海原に向ひしかば鰭の麁物はたの狭物により出す是百疋の机上に奉り月読尊は見玉ひて穢ら敷かなきたなき哉汝が口より出る物を吾にあたふ可く食ふやと宣ひて剣を抜ひてうち廻りて高天原にかへりこと申す天照大神は聞し召して汝は思ひ悪敷神なりけふより逢見じと宣ひて天照大神と月読尊は右の辞けふに至るまでひと日一夜を隔てば昼夜をめぐり玉ふ。此後また天照大神くま人を遣して見せ玉ふ時に宇気持死里し形に五色の物種かひこを生じ出したり熊人取持て則高天原にのぼり天照大神にささぐあまてらす大神は宣明してよき哉と宣ひて人民之を食ふて生べき物なりと宣ひて稲穂を以て田なつ物とし粟稗黍大豆を以て畑つ物として則ち天のむら君を定め長田の及び天の狭田を初め田なつ畑つ五色也。下略。 この天降の地を咋石ケ嶽と云当国第一の名山なり。〉 『峰山旧記』 〈咋石嶽 久次村にあり。久次の村の後の山を俗に久次撤といふ実は奇石嶽なり、此所宇気持神みまかりの所なりとて山頂に二間四方斗りの岩あり、岩の面に人のみまかりし形あり、是宇気持称の死かりし姿形なりとて此岩を神と崇め祭る。扨も奇は奇霊玄妙の義にてくしひ也、斯かる奇しき縁りにて奇石ヶ嶽と云ひくし村と云ふ。爰に咋岡神社あり今赤坂村に移し祭る、奇し今久次と訛り久次村といふ。〉 『中郡誌稿』 〈(五箇村誌草稿)久次ガ嶽 字久次の西にあり高サ磯砂岳の半北海の眺め磯砂にまさる字鱒留のオーベラ(尾平カ)山につぐ久次農夫の草刈にして牛を率て上下す秋はグミの実ふさふさと充ち紅珠を散らすに似たり神代の古跡を伝ふクイガ岡ともいふ(久次の里、クイ岡の里)クイ岡神社を昔祭れり大石(麓)鏡岩(中腹)あり天孫降臨の跡に準ず大石には保食神(マナヰノ神)たふれて死にし神体のあとありしが今転倒して見るべからずといふ麓に不動尊を祀り滝あり樹陰枝を交へ納涼によし峰山町石田家祈りて家を興すと称して毎年奉賽す祭田若干あり祭日陰暦三月二十八日 〉 『峰山郷土志』 〈【久次岳〔五百四十一・四メートル)】久次、『丹後旧事記』 にいう咋石嶽はこの山である。また『丹後風土記』の比治山伝説の地として、磯砂山(足占山)とその本家を争っていることは各所で述べて来た。『同旧事記』によると−この地はもと与謝郡の内であったが、和銅六年、丹波の国のうち五郡を割いて丹後ノ国としたとき、丹波郡となり、咋村(くいむら)の後の山を、一般に久次嶽(くじは咋の仮名がき)といい、宇気持神(注、保食神とも)が天から降った地で、山頂に二間四方の岩があり、昔この岩をもって神とあがめてまつったとかいっているが、岩の表面に人の死形があり、これを宇気持ノ神の死なれた姿であるといい伝えている。中古、真言宗で四十余院の坊官(宿坊、坊院)があり、今も寺々の跡や鐘楼の跡などが数ヵ所にある……と述べている。 神の死形があるという大岩〔高十二尺、縦十八尺、横十三尺)は、登山路の中腹、杉林の中にあり、山腹から転落したもので、死形は岩が転倒したため下面となってみることはできない。この山は、久次農家の草刈場で、山頂まで牛を飼いに上ることもあり、頂は平地で、日本海の眺望がよい。 咋(くい)石(クシ)は奇石で、大きな岩が九個あるから、九石(くしい)の名がもとであるともいわれ、熊野郡では石(いし)が嶽とよんでいる。大石を神としてあがめたものであろう。一般に久次岳(ひさつぎだけ)といい、私どもは子供の頃から真名井山(さん)、あるいは真名井ヵ嶽とおしえられ、親しんで来た。伝説にある八人の天女が水浴したという池、または沼の跡はないが、山腹からふもとにかけて滝や泉など清水に恵まれ、大昔こうした土地から水田耕作がひらかれていったことは容易にうなずかれ、そうした水源を、神から授けられた霊水であると尊敬し保存したのは不思議でない。 問題の「比治山」という名は、こうした一つの山に与えられた名ではなく、久次、磯砂山系全体につけられた総称であるとみる説が多い。しかし、かなりの距離と、平野を隔てて対立する二つの高山を総称して比治山とよんだとするならば、どうも不自然である。『丹後風土紀』の本文に「丹後ノ国丹波ノ郡の郡家の西北の隅に比治の里あり。この里の比治の山の頂に井あり。その名を真井(まない)という。今すでに沼となる」と書き出している。この丹波郡を支配する役所(郡家)の位置は、丹波郷であったというが、丹波郷の区域も広いし、風土記の紀事が、立地的に方角が正確で、あったかどうか断定しかねる。しかし、たとえ、方位や場所に疑問はあっても『風土記』の作者は、必ず一つの山の一つの沼を指摘して、比治山の真井と定めて、この豊宇賀能売命(奈具社神話)の神話を綴ったにちがいないと私は思う(磯砂山の項参照)。 【不動の滝】大岩の下に滝があり、不動尊の石像がまつってある。付近を通る牛が急に立ちすくんで進まないので、占った結果、不動の霊があることがわかり、文化十年(一八一三)この像を安置したといい伝えられている。峰山町の石田某は数代前からこの不動尊を信仰して、富を得たといい、例祭日三月二十八日には、石田をはじめ、里の者も稼業を休んで参詣し、遠近をとわず人が出て大そう賑わうということである。〉 比沼麻奈為神社(ひぬまないじんじゃ) 久次宮谷 祭神・豊受大神。「延喜式」神名帳の丹波郡「比沼麻奈為神社」比沼は比治の書き誤りなのかも不明であるが、本来の地名の意味を考えれば「比治麻奈為」であったろうと思われ、比治に坐す麻奈為神社の意味ではなかろうか。当社は比沼とは書くがヒジと読んでいる。 『峰山旧記』 〈真名井大明神 久次村にあり、祭神真名井大明神豊宇賀能売命、宮守六太夫、神子河辺村相模。延喜式咋岡神社当村にあり、吉原に遷座の跡へ受持の神を祭り真名井大明神といふ。此故に延喜式比沼麻奈爲神社には非ず。 永井日記、寺社帳、指上帳 〉 『峰山郷土志』 〈【比沼麻奈為神社(式内社、久次、宮の谷、祭神豊受大神、瓊々杵命、天児屋根命、大玉命)】『延喜式』にある丹波郡比沼麻奈為神社はこれであるという。 宝暦三年(『峯山明細紀』) 真奈井明神 三尺社、宮守 六太夫、上屋 舞殿共二間に三間、境内 山の高さ 三十二間幅二十六間程、但し境内に祝神の小祠一社御座候。祭礼 九月十五日、河部村神子来り神事相勤め…(追加)享和元年(一八〇一)(六代)京極高久から、真名井明神へ米三俵寄付…この外、七月二十四日、御領分五ヶ村舟岡愛宕祭礼の時、久次村からも祭礼を勤めており、同時に真奈井でも神事を行なっている。 文化七年(『丹後旧事記』) 比治真奈為神社、久次村、祭神 真奈為大明神、豊宇賀能売命 相殿 和奈佐翁、和奈佐女……(同、一書には比沼真奈為神社、咋邑、久次邑、祢宜 森宮守。祭神……〈同前〉とある)。 天保十二年(『丹哥府志』) 比沼麻奈為神社と藤社神社について この、『丹哥府志』の説では、与謝郡の真名井原から、豊受大神を伊勢へお迎えしたのだから、その跡にまつられた真名井神社を『延喜式』に載せないで、丹波郡にある真名井神社を載せたもので、この祭神は豊受大神ではなく、四道将軍丹波道主命の孫の稲別命であるようにうけとれる。しかし、同じ『丹哥府志』の稲代神社の項(前記)でも、吉佐の吉原にいた稲別命をまつったのであろうといっている。同じ神をまつる例は多いが、何かすっきりしないものがある。 また、古い時代の与謝、丹波、竹野三郡の区分は実にあいまいで、「与謝郡比沼山頂に井があり、その名を麻奈井とよび、神のいる処である」などいっている(『神名秘書』)。他にもこうした例はたくさんある。 明治二年『峯山旧記』は「真名井大明神久次村にあり、祭神 真名井大明神 豊宇賀能売命、宮守 六太夫、神子 河辺村相模」と記し、さらに、『延喜式』の咋岡神祉は当村にあったものを吉原(吉原山のこと)に移した跡へ受持の神(宇気持=保食)をまつって、真名井大明神といったのだから、『延喜式』の比沼麻奈為神はこの社ではないと否定している。しかし、鱒留村は峯山領でなかったためか、藤社神社についての項が『峯山旧記』には書かれていない。 『丹波、丹後式内神社取調』これはいろいろな説をそのまま列記している。そのうちの『豊岡県式内神社未定考案記』は、久次村は咋岡神社であるのを、同村の者は真名井神社といい張り、古い棟札を取り調べてみたら、真名井大神宮と記してあったが、もとの文字を消して書きなおしたものであり、比沼真名井は藤社神社にまちがいないであろう−−といい、また、籠神社の大原美能理『丹後国式内神社考(式考)』には−比沼真名井神社は、中古から藤ノ神社とよび、比沼は比治の誤りであり、比治山は三国三郡にまたがり、丹後中での名山で、四つの名をもっており、この山の下の各郡に比治という神社がある。また、フジとヒジは同じ意味であるし、天の真名井は日向の国からこの地に移し、さらに伊勢の外宮に移したもので、真名井のある土地を藤岡、あるいは藤社(こそ)とよんでいる。鱒留村は麻須少女(ますおとめ)村の意味で、斎宮女(神社に奉仕する乙女)の住んでいたことから生まれた地名であるという。また、宮本池臣『丹後但馬神社道志流倍』をみると、『摂津風土記』の、丹波国比遅乃麻奈葦および但馬国出石の比遅神社を例にとり、比沼は比治の誤りであるとし、比治山の下の養蚕の神である藤社大明神が麻奈為神社で、久次村の真名井明神は、久比志ヶ嶽のつづきで峯山の奥に当たり、式内神社としては社地も狭く、型も備えておらず、安産の神であることは不都合である(式内社として都合がよくないという意味)。また、藤ヶ森(出石郡)は比治ヶ森から、藤社(こそ)は比治社から呼び換えられたものである−といっている。 今一度、久次村にあったという『延喜式』内の咋岡神社(現在は赤坂)について 『丹後旧事記』に−咋石嶽は久次村の後の山で、一般は久次嶽とよんでいる。ここは宇気持ノ神が天降られた地で、山頂に二間四面の平かな大岩があり、昔はこの岩を神としてあがめまつった。この岩の表面に人の死んだ形があるが、これは宇気持ノ神の死なれた姿である−というとおり、ここは全く神代の遺跡で、『摂津風土記』に、稲倉山云々とあった事跡である、であるから、この霊石は、古老のいい伝えにある大饗石(高十二尺、縦十八尺、横十三尺余)で、その下に月読命の御手洗の滝があり、その上に大神社(かうさ)(おおかみのもり)という所があり(社は杜か)、右の方に来迎山(こむかいやま)があり、切果谿(きりはたしだに)があって、この霊石のある付近をすべて饗応渓という、こうして、咋岡神社は、この霊石を御神体としてまつったようであるから、奇霊石咋岡(くいしくいおか)神社というわけであろう。それを、大神社(かうさ)という所に少々水が湧き出ているのを、真名井として咋石嶽の別名をマナ井嵩とも呼び、伊勢外宮の本社といっているのはいつわりである−と。 大正十三年、『中郡誌稿』は、久次村説の一番重要な資料として、田中頼庸の文をあげている。明治以降の社伝の多くは、これによってつづられている。その説によると−沼は治の誤りではない。久次村は奇霊(くしひ)のクシをとり、諸国部内の郡里の名は、二字を並用し、必ず嘉名を取れという当時の『民部式』の指図どおり、久次の縁起のよい二字を選んで、その字音にあてはめた。それが後になって、ヒサツギと訓よみにされたのである。ところが、神社名は奇霊(くしひ)を三字の字音を用いて久次比(くしひ)とし、久次比真名井のその比をとって、比真名井(ひのまない)とし、さらに、真名井の音を仮名で麻奈為と書き、比と麻奈為を接続するノを沼に書いただけで、他にたいした意味はない−といっている。ノをヌと発音したのは古代の特徴である。 その他残存している地名の大宮屋敷、宮谷川、異井谷(こといだに)、裾垣(ぞぞがき)(雑垣)、下垣(しもがき)(下墻)、御屋敷(御師屋敷)、穂井段(ほいのだん)、あるいは豊受大神が山、里、海の珍味を山盛りにして、月読命をもてなされたという応石(おういし)、苗代水(清水戸)、月形田(月の輪、三日月田とも)、通川(とにがわ)について、それぞれ考証を行ない、さらに新治村(新沼村とも)の西の入口に麻奈為の一の鳥居があり(鳥居地)、通川の岸にそって下たって来た神輿は、この一の鳥居をくぐって、遠く下菅の久津方の森へ御旅をしたことを述べ、数百年を経た後陽成天皇御震筆という「比沼真名井原豊受皇大神宮」の古額などの例をあげて説明し、 神楽童謡「戌亥の隅な井や、水又居呑み弥居呑みは並びて狭庭なる」 これは『丹後風土記』にいう郡家(郡を治める役所)の西北の隅に比沼の里があって、その地に真名井があることを証拠立てるものである−という意味のことを述べている。 神楽童謡の意味は「麗水を呑みに集まる者が大勢並んで狭いようだ」ということで、弥(いや)はうたう時の掛声であるという。 神社の境内に立つ、栗田寛撰文「頌徳碑」(明治三十三年)は、五穀、養蚕、織物の神である豊受大神の徳をたたえたもので、崇神天皇御世三十九年に、豊受大神が現身(人間の姿)のままで丹波ノ国奇霊の里、比沼麻奈為神社に鎮座されていたことは明らかで、その大宮は久次村の真名井嶽の下の大宮屋敷にあったが、兵乱の際、ずっと奥の今の社地に移されたことがきざまれている。 大八州雑誌『飯田武郷紀行文』(明治三十年頃)が、「大日本地名辞書』中、咋岡神社の項に用いられている。すなわち−久次に比沼真名井原宮があり、五穀の神として、今も神殿の下の土の中から、米の形の土(土の米)が湧き出るが、ときどき沢山湧き出て、高くもりあがり、里の人は神様が喜んでおられるのだと、非常に尊敬している。ところが、近所の鱒留の藤社大明神が、『延喜式』にある真名井神社であると、明治維新の頃官へも申し出……とんでもない書物などつくって人にすすめ−などと藤社説を否定し、比治山は咋石嶽といい、足卜山は伊去奈子ノ嶽とも、真名井嶽ともいうが、足卜山と比治山とは方角は少しちがうが、山脈が同じであるところから、どちらも真名井ノ嶽といったもので、今では知ることができないし、どちらの山に豊受大神が天降られたか定めがたい−といい、さらに、道ばたの大石を、天神をおもてなしした机だとか、豊受大神が死なれた形が残っているとか、さまざまの怪しいことをいい伝えて−と、つけ加えている。 『五箇村郷土誌二』(昭和十一年)は、雄略天皇二十二年、大佐々命が勅命によって、豊受大神を伊勢の山田原にお遷ししたとき、御分霊をとどめてまつったのであるといっている。神殿十一・五坪(文政九年築造)、上屋十五.三三坪(大正十年改築)、拝殿七坪(同)、社務所二十七・五七七坪(昭和三年改築)。 〔境内神社〕稲荷神社、祭神倉稲魂命。佐田神社、祭神 猿田彦命 〔末社〕秋葉神社 火産霊命、竃土神社 奥津彦命 奥津姫命、山祇神社 大山祇命 村社で、守護安産の神であり、社殿の床下から出る米粒のようなものを「ドシャ」といって、産婦に呑ませる。 境内千六百三十一坪官有地、四百九十六坪民有地… 〔昭和二年三月七日震災による被害〕社務所四間に十間、全壊。 〉 神所段(しんしょだん・じんじょだん) 苗代集落に近い久次村地内に神所段という所がある、付近に神主(かじ)やしき・お灯明田の地名が残る。現在赤坂に鎮座する咋岡神社の旧社地であるとか、真名井大明神の故地であるとか伝える。 『峰山郷土志』 〈【神所段(じんじょだん・久次)】苗代部落に近く神所段という所があり、その付近に「神主(かじ)やしき」、「お燈明田(とうみょうだ)」の地名が残っている。『大日本地名辞書』によると、赤坂の咋岡神社(祭神豊受大神)は、古代は比治山のふもとである神所段というところの山にあったが、天正年中に峰山の山祇山(やまずみやま)に移し、元和年中、今の赤坂村に移し、京極氏の氏神と崇め−とある。また、古老の語るところでは、神所段は真名井大明神の故地で、雄略天皇は二十二年の七月七日(四七九)勅使大佐々に命じて、豊受大神の神霊をこの地から伊勢の度会にお迎えして(九月に伊勢着)外宮としてまつられたが、その跡に分霊をとどめておかれたのを、後、咋岡神社跡(久次部落の西北裏山の中腹)の上に移し(一説、大宮屋敷)、さらに、現在の社地に移したという。 咋岡と真名井の関係は全く複雑であるが、祭神が豊受大神(一名豊宇賀能売命)であるこは変わらない。) 〉 古当屋敷(ふるとうやしき)(古当屋敷の民話があります。最初のページのおじいさんが語る天女伝説を参考ください) 苗代から久次への中程に「古当屋敷」があり、久次神社再建棟札に延徳2年「古当長門守」とあり、古当氏の邸跡と思われるという。 『峰山郷土志』 〈 【古当屋敷(ふるとうやしき)(久次)】苗代から久次に通じる山下の道の中程、西北の小谷がそれで、谷の奥は畠になっている。『五箇村郷土誌』によると−ここは古当氏の宅趾といわれ、久次神社再建棟札に、延徳二年(一四九〇)、願主神主古当長門守とあり、天正年間、長門守は一色の残党で、織田信長にほろぼされ、神領を奪われ、一色の部将である飯田越前守は、神社の破却を恐れて峯山にまつり、後、京極家がこの処に館を造ることとなって、再び赤坂に移して、篠箸(しのはし)大明神とよんだという。古当氏は代々「長門守」と称して久次に住んでいたものであろうか。墓は一軒屋の丸山にあるといっている。 また『五箇村誌』に古当氏の全盛時代は、家のイラカと、山一つ隔てた西光寺のイラカと、互いに高きを競ったといい、かつて、田植のとき、日が暮れて植えつけが終わらなかったので、その妻が、杓子をもって太陽を招いたところ、太陽はたちまち三間余り引きかえし、田植は無事に終わったが、それから家運が次第に衰えたという−とある。この古当の田植は「村中田植(むらちゅうたうえ)」と呼んで、村の者総出で田植を行なったもので、たまたま、狐が馬に乗って通るのを見ている間に、太陽が西へ傾いてしまったといい伝えている。 古当長門守が一色の残党で、信長に討伐され……という点は、飯田越前守の昨岡神社峯山移祭とは時間的に食いちがいがあるようだが、この点は一色時代で述べたはずであるから省略する。なお、西光寺の甍と高さを競ったのは、古当の物見櫓やあったともいうが、山一つ隔てたという西光寺の場所がどうも納得しがたい。この伝説は、古当の勢力を表現した例であろうし、一方久次には、そうした大ぎな寺々が存在していたことにもなる。南明寺、ごとく寺(コートク寺とも)などの名が残っているのもその一つである。 〉 鎮守比沼麻奈為神社付近の丘陵地に中世の城跡がある。 『中郡誌槁』 <久次城跡 (実地調査)麻奈為神社の前右方の丘陵に城趾あり四五段に切り下げ山続きとは切通しを作りて断ち切り頂上は広から子ども垣かなり裏手なる二段目は最広し但し山も高からず要害も左までとは思はれず南の方少し離れて馬掛場と唱ふる所二ケ所あり 〉 久次の主な歴史記録
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『丹後資料叢書』各巻 『峰山郷土志』 斉藤喜一様の「丹後の地名」より一部 その他たくさん 文中の「」は文献・<>は文献より抽出する 下記の記述は engishiki.org/tango/bun/tag390308-01.html 阜嵐健氏のHPより抜粋(参考) 久次咋石嶽の頂上(一説に麓)にあったものだといわれている。咋石嶽は現在久次岳と呼ばれているが、真名井嶽ともいい、宇気持神(保食神)の天降地で山頂に2間四方の岩を神として祀っていたと言われている。久次の咋石嶽の山中にあったと伝えられる。応仁期に吉原(現在の峯山)城主一色義遠の家臣飯田越前が、久次の咋石嶽から勸請して、吉原城鎭護の神として大手口の馬場前に祭り、一色氏についで丹後を領有した細川氏も産土神として祭った。京極氏の入国により社と付近の家が、元和8年(1622)10月赤坂村に移されたが、領主、藩士の氏神として信奉されたと記されている。 【神所段(じんじょだん・久次)】 苗代と久次の間に神所段という所があり、その付近に「神主(かじ)やしき」、「お燈明田(とうみょうだ)」の地名が残っている。だが、今の住民に聞いても知っているひとはいない。昔の伝説が残っている土地でもある。 『大日本地名辞書』によると、赤坂の咋岡神社(祭神豊受大神)は、古代は比治山のふもとである神所段というところの山にあったが、天正年中に峰山の山祇山(やまずみやま)に移し、元和年中、今の赤坂村に移し、京極氏の氏神と崇め、とある。また、古老の語るところでは、神所段は真名井大明神の故地で、雄略天皇は22年の7月7日(479)勅使大佐々に命じて、豊受大神の神霊をこの地から伊勢の度会にお迎えして(9月に伊勢着)外宮としてまつられたが、その跡に分霊をとどめておかれたのを、後、咋岡神社跡(久次部落の西北裏山の中腹)の上に移し(一説には大宮屋敷)、さらに、現在の社地に移したという。 |