堕天使 〜Prinzipal der Finsternis〜

第31話 獣、目覚める時


「死んだ子どもの歳を数えても、意味が無いのになぁ。終わった事件を掘り起こしても、徒労というのがわからんのかな」
「虚勢張ってもだめよ。あの二人に結構揺さぶられてたじゃないの、文成君。声の強張りがこっちにまで伝わってきたわ」
 ウェイトレスの緒方美雪はそう言って微笑み、テーブルの料理を片付けていった。
「まったくだね。黙って聴いていたけど、ハラハラしたね」
 そんなことを言って文成の対面に座ってきたのは、先ほどまでイヤホンを耳につけて音楽を聴いていたはずの青年だった。ニヤニヤしながら文成を見つめる。
「盗聴とは趣味が悪いね、浪人生。家帰って勉強しろよ」
 文成は毒づいて特製の野菜ジュースを飲み干した。
「俺は浪人じゃない。大学院生だ」
 大学院生だと名乗る青年はやや激して答えた。おとなしそうな男かと思ったら、案外感情的になりやすい性格のようだ。
「似たようなもんじゃないか。就職しなけりゃ、浪人扱いだろう」
「好きで就職しないわけじゃない。全ては組織のためだ。それくらい知ってるだろう、文成君」
「わかってるよ、内田さん。組織の利害に関わると思ったから、今の会話を録音してくれたんだろ」
 そう言いながら文成は右手で頬杖をついた。手のひらで頬を押し上げて、目を瞑る。“美少女”のような美少年は、なぜか珍妙な表情を作るのがうまい。
「それにしても、さっき話に出てきたあの事件、文成君が揉み消したはずだろう。日本政府を脅し挙げて」
 内田と言う大学院生が再び口を開いた。
「オレが全てやったように言うなよ。脅しあげたのは組織のトップで、実際に揉み消したのは国家公安委員会や警察庁が愛知県警に圧力かけたからだろう。ま、他にも揉み消した事件があったらしいけど」
「でも、あの極秘ファイルを盗み出したのは文成君よね。そうでなければ、政府もちびりあがるはず無いわよ」
 美雪が少々下品な言い回しで、返してくる。
 実際はファイルを盗んだのではなく、たまたま手に入れただけなのだが、あえて文成は真実を言わなかった。このことを他に知るのは、今は草薙雪彦だけでいい。
「まあね。だからオレは今こうしていられるのだが、納得できない奴がいるんだなぁ。どうにかして、真実を知りたいのだろうね」
「そんな暢気な事を言っていられるのかね、文成君。今の刑事、なかなか優秀だぞ」
 美雪と入れ代わるように、今度は白シャツに黒のベストを着た長身の男性が口を挟んできた。文成は頬杖を付いたまま見上げた。いつ見てもこの男は大きい。
「そんなに緊急事態だとは思えませんが、マスター」
「あのヴェテラン刑事もさる者だが、若い方もやりおる。暴力団や右翼団体が壊滅した件から攻めてくるとはな」
 マスターはわざわざ他のテーブルから椅子を持ってきて、文成と内田それぞれの斜め向かいに座った。文成と内田、そしてマスターの三人で二等辺三角形を作る形だ。
「今やっと思い出しましたけど、あの髪の薄い刑事、どっかで聞いた声だと思ったら、平泉成にそっくりですね。ヴェテラン俳優の。よく刑事ドラマに出てきますけど、あの声そっくりですよ」
 文成がふざけた感じで喋るが、声に不快感がまだ残っているのが読み取れる。
「最後にいやらしいこと言ったね。“ボーイ・テロリスト”なんていうのもいるかも知れん、と。圧力の掛け方もそっくりだね」
 長身のマスターが腕を組みながら答える。
「さっきマスターが言ってたけど、あの桑名とかいった刑事は油断できないねぇ。あの事件は確か、組織抗争で殺されたとして片付けられたはずだったのに」
 内田が視線を落として唸るように言った。
「それにしてはおかしいと思ったんだろうなぁ。あの刑事は言わなかったけど、背中の打撲痕なんかも見つけたのかもしれない。オレ、あいつを投げ飛ばしたからね」
 ようやく文成は頬杖を解いて、姿勢を正した。
 ほどなく、美雪がコーヒーを持って戻ってきた。
「はい、お待たせ。みんなのお気に入りのコーヒーを入れてきたわ」
 まさに愛嬌大盤振る舞いと言った感じで美雪はコーヒーを並べていった。内田にはグアテマラ、マスターにはモカ・マタリのブラック、そして文成の前にはカフェラテのように泡立ったコーヒーが置かれた。
「ん? 文成君、それはカフェラテ?」
 実際、内田も同じように思ったようだ。
「これ? ソイラテ。ミルクではなくてソイミルク、豆乳を入れてもらってるんだ。メープルシロップは入ってるよね」
 文成はスプーンでかき混ぜながら美雪に確認した。
「えぇ、もちろん。エミコット社のNo.1ライト・グレード、透明度70%よ」
 美雪が少し誇らしげに答えたので、文成は思わず笑みをこぼした。
「文成君は確か紅茶派ではなかったかい? お父さんが紅茶好きだったし、こないだ支局長から、紅茶にメープルシロップを入れることを教えてもらったとも聞いたが」
 マスターがモカ・マタリを一口味わいながら疑問を呈した。
「最近のお気に入りなんですよ。牛乳は躯に悪いし、ブラックだと胃が荒れるし。メープルシロップだけじゃ物足りないなんて愚痴ったら、美雪さんが作ってくれましてね。すごく美味しいですよ」
「ミルクは人間の母乳の7倍ものリンが入っていて、それがカルシウムを損なうから骨粗鬆症の原因になる。そうだったわね」
「そう。血中のリン濃度が高くなると相対的にカルシウム濃度が低くなり、それを埋め合わせるために骨を溶かしてカルシウムを作って血液に送り込む。だからアメリカでは子どもに牛乳を飲ませないと、親父が教えてくれたよ」
 言ってから文成はカップを持ってソイラテを啜った。
「うん、絶妙だね。コーヒーと豆乳とメープルシロップのバランスが非常に良い。気持ちが落ち着くよ」
 文成は美雪に笑顔を見せた。心から安堵したと言わんばかりの柔らかく暖かみのある笑顔だ。そんな少年に美雪の心は完全に蕩けきっている。
「うふふ。ありがとう。隠し味に岩塩を入れているのがポイントよ。これで味がぐっと引き締まるの。甘いだけが味覚じゃないから」
「え、岩塩が入ってるの? それは驚いた。コーヒーに岩塩を入れるなんて、今まで誰もやったことが無いんじゃないのか?」
「お汁粉やぜんざいを作る時に、塩を入れるでしょ。あれと同じ要領よ。でも、普通の食塩じゃダメね。グルタミン酸ナトリウムなんて、わけのわかんない添加物が入ってるでしょ。味がものすごく貧相になるのよ。その点、岩塩はカルシウムにマグネシウムが入ってるから、味がしっかりするのよ」
「カルシウムやマグネシウムが入ってるなら、沖縄の海水塩に良いのがあったんじゃないの? 宮古島の……」
「あれね。あれは、ギネスブックに載るくらいミネラルが入ってたけど、ちょっとねぇ……。すぎた●●るは、及ばざるが如し、よ」
 その瞬間、対面に座っていた内田は美雪の何気ないギャグに、一度飲んだコーヒーを逆流させ、鼻から噴き出した。噎せながらナプキンを鼻に当てて、涙目になっている。
「細かいギャグを入れるな! 内田さん、思わず鼻からコーヒーを噴き出したじゃないか!」
 思わず文成は、相手が年上にもかかわらず突っ込んだ。
「気がついたら、文成君に躯を寄せているね」
 今度はマスターが口を挟んだ。いつの間にやら、美雪は文成の隣に座ってしな垂れかかっている。
「良いじゃないですか、マスター。文成君の匂い、最高ですから。こんなにすっきりとさわやかで、それでいて濃厚な匂いは無いですよ。男が出せない匂いね」
 そういって文成の右腕をつかんで、見せつけるようにもたれ掛かる。
「自分じゃ良くわからないんだけどね。ま、死んだ動物の肉を食ったりしないから、そういった嫌な臭いは出ないと思うよ」
「そんなことを言っている余裕は無いと思うのだがね、文成君。奴らをどうするつもりなんだ?」
 マスターが張りのある声で喚起を促し、モカ・マタリを口に含んだ。
「どうするも何も。あの二人が真相を知ったとしても、どうすることもできないでしょう。上から圧力が掛かって、動けなくなるのがオチですよ。下手に近づこうとすれば、それだけ日本政府に迷惑が掛かるだけだから」
「そうも言ってられないぞ、文成君。君を捕まえる容疑はなんだって良い。それこそ、道交法違反とか言って逮捕されることもありえるんだ。だいたい君は、250ccのバイクを隠し持っているんだ。それを乗り回しているところを見つけられたら、別件逮捕で拘束されるんだぞ。せっかく入った高校も退学処分を食らうんだ」
 すでにグアテマラを飲みきった内田が高まる感情を抑えこむように、ゆっくりと噛み締めるように忠告した。
「確かに、変なところで捕まって、これからの計画に支障をきたすような事は、避けなきゃならんな。さてさて、それをどうするか、か」
 少年の声音と口調を聞くと落ち着いているように見えるが、表情は苦りきっていた。彼自身、手強い刑事たちだと実感しているのだ。またも、下唇を突き出して前髪に向けて思いっきり息を吹きつける。
「文成君。あの刑事たちも気になるが、まずは、例の仕事を片付けないとならん。期日は遅くとも八月いっぱいだ。それが出来なければ、わかっているな」
 モカ・マタリを飲み干したマスターが、両腕と両足を組んで、冷徹に言った。
「それを、あの二人に感づかれたくないんだけど。うまくやるか。それにしても、どんな形であれ、潰せば良いんだろ? 再起不能にすることが目的だったよね?」
 文成の声は無邪気だが、言っていることは恐ろしい。
「ずいぶん事も無げに言うが、きちんと対策を立てているのか?」
 マスターが眉間を左中指でさすりながら尋ねると、
「全然」
 と、美少年はあっけらかんと答えた。
「君、自分の置かれている状況がわかっているのか!?」
 大学院生が咎めるように言った。
「いくつかシミュレーションはしたよ。直接攻め込むとか。あるいは、輸送車を襲撃するとか。だけど、どうにも有効的とは思えないんだ。誰かを調略して、手形を切らせまくろうとも思ったけど、それにしては、預金高がねぇ……。実効性が薄い」
「じゃ、得意のハッキングをすれば良いじゃない。サーバとか破壊して、機能不全にすれば」
 美雪があっさりした言い方で意見を述べた。
「そんな簡単にいくなら、ネットワークというネットワークが何もかも崩壊してるよ、とっくに。実際、不正アクセスして仕掛けてるけど、さすがに堅いよ。セリカの金が関わってるだけあって」
 そういって、文成は身を投げ出すように躯をもたれさせた。本当にアイディアが無いようだ。
「お手上げかね、文成君」
 脚を組み替えて口髭をいじるマスターがおもむろに言った。先ほどから、微妙に動きが忙しなくなっている。
「誰が? ここで諦められるか。オレは世界一諦めが悪い男なんだ。他の誰もが終わりと言っても、オレが終わりと思わない限り終わりにしないんだ。それに、去勢されて食うことしか能の無い家畜と、家畜を食い物にして肥太っている奴らを絶望の底に叩き落すのが大好きなんでね。大体……」
 ここで一旦切ると、文成は急に声を落として言った。
「セックスするより、人間ぶっ殺す方が快感を得やすいんだ、オレは」
 不気味な微笑を見せながら言い切る“美少女”に、しな垂れていた美雪はすぐさま身を離して引き下がった。“美少女”の口元は吊り上って微笑を形作っているものの、その瞳は恐ろしいほど黒く燃え盛っていた。黒く燃え盛る瞳なんて、初めて見る。
「怖い。というか、気味が悪いわ、文成君。人殺しをする方が快感を得られるなんて。ひょっとして、快楽殺人者?」
 愛くるしい瞳を震わせて、美雪は恐々と言った。
「ピストル使った時に、精通したんで。それ以来、病みつきになったんだ」
 文成は口角をさらに吊り上げ、白い歯を見せて、禍々しい笑みを形作った。店内の空気が凍りつき、このまま凍死しそうな感覚に襲われる。
 誰もが停止したその時、凍り付かせた張本人が、静かに、そしてだんだんと声を上げて笑い出した。ついには。
「本気にするなよ、美雪さん。セックスと殺人は別物だ。男と女が完全に融合する事に、セックスの神髄がある。破滅と創生、それを分かち合えるから、特別なんだ。殺人はあくまで究極の目的を果たすための手段だ。破壊以外の何物でもない。射精感覚は味わえても、融合感は一切ないよ」
 いつもの事ながら、この美少年のジョークは笑えないものだ。聴いていたものすべてが、異口同音に大きくため息をついた。
「いっぱしのことを言うねぇ……。まるでそれだけの経験をしてきたといわんばかりじゃないか。そこまで言い切るだけの事をしてくれた相手は……」
 脱力した声で内田がからかいながら探ろうとすると、
「秦一(しんいち)くん。それ以上詮索するのは野暮だ。言わぬが若乃花だ」
 と、マスターがスパイスを加えてたしなめた。案外ユーモアのある人間だ。
「若乃花ですか。マスターなら、ハナ肇というと思ったんですけど」
 文成が意味不明の突っ込みを入れた。
「別にいいだろう。私は若乃花が好きだったのでね。若乃花といっても、初代だよ。さぁ、今日はもうこれで終いだ。二人とも、とっとと帰ってくれ。片づけを手伝うなら、歓迎するが」
 マスターは文成と内田秦一に言ったあと、立ち上がってカウンターへ引き下がった。
「じゃ、帰りますか。一応、院生だから課題を仕上げないと、大変だからな。文成君はどうする? 片づけてから帰るのか?」
「どうしよう。まぁ、片づけ手伝ってもいいんだけど、眠たくてしょうがないや。オレも帰るわ。マスター、いくらだっけ?」
「えぇと、合計で800円」
「ちょっと待て。オレは野菜ジュースしか頼んでないぞ?」
「ソイラテが500円。ま、ケチケチするな、トップ・プロスペクトなんだから」
 マスターの返しに、思わず文成は怒鳴った。
「汚ねぇ! サーヴィスじゃなかったのかよ!?」
「誰もそんなことは言っていない」
 ほとんど感情の無い声でマスターは答えた。
「人間じゃないねぇ……」
 そう言う文成も気持ちが籠もっていない。
「ま、片づけを手伝ってくれるなら、ソイラテの分はまけておくが」
「結構。払って帰るよ」
 不承不承ながら、文成は代金を支払い、あくびをしながら扉に向かった。
「待ってくれない、文成君。今日は一緒に帰ろう」
 不意に美雪が呼びかけた。
「一緒に、って、帰る方向がぜんぜん違うでしょ?」
 美少年の声がかなり気だるくなっていた。
「今夜は君の家に泊まるのよ。いいわよね」
 そう言って、美雪はウィンクしてみせると、軽やかにカウンターの奥へと向かった。
 文成は、完全に癖になった、下唇を突き出して前髪に向けて思いっきり息を吹きつける仕草をして、なんとも言えぬ複雑な表情を作った。少しは周りの様子を見てほしいよ。
「どう思います、内田さん? 美雪さん、ちょっとあからさま過ぎますよねぇ」
 文成が複雑な貌のまま、秦一に話を振った。
「おれに訊くなよ。まったく、美雪さん、年下は趣味じゃなかったのになぁ。あぁ、君は別格だ。君のようにこの世のものではない美しさを備えた存在なら、年上年下関係ない。誰もが君に惹きつけられる。美雪さんも例外じゃないんだろう」
 秦一の口調は、半ば投げやりにも思えた。
「変に饒舌だなぁ。一日に二行喋れば良いくらい、普段は喋らないのに。ひょっとして、嫉妬?」
 すっかり眠たそうな目を向けて、文成はからかう。
「せめて賞賛と言ってくれ。あからさまに嫉妬と言われちゃ、返す言葉も無い」
 秦一はため息をついた。図星であることを認めたようだ。
「じゃ、おれは先に帰るからな。文成君、さっきの二人には気をつけろよ」
 大学院生は物憂げに出て行こうとした。その背中に向かって文成が声を掛けた。
「気をつける相手が多すぎるよ、オレには。半分受け持ってくれよ」
 すると、秦一は振り向かず、そのまま文成に言い返した。
「お断りだ。今、世界の半分を敵にしている奴の半分を受け持つなんて」

 深夜2時。閑静な住宅街。世間の連中が眠りながら、バカげた夢を見る頃、冷気漂う無機質な空間で、文成はじっと立っていた。肩幅と同じ間隔で両脚を広げ、モーゼルHScを25m先の標的に向けていた。ヴォルテージとコマンドが一致したと見るや、トリガーを引き絞った。乾いた音声を発して噴き出たブレットは、文成の計算どおりの軌道を描いて、ど真ん中に命中した。これで9発目だが、多少のずれを除けば、すべて中心に集まっている。
 次に文成は、ウィンチェスター・M94を手に取り、伏射しようと床に膝をつけた。
 その瞬間、九時方向にある扉に気配を感じ、ライフルをおろしてワルサーP.P.Kを取り、すばやく弾薬を装填して、音も無く扉に近づいた。扉の近くに背をつけて、様子をうかがう。
 4拍置いて、一気に扉を開け、拳銃を構えると目の前には、自分と同じように拳銃を構えた女が、何の感情も表に出さずに立っていた。
 貌を合わせて約2秒後、どちらからともなく、表情が崩れ、小さく笑い声を漏らした。
「いいわね。いついかなる時も、相手が誰であっても緊張感を保って、事に当たるその気持ちが」
 濃紺のコマンドスーツに身を包んだその女性は、微笑みながらもまだ25口径ピストルを文成の胸に突きつけていた。
「今度は、GUNを使って一戦交えたいのですか、美雪さん?」
 “ボーイ・テロリスト”は揶揄するように、フッと笑って言った。
「まさか。あなたに殺されたいと思っても、あなたを殺したくは無いわ。単に、腕を磨いていたいだけよ」
 美雪はそう言って、銃をおろした。
 今、ふたりがいるのは、文成のアジトの真下にある、地下射撃場である。文成の寝室のクローゼットの床から降りるようになっているのだ。らせん階段を地下10m降りたところに、この射場があり、防音加工も相まって、射撃音が地上の人間にまったく聞こえないが、中は氷室並みに冷えている。
 射場の横幅は約12m。標的が複数置かれ、最も遠いのが、今、文成が撃っていた25mだが、最も近いのだと5mである。
 右端には、大量の銃器が飾られていた。コルト、スミス&ウェッソン、ファブリック・ナショナル(FN)、ヘッケラー&コック(H&K)、ワルサー、モーゼル、スイス・アームズ(旧:シグ)、ベレッタ。世界の主要銃器メイカーの逸品が数多く並んでいる。最も売れたアサルト・ライフル、AKシリーズで有名なイジェマッシも大きな顔をして座っている。しかし、最も多いのは、H&Kに代表されるドイツ製だ。テトラーク島にいたときからそうだったが、なぜか支給されているのはH&Kとワルサーである。養成所にいたときに使用したアサルト・ライフル、L85A1も今ではヘッケラー&コックUKが製造している。
 美雪は銃をおろして緊張を解き、射場に入っていった。そして、ちょうど真ん中に立ち、10m先にある標的に狙いをつけた。ありきたりだが、ぴんと張り詰めた空気が時間を停止させていた。
 ついさきほどまで、文成相手に乱れきった姿態を晒していた時とは打って変わって、表情は冷たく、醒めきっていた。そこには、美少年と同じ空気を纏った、麗しき処刑人がいた。
 数拍の間があった後、感情の無い音声を発して飛び出した銃弾は、ぶれる事無く中心を貫通した。それを確認するや、美雪は.25ACPのHK4をまるで、フルオート・ピストルのごとく、連射した。放たれたブレットは、2,3発やや上に集まったが、概ね中心を射抜いていた。
「今の表情を、さっきの二人に見せたいねぇ。喫茶店のウェイトレスが冷徹なハンターだと知った時、どんな貌をするか、想像するだけでも興味深い」
 文成は妙に朗らかに言った。
「思ったんだけど、15m射程の標的の奥にあるバック・ストップ、所々、中の土が漏れ出てるわよ。早いうちに修理しなさい。後回しにすると、大変よ」
 美雪は文成のからかいにも心動かさずに、冷やかに答えた。ゆっくりと両腕を下ろして、細く長く息を吐く。
 バック・ストップ(安土)は麻袋に土を入れて3mの高さで二列に積み上げられているが、美雪の言うとおり、15m射程の標的の向こうにある弾止めは、数多くの銃弾を浴びて袋が破れ、中の土がこぼれている。二列に積んでいるとはいえ、いずれ壁面を穿つだろう。
「あぁ、あとで修理するよ。今すぐ行ったら、着いた途端に撃ち殺されそうだ」
「そんなこと言ってたら、肝腎のプロジェクトも失敗するわよ。物事を何でも後回しにすると、必ず失敗するものよ」
「確かにそうだけど、前もって準備しようと思っても、どうにも攻略法が見つからない。正直、今回は厳しいねぇ……」
「あぁでもない、こうでもないと言っている暇があるなら、いろいろとやってみたらどうなの? 案ずるより産むが易し、というじゃない?」
「費用対効果が悪いね。最初、静かに蝕んでいって、最後に一気に攻め落とす。オレとしてはそんな風にやりたいね」
「都合よく言うわねぇ。そんなに都合よく行くなら、あたしでもできるわよ」
「じゃ、やってくれる?」
「い〜や。手伝えといわれたら手伝うけど、全部やってくれというなら、お断りよ」
「参ったねぇ……。どうにもこうにも……、うん?」
 嘆息交じりにつぶやいた直後、文成の瞳が突如輝いた。
「ん? 何かいいことあったの?」
 急に輝きを持った“美少女”の目をみとめて、美雪は尋ねた。
「そうか……。蝕むんだ。じわじわと。そうか、そうだ」
 徐々に興奮で貌全体が紅潮し、全身に気力が満ちてきている。それは同時に、内なる狂獣が目覚めようとしている徴(しるし)でもあった。
「美雪さん。良いアイディアが浮かんだよ。そうだよ、じわじわと苦しめれば良いんだよ」
「あのね、自分ひとりだけで納得しないでほしいわ。何が良いアイディアなのか、教えて頂戴」
 不可解と苛立ちを混ぜたような貌で、美雪は問い質した。
「なにも、清名銀行という本丸を直接攻めなくてもいいんだよ。周りの支城から潰していけばいいのさ。周りからじわじわと潰して、向こうが伸びきったところを、一気に壊滅させる。こりゃ、やり方をうまく考えたら、腰が抜けるほど儲かるぞ」
 まるで幼児のごとく声を弾ませて語る少年に、美雪は再び愛欲を掻き立てられた。
「清名銀行を壊滅させるのは、組織の目的だけど、あなた自身の目的は、他にあるんじゃないの?」
 美雪は悪戯っぽく笑って囁くように言った。目がもう潤み始めている。
「ふふっ。そうでなければ、気合入れて銀行叩き潰して抹消しようなんて思わないよ。なにしろ、オレをコールタールの中に突き落として、さんざん苛んだ元凶だからな」
 薄く笑いながら、文成は美雪に近づき、そっと両腕を彼女の腰に回して抱き寄せた。
「ダメよ。こんなところじゃ、寒くて盛り上がらないわ」
 美雪はダメよと言いながらも、色づいた微笑を見せている。
「オレは寒くないよ。むしろ、燃え盛ってるんだ。オレの炎を分けてあげるよ」
 ずいぶん気障な台詞を吐いて、文成は完全に抱きこみ、唇を重ねた。柔らかく甘美な感触が少年の心を貪欲にしていく。舌を絡め、唾液を混ぜあいながら、背中や首筋を愛撫した。
 美雪はだんだんと“美少女”の裡から迸る熱情に身をまかせていき、呻き声をもらしながら、陶酔感に打ち震える。そのうち息苦しくなって、やっとの思いで唇を離した。
「熱すぎるわね。まるで、劫火に焼かれている感じだわ。支局長の言うとおり、加減無く燃やされそう……」
 年上の美女はうなされているかのようにつぶやいた。
「そういう話もしてるんですか? 支局長に」
「情報伝達に粗漏があっては、組織を円滑に運営することなんて、できないとの事よ」
 文成の疑問に美雪はあっさりと答え、再び唇を重ね合わせる。そうしながら、文成の着ているコマンドスーツを脱がせ始めた。すると、競うように文成も美雪の着けているものを脱がせていく。
 すっかり全裸になった二人は、互いの着ていたスーツの上に寝そべった。文成が美雪に覆い被さり、淡いピンクの唇にまた口づける。
「やたらとキスをするのね。ひょっとして、キス魔?」
 美雪がいたずらっぽくも妖しく微笑みながら尋ねた。言われて文成ははにかむように笑い返して答えた。
「うん。美雪さんの唇、色や形がすごくスケベだから。道理でアソコもスケベな色形をしてると思ったよ」
「いやん、もう! 文成君って、そんなにドスケベだったの!?」
「死ぬまで、ドスケベでいるよ。そうしたいから。それより……」
「ん?」
「美雪さんだって、ドスケベじゃないか。さっき、あれだけオレの躯を舐めまくっておいて。しかも、匂いをかぎながら。これじゃ、ド変態だ」
 今度は少年が年上の美女を嬲った。途端に7歳上の女性は貌を紅くする。
「うぅ……、文成君が悪いのよ。男なのにそんな、女よりもすごくいい匂いをさせるから」
 羞恥と興奮に身悶えながら、美雪はなじるように言った。
「よく花の匂いだ、果実の匂いだと言われるけど、そんなに貪りたいものかな? 全然実感が無いけど」
 文成はため息混じりに言った。どうにも自分の匂いが女性にそれほどまでに影響を及ぼすというのが良くわからない。
「嗅いでいて頭がクラクラするわ。いい匂いだけじゃなくて、すごく気持ちいいの。まるで麻薬みたい……、ううん、麻薬そのものよ、君は。それも最高の。一度嗅いだら最後、二度と止められないわ」
 喘ぎながらも自分の快感を伝えようとするその貌は、もう少しで絶頂に至りそうな雰囲気だ。
「最高の麻薬と言うところからして、かなり危ないね。いったん、昇り詰める?」
「いや。一緒にいって。繋がったままいきたい……」
 美雪がねだるので、文成は微かに笑って、己の7インチ銃を挿し入れた。そして、麗しき乳房を揉みしだき、唇と同じくらい淡いピンクの乳首を吸いたてながら、融合しつづけた……。

 数日後、ゴールデンウィーク明け直後の朝のこと。春日井署刑事課にある自分の机の前で、松原俊哉(としや)刑事はタバコを咥えながら朝刊の社会面を読んでいた。一見、無表情だが、目は鋭く厳しかった。
「おはようございます、松原さん」
 おっとり刀で桑名孝行(たかゆき)刑事がスーツの上着を脱ぎながら先輩刑事に挨拶した。スーツをハンガーにかけると、松原が読んでいた朝刊を覗き込んで話しかけてきた。
「ひさびさに起こりましたねぇ……」
「おいおい。そんな感慨深げにしみじみと言うんじゃないよ。人が死んだんだ。大変なことなんだぞ」
 松原はいつものように味のあるかすれ声で後輩をたしなめた。
「すいません。ただ、手口は違ってますが、明らかに同一犯ですよね」
「それはまだわからん。確たる証拠も無いのに、決め付けるとあとで痛い目に遭う。それに、記事に書いてる通り、事故かも知れん。もっとも、我々の管轄外だから、どうしようもないがな」
 ヴェテラン刑事は半ば吐き捨てるように言った。そして、あっという間に短くなったタバコを揉み消す。
「どうにかなりませんかねぇ。早く食い止めないと、何かとんでもないことが起こりそうですよ」
 桑名は貌をしかめながら、苦々しく言った。そんな後輩を、かすれ声の刑事はピシャリと封じた。
「憶測でものを言うんじゃないよ。さっき言っただろ。所轄が違う以上、我々はどうすることもできん」
 そして松原は読んでいた朝刊をたたみ、机の左隅に置いた。立ち上がると、ポットの前でおもむろにインスタント・コーヒーを入れはじめる。
「ま、ひとつ落ち着かんか」
 そう言って桑名に勧める。
「あ、すいません」
 カップを受け取った桑名は角砂糖とクリームを適宜入れて混ぜた。
「ふう……。やっぱり、こないだのコーヒーが一番うまいな。正直、今までコーヒーを味わうということが無かったからな」
 松原はため息をつきながら呟いた。
「珍しいですね、松原さんがそんな事言うとは。コーヒーは気付け薬でしかないと、言って憚らなかったのに」
「あぁ。歳をとったのか、それとも……、あのウェイトレスに惚れたかな?」
 言うとなり、まじめな後輩に向けてニヤついた貌を見せた。後輩はそれを見て思わず目を丸くした。
「55歳にもなって、恋ですか!? その貌でよく言いますねぇ……」
「貌は余計だ、貌は。それはともかく、あの娘(こ)、愛嬌が良くて、気立てがいい。いまどき珍しいよ」
「それはあくまで接客用じゃないですか?」
「少なくとも、あのボーズには心から愛嬌を振り撒いていたぞ。いや、あれはご主人に気に入られようと尻尾を振る子犬みたいだったな。君があの時言ったとおりだ。あたしには目もくれないかもな」
 そう言ってヴェテラン刑事は薄くなった頭髪を掻いて苦笑いした。
「もっとも、それどころでは無いですけどね。こないだ、落合公園で見つかった変死体の件で、有力な手がかりが見つかったらしいです」
「おぉ、そうか。こうしちゃおれん。行くぞ」
「はい」
 二人はすぐさま出て行った。
 さて、松原が置いた新聞は、読んでいた面がそのまま上になっていた。小さい記事にはこう書かれている。
『…日午後9時30分ごろ、愛知県知多市の新舞子海水浴場で水死体が発見された事件で、同市警察は遺体の身元を、株式会社海豊商事社長、杉沼充雄氏(63)と断定した。杉沼氏は二日前、仲間とゴルフに出かけ、帰宅途中で消息を絶っていた。警察では、事件、事故の両面から捜査を進めている…………』
 なお、松原たちは気づかなかったが、この日の新聞の経済面には、東海地方で名の知れた中堅建設会社、横川建設が負債総額368億円を抱え破産したことを報じていた。



第32話へ続く



トップへ
戻る
前へ
次へ