
堕天使 〜Prinzipal der Finsternis〜
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四月も終わりに差し掛かった頃、文成は名古屋市にいた。陽光は煌いていたが、珍しく肌寒かった。違和感を覚えながらも、文成はJR名古屋駅から歩き始めた。気の赴くままに歩を進める。しかし、その歩みは明らかに人ごみを避けていた。かと言って、裏通りへは入らず、中心街をブラブラと歩いていた。自分の世界に入り込んで歩くそのさまは、人が見たら朦朧としているのではないかと、疑うであろう。
が、文成の歩みはしっかりとしていた。あてどなく歩いているように見えるが、文成にすれば目的があるのだ。ものの5分もしないうちに目的が近づいてきた。文成の右後ろから、軽くクラクションが鳴った。
振り返ると、真っ先にドイツ製の高級車のエンブレムが目に入った。日本でこの車を乗るとすれば、その人間はあっさりと限られてくる。しかし不思議に思うのは、ボディの色は特有の黒ではなく、スティール・ブルーだった。スティール・ブルーのメルセデス・ベンツなんて聞いた事が無い。この色を好む人間はよっぽど暗い人間か、それとも、よっぽどのへそまがりか……?
考えていると、ドライヴァーが貌を出して、おもむろに声を掛けてきた。
「君か? リヒャルト・シュヴァルツズムフと言うのは?」
そう問われると、文成は微笑して、
「あぁ、紫の月の下で行われたルネサンス・フェアであなたにお逢いして以来、私はマンダレーに向かっていました」
と、答えた。さらに、
「それから、湖の貴婦人があなたによろしくと、言っておりました」
と、続けた。
すると、ドライヴァーは笑みを浮かべて、
「そうか。乗りたまえ」
と言って、文成に勧めた。ためらう事無くメルセデスに乗り込むと、文成はからかうようにドライヴァーに尋ねた。
「おかしな暗号を思いつきますね。リヒャルト・シュヴァルツズムフなんて日本人どころかドイツ人でもわかりませんよ」
「ははは。だがリッチー・ブラックモアと言えば、今でも知っている人間が多い。それではあまりにも、ありがち過ぎる。だからドイツ語に変換したのさ」
そう言ってドライヴァーは笑った。改めて貌を見ると、リッチー・ブラックモア同様、口髭の立派な男である。しかしイギリス人のそれとは違い、アラブ人を想わせた。
「無理があると思うんだけどなぁ……。それより返事の暗号なんだけど……」
「あぁ、あれかい? リッチーが今まで作ってきた曲だろ。君もなかなかのファンじゃないか」
「そうじゃなくて」
「なんだい?」
「あの文章なんだけど、誰が考えたんだい? オレは手紙の内容をそのまま言っただけだぜ」
「わが組織にはリッチーのファンが多いのさ」
「どちらかと言えば、大藪春彦のファンでしょ?」
するとドライヴァーは、きょとんとした貌をして、文成に訊いた。
「どういう意味かね? あの暗号のどこに大藪春彦らしさがあるのかな?」
「『黒豹の鎮魂歌』からパクッたんじゃないですか?」
文成は直截に尋ねた。この問いにドライヴァーは一気に表情を崩した。
「あははははははは。君がそんなにマニアだとは思わなかったなぁ。『黒豹の鎮魂歌』を読んでいたとは知らなかったよ。古典中の古典だからね。『黒豹の鎮魂歌』のどこから取ったかは、言う必要も無いだろう。そうか、知っていたか。どうやら君に対する認識を改めねばなるまい」
“アラブ人”はひとしきり笑った後、すぐ真顔になって運転を続けた。文成はシートにもたれると、うたた寝を始めようとした。が、
「あぁ、そうだ。肝腎なことを忘れていた。まだお互い自己紹介をしていなかったな。私の名は結城秀司(ゆうき・ひでじ)。今向かっている、エオリア・ホテルのオーナーだ」
「あぁ、日本人だったんだ。オレはてっきり……」
「イギリス人と思ったかな?」
「いや、アラブ人だと思った」
文成が心の中で思っていたことをそのまま言うと、アラブ人と言われた結城はまた笑い出した。
「いやあ。ほんとに君は実際に逢わないとわからない人間だねぇ。楽しくて仕方ないよ」
「いったい、どこがどう可笑しいんだ? あんたの笑いのツボはどうなってるんだ?」
文成がややうんざり気味に疑問を口にすると、結城は楽しげに答えた。
「アラブ人と言われたことはなかったし、そう言われるとも思わなかったよ。まったく、意外だったね。イギリス人とよく間違われたものだが、そうか君にはアラブ人に見えるのか。君の観察眼は非常に興味深くて面白い。意外性に富んでいる」
「ふぅん、そうなんだ……。オレも自己紹介を済まさなきゃならんな。平井文成、弘成高校の一年生。以上」
愛想も何も無く、文成は淡々と自己紹介を済ませた。それを聞いた結城は、少しがっかりしたかのようにため息をついてから、感想を述べた。
「非常に簡潔だな。しかも、少々エキセントリックだ。ま、いいだろう。今日、君を呼び出したのは他でもない。君にいろいろとやってもらいたい事があるので、それについて打ち合わせる。緊張することは無い。ちょっとした“ビジネス”だ」
そういって、結城はスピードを上げた。話の打ち切りの合図と読んだ文成はようやくの思いで、シートに背もたれた。事実、“陽気なアラブ人”結城はこのあと一言も喋らず、口を真一文字に結んでいた。
……エオリア・ホテル。45階建ての高層ホテルは最初、文成に「バベルの塔」を想像させたが、しばらく眺めているうちに、“風の宮殿”と言うイメージを想い起こさせた。考えてみれば、エオリアとはもともとギリシア神話に登場する“風の王”アイオロスから来ているのであって。してみると、文成を呼び寄せたこの結城と言う人はさしずめ、“風の王”と言ったところか。
ホテルの地下駐車場から二人はエレベーターに乗り込んだ。目的の場所は45階、最上階のオーナーズ・ルームである。
文成はエレベーターからオーナーズ・ルームへ向かう間、ずっと無表情だった。と言うよりは、むしろ不機嫌だった。オーナーズ・ルームに入ってからも変わらなかった。
「お気に召さないかね?」
結城が尋ねた。なんだか、恐る恐る尋ねるような感じだ。車中にいたときの陽気さが無い。
「エレベーターの作りが悪い」
無愛想に、ぼそっとつぶやく文成に対して、やや狼狽しながらも結城は苦笑いを浮かべて。
「これは手厳しい。眺めが良いと、客の評判はいいのだが」
その答に文成は意表をつくコメントを発する。
「テロリストの評判も良いだろう。こうも丸見えじゃターゲットをあっさり仕留められる」
結城はさらにうろたえた。が、どうにか感情を押さえ込む。
「ふぅむ。素晴らしい眼だ。ま、そうでなければ私も会った甲斐が無い」
内心の動揺を微笑で隠す結城の態度に、文成は少し皮肉に微笑んだ……。
ディープ・スカイ・ブルーのドレスを着た、背の高い美しい女性が入ってきた途端、文成の心はざわめき始めた。直感的に、その女性の美しさの中に聡明さを見て取った。年齢的には20代前半だろうか。が、明らかにこのホテルのオーナーより、格が高いことがうかがえた。普通に考えればありえないだろうが、文成はおのれの直感に確信を持った。
実際この女性が現れた途端、オーナーの結城ははっきりと安堵の表情を見せたからだ。
「あぁ、栗岡君。平井文成君を紹介する。この四月に高校生になったばかりだ。だが、優れたセンスと能力を持っている」
栗岡君と呼ばれた美女は文成に向かって、にっこりと微笑む。その表情が文成の心をさらに揺さぶった。
それを見た結城はさらに安堵し、余裕を取り戻して美女を紹介する。
「栗岡美樹君だ。彼女は私の秘書、というより、ビジネス上のパートナーだ。非常に有能で、私が最も信頼している女性だ」
「はじめまして、栗岡です。よろしくお願いしますね、平井さん……、文成君と呼んだほうがいいかしら?」
「あ、おまかせします」
「ふふふ。それでは、文成君とお呼びしますね」
栗岡美樹は文成の初心(うぶ)な言動に微笑しながら、右手を差し出した。あわてて文成も右手を、着ているシャツで拭いながら、美樹と握手を交わした。
触れた瞬間、文成は脳全体が痺れる感覚を味わった。電流が走り、脳からいわゆる脳内モルヒネが発せられたようだ。しばしの間、文成は陶酔感に浸った。
(なんて、気持ちが良いんだ……)
このままずっと握っていたかったが、彼女の気を悪くさせたくないので、しぶしぶ手を離した。掌に彼女の手の温もりと柔らかさと痺れがずっと残りそうな気がした。それほど彼女の感触は心地良かった。
「さて、文成君。掛けたまえ。今日、話しておかなければならない事を始めたい」
“アラブ人”結城はおもむろに切り出した。文成は、ふわりとした感じで、ソファに腰掛けた。バレエダンサーを志していたとあって、優雅な所作だった。美樹と結城は興味深げに瞠目した。
「まるで妖精のようだわ。軽やかでしなやか、すごく柔らかい雰囲気を持っているわ。でも、ちょっと繊細なところもあるわね。クリスタルのように純粋なんだけど、その分すぐ壊れそうな脆さも抱えているわ。これは興味深いどころではないと思いますわ、オーナー」
美樹が述べた感想を聞いて、文成はなぜか急に恥ずかしくなってしまった。貌は紅く染まり、汗がにじみ出てくる。
「ははは。ずいぶん貌が紅いじゃないか、文成君。大人の女性に話しかけられるのは、初めてなのかな?」
結城が朗らかに笑いながら尋ねた。
「そうですね。これほどまでに美しい女性を見たのは初めてですし、それに……、これほど、直接……、というか、おもいっきり、感想を言われて、心臓がバクバクしています」
さらに貌を紅くして、つっかえながら答える文成を見て、オーナーはようやく自分が優位に立って話を進められると思ったようだ。すっかりリラックスした気持ちになって、悠然と座った。
美樹はと言うと、オーナーが座ったあと、淑やかにソファに腰掛けた。オーナーの右手側、文成から見て左側である。
ごく自然に美樹がオーナーの隣に座ったので、文成は少し違和感を覚えたが、すぐに直感が答えを出した。しかしその事について口を出さず、静観を決め込んだ。
「あまり緊張なさらずに、肩の力を抜いてくださいね、文成君。身内と思ってくださればいいのですから」
美樹が発する柔らかく暖かいメゾソプラノが、文成の脳を強力に痺れさせたが、同時に恥ずかしさを倍加させた。いまや全身の汗腺から汗が噴き出ている。そんな感覚を覚える。
「困りましたね。身内と言われても、なんと言って良いやら……」
恥ずかしさのあまり、文成は苦笑することしきりだった。
「文成君。緊張するなら、これから話すことについて緊張してもらいたいね。なんと言っても、組織の破壊班員としての仕事だから」
“陽気なアラブ人”の貌を復活させたオーナーの言葉が、逆に文成の緊張、と言うより、恥ずかしさによる硬さを解いた。文成は口角を吊り上げて、ニヤッと笑った。そこに衒いや含羞は一切無かった。
「ん。先ほど、私と初めて会ったときのように落ち着いたな。見事なものだ。それではそろそろ始めようか」
オーナーがそう言って本題に入ろうとした瞬間である。どこからとも無く、サイレンが鳴り始めた。
文成は思わず首を左右に振って、音源を探したがわからない。最初、消防車かと思ったが、なにやら空襲警報のほうが近い気がする。
わけがわからず首をかしげていると、そのうち飛行機が飛び立つような音が聞こえた。そして、トランペットが勇壮な音楽を奏でると同時に聞き覚えのあるドラムサウンドが耳に入った途端、文成の脳の中で辻褄が合った。
音源は、オーナーの携帯電話からだった。しかも、いわゆる着メロではなく、CDからデータフォルダに落とし込んだ楽曲だった。
文成が苦笑いを浮かべてオーナーを睨みつけると、睨みつけられた男はニヤニヤ笑いながら、携帯を取り出し、ちょっと失礼、と言いながら、トークボタンを押した。
「はい、もしもし……。はい……、はい……。あぁ、そうか。わかった。今すぐ行く」
手短に電話を終えたオーナーに向かって、文成がぼやくように言った。
「あのさぁ、オーナー。着メロ、何にしようがその人間の好みだけどさぁ、コージー・パウエルの‘633SQUADRON’は勘弁してくれない? オレ、何事かと思ったよ」
「あはははは。私の着メロを初めて聴いた人間は、必ず文成君のような反応をするからねぇ。楽しくて仕方が無い。それより、コージーはお気に召さないかね?」
大笑いしながらオーナーが喋るのに対し、文成は姿勢を崩さずに、
「好きだけどね。コージーもこの曲も。でも、着メロでかまされるとなぁ……。しかも、ミニSDに落とし込んでから、設定してるでしょ」
と、苦笑いで複雑になった表情で答えた。そんな文成を見て、美樹は微笑を浮かべている。
「私は曲もさることながら、この曲が使われた映画も好きなんだが。それはともかく、急用が入った。本当は私が君の仕事について説明しなければならんのだが、こればかりは、私でないとどうにもならんようだ。すまないが栗岡君、文成君に今回の仕事を説明してもらいたい。
文成君、申し訳ないが、私はこれで失礼させてもらう。しばらく、君を栗岡君に預けるから。何かあったら、栗岡君に頼むと良い。それでは、文成君。機会があればまた会おう」
オーナーは言い切ると、そそくさとオーナーズ・ルームから出て行った。あとには、聡明な美女と、妖精のような美少年が残された。
美樹と文成はしばらくの間、何も言わずに互いの貌を見つめあっていた。無表情ではなく、微笑を浮かべながら。すると、文成が、なんとも言えぬ笑いを漏らし始めた。つられるように美樹も笑い出す。そして二人は、まるで溜まっている物を吐き出すかのように大笑いした。美樹は躯を折り曲げてけらけらと笑い、文成は逆に躯を反らせて、腹を抱えながら高笑いした。
「何がそんなにおかしいの、文成君?」
躯を起こした美樹が右手を口元に当てて尋ねた。
「これで笑えなかったら、この先何があっても笑えませんよ。上司と思っていたのが実は部下で、部下と思っていたのが実は上司だなんて。しかも、あなたはオーナーより、明らかに20歳近くも年下でしょう。なのに、あのアラブ人はあなたに頭が上がらないんだから」
文成はやたらハイテンションな声で、笑いを抑えることなく喋った。緊張感はすでに無く、完全に打ち解けたようだ。
「どこで気づいたの? あたしが上司だということに」
美樹は楽しそうな声で文成に尋ねた。
「あなたの瞳だね。瞳を見てそう思った。理知的で聡明、そして気高くて荘厳で、それから……、なんと言っても優れた才覚を持ってると思ったから。ここぞと言うときの勝負強さというか、何かあったら、大概の男が腰を抜かしそうな実力を発揮するような気がしたから。そうでしょ、支局長」
文成は透き通った声で微笑みながら答えた。まるで、カウンターテナーのような美声だ。
「オーナーの言った通りね。あなたの人を見る目、すごく高いわ。それにセンスも優れている。あなたに興味を持たない人間がいるとしたら、その人間はこの先、何があっても楽しめないでしょうね。あなたは天性のエンタテイナーだわ」
美樹が情熱の籠もった声で言った。
「お褒めに預かり光栄です」
「もう、そんな堅苦しい返事はしないの! オーナーが言ったように身内と思ってくれたらいいんだから」
美樹もずいぶんと打ち解けたのか、弟に話すような言い方になっている。
「でも、一応は、BOC日本支部東海支局の支局長と、支局の破壊班員という関係ですからね。そこはきっちりとしたほうが良いのでは?」
「同時に、あなたのエージェントであり、後見人よ。あなたがこの中京にいる間は、あたしが面倒を見ることになっているの。高校生活はもちろん、あなたにしてもらいたいビジネスに関しても、あたしが世話をするわ。あなたはまだ知らないでしょうけど、BOCの中で、あなたは今季最高のプロスペクトとして注目されているの。そのあなたがどれだけの大物になるのか。これほど興味深いことは無いわ」
「そうですか。ではさっそく、お願いします。最初にしなければならない仕事を」
文成がそう言うと、美樹は柔らかく微笑んだ。
「それでは行きましょう、文成君。準備はできてるわね」
言うや否や、すっと立ち上がって、文成を促した。
「行きましょうって、ここで話をするのではないのですか?」
「こういう大事な話は、密かにするものよ。二人っきりでね」
美樹が文成の目の前まで貌を近寄せてささやいた。そこに、先日文成が手紙を受け取ったときに感じた妖美さが漂っていた。
地下駐車場に降りると、駐車場係の男が美樹と文成の前に車を廻してきた。セピアブルーのその車は、なぜか日産車であった。
「シルフィ?」
文成が尋ねた。
「そう。ブルーバード・シルフィ・20Mよ。あたしにとってはこれくらいが丁度良いの」
「なぜトヨタじゃないんです?」
「トヨタ車のフォルムって、あんまりかっこいいとは思えないのよ。ほんとは、フォーリアが欲しいんだけど、まだ出てないみたいねぇ……」
「名古屋モーターショーに出品されていた奴ですか? 僕も見ましたけど、あの形は良かったですねぇ。GT‐R・PROTOほどじゃないけど」
「GT‐Rと一緒にしないでよ。何もかもが違うんだから」
笑いながら美樹はドライヴァーズ・シートに乗り込んだ。続いて文成もナヴィゲーターズ・シートに乗り込む。
「それにしても意外ですね、栗岡さん。ソアラのような車を運転するイメージだったのに」
「そんなことをイメージしてたの。それより、文成君。栗岡さんはやめて欲しいなぁ。支局長と言わないのはうれしいけど、栗岡さんと言うのも、ちょっと肩が凝りそう」
「なんだかんだ言っても、僕は子供だし。それに、直属の上長ですからね。それなりにけじめは無いと」
「けじめをつける、と言う気持ちは良いことだと思うわ。でも、さっき言ったように身内と思ってくれればいいの。姉だと思ってくれるとうれしいわ」
「僕はあなたの弟ですか?」
「君のようなかわいくて頼もしくて誇らしい弟が欲しかったわ。あたしは一人っ子だったし、早くから両親もいなかったから」
「早くから?」
「中学のときかな。それからいろいろあったけど、何の因果か、高校二年のときに組織にスカウトされて。おかげでニューヨーク市立大学に入学できたし、それなりに組織に貢献して今の仕事をやっているわけだけど。でも、この世界が戦場だとしたら、勝ち抜かなきゃダメね。勝ち抜いたおかげで、君に出会うことができたんだから。そのために刺激の強すぎる毎日を送ったわね」
美樹は柔らかさの感じる運転をしながら、ゆったりとつぶやくように述懐した。
「刺激の強すぎるって、例えば……、男どもの血を絞りきって、血の池に浸かるような感じですか?」
「すごい表現をするわねぇ……。ま、当たらずとも遠からずかな」
文成の喩えに美樹は苦笑しながら答えた。
「それはともかく、これから君は、あたしの部下であると同時に弟でもあってほしいの。だから、栗岡さんなんて、よそよそしい呼び方はしなくてもいいのよ」
「かといって、美樹さんと呼ぶのも、馴れ馴れしくしているようで、僕はあまり気が進みませんね」
「馴れ馴れしくしなくてもいいけど、遠慮をする必要も無いわ。あなたが緊張していると、あたしにも伝染するから」
「言っておきますけど、僕は生まれてこの方、加減と言うものをしたことが無いんです。一度こうと決めたら、とことんまでやりぬく性分ですから。だから、あなたと交わる事になるのなら、徹底的に深く濃く交わるつもりです。それで良いと言うのなら、何も遠慮しませんが、良いのですか、美樹さん?」
「加減をしたことがない、か。確かにそうね。ただ人間を殺すんじゃなくて、その人間の存在そのものを消し去るのが、君のやり方だったわね」
美樹は軽く当てこするようにつぶやいた。
「望むところよ、文成君。君があたしと深く濃く交わりたいのなら、徹底的にしましょうよ。そのために今の自分があると、実感できる気がするわ」
美樹がそう言った瞬間、文成は美樹の躯から、えもいわれぬ芳香が発せられていることに気づいた。
香水の匂いではない。自然の匂いか人工的な匂いかぐらい、感覚が異常に鋭くなっている文成には手に取るようにわかる。明らかに彼女自身の匂いだ。だが、性的に発情している牝の匂いではない。そんな卑賤な匂いではない。何か、彼女の深奥から発せられているかのような匂いだ。
よく遥から、花のような匂いがして気持ちが良いと言われる文成だが、当人にしてみれば、まるで実感がなかった。生まれながらにそんな匂いを発しているから、気づかないのだろう。
だが、今、美樹の匂いをかいで文成は、遥の言っていたことが少し理解できた。美樹の躯から確かに花のような匂いが発せられていた。何の匂いか、目を瞑って想いをめぐらせると、すぐに答えが出た。
(ラヴェンダーの匂いだ。だから手を握ったときに、あんなに気持ちが良かったのか……)
文成はちらと美樹の貌を覗いた。彼女の表情に特別な変化はない。汗ばんでもいないし、緊張で引き締まっているわけでもない。むしろリラックスしている。相変わらず心地よいドライヴを演出していた。やはりこの女性は格が違うと、文成は心の中で改めて唸った。
エオリア・ホテルを出てどれくらいの時間が経っただろうか。文成が何気なしに景色を見回していると、右前方に中京競馬場が見えてきた。
「美樹さん、まさか中京競馬場に行くんですか?」
文成が怪訝そうに尋ねると、美樹は微笑みながら答えた。
「まさか。ここから左に折れて鎌倉台に入るわ。そこにあたしの部屋があるの」
するとまもなく、美樹はハンドルを左に切った。
鎌倉台に入ったシルフィは、ものの3分で、美樹のコンドミニアムに着いた。4階建てだが、外観を見るだけでも、一部屋ごとの面積が広く感じられる、贅沢な部屋だ。実際それは、美樹の部屋に入ってからも証明された。
部屋の広さがどれほどのものかは、文成には見当がつかなかった。が、この部屋を買うにはどんなに少なく見積もっても、億単位の金を積まなければならない事だけはわかった。
だがこの部屋を広く思わせるのは、インテリアが極端なくらい少ないためであろう。必要最小限しか置いていない。何より文成を驚かせたのは、色彩の度合いが低かったことだった。もう少しカラフルにしても良さそうなものなのに、そう言った雰囲気がまるで感じられない。これではまるでオフィスである。
「なんか、こう言っては失礼かもしれないですけど、SOHOみたいな部屋ですね」
文成は率直に感想を言った。
「毎日パーティーをするために買った部屋じゃないから。永久に住むわけでもないのに無駄なお金を使いたくないわ」
美樹は嫌な貌をせずに答えた。
「何もないところだけど、お茶ぐらいなら出せるから。そのソファにでもくつろいでね」
「あ、はい」
美樹に勧められて文成はリヴィングにある白いソファにゆっくりと腰を下ろした。無駄な金を掛けないといった割には、なかなか座り心地の良いソファである。このまま眠りたくなりそうだ。
文成は背筋を伸ばし、足首を絡めた姿勢で、美樹のことを考えた。どう考えても23歳くらい、彼女の言う、ニューヨーク市立大学を卒業直後としか思えない。早い段階でアメリカに渡って、飛び級で大学に入学したのなら、それなりに社会人としての経験も考えられようが、それにしては、風格があまりにも際立っている。少なくとも40歳以上のあの“アラブ人”オーナーを手足のごとく働かせる手腕は並大抵ではない。というより、組織の支局を統括していることが驚きだ。
高校二年生で組織に入ったというから、大体16,7の頃か。6〜7年で、支局を任されるということは、文成の直感もかなり鋭いところを衝いたと言えるだろう。だが、想像以上に美樹の才覚は優れているような気がしてならない。
疑問はもうひとつある。今回の指令を伝えるなら、エオリア・ホテルでも良かったはずだ。結城オーナーに伝えさせるだけで十分だったろう。なのに、なぜわざわざ自分が出てきてまで、伝えようとするのか。しかも、自分のコンドミニアムで。何が目的なんだろうか。しかも、上司と部下であると同時に、姉弟と思ってくれたらうれしいとは……。
「どうしたのかしら。思いつめたような貌をして。なにか気になることでもあるの?」
美樹が声を掛けてきた。プレートにティーポットとカップをふたつ載せている。最初に会ったときのようなディープ・スカイ・ブルーのドレスではなく、シャルトルーズ・カラーのワンピースを着ていた。彼女が青りんごのような色の服を着ているだけで、この空間が急に華やかなものになった。別に部屋の中を飾らなくても、主が存在するだけで華やかになるという見本を見ているようだ。
「さっきとは打って変わって、華やぎましたね。この部屋そのものが明るくなった気がしますよ」
文成は冷淡に言った。言ってから、少し冷淡すぎたかと、微かに悔いた。
「ありがとう。君にほめてもらえると、すごくうれしいわ。お茶を入れる前に着替えた甲斐があったわ。さ、召し上がれ。このお茶も、少し自慢なんだ」
美樹は気にすることなく礼を言って茶を勧めた。そして文成の正面ではなく、右側のソファに座った。直角の形で向かい合う格好である。
美樹がポットから紅茶を注いだ。馨しい香りが文成の鼻腔をくすぐる。
「ダージリン、ですか?」
「よくわかったわね。それとも、好みの紅茶だったかしら」
「母がたまに入れてくれたので。土日のティータイムにね。両親はアッサムティーが好きだったけど、僕が最初に飲んだ紅茶はダージリンでした」
「そう。あ、砂糖を入れないから。これを入れて。量はあなたのお好みで」
美樹は文成の前に小さなポットを差し出して、蓋を開けた。何か見覚えのある琥珀色の液体が入っている。
不思議に思いながら、スプーンで一杯掬い、カップの中の紅茶に入れてかき混ぜた。色と香りを味わってから一口含むと、柔らかく優しげな甘みが淡く口の中に広がった。
「これ……、メープルシロップですね。しかも、これはカナダ産のNo.1ライトグレード。最高級のものじゃないですか!」
文成は両眼を大きく広げて興奮した。喜色満面の笑顔を美樹に見せている。
「さすが文成君。一口飲んだだけでよく分かったわね。察しの通り、本物のNo.1ライトグレードのメープルシロップよ」
美樹が舌を巻いたといわんばかりに正解を出した。そんな美樹もずいぶんうれしそうな貌をしている。
「ザンジヴァル島に行く前の日に、アイリスからディナーに招待されてね。そのときデザートのマフィンに、初めてメープルシロップを掛けて食べたけど、非常においしくて、興味深かったよ。アイリスからカナダ産のNo.1ライトグレードのメープルシロップだと教えられたが、ここでもう一度味わえるとは思わなかったな。でも、紅茶に入れるという発想はすごいよ。イギリス人では思いつかないんじゃないかな?」
文成はまた感嘆して美樹の嗜好を絶賛した。
「何事も甘ったるいのはダメなのよ。心身をボロボロにするから。ほんのりと甘いくらいが心を安らかにするのよ」
美樹が官能的なメゾソプラノで、まさに歌うように言った。まるでスロー・テンポでピアノを弾きながら歌うような話し方だった。
たちまち文成は官能的な雰囲気に捕らわれ、脳髄を痺れさせられた。ダージリンの香りとメープルシロップのほのかな甘み。だがそれ以上に、美樹の内奥からあふれ出る官能的な匂いに酔い始めた。
酔いながら文成は、酔いの向こうにある未知の世界にのめりこんでいくことを無意識に感じた。
第27話へ続く
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