
堕天使 〜Prinzipal der Finsternis〜
|
右打席に入った文成の構えは、バットを長く持ち、やや前に倒す形を取っていた。両腕を出来る限り、上に挙げ、思いっきり後ろに引いている。前から見ると、文成の左肩に、顎を乗せているような、窮屈な構えであった。実際に文成は、顎を左肩に乗せていた。
これだけでも滑稽な構えなのだが、さらに滑稽なものが、この場にいるすべての人間の目に映っていた。誰もがそれに気づいていたし、白田と真木のバッテリーも、それがわかっていた。どこからともなく、忍び笑いが漏れ始めた。
文成にもその忍び笑いが聞こえていたが、あえて無視した。と言うよりは、本気でボールに当てるつもりなのかもしれない。やるとなったら、それなりに本気になる性分らしかった。
白田は文成の構えを見て、貌を少し歪ませたが、すぐに元に戻し、真木にサインを要求した。真木は苦笑しつつも、真ん中低めの速球を要求した。最初にこの新入生を驚かせておこうという腹積もりだった。
サインを見て頷いた白田は、ノーワインドアップ・モーションから、鋭く左腕を振って、1球目を投げた。風を切るように唸りをあげて、白球が走る。
文成は、じぃ〜っと待ち構えたあと、弾かれたように、バットを力の限り鋭く振った。ミートした瞬間、まるで脳に直接響くような甲高い金属音が、真木の鼓膜を振動させた。
「えっ!?」
思わず驚きの声を上げた真木が、マスクを被ったまま立ち上がった。文成はすでにフォロースルーを終えて、打球の行方を追っていた。マウンドの白田も振り向いて見上げている。そればかりか、誰もが上を向いていた。
打球はまっすぐ、センター方向に飛んでいた。しかも、かなり高く舞い上がっている。どこまでも飛んでいきそうだ。そして、とうとう、フェンスを越えたが、白球はまだ落ちる気配が無い。ようやく落ちたかと思ったら、ボールが人々の視界から消えてしまった。どうやら、奥の林に入ってしまったようだ。
ずいぶん滞空時間の長い見事なアーチに、オーディエンスは声を失った。打たれた白田は振り返ったまま、双眸を大きく広げて、凝固した。その他のナインたちも、何が起こったのか、全く理解していなかった。監督はと言うと、口を開いたまま、小刻みに震えていた。
誰もが呆然としている中、文成はさして驚きもせず、それどころか、
「すっげぇ〜、飛んだなぁ……。ビギナーズラックって、あるんだなぁ……」
と、変に落ち着き払って呟いていた。が、すぐに貌を顰めた。何か痛みでも走ったかのような表情だ。
文成の特大アーチに度肝を抜かれた渡辺は、しばらくセンターを見つめたあと、文成に近づいた。そして、文成の表情の異変に気づいた。
「どうしたんだ、平井君。特大ホームランを打ったというのに、浮かない貌をしているじゃないか?」
すると、文成は貌を顰めたまま、渡辺に向き直り、なぜかすまなさそうに言った。
「いやぁ、キャプテン。ボールがバットに当たった瞬間、腕が痺れましてね。それでそのまま振りぬきましたから、腕が痛くて……」
言いながら文成は右手で左腕を忙しなく擦った。
「あたりまえじゃ!」
いきなり、破れ鐘の如き怒鳴り声が飛んできた。文成と渡辺、そして真木が驚いてバックネットを見ると、監督が裏から再び怒鳴りつけた。
「あたりまえじゃ、平井! おまえ、バットの持ち方が逆じゃぞい!」
「え! じゃ、まさか……」
文成がバットを上下逆にしようとするところを、渡辺が慌てて押しとどめた。
「バットを逆さまにするなよ。握り方が逆なんだよ、平井君」
「え? どういうことですか、キャプテン」
本当にわからないのか、文成は目をぱちくりさせながら渡辺に尋ねた。
「あのなぁ、今、君は、バットのグリップを握るとき……」
言いながら、渡辺は文成の手を取って、説明しはじめた。
「こうやって、左手を上にして、右手を下にしてたけど、そうじゃなくて、右手を上にして、左手を下にするんだよ。そうして、こう、そのまま振るだろ。そうすると、自然にバットが振れるし、腕も痛くならないんだよ」
渡辺は懇切丁寧にスウィングの仕方を文成に教えた。
「そうだったんですか……、ぼくはまた、白田さんの球が強すぎるから、それで痺れたとばっかり思いましたよ。腕の力がすごいんだろうなぁと思ってましたから。それだけじゃなかったんですね」
文成は無邪気に感心したが、聴いていた渡辺と真木は、そんな文成が空恐ろしく思えてきた。無理もないだろう。弘成のエース、黒田経雄に次ぐ、左の本格派投手の白田の速球を、野球を全く知らないド素人が、バットの持ち方すら知らない華奢な少年が、明らかに130m以上のアーチを描いたのだから。
「まったく……。なんという子じゃ。クロス・ハンデッドでホームランをかますなんて、まるでハンク・アーロンじゃ」
監督が、愚痴とも感嘆とも取れるような喋り口で呟いた。
「ハンク・アーロンって、755本塁打を打った、あのハンク・アーロンですか?」
遥が監督に尋ねた。
「そうじゃよ、草薙くん。ハンク・アーロンは、メジャーリーグに入る前はもともと、黒人だけのニグロ・リーグでプレイしていたんじゃが、さっきの平井君のように、左手を上にして、右手を下に持って打ってたんじゃ。それでいて、ホームランを打つもんじゃから、ミルウォーキー・ブレーブス、今のアトランタ・ブレーブスのスカウトが契約を決めたんじゃ。物凄く下半身が優れていると思ったから、試しにと思ってやらせたが、これほどとは……」
「それでは、監督。普通に持ったら……」
今度は絵理子が期待を籠めたように尋ねた。
「見てみるかの……。平井! 今度は普通に持ってやってみろ。白田! 次は打たれるなよ」
監督は大声で二人に言ったが、ややこしい言い方をするものだから、思わず文成は監督に向けて言い返した。
「監督、どうしろと言うんですか!?」
「お互い、真剣にやれ、と言うことじゃ!」
そういってニヤリと笑う監督に、文成は思わず苦笑いを返した。日本に戻ってきてから、滅多に本心を明かさないこの少年にしては、珍しいことである。どうやらこの監督に対して、気を許し始めているのかもしれない。
互いに気を取り直しての2球目。キャッチャーの真木は、1球目と同じサインを出した。真ん中低めの速球である。頷いたマウンドの白田は、心持ゆったりとしたモーションから鋭く腕を振り切って投げた。
しかし彼は、ここでひと工夫を加えた。1球目よりもリリースポイントを遅らせたのだ。球を長く持つことによって、文成のタイミングをずらそうとしたのである。
はたして、白田の予想通り、文成は1球目と同じタイミングでバットを振ってきた。だが、少し予想外の出来事が起こった。なんとボールが到達する前にバットは空を切り、しかも振った文成は、
「わーっ!!」
と、叫びながら、それこそバレエダンサーのようにくるくると回って、転倒して仰向けになったのである。そして、なぜかヘルメットが脱げて、彼の胸の上に落ちた。
再び、グラウンドに沈黙が訪れた。しかしそれは、先ほどのような、驚きのあまりに呆然としているのではなく、肩透かしを食らわされたかのように、唖然としているのだった。誰もが、先ほど以上のホームランを期待したであろう。それが今度はスウィングの勢いが良すぎて、転倒したのだ。オーディエンスには、何がなんだか全くわからなくなってしまっている。監督に至っては、先ほどよりも口を大きく開けて、躯を震わせている。
しかし、文成はと言うと、そんな周りの反応など構うことなく、起き上がって、ヘルメットを被り、背中に付いた汚れを軽く払った。
「うは〜っ! やっぱり、すごいな……。思いっきりタイミングをずらされちゃった。それにしても、普通に持ったら、無茶苦茶スムーズにバットが出るんだなぁ……」
珍しく文成は大きく感嘆の声を上げた。心の底から沸き起こった声だ。そして、妙に嬉しそうな笑顔が自然と浮かび上がった。
その笑顔を見た絵理子は、急に胸が高鳴った。心音がドラムロールのように、激しく鳴り響いている。
(なんてかわいらしいの……。それにすごく気持良い匂いがする。いったい、あの子は何者かしら。あぁ……、なに、この気持は。こんなに高ぶるなんて、初めてだわ。渡辺君より、ずっといい……)
“夢見る少女”なんて、前世紀のうちに絶滅したかと思われたが、そうではなかったようだ。それはともかく、今の絵理子は文成に夢中になっていた。ボーイフレンドの渡辺の事を、すっかり消去してしまっていた。
そんなことだから、監督が呼びかけていることにも、なかなか気づかなかった。
「どうしたんじゃ、平野君! ボーっとするでないぞ!」
この監督の喝は良く効くようで、これで絵理子も夢から覚めてしまった。
「あ、か、監督? どうしました!?」
「それはワシが言いたいわい。平野君、滅多にボーっとしない君がどうしたんじゃ? まさか、平井に惚れたか?」
監督がニヤニヤ笑いながら尋ねると、絵理子は貌を紅潮させた。
「何、言ってるんですか、監督!? そんなんじゃありません!」
「わはははは。草薙くん、気をつけないと、君の婚約者が本気で結婚相手を変えるかも知れんぞ」
面白がった監督は笑いながら話を遥に振った。
「ありえそうですね。文成も平野先輩のこと、満更でもなさそうですし。それに文成って、思い込んだら、暴走するところがありますから。最悪な結末にならなければ良いですけど」
遥は努めて澄ました貌で答えた。それでも、微妙に悋気がにじんでいる。絵理子は恥ずかしさのあまり、俯いていた。
「いずれにしろ、面白い奴じゃ。あいつが入部すれば、あるいはこの夏、甲子園に行けるかもな」
そう言うと、監督の目は、まるで猛禽類のように鋭くなった。この学校の野球部の監督になって6年にもなるが、ようやく、本物に出会った気持だ。この少年を育てることが、自分の天命とさえ思えてきた。
(平井文成……、わしはおまえを、選手としても、人間としても、立派に育て上げてやるぞ)
すでに老境に入っていたこの監督は、自分の死んだ孫と同じ年齢の少年を育て上げることに、炎を燃やし始めた。
結局、文成の打撃体験は2球で終わりになったが、それでも、見たものすべてに強烈な印象を刻み付けた。文成自身も、何か心の底から湧き上がるものを感じたようで、すっかり貌が明るくなっている。
文成がバックネット裏に回ると、監督がすぐに声を掛けた。
「どうじゃ、平井。実際にバットを振ってみた感想は?」
完全に打ち解けた気持になったのか、文成を呼び捨てにしていた。
「すごく興味深かったです。最初は簡単にできるかと思いましたけど、次は簡単にできませんでした。なんか、よくわかりませんけど、突き詰めたくなりました。監督、入部させてもらえないでしょうか? よろしくお願いします」
文成は、ここ数年発していなかったと言うくらいの快活な声で、監督に入部を申し込んだ。
「よし、わかった。野球の面白さと楽しさを、躯全体で知ってもらうからな!」
「はい、お願いします」
これより、文成の、数十年にわたる、野球との関わり合いが始まったのである。
翌朝から野球部の練習が始まった。いわゆる“朝練”だ。A.M.6:00開始だが、普段からA.M.5:00には起床している文成にとっては、何の負担にもならなかった。一応、高校生である文成はバイクではなく、自転車で通っていたが、自宅から学校まで15分のため、余裕で間に合っていた。
胸元に“KOUSEI”と黒文字で書かれた、真新しいユニフォームを着た文成が部室を出て、グラウンドに来ると、まず、自己紹介をさせられた。準備運動の後に課された練習が、グラウンド10周に、バーベルにダンベル、そして、ゴムチューブなど、器械を使った筋力トレーニングと、完全に基礎体力をつけるための練習だった。ニ、三年生は、A.M.6:30頃からピッチングやバッティング、守備練習を始めたが、文成ら一年生は監督の指示もあって、A.M.8:00の終了までひたすら基礎体力をつけるための練習を行った。
授業が終わった後、P.M.3:20から始まる練習でも、最初は腕立て、腹筋、スクワット。それが終わると、グラウンド10周、筋力トレーニング。それらが終わって、ようやく、一年生は素振り300回、ティー・バッティング300回、遠投、シートノックなどのメニューをこなしに掛かるのである。
しかし、文成だけはひたすら、基礎体力をつける練習を与えられ、全くといって良いほど、バットやボール、グラブに触れることは無かった。
テトラーク島で、まさに死ぬほど鍛えられたおかげで、10kmを30分台で走る事ができるようになったり、格闘術に長ずるようになったりした文成にとっては、正直、物足りなさを感じる練習だった。それを態度に表さなかったが、その分、欲求不満が増していった。
さらに不足な気持にさせたのが、野球に関しては素人である文成の目から見ても明らかな、野球部のレヴェルの低さであった。
マネージャーの絵理子から聞いた話によると、弘成高校は春夏を通じて、甲子園に出場した事は一度も無く、県大会のベスト4に入ったのが、2回。最後にベスト4に入ったのが、今から20年も前の話だった。
かと言って、からきし弱いというわけではなく、昨年の県大会も、シード校として出場し、ベスト8まで勝ち進んでいたのである。
「まるで……、真木さん、でしたっけ、キャッチャーの。あの人みたいですね?」
ある日、絵理子に向かって文成は何気なく、そうつぶやいた。
「どういう意味?」
絵理子が小首を傾げて尋ねると、文成は表情を変えることなく、
「がっしりしているわけでも、すらっとしているわけでもない。それと同様に、このチームも、強くも無ければ弱くも無い。中途半端なチームですね」
と、答えた。
普通、全くの素人にこういう毒舌を吐かれると、腹が立つものだが、絵理子は腹を立てないどころか、吹き出してしまった。
「やっぱり、平井君って、すごくユニークだわ。チームの現状をそんな風に喩えるなんて。誰も思いつかないわよ、そんなこと」
そう言ってくすくすと笑った。
絵理子は面白く思ったかもしれないが、文成は良い気持がしなかった。つぶさに見てみると、どう考えても、自分が一番上手くなれそうな気がしたからだ。
キャプテンの渡辺を始め、なるほど守備力は優れていたが、打撃に関しては、かなりレヴェルが低いと思えた。昨年夏から春にかけてのデータから割り出したチーム打率は、2割7分8厘。一番の三沢泰和、二番の諸積正史は一応3割を超えているが、三、四、五番の打率が、みな2割5分台と、尻から花が咲くほど低い。これで本塁打数が多いならまだわかるが、三人合わせて4本。チーム全体でも13本と、ピストル打線もいいところである。
さらに文成が失望したのが、投手陣だった。文成が最初に対戦した、白田龍彦は、なるほど将来のエース候補かもしれないが、よくよく見ると、ピッチングパターンが単調で、球種も少なかった。エースである黒田は、なぜこの男がエースなんだと、首を傾げたくなるほど、スタミナが無く、また、打たれ弱かった。
だがもっとも文成をうんざりさせたのが、チーム全体の雰囲気だった。練習態度に緊張といったものが見られず、まさに適当にやっているようにしか思えなかった。中途半端に実力があるせいなのか、それともずば抜けた力が無いせいなのか。それなのに、校内では妙に人気があったから、なおさら厄介だった。
森田老監督はかなり怒号を飛ばして練習させていたが、部員たちがそれについていっているとは思えなかった。
先輩たちの文成に対する態度もさまざまだった。あるものは、先輩というだけで高圧的な態度を取り、またあるものは、変に優しく接していたが、実体のない優しさとしか思えなかった。早い話が、人を従わせる為の手段だったのだ。そんなときは常に、文成らしくない、曖昧な笑みを浮かべていた。
絵理子に誘われたのと、ほとんど興味本位で野球部に入ったものの、文成は野球部に居続けることに疑問を感じ始めた。面白みのある人間がいるわけでもないし、練習内容も物足りない。それに最大の疑問は、文成が入部してから一週間、森田監督が何ひとつアドヴァイスしない事だった。いったい、何が目的なのか。これがわからない事が、文成を複雑な気持にさせていたのである。
文成が入部して10日後のある日の夕方。野球部の練習が終わった直後の事である。練習が終わって、部員達は用具の片づけをしたり、グラウンドを整備したりしていた。文成もボールをかき集めていては籠の中に片付けていた。
「平井君!」
文成の左耳を通じて脳に、緊張しきった男の声が入ってきた。振り向けば、文成とほとんど同じ背格好の少年が立っていた。が、文成より躯が少し大きく見える。骨太なのかもしれない。頭を丸坊主にしているが、貌はなかなかの男前である。辺りはかなり暗くなっていて、照明が灯っており、それが醸し出す翳が、少年を精悍に見せているのかもしれなかった。
文成はその少年に近づくと、何も言わず、まるで値踏みをするように少年の貌をじろじろと見た。
「あ、あのぉ……、貌になんかついてるかなぁ?」
少年がおどおどしながら尋ねると、文成はなぜか妙に軽い声で、尋ね返した。
「あれ、君……、KAT‐TUNの亀梨和也に似てるって言われない?」
唐突に尋ねるから、少年は面食らって、余計にどぎまぎした。
「いや、そんな事、全然……、言われないよ」
途切れ途切れに、なおかつ恥ずかしさのせいで、小さくなった声で少年は答えた。
すると文成は、間髪入れずに。
「言われないの!? じゃ、似てないんだね!」
こう言われた瞬間の少年の貌を見せてやりたいくらいだが、それが叶わないのが残念なくらい、面白い貌をしていた。呆気に取られて、大きな目がさらに大きく広がり、口は顎が外れそうになるほど、縦に開いていた。
そして、周りで片付けに勤しんでいた部員たちも、文成の言葉を聞いて、爆笑した。中には腹を抱えて、その場で伏せているものもいる。
そのうち、一人の部員が文成に近寄ってきた。
「平井君。ひょっとしてそれは、高田純次のギャグじゃないのか!?」
そう言って文成の肩を叩いたのは、夏でもないのに肌が浅黒い少年だった。これもまた文成と同じ背丈か、やや低めである。
「一度言ってみたかったんだよ。ものすごくいじり甲斐がありそうだったからね。予想通りの反応で面白かったよ。でも、亀梨和也はジョークとして、俳優の猪野学に似ているね。昔、昼のドラマで、修行僧の役をやっていた。ドラマのタイトルは忘れたけど。これは、ジョークじゃないよ」
文成は肩を叩いた少年には目もくれず、丸坊主の精悍な少年に貌を向けたまま言った。
「猪野学かぁ……。一度見たことはあるなぁ。確かに似ているかも。それにしても、中村も平井君にいじられるという事は、見込みがあるということかなぁ。あ、俺は、高安って言うんだ。高いの高、に、安いの安、と書くんだ。君と同じ一年生で隣のクラス。覚えてくれよ」
軽薄な浅黒少年が、また文成の肩を叩いて調子に乗りながら言った。
「高いか安いか、どっちかにしろよ。それで……、君は中村……、何と言うんだ、下の名前は? 主水と言うんじゃないだろうなぁ?」
文成は、高安という少年を適当にあしらって、まだ口をぽかんと開けている中村に尋ねた。なぜかしら今日の文成は、ひと言多い。
「あ、康一です! 中村康一と言います。健康の康に、一番の一です!」
緊張がほぐれない中村は、少し甲高い声で答えた。緊張の原因は、文成にまっすぐ見つめられているからだろう。もっとも、文成はそれに気づいていない。
「ふぅん。で、オレに何か用か? まだ片付けも終わってないのに」
相変わらず冷淡に文成は言った。正直、男の話は、尊敬できるものでない限り、面白くもなんともないと、文成は普段から考えていた。
「いや、その……、訊きたいことがいろいろあるんだけど、いいかな?」
恐る恐る中村は、尋ねた。というよりかは、まるでお伺いを立てているようだ。
「いやだ。時間も無いし、答える気分じゃない。なんだったら、遥に訊いたらどうだ? あいつならオレの事、何でも知ってるよ。大概の質問には答えてくれるんじゃないかな?」
愛想悪く文成は断った。
「じゃ、ひとつだけ、君の力について聞かせてくれないか!? どうやったら、手を互い違いにして、ホームランを打つ事ができるんだ!」
切迫したような声で中村は大声で言った。どうしてもこれを訊かなければ、と思っているのは明らかだった。
「1億分の1の確率で起こるまぐれだと思うよ。監督から、755本もホームランを打ったハンク・アーロンみたいだって、言われたけど、それだけの力は無いし、だいたい、バットを持ってボールを打つのは初めてだし。実力だとは思えないな」
「またまたぁ! まぐれで山崎さん以上に飛ばせるわけ無いでしょうがぁ。ほんとはかなりやってたんじゃないの?」
高安が話に割り込んできた。
「全然無いよ。第一、バットの持ち方さえ知らなかったんだから。普通に持ったら空振りしたのは見たよね。それでも経験者だというのかい?」
今度は高安をじろりと睨みつけ、声を低くして言った。両端が吊り上った眼を見て、高安はたじろいだ。とっつきやすいかと思っていた少年が、意外な貌を持ち合わせていたことに驚いていた。
「じゃ、普段の練習はどうなんだよ! あれだけハードな練習をしているのに、どうして息が乱れないんだ! 俺は毎日、君を見てるけど、俺や他の一年生が、最初のトレーニングでヘタばりかけるのに、君はまるで物足りないと言いたそうに、涼しい貌をしているじゃないか。こんなもの、トレーニングにもならないと言わんばかりに、君がため息をついているのを、俺は見てるんだ。どうなんだよ! ほんとはいくらでもホームランを打てるほどの力を隠してるんだろ!!」
まるで告発、と言うか、糾弾するかのように、中村康一は怒鳴り散らした。自分の意見が正しくなければいけない、と訴えているようにも思えた。
こんな風に言われると、大抵は反発するものだが、醒めた目を持つ風刺家である文成は、これだけ言われて、却って醒めた声で答えた。
「そう思うのは君の問題であって、オレの責任ではない。そう思いたければ、そうしろ。オレの知ったことじゃない。だいたい、互い違いにバットを持ってホームランを打ったところで、腕が痛いだけだ。それに、そこまでオレを見ていれば、後はちょっと考えれば済む話だろ? とっとと片付けて帰ろうぜ。もう真っ暗だ」
文成は中村に背を向けて、その場を離れ、片づけを再開した。もっとも、ほとんど終わっていたが。
一方、背を向けられた中村はその場で立ち尽くしたまま、文成を凝視していた。
(あんな風に言うつもりじゃなかったのに。どうして、あんなことを言ってしまったんだろ? ただ、あいつのことを知りたかっただけなのに……。いつもこうなんだよなぁ、俺。何をやってもうまくいかない……)
どうにも不器用な“修行僧”は、後悔の念に捕らわれていた。まるで、好きな女の子に告白しようとして失敗し、沈んでいるようだった。
文成がBOCから与えられた2Kのアパートに帰宅したのは、午後7時をかなり過ぎた頃だった。1階奥の、104号室のドアに鍵を入れようとしたその瞬間、まるでその時を見計らったかのように、誰かが声を掛けた。
「平井さん、書留です!」
書留と言うからには、相手は郵便配達だろう。そう思って貌を向けると、その通りだった。文成の見立てでは、20代後半の男性のようだ。雰囲気としては、劇団に所属しながら、アルバイトをしているような男性である。貌が何かしら、とぼけた感じだ。
文成に駆け寄った郵便配達は、サインを求めた。文成は面倒くさそうな貌をしてペンを取り出し、捺印する欄に、殴り書きするようにサインした。
「はい、ありがとうございます」
快活に礼を言った郵便配達は、書留である封筒を渡した。文成が封筒に手を触れた瞬間、何を思ったか、郵便配達は文成に貌を近寄せた。そして小声で、
「東海支局より、指令が来ました。詳しい内容は手紙に書いてありますが、あなた様のエージェントでもある支局長が、名古屋にある支局に来るようにとのことであります」
と、淡々と伝えた。
文成は微苦笑すると、何事もなかったかのように、
「ごくろうさま」
と、労をねぎらった。それで、郵便配達は踵を返し、足早に去って行った。
中に入ると、文成は早速来ているものを脱ぎ、食卓にしている部屋に放り投げた。鞄などもそこに置くと、バスルームに行き、シャワーの栓を開いた。冷水を最初に浴びて、次に40℃の湯を浴びる。そしてまた冷水に戻す。これを数回繰り返して、ラストは冷水で締めた。
シャワーを終えると、バスタオルで水気を拭い取り、裸のまま、部屋に戻って、先ほどもらった書留の封を開けた。
中身は確かに、BOC東海支局のある名古屋に来るように、との事だった。名古屋駅に到着する時刻を指定したり、また、そのときに組織の人間に接触する際の暗号なども記されていたりしていた。
内容自体は非常に簡潔だったが、だが文成は手紙をじっくりと見て、少し違和感を覚えた。字体そのものは、パソコンで打っているので特徴はない。文面も形式ばっている。が、封筒や手紙に、暗さや陰りが無かった。秘密組織らしからぬ特徴である。
そして最も違和感を覚えたのは、手紙から、なにやら妖美な雰囲気が漂っていたことである。根拠や理由がわかっているわけではない。ただ、なんとなくである。しかし文成は自分の直感を疑わなかった。そこに必ず意味があると思った。そしてそれが、今後の自分の生涯に、もっとも大きな影響を与えることを確信した。
そう思うと、名古屋に行くことが楽しみになってきた。いったい、どういう奴が自分を待ち受けているのか。わかっているのは、自分をとことん喜ばせる奴なのだろう。それだけは間違いないと、文成は思った。
文成は手紙を折りたたんで、クローゼットの中に片付けると、今度はキッチンに向かい、冷蔵庫から水の入ったペットボトルを取り出して、タンブラーに入れて飲み干した。続けざまに、二杯三杯と飲み干す。そして、ペットボトルを片付けると、そのままベッドに入って眠りについた。甘美なる死の世界を求めて。
第26話へ続く
|
|
|

|