堕天使 〜Prinzipal der Finsternis〜

第24話 ドリンクをかき回すストロー


 弘成高校の野球部のグラウンドは、文成や遥がいた教室から最も遠く離れており、たどり着くまで8分も掛かった。しかし、マネージャーの絵理子とRAINBOWの話で盛り上がったおかげで、うんざりした気持ちにはならずに済んだ。どちらかと言えば、このままずっと居たかったくらいである。グラウンドにたどり着いて見てみれば、なかなか大勢の部員が練習に励んでいた。
 グラウンドの広さは、両翼が92m、左右中間が113m、そしてセンターが118mとなっている。フェンスの高さは3mちょうど。全体的に狭く、打者有利のグラウンドといったところだろう。ちなみに阪神甲子園球場は、両翼が96m、センターは120mである。
 絵理子は文成と遥をベンチに連れて行った。そして、腕組みして練習を見ている小柄な老人に声を掛けた。
「監督、見学者を二人連れてきました」
 絵理子に監督と呼ばれた老人は、絵理子たちに気づくと立ち上がって両手を後ろに組んで見上げた。まるで鷹の目のように眼光が鋭い。
「監督、こちらは今年入学した平井文成君、その隣にいるのが草薙遥さん。平井君、草薙さん。この人が弘成高校野球部監督の森田茂道よ」
 絵理子が一通り紹介を終えると、文成と遥は監督に挨拶をした。
「ワシが森田じゃ。よろしくな。う〜んと、草薙君といったか、君の名前はよく聞いておる。未来のプリマドンナと嘱望されておるそうじゃな。なるほど良い貌をしておるわい。そして、君か、近頃有名な平井君と言うのは。草薙君の婚約者じゃな」
「違います。草薙さんはその気になってますが、僕は、婚約する気は毛頭ありませんので。愛してもいないのに結婚しようものなら、先の悲劇が待ってますので」
 監督の言葉を、文成は即座に否定した。まさに断固たる態度である。この話になると“美少女”の貌は、鋭く攻撃的とさえ言える厳しいものになる。絵理子は思いもよらぬ新入生の貌を見て、双眸を広げて驚いた。監督も、意外なものを見たと言いたげに、驚嘆している。遥はと言うと、慣れているのか、全く表情を変えていない。
「ほほぉ。面白いことを聴いたのぉ。女の子のほうは積極的なのに、男の方が徹底的に否定しておるわい。どうかの、草薙君。平井君はああ言っておるが」
 監督は興味津々と言わんばかりの笑顔で遥に尋ねてきた。すると、遥は涼しい貌をして微笑みながら答えた。
「今、彼は婚約する気持は無いそうです。一週間後にはどうなっているかわかりませんが。私は、彼が何と言おうと、将来結婚するつもりでいます。私が見守っていなければ、彼、何をするかわかりませんから」
 そういった後に、遥は文成を見て、意味ありげに微笑んだ。それを見た文成は、すっかり苦り切った貌をしている。
「まぁ、将来どうなるかは、楽しみにしておこう。さて、平井君か。見たところ、平野君より背が低そうじゃなぁ。身長と体重は?」
 小柄な監督は話を切り換えて、文成に言った。
「身長170cm、体重60kgです。それが何か?」
「細いのぉ……。今まで何かスポーツはやっていたのか?」
「何もしていません。ただ、スポーツではありませんが、4歳のときに、草薙さんに誘われてクラシックバレエを習っていました。6年やって辞めましたけど」
「ほう! 君もバレエを習っていたのか!? なんで辞めたんじゃ?」
「話せば長くなりますが、掻い摘んで言えば、10歳のときに、両親と妹を亡くして、孤児になってしまいました。その後は草薙さんのお父さんの世話になりましたが、バレエを続ける気力は失せました」
 さすがにこの話になると、文成も暗い気持ちになるようで、表情が翳っている。
「そうか……。わかった。話は変わるが、ひとつ、君の躯をよぉく診させてくれんかの? いやなに、筋肉のつき具合を知りたくての。どうかね」
 監督の話を聴いて、文成は少し戸惑い、絵理子の貌を見た。
「ふふっ。別に心配することは無いわ、平井君。監督は見学者を見るたびに筋肉のつき具合を知りたがるから。他意はないわ」
 絵理子が笑いながら答えると、文成は安堵したようだ。随分と繊細な少年だ。
「わかりました。では、どうぞ」
「うむ。では、腕から診ようか。そこに座ってくれ」
 監督に言われて、文成はベンチに腰掛けた。上着を脱ぐと、カッターシャツの袖を捲り上げ、そして、目の前の小柄な老人に向けて、両腕を差し出した。
 監督はまず、文成の右腕から調べ始めた。手の甲はかなりごつごつとした印象だが、掌は妙に温かみのある感触である。監督の手が指先から手首、肘へと上がるにつれ、文成の頭はじんわりと痺れ始めた。
 一通り右腕を診た監督は、次に左腕に取り掛かった。表情を一切変えず、真剣に調べている。絵理子は、いつものことと普段どおりに見ているが、遥は少し緊張した面持ちで眺めている。
 左腕を診た監督は、文成にカッターシャツを脱ぐよう促した。言われたとおりにカッターシャツを脱ぐと、監督は文成のうしろに回りこんで、今度は背中を“触診”し始めた。触られている文成にしてみれば、なにやらマッサージを受けている気持になった。微妙な力加減で調べる監督の手が文成の筋肉を適度に揉み解し、リラクゼーションを施しているのかと思ってしまう。実際、頭全体が心地良く痺れ、陶然とした心境である。
 文成が痺れている間に胸や腹を診た監督は、文成を立ち上がらせた。そして、遠慮会釈も無く、文成の尻から触り始めた。
 さすがに文成も尻を触られた途端、ビクッと、緊張を走らせた。が、文成より緊張を走らせたのは、他ならぬ監督だった。触れた瞬間、電流でも走ったのか、双眸を大きく広げ、驚いた貌をしている。そして、それまでゆっくりと触診していたのが、一転して、ぐいぐいと忙しなく揉み始めた。尻、太腿、脹脛、脛と、まるで憑かれたかのように揉みながら、時折、ほぅ〜っと、感心したように唸る。
 一方、急に力強く揉まれた文成は、どうして良いのかわからず戸惑っていた。こうも下半身を力強く揉んだ人間は初めてである。しかも、感心しながら興味深げに揉むこの老人に、奇妙な感慨を持ち始めた。
 監督がこのような行動に出るのは初めてなのか、マネージャーの絵理子は目を丸くして見ていた。が、あまり長引かせるのはよくないと思ったのだろう。
「あの……、監督?」
 絵理子が声をかけると、ようやく監督は、
「よし!」
 と言って、文成の太腿をやや強めに叩いて触診を終えた。そして、背を伸ばし、首を反らして見上げ、戸惑っている文成の貌を見て、にやりと笑った。
「どうやら、非常に興味深い奴だな、平井君。平野君、面白い奴を連れてきたな」
 監督は笑っているが、文成や遥、そして絵理子でさえも、何のことだかさっぱりわからない。
「どうじゃ、平井君。ひとつバットを振ってみるか」
「えっ!?」
 突然の監督の提案に、文成は驚きのあまり、甲高い声を上げた。
「なに、今、あそこで投げている奴の球を打ってみんかと、訊いておるんじゃ」
 小柄な監督は笑顔で文成の肩に掌を置いて尋ねた。監督の態度が随分親しげなものになったが、思い返せば、先ほどから言葉に"奴"という表現がしばしば出ている。どうやら、本来の貌が出てきているのかもしれない。しかし、眼光はかなり鋭くなっていた。まるで、掘り出し物を見つけたかのようであった。それを見た文成は、何かとんでもないことになりそうな予感を覚えた。
「見ているだけでは、野球が面白いかどうかも完全にはわからんじゃろ? 実際に打席に立って、野球を体感してみるのも、良いと思うがの。入部するかどうかは、それから考えても良いしのぉ……」
 森田監督はほくほくと笑いながら、文成に打席に立つことを勧めた。笑ってはいるが、眼光はまるで鷹のそれのように鋭く、何か獲物を捕らえたかのように思える。この監督は、野球を観た事すら無い人間を入部させる気になったのだろうか。文成は訳がわからなくなってきたが、悩んでも仕方の無いことと、すぐに気持ちを切り換えた。
「はい。一度、やってみます」
 気乗りはしないものの、文成は承諾した。
「うむ。それじゃ、そっちにバットが適当に置いてあるから、好きなものを選べ。それと、ヘルメットじゃ」
 老監督は適当なことを言って、文成にヘルメットを渡し、金属バットを取るように言った。言われた文成は、渡されたヘルメットを被ると、バットケースに入っている中から、一本をすらっと抜き取って、目の前にかざした。
 鉛色に鈍く光るバットを手にした文成の目が、不気味なくらい鋭く輝きだした。両脇を締めながらグリップをぐいぐいと引き絞るその様子は、暴虐とも言うべき、破壊的な衝動を掘り起こそうとしているように思えた。知らず知らずのうちに口元が吊り上り、残忍な笑みが浮かび上がる。どうやら、かつて金属バットで虐殺に興じていた時の事を思い出したようだ。
 禍々しき凶獣の貌が、くっきりと浮かび上がろうとしていたその時。
「文成!」
 半ば悲鳴のような甲高い声が、右耳から入ってきた。意識が戻った感覚を覚えた文成が、声の発せられた方角を見ると、遥が微かに震えながら、絵理子にしがみついて半身を隠しながら見つめていた。絵理子はと言うと、不思議なものを見るかのような目つきだったが、老監督は腕組みをして、厳しさというよりは、緊張した面持ちで文成を見ていた。
 遥の切迫したような声を聞いた文成の貌は、すっかり、穏やかなものに戻っていた。文成は白い歯を見せて微笑むと、バットを置いて遥に近づき、そっと抱きしめた。
「大丈夫、大丈夫だから。心配する事は無いよ」
 小刻みに震える遥を慰撫するように、文成は、左掌で背中を撫で回しながら、優しくささやいた。そして、遥の右頬に唇をつけた。
 間を置かずに、グラウンドの一塁側のフェンスの外側から、黄色い悲鳴が一斉に上がった。いくらか冷やかしの声もちらほらと聞こえたが、すぐ悲鳴にかき消された。
 見ると、いつの間にかグラウンド周辺を、数多くの女子生徒が取り囲んでいた。大半がセーラー服だったが、中には体操服や、それぞれの運動部のユニフォームも見受けられる。男子生徒もいくらかいるのだが、比率で言えば、9割前後が女子といったところだ。いずれにしろ、大多数の女生徒が文成を非難していた。
「婚約してないと言ったじゃない、この嘘つき!」
「結局、その女が大事なの!?」
「わざわざ見せつけなくたって良いじゃないの!」
 そうかと思うと、
「そんな女なんかにしないで、あたしにしてー!」
 と、勝手なことを言う女生徒もいた。
そんな女生徒たちに対し、文成はうんざりした気分で、別にどうだっていいだろうと、思った。少し憂鬱になった美少年は、オーディエンスに一瞥をくれただけで、すぐに老監督に貌を向けた。
「では、監督。お願いします」
「うむ。じゃ、行こうかの」
 監督が先に歩き出し、その後を、文成、絵理子、そして遥の順で歩いて行った。
 バックネット裏にたどり着くと、監督は打撃練習をしている選手に声を掛けた。
「渡辺、ちょっと来てくれ」
 渡辺と呼ばれた選手は、振り向いて監督たちに気づくと、バックネット裏にやって来た。かなり大柄な少年で、見たところ180cmくらいであろう。がっしりとした体躯で、剛健なイメージを漂わせている。
 面長な貌はやや彫が深く、細長くも色濃い眉と切れ長の眼がシャープさを表しており、鼻が、文成ほどではないにしろ、やや高めである。ただ、微妙に唇が厚いのが、すこしバランスを崩しているように思える。
 文成は彼を見て、負けん気の強い悍馬を想像した。競走馬で言うならば、最後の直線で殿から追い込んで、一気に前の馬たちを差し切る追い込み馬といったタイプだ。
「監督、どうかしましたか?」
 渡辺が監督に尋ねると、監督は絵理子を見遣ってから言った。
「渡辺、今日の見学者じゃ。平野君、彼らの紹介をしてくれ」
 絵理子は微笑みながら応じた。
「はい、かしこまりました。キャプテン、こちらは平井文成君。私が入部を勧めているんだけど、野球の経験が全く無いと言うから、見学してから判断してもらおうと思って、見に来てもらったの。平井君の隣が、草薙遥さん。バレエダンサーで、国際的なコンクールで何度か優勝するほどの才能の持ち主よ。平井君とは幼馴染なの。
 平井君、草薙さん。こちらが野球部のキャプテンを務める、渡辺敬仁。私と中学からの同級生で、クラスも同じなの。打撃はそこそこのレヴェルだけど、守備は県内トップクラスなのよ。気が短いのが、玉に瑕だけど」
「おいおい、マネージャー。ちょっとシビアに言ってないかい? もう少し、持ち上げてくれよ」
 マネージャーの紹介に、渡辺ははにかむように苦笑いした。
「それで、君が噂の平井君か。野球の経験が無いんだって? 子供の頃に、お父さんとキャッチボールとかしなかったのかい?」
 渡辺は笑顔で文成に話しかけてきた。
「はい、しませんでした。僕が子供の頃、父はよくノーザンホースパークとかに連れて行ってくれて、馬に乗せてもらったり、競馬場に行って、なんか、特別室みたいなところで、一緒に観戦したりとかしましたけど、ボールを投げたりはしませんでした」
「なっ! け、競馬場!!」
 思いもよらないことを聴いたと言わんばかりに、渡辺は仰天した。いや、渡辺だけではない。マネージャーの絵理子も、老監督も、双眸を大きく広げて、文成を見た。
「おまえの親父は、競馬好きだったのか?」
 老監督が、驚きが抜けない声で尋ねた。
「はい。なんか子供の頃から馬が好きだったみたいで、草薙さんのお父さんと一緒に、けんかした事もあったそうですよ。ホウヨウボーイが勝つとか、モンテプリンスが勝つとか。それが高じて、馬主をやってたんじゃないかなぁ。子供の頃の話だから、良くわかんないけど、たまに、記念撮影で勝った馬と一緒に写ってたから……」
「馬主? 馬券を買ってたんじゃないの?」
 絵理子が不審そうに尋ねた。
「馬券を買うのは嫌いだと言ってました。ギャンブルは好きになれないからだと。でも、馬を買うのも十分ギャンブルだと思うけどなぁ。なぁ、遥」
 そう言って、文成は遥に話を振った。振られた遥はと言うと、あまり良い貌をしていなかった。
「文成君の言うとおり、確かに、私の父も競馬が好きで、今も、個人ではなく、共同馬主をやっていますけど……。私はあんまり好きじゃないんです、競馬に夢中になる人って。自分の馬が出走する日になると、わざわざ競馬場まで行って観に行くし。そうじゃないときはTVの前で、やたらうるさくて、嫌になっちゃいます」
 遥が憮然とした表情で愚痴をこぼすのを見ながら、文成はニヤニヤしていた。文成と遥のやり取りを見ていた渡辺は、からからと笑って、今度は遥に話しかけてきた。
「ははは。確かに競馬に夢中になる休日のお父さんは、困りものだなぁ。それはわかったけど、草薙君。この平井君と婚約したと言う話を、詳しく聞かせてくれないかなぁ?  色々と噂が飛び交って、本当のことがわからないんだ」
 すると、遥は満開の桜のように貌を輝かせて、熱情を迸らせながら語り始めた。
「はい。私の両親と文成君の両親が、非常に仲が良くて、将来、自分たちの子供が異性であるなら、結婚させようと、約束していました。だから、あたしたちが生まれたときは、父と文成君のお父さんが興奮して、人が見ているにも関わらず、病院でハイタッチしたり、腕をぶつけ合ったりして大喜びしたんです」
 熱情的に語る遥とは対照的に、文成は腕を組んで、冷淡な表情で遥の話を黙って聴いていた。そんな文成の表情をちらと見た渡辺は、さらに遥に質問を重ねた。
「そうか、なるほど。でも、これも噂で聞いただけだが、君がこれほど熱心なのに、平井君は全く婚約する気はなさそうだし、今も良い気持で聞いているわけではなさそうに見えるが、これはどういうことかな?」
 渡辺はできるだけ柔らかく朗らかな声で尋ねた。聞きしに勝る、美少女相手に、少し鼻の下を伸ばしているようだ。
 この質問を聞いた文成が口を挟もうとした瞬間、わずかに早く、遥が先に言った。
「文成君は将来、妹である久美子ちゃんを、お嫁さんにするつもりだったそうです」
 遥が何のためらいも無く、しかも、『ド』が付くほど、きっぱりと言ってのけたので、文成はさっと遥を見て、貌を強張らせて睨みつけた。渡辺は完全に腰が抜けて、尻餅をついてしまった。監督もさすがに驚いて、文成を見上げた。絵理子に至っては、後ずさりして、信じ難いものを見るかのように文成を見ている。
 驚いたのは彼らだけではなかった。遥がここにいる全員に聴かせるつもりで言ったので、練習していた野球部員もバックネットに群がって、呆然と文成を見つめていた。噂に聞いた、超有名なバレリーナの婚約者が、実は《シスコン》だったとは……。
 野球部員たちの視線に気づいた老監督が、咳払いを一つしてから、
「おまえら! 手を休めるな! しっかり練習しろ! さもないと、甲子園なんざ、死んでも行けんぞ!!」
 と、まるで破れ鐘のように怒鳴りつけて、部員たちを散らせた。蜘蛛の子を散らすかのように、部員が去ると、ようやく起き上がった渡辺が口を開いた。
「平井君……、今の草薙くんの話、本当か?」
 文成は微笑してから、静かに言った。
「否定はしません。本当のことです。何か、お気に障る様なことでも?」
「いや、別に気に障ることは無いけど……、その……、なんだ。あ、するつもりだった、と草薙くんが言ったけど、だったとはどういうことなのかな?」
 文成があっさりと認めたので、ややたじろいだ渡辺だったが、すぐに思い出したように質問を重ねた。
「6年前に、交通事故で、両親と妹が死んだんですよ。だから、僕はそれ以来ひとりっ子でして。草薙さんのお父さんにはずいぶん世話になりました。それでも、僕は草薙さんと結婚する意志はありません。草薙さんは好きではあっても、妹のように、愛してはいませんから」
 淡々と語った文成ではあるが、その声はやや暗く湿っていた。表情もふたたび翳っている。そんな文成を見て、渡辺もやや沈痛な面持ちになった。
「そうだったのか。結構苦労してきてるんだな。すまなかったな、つらい事を思い出させたようで」
「いえ、昔のことですから。どうせ、先に進まなきゃならないですから」
「そうか、わかった……。監督、平井君に何か、させるんですか? 見学させるだけではないんでしょう?」
 文成の話に、一応区切りをつけた渡辺は、改めて、監督に尋ねた。
「うむ、実は平井君に、打席に立ってピッチャーの生きた球を打ってもらおうかと思ってのぉ……。今、マウンドにいるのは誰じゃ?」
「白田です。左ですけど」
「そうか。まぁ、良かろう。平井をテストと言うと、ちと、大袈裟じゃが、やらせてやってくれんか」
「えぇ、良いですよ。平井君、ではやってみるか」
 渡辺がそう訊くと、
「はい」
 と、二つ返事で文成は答え、そして頭を下げた。
 文成を従えた渡辺は、バッターボックス近くまでやって来ると、怪訝そうな貌をしている白田に声を掛けた。
「白田、ちょっと来てくれ」
 マウンド上の白田は、勢いよく駆け込んできた。上背はなかなか高く、キャプテンの渡辺と比べても、さほど見劣りしない。
「白田、真木。平井文成君を、紹介しよう。マネージャーがスカウトして来たんだが、野球の経験は全く無い。今日は、感触を知ってもらうということで、バッティングさせようと思うんだ。すまないがちょっと付き合ってやってくれ。
 平井君、こいつが白田龍彦といって、二年生の左ピッチャーだ。まあ、将来のエース候補だ。で、こっちが、真木忠顕といって、わが弘成のホームベースを守る正捕手だ」
 渡辺が紹介を終えると、文成は、よろしくお願いしますと言って、ゆっくりと辞儀をした。
「よろしくな、平井君。俺が真木だ。わからないことがあったら、何でも俺に訊けよ。野球のことだけだけど」
 そう言いながら、真木はにこやかに文成と握手した。身長は175cmと、さほど大きくはなく、体重も72kgで、捕手特有の“パッジ(ずんぐりや、太っちょの意)”ではない。貌を見るとあまり大きくなく、また、にきびも見られなかった。優柔でもないが、剛健でもない。何か中途半端な風貌だった。
「白田だ。よろしく頼むよ」
 簡潔に挨拶した白田は、なかなか優しげな声の持ち主だった。マスクもなかなかのものだ。彫が深く、まるで彫刻刀で彫ったような貌である。精悍、と言うよりは、剽悍と言った方が良いような、顔立ちだ。上半身が屈強に鍛え上げられていて、特に肩の肉の盛り上がりが、気の強さを発散させているようだった。なるほど、キャプテンがエース候補と言ったのも、理解できた。それくらいなら、野球の知らない文成でもわかる。
「じゃ、さっそく始めてくれないか。白田、手を抜かなくて良いぞ。思いっきりやってくれ。平井君、出来なくても良いから、思いっきり振るが良い」
 渡辺が、いかにもキャプテンらしい口調で、始めさせた。
 文成は、いったんバットをバックネットに立て掛けると、着ていた学生服を脱いだ。カッターシャツ姿になると、裏側に回り、遥に手渡す。受け取った遥は、まるでわが子を抱くかのように、両腕でぎゅっと、文成の黒服を抱え込んだ。
 この時、絵理子は自分の前を通る文成に異常を感じた。黒い学生服を着ていたときには感じられなかったものが、脱いだあとに、それが現れた。文成の躯から、何とも言えない、快い匂いが発せられていたのだ。そしてそれは、文成がバッターボックスに立ってからも続いていた。いや、さらに芳香が強くなっていた。その匂いは、香水のような人工物で精製された物とは、明らかに違っていた。
(なに、これ? いったい、何!? まるで、柑橘系の匂い……、グレープフルーツのような匂いだわ。酸味が強いけど、それが却って爽やかな……。それでいて、ほのかな甘さが混じっている。なんなの、どうして彼の躯からそんな匂いが漂ってくるの? それにこの匂い……、すごく、気持が良い……)
 絵理子は戸惑い、そして全神経に行き渡る快感に酔いそうになった。だが、慌てて首を振って、気を取り戻し、遥に尋ねた。
「ね、草薙さん。今、平井君が制服を脱いだ瞬間、すごく良い匂いがしたんだけど、まるで男の匂いがしなかったわ。彼、昔からあんな匂いがしたの?」
 すると、遥はやや得意げな表情を見せて答えた。
「えぇ、そうなんです。生まれたときから、まるで花のような匂いを漂わせていました。嗅いでいると、子宮に響いてきそうでしょ。文成は全然気づいてませんけど、女の子たちが近づく本当の理由は、文成の匂いなんです」
 遥は言い終えてから、少し悪戯っぽく微笑んだ。
「花のような匂いだとは思わなかったわ。なにか、果実のような匂いだった。グレープフルーツみたいな、甘酸っぱい匂いだったわ。でも、子宮に響くというのは、間違いないわ。今にも卒倒しそう……」
「ここで卒倒したら、大騒ぎになりますわよ、平野先輩」
 また、遥が悪戯っぽく笑った。
「あいつの匂いはともかく……、なかなか、面白いもんが見られそうじゃ」
 不意に、森田監督が口を開いた。絵理子と遥が不思議そうに監督を見ると、
「ほれ、平井君を見てみろ。知らないというものは、面白いというのが、よくわかるぞ」
 と、監督が笑いながら文成を指差していた。それを見た途端、二人とも、文成の異様な構えに釘付けになった。
 どのように異様なのかは後に譲るが、このときこの瞬間、すべてが、不恰好に構える華奢な“美少女”を中心に回る事になると気づいたものは、誰一人としていなかった。知らず知らずのうちにこの世界が、彼によってかき混ぜられていたのである。



第25話へ続く


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