堕天使 〜Prinzipal der Finsternis〜

第23話 STAIRWAY TO THE STAR


 文成のアジトとして用意されたアパートは、六畳二間にキッチンが四畳半、トイレに浴室も備わった、15歳の少年が住むには広すぎる部屋である。
 雪彦は冷蔵庫から、プロシュートという名のイタリアの生ハムとモッツァレラチーズ、それにレタスを挟んだパニーニとジンジャーエールを取り出して、文成に勧めた。
「用意が良いねぇ。もう冷蔵庫に食料が入っているのかい?」
「今日はお祝いだ。ささやかだが、これで乾杯しよう」
 雪彦は陽気に言った。そして、床に座り込んで、互いのグラスに黄金色の液体を注ぐ。
「では、文成君の前途を祝して、乾杯!」
 雪彦はそう言ってグラスを合わせた。文成も微笑んで合わせると、一気にジンジャーエールを飲み干した。
「相変わらず飲みっぷりが良いねぇ。向こうにはジンジャーエールが無くて困っただろう?」
「あんな修羅場を潜り抜けるには、必要最小限の食事で済まさないと、かえって脱落しやすくなるからねぇ。ジンジャーエールの事なんて、考えもしなかったよ」
 そう言ってから文成は軽くおくびした。
「あそこは卒業試験で900点以上を取れば、卒業なんだが、まさか、994点も取るなんて。やっぱり君は、ただ者じゃなかったな」
「何を言ってるんですか、雪彦さん。首席卒業の特典といって、タンザニアのザンジヴァル島でのヴァカンスをもらったけど、3週間以内に組織に莫大な利益をもたらす破壊活動の成果を上げなければ、処分するって、これが本当の最終試験だったんじゃないのか?」
 文成は半ば愚痴るように言った。今日はジンジャーエールだけでなく、パニーニもきちっと摂っている。
「ははは。よくそんな愚痴が言えたな。愛知県警のコンピューターをダウンさせて、捜査ファイルを盗み出すわ、日本政府や与野党、官公庁のサーバーをダウンさせるほどのハッキングをやるわ、やりたい放題じゃないか。それにしても、政治家や大臣、官僚の汚職ファイルを盗み出すなんて、よくそんなことができたなぁ。しかも、200人分も」
 雪彦が、舌を巻いたと言いたげに、感心して、ジンジャーエールを飲み干す。
「あれは、気がついたら、メールボックスに入っていたのさ」
 文成が、何かすまなさそうというか、面映いというか、そんな微笑を浮かべて答えた。すると、雪彦はパニーニに伸ばそうとした手を、ぴたっと止めた。
「なんだって? いったい誰だ? 誰が……、というより、なぜ君が使用していたメールアドレスがばれた!? なぜ!?」
 信じられないと言いたげに、雪彦は貌を紅潮させながら怒鳴った。
「上には上がいるんでしょ? ファイル共有ソフトにではなく、メールボックスに送りつけるとは、興味深いですね。しかし、ウィルスではなく、汚職ファイルを送るとは、なかなかの酔狂ですよ。どうしてどこの馬の骨ともわからぬ奴に、そんなとんでもないものを送ったのか。相手のメアドを探りましたけど、間一髪、削除されてました」
 驚きのあまり、怒りをも表す雪彦に対し、文成は努めて冷淡に答えた。最初の一瓶目のジンジャーエールを飲み干し、お代わりを要求する。
 雪彦は空瓶を掴むと、立ち上がって再び冷蔵庫に行き、空瓶を横に置いて、二瓶目のジンジャーエールを持ってきた。
「誰が送ってきたかは、とりあえず置いておこうか……。しかし、すごい中身だなぁ。組織が狂ったように喜んでいたぞ」
 あっさりと落ち着いた雪彦は文成の所業に再び感嘆の意を表した。
 文成が入手した汚職ファイルの内容は、増税や政策インフレを駆使して私腹を肥やすことを謀っているものや、機密費を流用して国費を浪費していると言った、ありふれた物から、株価操作によって不正に収入を得ているもの、さらには、アジア諸国向けに人身売買を行うものもあった。
 特に文成が驚いたのは、ODAや国連分担金にまで手を付け、それを東アジア諸国への"投資"に使っているものがあったことだった。
「思うに、政治に携わるものは上から下まで、不正を常識としているのか? 驚くよ」
 文成は苦笑いしながら言った。
「戦後の政治家は、というか、戦後の日本全体が、物質至上主義というか、金儲け主義に走ったからな。政治家や官僚の座右の銘は、〈漁父の利〉なのさ。朝鮮やヴェトナム、バブル経済を見ると良くわかる」
 雪彦がやや醒めた口調で皮肉った。
「朝鮮やヴェトナムはわかるけど、バブルはどういう意味です?」
 文成が首を傾げて尋ねると、雪彦は小さく冷笑してから言った。
「あれは、円高その他諸々の経済的事象を利用して、株価を意識的に吊り上げるよう仕向けたものさ。上がるだけ上がった所で、どん底に叩き落す。上げて儲ける奴もいれば、下げて儲ける奴もいたよ。ファイルに書いてあったろ?」
「まぁね」
 言われて文成も冷笑した。
 ともあれ、文成が強力な“スキャンダル・ファイル”を手に入れたおかげで、BOCは、日本が破産するまで恐喝することができると、半ば狂喜し、まず、ODAと国連分担金に関する不正の件で日本政府を脅しあげた。絶対露見しないと高を括っていた政府は完全に震え上がり、唯々諾々と要求に従った。
 その内容は、毎年日本円で50億円をODAの名目で、ルクセンブルクを根拠地とする、ヴィッテンドルフ銀行に振り込むこと(言うまでも無く、BOC支配下の銀行)、そして、過去三年間に発生した事件、数百件の捜査を完全に打ち切ること(当然、その中には文成が関わった事件も含まれている)、さらに、日本国内の英国大使館、英国総領事館、英国領事館の周辺地域を事実上譲渡させることだった。これでイギリスの日本における治外法権領域が広がったのである。同時にそれは、BOCの組織構成員の緊急避難先を作ることにもなった。
 これにより、文成は日本警察に悩まされること無く、帰国することが可能になったのである。
「さて、文成君。いろいろと渡さなければならないものがある。まず、これはヴィッテンドルフ銀行のカードだ。クレジットも可能だが、預金が5億円もあるから、必要ないだろう。それとこのアパートの鍵を二つ。そして……、こっちだ」
 雪彦は立ち上がると、文成を促して、もう一つの部屋に入った。
 寝室となっているその部屋は、なぜかダブルベッドが据え付けられていた。部屋の入り口から見て、向かって左手奥に、クローゼットが備えられいる。
「文成君、そのクローゼットを開けたまえ」
 部屋の照明をつけた雪彦に言われるままに、文成はクローゼットを開けた。そこにあるのは、文成のための衣類である。
「雪彦さん。オレの服しかないけど」
「クローゼットの右下に、ダイヤル式のキーシステムが隠されている。ちょっと押してみたまえ」
 わけのわからないまま、右下の部分を押すと、どんでん返しの要領で、キーシステムが現れた。板の上に電卓を貼り付けたような感じである。
「そこに君の暗証番号を打ち込みたまえ。ナンバーは…………」
 雪彦に教えられた10桁の数字を打ち込むと、クローゼットの壁が左右に開いた。そして中から、銃器と大量の弾薬が出現した。
「Wow! すごい数だねぇ……」
 文成は驚嘆しながらも、うれしそうな声を上げた。かなり興奮しているらしい。
「気に入ってくれたみたいだね。今日から君は、BOCの日本支部・東海支局の破壊班員だ。そのために必要な武器は揃えておいた。すぐ死なれては困るから、防具も用意してある」
 雪彦が言うように、武器弾薬だけではなく、ピューマ・タクティカル・アサルト・ベストと呼ばれる、ボディ・アーマーが5着、そしてボディ・アーマーの下に着込む為のチェーンメイル(鎖帷子)も5着用意されていた。
 肝心の銃器はというと、ピストルが、コルト・コマンダー.45ACP(11.43mm×23mm)、モーゼルHsc.32ACP(7.65×17mm)、.380ACP(9mm×17mm)弾使用のワルサーP.P.K。そして、ドイツ軍制式拳銃である、H&K(ヘッケラー&コック)モデルUSP・9mmパラベラムの計4丁。ライフルは2丁。ひとつは、ウィンチェスター・M94。30口径6連発のレバー・アクションスタイル。もうひとつは、FNモーゼル。30−06弾6連発のボルト・アクションスタイルだ。ボッシュ&ロームの最大8倍ズームのスコープがついている。この2丁のライフルは狙撃用だろう。
 さらにサブ・マシンガンまで収納されていた。文成がテトラーク島で常に使用していた、イギリス軍の制式サブ・マシンガン、9mmパラベラムのL2A3(スターリングMk4)34連発と、.45ACP弾薬使用のH&K・UMP45サブ・マシンガンだ。
 弾薬ともなると、数え切れないほど揃えられていた。他にも、手榴弾が数十個飾られている。これらの武器を見て、文成はまるで玩具を見て喜ぶ子供のように目を輝かせていたが、同時に破壊欲のために勃起していた。なにやら、裡に潜む凶獣も舌なめずりしているようだ。
「どうだね、文成君。これだけあれば、中京圏を組織の支配下に置くのは、容易なもんだろう」
 雪彦はなにかしら得意げに言った。これだけの武器弾薬を揃えた事を自慢しているのか、それとも、文成の腕を信じているのか。
「できなくはない、と言いたいけど、何が起こるかわからないのは、世の常でしょ。万が一、弾薬が尽きた場合の補充はどうするんです?」
 文成は振り向いて、微笑しながら言った。
「それは心配ない。エージェントを通じて、必要な武器弾薬を発注すればいいし、また破壊工作に必要な人員も要請して良い。その判断は君に任せる」
 雪彦は笑みを含んで言った。
「エージェントって、雪彦さんが務めるんじゃないのか?」
 いぶかしげに文成が尋ねた。てっきり、後見人である雪彦が自分のエージェントを務めると思っていたからだ。
「私ではない。ある人物がエージェントを務める事になっている。その人物とは、東海支局の支局長でもあるんだ。連絡に関しては通常、専属の通信使(ヘラルド)を遣う事になっている」
「そうですか……」
 文成はそうつぶやいて、武器弾薬の入った棚を片付けた。これで元のクローゼットに戻っている。
 ふたたび、食卓のある部屋に戻った二人は、祝宴を再開した。文成は生ハムとモッツァレラチーズのパニーニを二つに割いて一口ずつ、味わうように咀嚼した。液状になるまで噛み砕くつもりだ。
「ずいぶんとゆっくり食べるんだなぁ……。ミス・ガードナーが呆れていたそうじゃないか」
 文成とは対照的に豪快にかぶりつく雪彦が感嘆するように言った。
「ミス・ガードナーって、彼女、結婚してないんですか?」
 意識的に、尚且つさりげなく文成が話題を逸らす。
「一度もしていない。まぁ、10年もテトラーク島にいるからねぇ。それに、“大佐殿”相手では、みなビビッてしまって誰も近づかないのさ」
 可笑しさを堪えんばかりに、雪彦は語った。
「ふぅん、“大佐殿”か。今、何歳?」
 文成は終始、冷淡に喋っている。興味があるのか無いのか、よくわからないと思える喋り方だ。声音も気持が籠もっていないようである。
「35歳だ。君のママと、同い年だよ」
「そうか……。なんか、雰囲気がママに似てたわけだ。髪形がショートボブだったんでね。そのガードナー大佐は、親父と関係していたのか?」
 この質問に、雪彦はすぐに答えず、いったん、口の中のパニーニを飲み込んで、さらにジンジャーエールを一口啜ってから、おもむろに語りだした。
「うぅむ。アイリスが和弘君に惚れていたのは事実だが、関係があったかどうかはわからないな。直接現場を見たわけではないからね」
「現場を見てどうするんですか……」
 雪彦の本気とも冗談ともつかない軽口に、文成は苦笑した。
「ま、私が知り得たのはこの程度の事さ。直接訊かなかったのか?」
「最後の日に尋ねたけど、結局はぐらかされたよ。テロリストとして実績を上げてからだ、とね。ずるい女だ」
 苦笑したまま文成は述懐した。そしてジンジャーエールを、クッと飲んだ。ふたりの傍らには750ml入りの空瓶が4本並んでいた。これほどまでにジンジャーエールを飲み干す男というのも珍しい。胸焼けにならないのだろうか。
「それでは、早く実績を上げてくれたまえ、文成君。君が高校に入学するまでにやってもらいたい仕事を渡しておこう」
 雪彦は妙に快活な声で言って、懐から書類を出した。
 差し出された書類を左手で受け取った文成は、ざっと内容に目を通した。3枚あったが、20秒足らずで、小さく折りたたみ、懐に仕舞った。
「もう、覚えたのかい? 流石、というべき記憶力だなぁ……」
 雪彦は文成の記憶力に舌を巻いて、最後のパニーニを平らげた。
「あそこにいたら、嫌でも右脳で覚えなければならないからね。時間を有効利用しようと思うなら。オレを有効利用する時間もどれだけあるか、わからないもんだろ?」
 文成がニヤニヤしながらそう言うと、雪彦は驚いたような目を見せた。そしてすぐに表情を崩して、大笑いした。腹の底から沸き起こったかのような大笑だった。
「あっ、ははははは。やっぱり、君は最高だ! 子供だと思っていたが、コクがあるのにキレがある、鋭いセンスの持ち主だ。君に敵う奴はいまい!」
 心から愉しいと言うかのように、雪彦は文成を絶賛して、また笑った。そんな風に愉しそうに笑う雪彦を、文成は愛想笑いとも苦笑とも取れそうな複雑な笑顔を浮かべて眺めていた。

 BOCの指令により、文成は翌年の1月末までに、愛知県内の右翼団体や暴力団を襲撃しては壊滅させていった。その中には、かつて文成が初めて拳銃で殺害したやくざが属していた、龍江会(りゅうこうかい)もあった。壊滅した後に残った土地などの権利は全てBOCの手中に収まっていき、そのままBOCの海外隠し資産、と言うよりはアジトと化した。これにより、文成は最初の指令にあったノルマ、50億円を奪い、組織に流した。
 このときの文成は最初の頃のような、悪鬼のように快感を得るための虐殺はしなかった。BOCが目標としている人類絶滅を達成するために、冷徹に破滅を遂行していたのだった。まさに文成は闇の中で、さながら三対の、黒鳥の如き黒い翼を羽ばたかせて乱舞する堕天使だった。
 それでいて昼間は全くと言っていいほど、目立った行動をしなかった。近所の住人が誰一人として文成の存在自体に気づかなかったくらいである。稀に貌を合わせるものもいたが、それでも、一人暮らしと思うものはいなかったし、よもや15歳とは考えなかった。文成は自分でも気づかないうちに、風格を身に付けていたようだった。
 翌年2月になって、文成は草薙遥とともに、私立である弘成高校を受験。テロリスト養成施設での試験に比べれば日本の高校の入学試験などパズル遊びでしかなく、全問正解を書いても良かったのだが、下手に目立つことはしたくなかったので適度に手を抜いて合格した。一方の遥は文成よりも好成績で合格した。彼女も全問正解するだけの能力があるはずだが、あまり手は抜かなかったのだろうか。
 ともあれ、二人は無事に入学した。文成は学校生活を自由気儘に送る意図で、内密に弘成高校へ1億円の寄付を行った。二人とも同じ1年C組に編入されたのだが、これは多分にBOCの意図が働いていた。互いに協力して行動させるとともに、監視させる意図もあったようだ。
 そのクラス最初の自己紹介の場で、遥が自分を文成のフィアンセと紹介してクラス全体を唖然とさせたのは、以前述べたが、文成は自己紹介のときに、互いの両親にその意志があったことは認めたものの、婚約関係にあることはきっぱりと否定した。だがそんなことで納得するものなど一人も無く、却って騒ぎが大きくなった。
 やがてこの騒ぎは校内全体に波及した。そもそも遥自身が、ウィーン留学中にバレエのジュニアコンクールで何度か優勝していたことで、日本でも話題になっていた。そんな彼女が弘成高校に入学するとあって、当初の弘成高内の注目はもっぱら遥に集中していたのだが、その遥がフィアンセとともに入学して、あろうことかその相手が同じクラスの生徒だと言うから、自然と文成に興味の視線が注がれることとなった。
 その日から文成は、好奇心を剥き出しにしたオーディエンスに囲まれるようになり、しばらく窮屈な日々が続いた。男子生徒に囲まれるなら、すぐにでも抜け出せる自信があるが、女子生徒が相手となると、どうにも扱いがわからなかった。もともと女子に囲まれた経験が乏しいうえに、害意ではなく、むしろ好意を寄せるものだから、ほとほと困り果てていた。
 入学してから一週間後のある日の放課後、文成が帰り支度をしていると、遥が傍に寄って話しかけてきた。
「ねぇ、文成。クラブどこにするか、決めた?」
「ん? 決めてない、というか、ほとんどクラブやる気無い」
 文成は気だるげ、というよりは疲れた声で言った。正直疲れ切っている。
「腑抜けた返事ねぇ。そんなことでは高校生活やっていけないわよ」
 がっかりしたと言いたげに遥は言った。
「よく言うぜ。何もオレの事を婚約者だなんて紹介しなくても良いのに。おかげで毎日囲まれてばっかりだ。誰もおまえを囲まないのが不思議だけど」
「そうでもないわよ。あなたを囲んでいる女の子たちがあたしにも質問しに来てるわ。別にうんざりすることは無いわよ」
「それはよかったねぇ。で、遥はどうするんだ? どこに入るか、もう決めたのか?」
「決めてないわよ。だってあたしの場合は引く手数多で、選り取り見取りの状態なの」
 そう言って、遥は口元を吊り上げて笑みを作った。こういうところが可愛らしく思える。
「人気が高いねぇ……」
 文成はニヤニヤ笑いながら言うと、立ち上がって帰り始めた。
「さてと、オレはもう帰るよ。帰って水でも飲んで寝ようかな」
「もう、入学早々怠けるつもり。呆れて言葉が出ないわ!」
 文成の言い草に、遥はお手上げのポーズを示した。そんな遥をちらと見ただけで文成は扉を開けて出ようとした。
 だが文成が扉を開ける前に、先に扉が開いた。見上げると、文成の目の前に清楚な雰囲気を湛えた女生徒が立っていた。
 文成は双眸を少し広げて、やや狼狽した。なぜなら、今まで見たことの無い女生徒だったからである。長い黒髪は西日を浴びて美しく輝き、瞳からははっきりと知性が表れていた。鼻筋はきれいに通っていて、唇は文成好みの薄いピンク色である。肌は白く、特に首筋を見ると、まるで白磁を思わせるほどの白さだった。
 胸の隆起はかなり盛り上がっており、ウェストは制服の上からでもわかるほど、見事にくびれていた。尻の曲線も見事に流線型を描いている。スカートに隠れているため、ふとももはよくわからないが、脛から足首に掛けてのラインの良さからみると、優美なふとももであるに違いなかった。
「君かしら、平井文成君は?」
 女生徒は落ち着いた声で尋ねた。両手を後ろに組み、少しだけ口元を緩めて微笑んだその貌に、文成は頭がくらくらしてきた。今まで近づいてきた女生徒達とは違い、軽躁で浮ついたところが全く無い。物事をまっすぐ見据え、しっかりと捉えた上で行動する賢さが伺えた。それよりも彼女の笑顔に、陶然となってしまった。彼女に甘えたい。彼女の胸の中に埋もれたい。このとき文成は初めて、彼女に自分の姉になってもらいたいと、意識した。幼少時から妹コンプレックスが強かった文成に、初めて起こった感情であった。
「ねぇ、あなたが平井君なの?」
 彼女が再度問いかけてきた声で文成は意識を戻した。が、狼狽した気持ちは治まっておらず、
「あ、あぁ、はい。そうですけど……、何か、御用でしょうか?」
 と、文成らしからぬ、馬鹿丁寧な受け答えをしてしまった。
「はじめまして、私は野球部のマネージャーをやっている平野絵理子。三年生よ。よろしくね」
 そう言って、平野絵理子は右手を差し出して握手を求めた。文成は一呼吸置き、右手を制服の腰の部分で拭ってから、彼女と握手した。その様子を文成の背後で見ている遥は、こみ上げてくる笑いを抑えながら、興味深げに眺めていた。
「さっそく用件なんだけど、平井君、野球部に入ってくれないかしら?」
 絵理子は単刀直入に訊いてきた。前置きをせず、持って回った言い方をしないところに爽快感を感じる。気持ちの良い性格の女性だ。
「野球部ですか?」
「そうよ、平井君。どうかしら?」
「こればかりは、やったこともないし、見たこともありませんから……」
「え、ほんと? 今まで見たことも無いの?」
 絵理子は文成の返答に驚いた。やったことが無いとはよく聞くが、見たことも無いとは初めて聞いた。
「えぇ、一度も無いんです。キャッチボールもやったことがありません。TVで野球を観ることもありませんでした」
「そうなの。それじゃ、一度見てみない? それから入部するかどうか、決めたら良いわ。どう、今から見学してみる?」
「あ、はい」
 文成は硬くなったまま肯いた。そんな文成を見て、絵理子は可愛らしいと思ったのか、両掌を文成の肩に乗せていった。
「ふふふ。硬くならなくていいわよ。実は私の方が緊張してるんだから。君のような、素敵な男の子を見るのは、初めてだから」
「僕も、あなたのような、きれいで……、そして、やさしく温かい女(ひと)を初めて見ました。その、お会いできて……、すごくうれしいです」
 文成は貌を真っ赤にして、言葉を詰まらせながら答えた。ここ数日囲んできた女子達には、憮然としながらも冷淡に振舞っていたのに、この年上の女生徒が相手だと、まるで憧れているお姉さんを見てどぎまぎしているような様子なのだ。文成のもうひとつの貌を知っている遥は、そんな文成に苦笑しながらも、同時に微かな悋気を芽吹かせた。
「じゃ、行きましょう、平井君」
 絵理子は文成の背中に左手を当てて促した。その絵理子に向かって、遥が思わず呼び止めた。
「待って! あたしも行くわ。見学するだけなら自由でしょ!」
 絵理子と文成はさっと振り向いた。声が少し鋭かったのか、やや驚いた表情だ。とはいえ、絵理子はすぐ柔らかい表情になって、落ち着いた声で答えた。
「良いわよ、見学するくらい。えぇと、草薙さんかしら。あなたが来てくれるなら、部員たちが大喜びで歓迎するわ」
 そう答える絵理子の声を聞いて、文成は頭頂から心地良い痺れが頭部全体を駆け巡るのを実感した。
(なんだろう? まるで脳の中から麻酔が発せられたような……。いや、違うな。脳を直接マッサージされているような感覚だ。なぜ、こんな気分になるんだろう……)
 陶然とした気分を味わいながら、文成は絵理子の後をついていった。その後ろを、遥がやや不安げに歩いている。いつになく舞い上がっている文成に不穏なものを感じているらしい。
「ひとつ訊いていいかしら、平井君。女子と話をするのは苦手かしら」
 いつの間に、文成の傍らにまで下がったのか、絵理子が横から尋ねてきた。
「はい、苦手です。得手ではありません」
 硬さが取れないまま、文成は答えた。
「そうみたいね。でも、硬くならなくて良いわよ。周りに流されず、自分がイニシアティヴを持って接すれば良いから。あなたは、本当は自信家なのではないかしら?」
 微笑みながら絵理子が鋭く衝いてきた。文成の睨んだとおり、物事をまっすぐ捉える目を持っているようだ。
「人に言われるほど自信なんてありませんよ。常に不安ばかりですから」
 やや挑むような口ぶりで文成は言い返す。
「そんな風には思えないけど。中身は自分より優れたものはいないと、思ってそうなんだけどなぁ……」
「何を根拠に、そのような事を?」
「あなたの目よ。あなたの瞳の奥の光が、まるで眉間を撃ち抜きそうな力があると思ったの。どうかしら、平井君?」
 思った以上に、直感の鋭い先輩だ。文成の頭部の痺れが綺麗に拭い去られ、代わりに好奇心が沸いた。まさに今まで出会ったことの無い、聡明な女性だ。
「眉間を撃ち抜きそうな、とは、まるで、RAINBOWのアルバム・タイトルみたいですね」
 やや虚勢を張った喋り方で文成は答えた。ニヤリと笑いはしたが、やや貌が引きつっている。
「“STRAIGHT BETWEEN THE EYES”、ね。RAINBOWのファンなの?」
 鳥がさえずるかのような声で絵理子が言った。
「父の影響です。歴代のヴォーカリストはみな好きでけど、一番好きなのは、やっぱりロニー・ジェイムズ・ディオですね」
「ふうん。やっぱりそうなんだ。私はグラハム・ボネットなんだけどね。‘LOVES NO FRIEND’が好きなの」
「妙に渋好みですね、平野先輩。そこをついてくるとは意外です」
「でも、本当はリッチー・ブラックモアが好きだから、ファンになったんじゃないの?」
「そうですね。‘CATCH THE RAIBOW’が一番好きで、ライヴ・ヴァージョンだと、ものすごく良いんですよ。リッチーの情念が迸っていて」
 自分の好きな話になると、熱がこもるようだ。このあと、野球部のグラウンドに着くまで、文成と絵理子はRAINBOWの話で、ひとしきり盛り上がった。観ようによっては、絵理子のペースにはまったと言える。そんな二人を、行きかう教師や生徒は興味深く見届けた。そして遥は、一人カヤの外に置かれた状況をつまらなさそうに眺めていた。



第24話へ続く


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