
堕天使 〜Prinzipal der Finsternis〜
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宿舎に戻った弘成高校ナインを待ち受けていたのは、甲子園を出発するときほどではないが、大勢の群集だった。しかも、9割以上が女子高生である。バスが到着しただけで歓声ではなく、悲鳴を上げていた。
滅多に無い状況に康一は興奮して、眠っている文成を揺り起こした。
「平井、起きろよ。すげぇぜ、女の子たちが、わんさか待ち構えているぜ! もうみんな、キャーキャー言ってるよ」
全くもってバカげた喋り方をしながら康一はまくし立てた。文成は大きく口を開けてあくびをし、両腕を突き上げて躯を伸ばしてから、寝ぼけ眼で康一の貌を見た。
「なんだよ、だらしない貌して。せっかくの美少年が台無しじゃないか、平井」
康一は躁状態にでも罹ったのか、なぜか軽口を投げつけてくる。とても文成が言うような、修行僧みたいな貌に似合わぬ態度である。
そんな康一を文成はからかいたくなってきた。
「ん……? なに?」
まだ眠たそうな眼を向けて康一に尋ねた。
「だから、外を見てみろよ。女の子たちがわんさかと……」
「マグロになって待ち構えてるって?」
とても寝ぼけ声とは思えない、はっきりとした声で文成は訊き返した。バスの中の人間の視線が一斉に文成に集中した。
「なに、わけのわかんない事言ってんだよ?」
康一がきょとんとした貌で聞き返すと、文成は悪戯っぽく笑って答えた。
「いや、グルーピーが素っ裸になってホテルの前でマグロのように寝っ転がってるのかって、訊いてるんだ」
どうにもこの少年はどんなに暑苦しい環境であっても、その場を凍らせる能力に長けているらしい。40人を超える弘成高校野球部全員が文成の発言で呆気にとられた。バス・ドライヴァーですら、凝固してしまって、ドアを開けることを忘れるほどだった。
「あ、あのなぁ……。おまえ、そういう性質(たち)の悪い冗談を言うのはやめろよ!」
康一は腹を立てて言った。敬意を持つチームメイトとはいえ、いや、敬意を持っているからこそ、今度ばかりは許せないと思ったのだ。
「甲子園を出るときも思ったんだけど、女の子たちがキャーキャー騒いでるのを見ただけで、まるで自分のことみたいに興奮するから、どうにもからかいたくなる。女の子たちがキャーキャー騒いだところで、別に大した事、無いじゃないか。おまえが騒ぐほどのことじゃない」
文成はまるで康一を揶揄するかのように微笑んで言った。そして、苦り切る康一をよそに、窓から外の光景を見た。
「お〜やおや。随分といるもんだ。まさに立錐の余地も無い、という奴だな。ホテルに入ることが出来るかな?」
ほとんど他人事のように言った文成は躯を反らしながら伸ばすと、立ち上がって荷物を抱えた。
「いい加減降りましょうよ。こんなところで籠城というわけにもいかないし、ドライヴァーも早く休憩したいだろうから。オレが先に降りるよ」
けりをつけるように言うや否や、文成は出入口に向かって歩き出した。空腹感のせいで、脳内にベータヒドロキシ酪酸が大量に回っているのがはっきりとわかる。慣れているので痛みは無いが、それでも文成の精神は攻撃的と言うよりはほとんど凶暴になりかけていた。
「駄目よ、平井君。あなたが先に降りたら大変なことになるわ」
文成がステップの手前まで来たとき、絵理子が立ちふさがって止めた。
「マネージャー。オレがそこから出て行くから、その間にみんなは、あそこの非常口を開けて出れば良い。それならみんなに迷惑かからないだろうから」
「却って迷惑よ。第一、あなたに何かあったら困るのよ」
「それじゃ、どうやって出ると言うのです?」
「方法はあるわ。もっとも、みんなが納得してくれればの話だけど……」
そういって絵理子はナイン全員を見渡して、老監督に自分のアイディアを述べて同意を求めた。
「わかった、平野君。任せるぞい」
老監督は莞爾として笑って許可を与えた。渡辺以下、ナインたちは苦い貌をしたり、少し困った貌を作ったりしたが、渋々承知した。文成はというと、下唇を突き出して前髪に向けて息を吹きつけて、目を上に逸らしながら下唇で上唇を隠す、珍妙な貌を作っていた。そんな文成を、絵理子はこの上なくかわいらしく思った。
バスが到着してから10分ほど経過していた。待ち構えていた群集にとっては随分時間が経ったように思っただろう。それ以上に何かアクシデントでも起こったのかと思ったのではないだろうか。しかし、出入口のドアが開くと大きな歓声を上げて、お目当てのアイドルが姿を現すのを促した。
最初に、ベンチに入ることが出来なかった野球部員が姿を現した。それが数人続いた後、控え選手たちが降りてきた。代打として活躍した洲崎や野田の貌も見える。が、まだ文成の貌が見えない。オーディエンスは必死に文成を探すが、まだ出てきている様子は無い。
そうこうする内に、レギュラー陣が姿を見せた。チームで一番背の高い、山崎はなにやらバットケースというよりは、ゴルフクラブのバッグのようなものを背負っていた。山崎は厳しい貌で歩いていた。山崎の後ろに絵理子が続き、その右隣にキャプテンの渡辺、絵理子の左隣には控え投手で長身の山本景一郎が、絵理子を護るかのように歩いていた。絵理子のすぐ後ろには、これも控え投手の白田龍彦が続いている。だが、文成が出てきた様子は、まるで無い。
とうとう野球部員全員がバスから出てきた。しかし、文成の姿は全く見えず、群衆から不審の声が上がった。ついにはブーイングと化して、文成はどうしたと騒ぎ始めた。
山崎がもう少しでホテルの中に入ろうとしたその時、突然誰かが、
「おい、おまえ。そのバッグの中身見せろよ」
と、乱暴な口調で問いかけた。山崎がキッとした貌で声の方に向けると、ぼさぼさで薄汚い長髪で、サングラスを掛けた、明らかに柄の悪い男がいた。デニム&レザーで身を固め、中の黒地のTシャツには、SCORPIONSの『VIRGIN KILLER』の発禁処分となったジャケットがプリントされている。ホテル前の空気が一気に不穏なものになった。誰もがこの男に注目している。
「おい、なんで野球部員がゴルフバッグみたいなもん、持ってるんだ? ゴルフしに行ったんじゃないんだろ?」
恫喝するかのように問いただす男に対し、山崎は厳しい貌のまま言い返した。
「おまえには関係のないことだろ。バッグの中身を見て、どうしようというんだ?」
だが男は山崎の言うことをまるで聞いてないかのように問い続けた。
「バッグの上のほうが開いているのはなぜだ? 中の人間が呼吸するためか?」
「ん? それは気づかなかったな。どうもありがとう。じゃ」
核心に迫るように訊く男を振り切るように山崎は答え、その場を立ち去ろうとした。
「おい、女ども! 平井文成がこのバッグの中に隠れてるぞ! 引きずり出せ〜!」
男はいきなり大声を出して、文成が出るのを待っていた女子高生たちを煽った。その瞬間、女子高生たちがバッグの前に殺到した。そして口々に、平井文成を出せと、喚きたてた。
「どうしてそんなバッグの中に閉じ込めるの!?」
「こそこそしないで、堂々とすれば良いじゃないの!?」
「平井君をこんなバッグの中に閉じ込めるなんて、なに考えてんのよ!」
凶暴といって良いほどの、非難の矢が絶え間なく山崎たちに降り注がれていた。これ以上はまずいと思った絵理子は、山崎たちに目配せした。承知した山崎はありったけの声で言い放った。
「そんなに見たければ、しっかり見ろ!」
そして、バッグのファスナーを下げて全開にした。女子高生たちが乗り出さんばかりにバッグに注目する。
だが、中から出てきたのは……。
「あぁ……。蒸し暑くて、敵わんわい。あんまり年寄りを痛めつけるもんではないぞ」
なんと森田老監督だった。小柄な監督はバッグから出ると、躯を目一杯伸ばして、深呼吸した。その場にいた女子高生たちは、口をぽかんと開けて、声を失った。
「君たち、平井を一目みたいという気持ちはわからんでもないが、今、あいつは相当疲れておる。もうとっくに部屋で休んでおるわ。あんまり騒ぎ立てると外に出たがらなくなるし、今後に障る。もう少し、温かく見守ってやれんかね。もう今日は出てこないから、また今度にしてくれ。さぁ、わしらもゆっくりさせてもらうかの」
老監督は集まった女子高生たちを諄々とねぎ諭して、ホテルの中に入っていった。山崎たちはホッとした面持ちで後に続く。
あとに残された女子高生たちは失望の声を上げて、引き返していった。
ミーティングが終わり、老監督と絵理子は部屋に引き上げた。ふすまを開けて中に入ると、先ほどのデニム&レザーで身を固めた男が、脚を伸ばして寛いでいた。
「随分余裕ね、平井君。私たち、もう少しで大変なことになりかけてたのに」
絵理子は微笑みながら男に声を掛けた。
「まったくじゃ。何もあんなことを言わずにおとなしくホテルに入ればよいものを」
監督も苦笑しながら小言を言った。言われた男はサングラスを取り、ぼさぼさの長髪を引き毟って、この世で最も美しい瞳を向けて笑った。長髪はかつらだったようだ。
「あぁしたほうが目を逸らせる、と思ったからね。それにしても、マネージャー。なかなかすごいアイディアを思いつくもんだね。監督をバッグの中に隠してオレを隠してると思わせるなんて、できるもんじゃないよ」
「バスの中で着替えたあなたは非常口から出てそのまま中に入る予定だったのに、余計なこと言うもんだから、気が気でなかったわよ。あそこで暴動が起きたらどうするつもりだったの?」
口を尖らせる絵理子に、文成はさらに笑いながら言った。
「ははははは。そうなる危険性をわかってて賭けに出るんだから。女というものは実に大胆なものですねぇ、親爺」
「じゃかましわい。もっと年寄りを大事にせんかい!」
話を振られた親爺は愚痴を言いつつもニヤニヤ笑っている。その貌を見て、文成も絵理子も笑いあった。
「それにしても不思議ね。甲子園に行けるなんて、夢だと思ってたのに、現実に行っているだけでなく、二つも勝つなんて。文成君に会うまではありえないと思ってたわ」
いつの間にか絵理子は文成の隣に座って、頬杖をついて感慨に耽っていた。知らず知らずに呼び方が文成君になっている。
「オレもまさか、野球部に入るなんて夢にも思わなかったよ。バレエ部が無いから、帰宅部にしようと思ってたのに。なぁんでこうなっちゃったのかなぁ……」
苦笑いしながら文成は絵理子の貌を見てつぶやいた。
「噂の文成君がどんな人なのか、見に行ったときの事が忘れられないわ。運命って、この事だと思ったわ。絶対君に野球をさせるべきだと思った。野球部に入れるというよりも、野球をさせるべきだと思ったの。その方が一番輝くと思ったのよ」
まるで夢見るかのように絵理子は喋り続けた。二つの瞳はきらきらと輝き、そしてうっとりとしている。わずかに目尻が潤んでいるような気がした。
「平野君からおまえを紹介されたときは、なんと華奢な子だと思うたわ。まともにバットを振れるのかと思うた。それが、あそこまでボールを飛ばせるとは……。正直度肝を抜かれたわい」
老監督がにこにこしながら口を挟んだ。随分と愉しそうだ。
「もし、野球をやらなかったら、オレ、どうしてただろうなぁ……」
文成は天井を見ながら、過去に想いを馳せた。
前年の4月1日、15:00、ロンドンを出発した日本航空の旅客機が、定刻よりやや遅れて関西国際空港に到着した。南ゲートから次々と降りてくる乗客の中に、どことなく異様な人物が3人いた。40歳代とみられる長身のイギリス人紳士の後ろには、黒ジャケットに黒いジーンズを着用した、170cmに満たないであろう少年が、サングラスを掛けてスティックを動かしながら歩いている。盲目と思われるが、歩き方を見ると、そうとも言いきれないような気がする。その少年のすぐ後ろには、少年よりもはるかに背が高く、細身のイギリス人が続いていた。年の頃なら30歳代だろうか。見方によっては、盲目の少年を二人のイギリス人紳士が護衛しているように思える。
そんな3人に向かって、髪形をオールバックにして、淡いクリーム色のスーツを着た長身の男性がにこやかに近づいてきた。先頭のイギリス人はすぐにみとめて微笑み返した。
「ご無沙汰しております、草薙教授」
年配のイギリス人紳士が日本語で挨拶すると、草薙教授と呼ばれた男は右手を差し出して握手を求めた。
「おひさしぶりです、ブランドフォード参事官。ソールズベリー書記官も、お元気で」
草薙教授が後ろにいる30歳代の紳士にも声を掛けると、
「またお会いできてうれしいです、教授。教授もお変わりなく」
と、この紳士も年配の紳士と同じく日本語で、妙に恭しく返礼した。
「そして……」
教授が少年に声を掛けようとすると、先に少年が口を開いた。
「おひさしぶりです。目が見えなくても素敵な、高田純次です」
少年は頭を動かさずに、ふざけた声音で挨拶した。イギリス人ふたりはきょとんとしたが、教授は笑いを噛み殺すかのような表情を作っていた。
「しばらく見ない間に、くだらないことを覚えたものだな。平井文成君」
「ごめんなさいね、雪彦さん。いい男で」
少年は草薙雪彦をまっすぐ見据えたまま、と言ってもサングラス越しだが、ふたたびギャグを言った。
「君のように、元々いい男が言っても、ギャグにならないよ」
「高田純次も、なかなかいい男だぜ」
もともとこの二人は、気の合う仲なのだろう。もう軽口を言い合っては、笑っている。
「そうか。まぁ、いい。これから、君の新居に向かおう」
「あれ、ホテル日航のスイートルームじゃないのかい?」
「冗談じゃない。大して居心地も良くないのに、そのくせ10万円も取るようなホテルだぞ。女の子と一緒なら別だがね」
「あ、奈穂美さんと遥に言ってやろ。出張するたびに女を連れ込んでるって」
「おいおい、冗談に決まってるだろ!」
雪彦は笑いながら言ったが、文成はニヤニヤと悪戯っ子のように笑って受け付けない。
「いや、言ってやる。たとえジョークでも、本当の話だと言ってやる。そうなったら、奈穂美さん、怒るだろうなぁ。離婚を言い出すかもしれない。そうなったら、奈穂美さんはオレがもらうぞ!」
文成は冗談とも本気とも取れそうなことを、何の衒いも無く言ってのけた。だがそんなことを言われても、雪彦はまったく動じない。それどころか、かえって面白がって言い返した。
「なんだ。奈穂美のことが好きだったのか、遥ではなくて。先に言ってくれれば、遥も一緒に、君に譲ったのに。そうすれば私は身軽になるし、君は遥の父親だ。だが、遥は認めないぞ。君を刺し殺すかもしれないな」
「遥は雪彦さんが引き取って欲しいんですけど。子供に用はないから」
「生意気なことを言うんじゃない。そういう事はそれなりに経験を積んでから言うもんだ。くだらない話はここまでだ、文成君」
雪彦は急に真顔になって、文成をぴしゃりとたしなめた。
「はい、雪彦さん」
文成はシュラッグして答えた。たった半年の海外生活で、こんな仕草がさりげなく出るようになっていた。そんな文成を見て雪彦は少し口元を緩めた。
四人は立体駐車場の4階まで行って、車に乗り込んだ。プレミアム・シルバーパール・カラーのトヨタクラウン・マジェスタだ。
「相変わらず、ラグジュアリーな車を用意するねぇ」
車種を確かめた文成が遠慮会釈無く毒舌を吐いた。
「私の車だよ、文成君」
雪彦は答えながら軽やかに乗り込んだ。ナヴィゲート・シートにソールズベリーが乗り込み、後部座席には、ナヴィ・シートの後ろにブランドフォード、そして、ドライヴァーズ・シートの後ろには文成が座った。
「ここでいいのかい? 普通ここは、上位の人間が座るんじゃないのか?」
文成が抑制の効いた低音で尋ねた。とても少年とは思えないバリトンである。
「あぁ、そこでいいよ、首席卒業生殿。いや、レコードホルダーといった方が良いかな」
雪彦がゆっくりと発進させながら揶揄で答えた。が、声に温もりがある。
「止してくれよ。生き残るために努力はしたが、結果はたまたまだぜ。親父以上の成績だとは思わなかったよ」
「それは私も同じだ。私もあそこで鍛えられたが、どうしても930点を取るのがやっとだった。だから和弘君が990点で卒業したと聞いたときは腰を抜かしたよ。なのに、君は994点も取った。化け物の子は、やはり化け物だな」
「1000点満点取れなかったのは残念だけどね。994点も取ったと知ったから言うけど。マイナス6点の理由はなんだろう? ローゼンクランツさん、知らない?」
いきなり文成は横を向いて、ブランドフォードに尋ねた。
「知るわけが無いだろう。私はそこまで君について把握する必要は無いからな」
苦々しい声でブランドフォードは答えた。
「ははは。そう思ったから尋ねたのさ」
「それより、ローゼンクランツと呼ぶのは止めてくれんかね。良い気持がしない」
「おたく等の名前が長すぎるんだよ。それに、ローゼンクランツとギルデンスターンのほうが覚えやすい」
「それだったら、エディと呼んでくれる方が良い。アルもその方が良いだろう?」
エディ・ブランドフォードはそう言って、アル・ソールズベリーに了解を求めた。
「それで良いですよ。殺され役と言うのは、縁起が悪いですから」
ナヴィ席のアルは渋々ながら承知した。
「あ、そうだ、雪彦さん。遥はどうしてる? 表向きはウィーンの日本人学校に転校したことになっているけど」
文成は思い出したように、遥について質問した。
「表向きも何も、遥は今もウィーンで暮らしているよ。バレエも続けている。学校の先生から、ミュンヘン州立バレエアカデミーに進学するよう勧められているが、本人に行く気は無いそうだ」
「遥に自分たちのことは話したのかい?」
雪彦は、ひと呼吸置いてから、答えた。
「あぁ。きっちり話した。君のお父さんのことも、そして君のことも。だから、遥も、来年は君と同じ高校に通うつもりだと言っていたよ」
「ふぅ……。遥は絶対にオレと結婚するつもりなんだ。雪彦さんはどう思ってるんだ? 何が何でもオレと遥を結婚させたいのか。それとも、組織としてはその方が、都合がいいのか?」
半分挑むような口ぶりで文成は尋ねた。エディとアルは少し反応を示したが、すぐにもとの表情に戻った。内心はやや慌てているのかも知れない。
しかし、雪彦は落ち着いて質問に答える。
「組織が何を考えているかは、私は知らないよ。だが、私としては、君と遥が結婚してくれる方がうれしい。和弘君夫妻との約束も果たせるということもあるが、遥の伴侶に君以外の男は考えられない。おそらく君以上の男は、もうこの世に出ないだろう。私はそれを確信している。君は遥を避けるけど、せめて遥の真摯な気持だけはわかって欲しいものだ」
最後は娘の将来の幸福を祈る父親の言葉になっていた。暗に、遥を不幸にしないでくれ、と言っているようだ。
「買いかぶりだと思うけど……。それより、ずいぶんスピードが出てないか? 今、時速何キロなんだ」
話を逸らすつもりで文成は尋ねた。
「今、ようやく160km/hかな。そろそろ、湾岸線から堺泉北道を通って、阪和自動車道に入るよ」
雪彦はそう言いながら、ギアを上げてアクセルを踏み込んだ。まるでこれからフライトするかのように速度が上がっていく。
「あのなぁ! オービスに引っかかってるだろうが! 捕まったら、一発で免停だろう!?」
事も無げに言う雪彦に対し、文成は思いっきり突っ込んだ。
「ははは。大丈夫。あとでナンバーは変えるし、しばらく車は隠す。危なくなったら、前みたいにハックして警察のコンピューターをズタズタにしてくれよ」
笑いながら答えると、雪彦は、QUEENの「DON’T STOP ME NOW」を口ずさみながら、フルスロットルで飛ばしていった。
1978年、QUEENが発表した7枚目のアルバム、『JAZZ』からの2ndシングル、「DON’T STOP ME NOW」(日本でのシングル・リリースは翌79年の3月)は、ヴォーカルであるフレディ・マーキュリー作曲の軽快なロックナンバーである。フレディが奏でるピアノが印象的なこの曲は、イントロはゆったりとしているが、コーラスが、「DON’T,STOP, ME, NOW」と、刻むように歌ったあと、突如、エンジンを全開にするかのようにアップテンポで飛ばしていく。それはまさに、虎のように空を駆け抜けるスーパースターのように、はたまた、火星めがけて突っ走るロケットのように、突っ走っていくのだ。
ちなみにこの曲は、日本では人気ナンバーのひとつで、石油会社や清涼飲料の会社のTV−CMのイメージソングによく使用された。
雪彦がスピード狂だと言うことを、全く知らなかった文成は、意外なものを見るかのように、バックミラーの雪彦を見た。めちゃくちゃと言うくらい機嫌が良い。周りに誰もいないかのように歌い続ける。歌の上手さは当然のことだが、オペラ歌手が歌うような違和感は全くない。完全にフレディになりきっている。
こんな状態でも、まったく事故を起こさず、飛ばせるものだから不思議なものだ。交通機動隊の事もさることながら、そろそろ渋滞に捕まってもおかしくない頃である。なのに、全く気にすることなく飛ばし続けるし、渋滞に捕まらないのが不思議である。
いったい何がどうなっているのか。文成は訳がわからなくなったが、時速160km以上の車に乗っているのは、非常に心地良かった。心地良さを覚えた辺りから、文成は眠気を覚えた。いつしか文成は、シートに背もたれて眠ってしまった。
マジェスタは渋滞にも警察にも捕まることなく、阪和高速を抜けて松原市の松原ジャンクションで西名阪自動車道に入った。大阪、奈良を突っ切り、天理市で国道25号線(名阪国道)に入っても、傍若無人に驀進し、三重県亀山市の亀山インターチェンジで、東名阪自動車道に乗り入れた。そして、三重県を抜け、愛知県に入ると、弥富インターチェンジで高速道を降りるとようやくスピードを緩め、愛西市を抜けて津島市に入った。
マジェスタは結局、津島神社付近のアパートの前で停車した。時間にして5時間ほどの帰路。あたりはすっかり暗くなっている。
「お疲れさん。着いたよ、文成君」
雪彦が後部ドアを開けて、文成の右肩を叩いて起こした。文成は小さく唸ってから、首を右回転させ、欠伸をしてから目を覚ました。
「ずいぶん早いなぁ。今、何時です、雪彦さん?」
文成に尋ねられた雪彦は、腕時計に目を遣った。
「20時24分と言ったところだな。まぁ、こんなもんさ」
「ずいぶんと高価そうな腕時計ですね? ロレックスではなさそうだけど」
雪彦の腕時計に目を留めた文成が無邪気に尋ねた。
「あぁ、これかい。これはハミルトンと言って、アメリカの腕時計ブランドのものだよ。カーキ・X‐ウィンド・オートマティックと言う奴で、私が買ったときは14万円以上したな。と言っても、こないだ買ったばかりだけど」
「どっちかと言うと、スポーティな時計だね。雪彦さんが着けるんだったら、もっとカジュアルなものの方が良いんじゃないのか?」
「言ってくれるねぇ。これでも私はスポーティなんだぜ」
からかう文成に、雪彦は苦笑しながら答えた。
「教授、我々はそろそろ失礼します」
エディがタイミングを見計らって、雪彦に声を掛けた。気さくというか、気を使っていると言うか。表向きは英国外務省参事官であっても、実際は雪彦の下にいることを、エディ達は身をもって示していた。
「わかった。それじゃ、エディ、アル。すまないが、この車をいつもの所にやってくれ。今夜はいつものホテルに予約を入れたから、そこに泊まりたまえ」
「Yes,Sir」
エディとアルはマジェスタに乗り込み、そのまま去っていった。
「ローゼンクランツとギルデンスターンは、どこで泊まるんだい?」
二人が去った後、文成は、かの名作の斥候の名前で、彼らの事について尋ねた。
「名古屋に我が組織の所有するホテルがある。45階建てのな。そこに車を預けることになってる。見つかっても、警官が行方不明になるだけのことさ」
雪彦はニヤリと笑って、アパートに入るよう、文成を促した。
(帰ってきた、という感覚が無いのは……、生まれ故郷じゃないせいなのか。それとも……)
文成は雪彦の後ろを歩きながら、ぼんやりと考えた。こんな風に考える自分に少し違和感を覚えるが、そうでもないと思う自分もいた。初めから自分に故郷はなかったのか、それとも失ったのか。まもなく15歳になる文成には、まだ理解できない事だった。
第23話へ続く
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