
堕天使 〜Prinzipal der Finsternis〜
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校歌斉唱が終わり、佐賀中央高校への挨拶も済んだ文成がそのまま引き上げようとした時、目の前に、白地に黒で“佐賀中央”と書かれた文字が立ち塞がった。貌を上げると、“はなわ”こと、小嶋健徳が、唇を真一文字に引き結んで、険しい表情で見下ろしていた。
「なんか用でもあるのか? あっても聞かないけど」
文成は小嶋を見上げながら、それでいて見下ろすように言った。
「一試合で2本……。初めてだったんだぜ。一試合で2本もホームランを打ったことは、今まで全然無かったんだ」
小嶋は搾り出すように喋りだした。悔しさを抑えきれないのが、口調にはっきりと表れていた。
「それがどうかしたのか?」
ややうんざりとした声で文成は言った。心の中では、オレの邪魔をしないで早く退けと、怒っていた。
「オレは2本打って、おまえは1本だ。そのまま、今日のチームホームランの数なんだ。なのに、なんで負けたんだ?」
声を震わせながら、小嶋は愚痴るように言った。それを聞いて文成は、ステファン・エドベリのように、下唇を突き出して前髪に向けて息を吹きつけた。バカみたいな事を、と思いながら、小嶋に向かって醒めた声で言った。
「あんたは2本で3打点、オレは1本で4打点。その差だよ」
ぐっ、という唸り声が小嶋の喉の辺りから発せられた。わかりきった話だが、わかりきっているだけに、文成の言葉が胸に突き刺さった。
「死んだ子供の歳を数えるような話は嫌いだけど、5回の表、1アウト一塁で送りバントなんてバカなことをしなければ、どうだったかな。それと、もし、吉井さんが途中からでもシュートを投げてきていたら、弘成は2点以上も点を取ることができたかどうか。もっとも、オレがたらればの話や結果論を展開しても、意味が無いけど。じゃ、帰るぜ。頭が茹で上がりそうだ」
文成は小嶋の右脇を通り過ぎて一塁ベンチに向かいだした。が、何かを思い出したのか、立ち止まって振り向かずに喋り始めた。
「小嶋さん。弘成高校のクリーンナップ・トリオは全国で最も打てないトリオかもしれない。でも、一・二番はおそらく、全国で屈指の名コンビだぜ。この二人がいなかったら、ウチの野球部は、“色褪せたスカベ”みたいなもんさ。地区予選の緒戦さえ勝てないだろう」
珍しいことに、文成はチームメイトを自慢していた。他人を褒めるのも珍しいことだが、いつも頭ごなしに侮蔑しているチームメイト、しかもさっき人の貌を指して、フットボールアワーのノンちゃんに似てるとか、あるいは人の背の低さをダシに半ば野次を飛ばしていた男が、この二人がいなければ、と言ったのだ。
驚いた小嶋は振り向いた。文成はこちらを向いて涼しげな微笑を浮かべていた。漆黒の瞳は、侮蔑的な色合いが全く無かった。夾雑物が一切含まれていない、澄み切った黒瞳だった。瞳の奥からプラチナの光が放たれている。それはまるで、夜闇で煌めく星のようだった。
(こいつ、こんなに綺麗な目をしてたのか……。全然気づかなかった。こんなにも綺麗な目をした奴、初めて見たなぁ。人とは違う、なんてもんじゃない。完全に別の種族だな)
小嶋は文成の瞳を見つめているうちに、だんだん酔ったような気分になってきた。いや、そうではない。動悸が激しくなってきたのだ。文成の瞳から放たれるプラチナの光に魅入られてしまい、ただただ興奮を高めるだけで、どうにもならなくなっていた。
(な、なんだ? オレはこいつに……)
「いつまで見続けるつもりなんだ!? もう終わったんだから、とっとと帰るぜ!」
文成の不意の大声にビクンとなった小嶋は、それで意識が覚めたようになった。気づくと、文成は背を向けて、一塁側ダグアウトに向かっている。
「お、おい、待て、平井!」
小嶋はあわてて文成を呼び止めた。
「まぁだ、なんか言いたいのか?」
文成はあからさまにうんざりした声を出して、首だけ向けた。そんな文成に向かって、小嶋は、右手中指を人差し指の後ろに重ねて文成に示し、そして、
「Good Luck!」
と言って微笑んだ。これが小嶋なりの精一杯の祝福なのだろう。
文成はただ笑って、右手でメロイック・サインを突き出した。
今日のインタヴュアーは、前回文成が受けたときとは違う人間になったようだ。単に順番の関係だったのか、それとも前回のインタヴュアーが嫌がったのか。そんなこと文成が知る由も無いが、とにかく、ヒーロー・インタヴューが始まった。
「えぇ、それでは……、二試合連続で代打サヨナラ満塁ホームランを打って、勝利に貢献した、平井文成選手のインタヴューです。おめでとうございます」
「どうもありがとうございます」
「まずは今のお気持ちを……」
「早く帰って、夕飯食べたいです。なにせ、昨日、夕飯を食べたあとは水しか飲んでいませんから。おなかが空いて仕方ないです、はい」
さっそく文成はやってくれた。まだ凍てつくほどではないが、報道陣の間からちらほらと苦笑と失笑が漏れている。
「昨日、夕飯を食べてから、何も食べていないんですか? どこか具合でも悪いのですか?」
本気なのか冗談なのか、インタヴュアーは心配そうに尋ねてきた。
「具合が悪ければ、打てませんよ。ベーブ・ルースではありませんから。普段から一日一食しか食べないんですよ。先週は、武蔵学院の岩田さんに誘われて、一緒にご飯を食べましたけど。それより、今日の試合について訊きたいのでは?」
さりげなく文成は本来のインタヴューを続けるよう促した。
「あぁ、そうですね。失礼しました。それでは、まず、最初に、今日は三塁コーチとして初回から出場しましたが、どのような気持ちで試合に臨んだのですか?」
インタヴュアーはやや慌てながらも、慇懃に質問した。
「いやぁ、暑苦しいことこの上ないですね。このまま9回までずっと立ってなきゃならないと思ったら、気が滅入ってしまいましたね。7回が終わって交代になったんでゆっくり眠れると思ったら、最終回に代打で出ろと監督が言うもんですから、参りました」
文成は鬱陶しそうに、それでいて淀み無く答えた。文成が答えているうちに、インタヴュアーの貌が引きつり始めた。一方、報道陣はというと、また始まったよ、と言わんばかりの雰囲気だった。
「では、その最終回ですが、一回戦と同じく、2アウト満塁の場面でした。打席に入るときにバットを持って何か踊っていたようですが、あれはどういう意味があったのでしょうか? モチベーションを高めるつもりとか、そういうものでしょうか?」
「あれですか? あれはちょうどアナウンスされたときに、応援団、というか、ブラスバンドが、すごくカッコいい曲を流してくれたんで、それにあわせて、ギターの弾きまねをやっただけです。ついつい乗ってしまいました」
「…………では、打席に入った瞬間、ここでホームランを打とうと、心に決めていましたか?」
珍しくインタヴュアーが核心を衝いてきた。自分が訊きたい事なのか、それとも早くこのインタヴューを終わらせたいのか。しかし文成にそんなことがわかる訳ではない。
「ホームランを打たなきゃ、勝てませんからね。後ろのバッターを当てにしたところで、逆転してくれる保証なんて全然ありませんから。相手の吉井さんも後のバッターのことをなんとも思ってなかったでしょうから。でもだからといって、敬遠しなかったところが良いですね。」
文成はだんだんうんざりとした気分になりながらも、流れるように語った。空腹感はすでに頂点に達し、試合が終わったにも拘らず、攻撃性が高まっていた。とっとと終わらせろ、バカインタヴュアーが。文成はそう心の中で罵っていた。
「一回戦と同じ、2ストライクからの3球目をホームランにしましたが、球種が何か、覚えていますか?」
結構バカげた質問だ。
「打ったのはシュートですね。予想通りというより、やっと、投げてきたな、と思いました」
「やっと、投げてきた、とはどういうことでしょうか?」
「佐賀中央高校がどんなチームかをDVDで見たんですけど、エースの吉井さんが決勝戦でシュートを投げてピンチを切り抜けた場面があったので、吉井さんのウィニングショットはシュートだと思っていたんですけど、甲子園では全然投げないんで、力をセーヴしてるのかなと思いましたけど。単なる出し惜しみだったんですね。中盤あたりからでも投げていたら、勝てたとは思えないですね」
文成は晴れない気分でいながらも饒舌だった。あるいは、喋らないと気分が盛り上がらない状態なのかもしれなかった。
しかし、取材しているマスコミにしてみれば、聞いていてだんだん、嫌な気持ちになっていた。早い話が自慢話を聞かされているのだから。
「それでは最後に、三回戦の抱負をお願いします」
それを聞いた途端、文成は心底ホッとした気持ちになった。やっと、馬鹿げた取材から解放されてゆっくりできると思った。そうなると現金なもので急に気持ちが高揚したらしく、それがそのまま表れたかのように声を高くして答えた。
「あ、最後ですか。あぁ、良かった。三回戦ですか……」
そして、監督がいる方向に向くと、
「監督、さっき話していたこと、ここで言っていいですか?」
と、尋ねた。その瞬間、報道陣に緊張が走った。一回戦終了後のインタヴューで文成は監督に質問した後で、出たくないといったのだ。今度は何を言い出すのか。妙にピリピリとした空気が流れる。
「あぁ、構わんよ。どうせわかることじゃから、早いめに言っておいた方が良い」
老監督はあっさりと許した。少し文成をかわいがり過ぎているような気がしてくる。
「えぇ、監督の許可が出ましたので。三回戦は僕が四番・センターとして、先発出場します。決まったからには勝てるよう力を出します。以上です」
インタヴューを打ち切るように文成が言い放った途端、一斉にどよめきが起こった。文成が言ったことは、おそらく前代未聞の“予告先発”である。しかも、監督ではなく、当の選手が言ったのだ。記者たちは眼球を飛び出さんばかりに双眸を大きく広げて仰天していた。
話は少し戻る。文成がダグアウトに戻るなり、森田監督がいつもの破れ鐘のような声で怒鳴りつけた。
「遅いぞ、平井。どこで遊んでおったのじゃ!」
どこで遊んでいたのか見ていたにも拘らず怒鳴りつけているのは、何かしら意図があることを、文成は経験上熟知している。
「小嶋健徳さんの愚痴を聞いてました。初めて1試合でホームランを2本も打ったのに、1本しか打たなかったオレに、全部持っていかれたって。それより、監督はじめ、皆さん残ってたんですね。もう引き上げたのかと……」
しれっとした貌で言い放つ文成に、監督はなんら表情を変えずに話しだした。
「三回戦のスタメンを決めるのに、みんなに残ってもらってのぅ。それで、今、全員が承知したところじゃ」
「あぁ、そうですか。で、どう決まったんですか?」
「なぁに、そう大袈裟な物ではない。ひとつしか決めんかったから、話は早かったわい。文成、三回戦はおまえをスタメンに入れるぞい」
「……ふ〜ん、そうですか。なるほど」
文成は、やはりなと思いつつも驚きはしなかった。予想通りの展開だったからである。
「おまえには、四番・センターをやってもらうからな」
「へ?」
文成は誰が聞いても間抜けな声を発した。下位打線でレフトかライトでもやらされると思っていたところへ、なんと、クリーンナップを任されてしまった。しかも、センターとは随分重要なところを申し付けられたもんだ。たった2打席を見ただけで決めてしまう監督も監督だが、これほど重要なポジションを一年生に明け渡すことを承知したナインもナインだ。特に、四番・山崎と、センター・岡本の胸中はいかばかりか?
「2試合連続で満塁ホームランを打った選手が控え扱いじゃ、これからの相手にバカにされるからな。それに、おまえが最初から出てると思ったら、相手はビビリよるからの。これほど有効な手は無いわい」
タヌキ親爺がホクホクと笑いながら言った。
「じゃ、なんでセンターなんです?」
やや不足そうに文成は尋ねた。
「おまえ以上に野球センスのある奴はおらんのじゃ。もっとも、今大会で見ても、おまえ以上がおるとは思えんがの」
それを聞いて文成は、すっかり癖になった、下唇を突き出して前髪に向けて息を吹きつける仕草を見せて、ナインの貌を見回した。
「山崎さんに岡本さんは納得してるんですか? 岡本さんはともかく、山崎さんは……」
「四番に対するこだわりが無いと言えば、嘘になる。が、二試合連続であんな桁が違いすぎるほどの特大ホームランを見せつけられちゃ、どうにもならねぇよ。監督に言われるまでもないさ。それにしても、嫌な一年が入ってきたもんだ」
山崎が嘆じるように言った後、岡本が続けた。
「せっかく取ったレギュラーを入って間もない一年生に明け渡すのは、気分がいいもんじゃない。が、監督の話を聞いているうちに、おまえなら、という気持ちになってな。おまえのポテンシャルがどれほどのモンか、見てみたくなってな。バッティングは腰抜かすほどすごいけど、守備がどうなのか、明日にでも見てみたいよ」
そういう岡本の表情にあまり変化は無かった。しかし、見ようによっては、表情が硬いとも言えた。声自体も硬く聞こえる。複雑な心情は隠しきれない。少なくとも、文成はそう思った。
文成は一息つくと、話を打ち切るつもりで、やや明るい声を上げて言った。
「ま、監督が、優勝するためにはオレを四番・センターにすることが必要だと言うのでしたら、何にも異存は無いですけどね」
「そうか。それなら良い。それでは引き上げるぞい。あぁ、平井。今日もインタヴューを受けろ。二試合連続代打サヨナラ満塁ホームランを打ったヒーローの声を聞きたいと、メディアの連中が待ち構えているぞい」
監督が奇妙に嬉しそうな声で、文成に促した。
「またですかぁ!? オレ、もう嫌ですよ。大体、インタヴュアーの方が嫌がってるんじゃないの?」
「そうでもないと思うぞ。如何におまえが鼻持ちならぬ悪ガキであるかを喧伝したくて、手ぐすね引いて待っておるじゃろう」
「随分とシニカルなジョークで」
「おまえと喋ってると、自然とそうなるわい。わはははははは」
タヌキ親爺は呵々と笑って、歩いていった。
「純粋な少年の気持ちを考えたらどうなんだ……」
文成は独り言のつもりで、できる限り誰にも聞こえないように言った。
「純粋な、皮肉屋じゃな」
親爺は大声で文成に返すと、また笑った。
「あぁ、ほんとに食えないタヌキだねぇ!」
かなり自棄を起こした声で怒鳴って、文成は憮然となった。
「もういいですか?」
文成が無感動にインタヴュアーに尋ねると、インタヴュアーはおどおどしながら、
「あ、あぁ、はい。どうもありがとうございました。以上でヒーロー・インタヴューを終わります」
と言って、インタヴューを終わらせた。文成はお立ち台を降りると、すぐさまナインと合流するつもりだったが、マスコミの“ぶら下がり”取材を受ける羽目になった。
「もう少し質問させてくれないかな、平井君。おそらくスタメンは初めてだと思うけど、今の気持ちを聞かせてくれないかな?」
ワイシャツ姿のスポーツ紙の記者が最初に尋ねてきた。
「今の気持ちは早くご飯が食べたいと言うこと。それ以外は無い」
文成はやや厳しい声で答えた。もう休みたくて仕方ないのだから、とっとと帰れと言わんばかりである。
「四番でしかも、センターと言う大事なポジションにつくことについてはどう思ってるのかなぁ?」
今度は大新聞の運動部の記者か。汗臭さを撒き散らしながら質問してきた。
「さぁ。大事でないポジションなんて無いと思うけど」
答えながらだんだんと苛立ってきた。なんてつまらない質問ばかりするのだろうか。
「バッティングのすごさはよくわかったけど、守備に自信はあるのか!?」
居丈高に嫌味な質問をしてきたのは、夕刊紙の記者らしい。だが、『イブニングス』ではないようだ。そういえば、『イブニングス』の石沢ゆかりをまだ見ていない。どうしたのだろうか。
「自信? ベンチばっかりだから、三回戦で初めて守るけど、少なくともバッティング同様、ミッキー・マントル並みに守れるよ。心配しなくても良いから」
答えていくうちにぞんざいになってきた。どうにもマスコミの連中は好きになれない。腹を空かせている事もあって、誰か記者を捕まえて、顔面を殴りつけたくなってきた。
「ミッキー・マントルとは大きく出たけど、あまり大口を叩かない方がいいんじゃないかなぁ!」
とうとう非難交じりに誰かが怒鳴った。それを機に、と言うわけでもないだろうが、記者たちの声がけたたましくなった。
ここで文成は歩みを止めて振り向き、顎を上げて両手を腰に当てて、記者たちを睨みつけた。すると、ほとんど怒号を上げていた記者たちが一瞬にして怯んで静まり返った。今、文成の瞳は、甲子園に入場してきたときと同じく、飢えた野獣のごとく、凶暴に光っていた。下手に手出しをすれば八つ裂きにされそうな、そんな眼だ。
それでも文成は、努めて落ち着いた声で記者たちに、先ほどの非難に対する答えを返した。
「別に、シーザー・ジェロニモでも、トリー・ハンターでも、アンドルー・ジョーンズでも良いんだけど、みいんな、知らなさそうな貌してるから、結構有名なセンター・フィールダーの名前を出しただけ。オレの好きな選手だけどね。じゃ、オレはもう帰るから、質問は終わり。じゃ、さよなら!」
文成はすっぱりと話を打ち切って、記者たちに背を向け、そのまますたすたとバスに向かった。文成に去られた記者たちはというと、呆然として見送るだけだった。
ちなみに、シーザー・ジェロニモはシンシナティ・レッズの中堅手で、1974〜77年まで4年連続ゴールド・グラブ賞を受賞。トリー・ハンターは、ミネソタ・ツインズの中堅手で、ホームラン性の打球をフェンス間際で捕ることから、「ホームラン・ハンター」の異名がついた名手。そして、アンドルー・ジョーンズはアトランタ・ブレーブスの中堅手で、1998年から2005年まで8年連続してゴールド・グラブを受賞。2005年は打撃でも活躍、51本塁打、128打点で、本塁打と打点の2タイトルを獲得した。
文成の背中が見えなくなった後、誰からとも無く毒づいた声が漏れた。
「メジャーリーガーを引き合いに出すとは、ガキのくせに態度のでかい奴だ」
「態度だけで言ったら、レジー・ジャクソン並みだな」
「ホームランもでかいが、態度もでかいか」
「あぁ。レジーみたいに“ホット・ドッグ(目立ちたがり)”だぜ。普通打席に入るときに、エア・ギターをやる奴はいねぇよ」
「一度、あいつにたっぷりとマスタード付けなきゃならんなぁ」
「違いない」
「あはははは」
ごちゃごちゃと言ってから陰湿な笑い声がちらほらと起こったが、すぐに溜息に変わった。そして、“ホット・ドッグ”と言った奴がつぶやいた。
「二試合連続であんなすごいホームランを打つ奴は、いないよなぁ。メジャーリーガーでも」
甲子園に入るときは、どちらかと言うと怒号や罵声に包まれた弘成高校ナインも、甲子園を出てバスに乗り込むときには、歓声や嬌声に包まれる方が大きくなった。まるで、スーパースターのコンサートのように群衆が盛んに歓声や激励の言葉を送っている。思えば初めての全国大会出場で、ほとんどの人間が知らないも同然だったのに、今となっては、まだ優勝候補にも挙げられていないにも拘らず、大勢の観客に注目されている。もっとも、その多くが文成に向けられているのは言うまでも無いだろう。
「やっぱ、ヒーローは違うなぁ、平井。みんなおまえに注目してるじゃないか。しかも、来るときは罵声を飛ばしてたのに、帰るときは大歓声だぜ。俺もあれくらいの歓声を浴びたいなぁ」
中村康一はなぜか得意げに笑いながら文成に話しかけた。それほどまでに文成を自慢に思っているとは考えられないが。
「これじゃ、どこへ言っても注目されるな。自由に行動できない。常に孤独だったジョー・ディマジオの気持ちがよくわかる」
文成はボソッと低音でつぶやいた。よくもまぁ、ぬけぬけと言えたもんだと、康一は思った。元はと言えばおまえが原因じゃないかと、よっぽど突っ込んでやろうかと思ったが、ぐっとこらえた。相手が文成では、どう言い返してくるかわかったもんじゃない。
文成は空腹感と怠惰な気持ちを抱えながら、康一に続いてバスに乗り込もうとした。
まさにその時である。文成は急に寒気を感じて、全身を粟立たせた。こんな感覚は、あの暗黒時代にも無かった感覚である。どうしてこれほどの凍てつく感覚を味わうんだろうか。文成はすぐさま左側を向いた。まさに冷酷と表現すべき鋭利な感覚はそこから発せられていたと判断したのだ。
見ると、30mほど先に、白いノースリーブシャツに白いジーンズと、全身を白で固めた人間が腕組みをして突っ立っていた。熱光を嫌っているのか、アリゾナ・ダイアモンドバックスのベースボールキャップを被り、さらにサングラスまでかけていた。そんな人間がほとんど動かずに文成を凝視していた。
文成はその人間に対して正面を向き、自分もじっと相手を見た。腕組みせずに両手を腰に当てて見つめる。
視力が3.0もある文成は相手の肌が異様に白いことに気づいた。自分も絹のように白い肌を持っているが、今向こうにいる人間の肌は、なにかしら石膏のように白い。大理石のような美しさが感じられなかった。よく白色を善の象徴のように喩える人間がいるが、あの人間の場合は、「偽善」の白、と言った感じだった。あるいは、酷寒の世界を想起させる白なのか。
文成の全身を覆う寒気は一向に収まらない。なんなんだろうか、あの野郎は? 何か仕掛けてくるわけでもない。どうにも不気味だ。オレ以上の事を出来る奴は誰もいないと言い切る文成が、熱光と熱気に焙られているにも拘らず、冷や汗を流し始めた。
「おい、平井。なにやってんだよ? 早く乗り込めよ! いつまでも突っ立ってたら帰れないじゃないか!?」
なかなかバスに乗り込まない文成に業を煮やした康一が、文成に向かって怒鳴るように声を上げてバスに乗るよう促した。文成は康一の怒鳴り声を聞いて、なぜかホッとした気持ちになった。ずっと緊張したまま、白ずくめの人間を見なければならないという、半ば強迫観念に似たものを感じていたからだ。
「あ、あぁ、悪い悪い」
文成が康一に謝ると、康一はバスから降りてきた。
「何してんだ、いったい……。あれ? あそこで突っ立ってる奴、誰だ?」
白ずくめの人間はまだ腕組みをしたまま、じっと動かずに文成を見ていた。
「ん? たぶん、どうでもいい奴」
「たぶんって、何だよ?」
康一は苦笑しながら尋ねた。
「どうでもいい奴であって欲しいという、オレの願望がかなり入っている。なぜだかよくわからないけど。じゃ、帰ろうか」
そう言って康一を促してバスに乗り込んだ。バスに乗り込む直前、文成は白ずくめの人間に向かって、唇を尖らせて微笑を作った。それでもあの人間は何一つ反応を示さなかった。
バスに乗り込んだ文成は、バスの左側の後ろから三番目の席の窓側へ座った。だらしなくシートに背もたれたところへ康一が座ってきた。
「なぁ、平井。さっきおまえを見ていた奴、誰なんだよ? 知り合いじゃないのか?」
文成はほとんど眠そうな声で気だるそうに答えた。
「うるさいよ、ほんとに……。全然知らない奴だよ。もっとも、知り合いになりたくないけど」
「さっきから変な言い方ばっかりするなぁ。なんでそんなに嫌がるんだ?」
「嫌な奴だから」
素っ気無く答える文成に対し、なおも康一は粘る。
「なんでそんなことがわかるんだ?」
「わかるとしか言いようが無い。あんな奴が目の前に来たら、おまえも気分が悪くなるだろう。というか、魂が凍るだろうな。それだけ嫌な奴だから」
そう言うと、もうおまえの話は聞きたくないと言わんばかりに文成は寝てしまった。こうなると康一もおとなしく下がるしかない。
バスはすでに弘成高校が宿舎としているホテルに向かっている。バスに揺られながら文成は夢の中で、白ずくめの不気味な人間について考えていた。おのれを凍らせようとするあの人間は何者なのか。そして目的はなんなのか。考えれば考えるほど、気が滅入ってきた。
(どうでもいいか。見ているだけなら実害は無いし……)
そう考えると、白ずくめの人間は文成の中で、霞のごとく消えていった。そして代わりに浮かび上がってきたのは、親愛の情に満ちた美しい女性だった。文成が敬愛して止まない、理知的な瞳を持った“女教師”だった。“女教師”は文成に近づいて両掌で文成の頬を挟みつけると、慈しむように唇を重ねた。その瞬間、文成は脳髄が痺れた。そして、更なる深い眠りに落ちていった。
第22話へ続く
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