堕天使 〜Prinzipal der Finsternis〜

第19話 追いつ追われつ


 2点の援護を味方からもらった佐賀中央のエース・吉井は、5回の裏も愛想無く三者凡退で終わらせた。あるいは、この回の弘成の九番・真木、一番・三沢、二番・諸積が、淡白なだけなのかもしれなかった。事実、この回の吉井は、三人合わせて、たったの7球しか投げていない。それでいて、今日ヒットを打っている三沢と諸積から三振を奪ったのだから、すこぶる快調なのだろう。ベンチに戻るときも、胸を張り、反っくり返って悠然と歩いて戻っていった。この調子なら、佐賀大会の準決勝で記録した、自己最多の14奪三振を更新する事も可能だと、吉井は確信していた。
 一方、弘成ナインは元気が無くなっていた。反撃の口火を切るつもりが、水を差されたと言おうか。5回の表に黒田が佐賀中央の主砲、小嶋を三振に切って獲ったので、反攻ムードになったのだが、吉井の快投の前にあっさり萎んでしまった。
 この状況に、甲子園の観客から、弘成高校の一回戦の勝利は、まぐれだったとの声がちらほらと上がり始めた。
 6回表、佐賀中央の攻撃は、五番、ピッチャーの吉井から始まった。吉井はカウント2ストライク・1ボールから4球目に黒田が投げた、外角低めに落ちるスライダーを上手く捕らえて、ライト前に流し打ちした。
 そのあと、六番、ショート・高峰がきっちりと犠打を決め、七番、藤田は良く見て四球。1アウト、一・二塁。またもチャンスを迎えた。
 しかし、ここで黒田が踏ん張って、八番、澤谷と九番、嶺崎をそれぞれ、サードゴロ、セカンドフライと打ち取り、追加点を許さなかった。
 だが、この回だけで黒田は19球も投げてしまった。とうとう投球数が102球と、100球を超えてしまった。ただでさえ、5回あたりからスタミナ切れで球威が落ちてきたのに、この回でさらに消耗した。誰しもが、7回は危険と、思い始めた。
 それでも、森田老監督は動かなかった。6回裏の弘成の攻撃、三番、黒田に代打を出さず、そのまま打席に向かわせた。誰が見ても、黒田を続投させるとしか思えない。やはり、弘成の監督は野球を知らないのだろうか。そんな声も流れ始めた。
 この回先頭の黒田は、あっさりと見逃し三振。あまりにもあっさりと三振したので、誰もが体力を温存するためと見た。
 続くバッターは、四番、山崎。このときになって、森田監督は初めてベンチを出て、オンデック・サークルから打席に向かおうとする山崎を呼び止めて、噛んで含めるように、何事かささやいた。
 山崎は何度もうなずいて監督の言葉を真剣に聞いた。そして、監督に腰を叩かれて送り出されると、両手でグリップを絞る動作をしながら気合を入れて、打席に入っていった。
 一連のやり取りを見ていた、吉井と澤谷のバッテリーは、待球作戦と見て、敢えて山崎が手を出したくなる球を投げて、打ち取ることにした。山崎さえ打ち取れば、次は、この日無安打の五番・渡辺。吉井にしてみれば、“色褪せた、スカベみたいな奴”である。打たれるはずが無かった。吉井はこの回を簡単に終わらせたかった。
 佐賀中央バッテリーのこの読みは、決して間違ってはいなかった。山崎は確かに、“待ち”の作戦に出た。
 1球目。吉井は真ん中低め、カットボールを投げた。文成の叫び声は無い。あきらめているのか。そう思った吉井がほくそ笑んだ瞬間、両眼を大きく見開かざるを得ない光景を目の当たりにした。
 なんと、山崎はいきなりバントの構えを見せた。吉井をはじめ、一塁の速水、そして、三塁の小嶋があわててダッシュした。セーフティ・バントか?
 吉井が投げたカットボールが、バットに当たるかと思われた、まさに一瞬だった。山崎はすばやくバットを引いた。ボールは澤谷のミットの中に納まった。
「ストライーッ、ク!」
 なぜか力んだ声が審判の口から発せられたが、ともあれ山崎に対する1球目はストライク。飛び出した三人は、大きく息を吐き出して、元の守備位置に戻っていった。この日の山崎はよく当たっていた方だが、そんな山崎がセーフティ・バントを仕掛けようとするのだから、意表を衝かれた思いだろう。そんな気持ちが、飛び出した三人の顔色に表れていた。
 そしてこのあと、佐賀中央の内野陣は、山崎に散々揺さぶられることになる。
 山崎は、2球目、3球目をカットしてファールにした後、4球目をセーフティ・バントと見せかけて、またもバットを引いた。判定はボール。まあ、バントして失敗なら、その時点でアウトだから、山崎に本気でバントをするつもりは無いのだが。しかし、山崎の狙いがつかめないマウンドの吉井は、だんだんと苛立ってきていた。
 マスクをかぶっている澤谷は、吉井を落ち着かせる意図で、外角低め一杯のボールを要求した。きわどいコースだが、仮にボールになっても、まだ遊べる余裕があった。
 澤谷のサインに肯いた吉井は、またも大きく息を吐き出すと、大きなワインドアップ・モーションから5球目を投げた。外角低め一杯のスローボール。吉井は外れたかなと思いながらも、これでも良いと考えた。
 ところが、山崎は思いっきり踏み込んで、この球を当てに来た。バットの先端に当たったボールは、大きくスライスラインを描いて、三塁側ベンチの屋根に当たった。
(何を狙っているんだ、この四番は? セーフティ・バントをやるかと思ったら、あんなボール球まで振ってきた。何が目的なんだ?)
 ますます吉井は混乱してきた。文成の仕業かと思い、三塁コーチャーズ・ボックスを見遣ったが、当の文成は両手を腰に当て、貌を上げて、凶暴な熱光を降り注いでいる円環を睨みつけていた。
 そんな文成を見た吉井は完全に頭に血を上らせてしまった。こんなふざけた奴のいるチームに手こずらされるとは、自分自身に腹が立つ。何でもいいから仕留めてしまえ。そう思って吉井が投げた6球目。これが、とんでもなく浮き上がった。捕手の澤谷があわてて伸び上がったが、それでも届かなかった。ボールはバックネットのかなり高い位置に当たった。とはいえ、ランナーがいないので、騒ぐほどのことでもなかった。ただ単に、カウントが2ストライク・2ボールになっただけの事だった。だから、左打席の山崎も表情を変えず、ヘルメットを整えて、悠然と構えた。どうも山崎という主砲は、あまり感情を外に出すタイプではないらしい。
 一方、吉井は前半とはうってかわって、感情をむき出しにしていた。癇癪を起こしている、と言った方が正しいだろうか。今にもボールを山崎にぶつけそうな勢いだった。
 さすがにまずいと思ったのだろう。澤谷がタイムを取り、マウンドに行って吉井を宥めにかかった。マスクで口元を覆いながら、澤谷を鎮めようとする。
「吉井、キレるなよ。別に山崎を歩かせてもいいじゃないか。どうせ次の渡辺でゲッツー取れるから。肩の力を抜いて、楽に行こうぜ」
「別にキレてませんよ、澤谷さん。でも、ムカつくんですよ。平井もそうだけど、あの山崎とか言う奴。何考えてんのか、わかりませんよ。デカイ躯を丸めて、バントすると見せかけてしなかったり、ボール球をわざわざカットしたり、やる気あるのか無いのか、わかんない奴って、ムカつくんですよ」
「やる気はあるんだろうよ。おまえをムカつかせるのが狙いかもな。ムカつくなら、足にでもぶつければいいんだよ。上手くな。このあともう1球、ボールにするぞ。2−3にしたら、低めの速球だ。これであっさり打ち取れるよ」
「OK。わかった」
 エースをどうにか宥めて澤谷は元に戻った。しかし澤谷とて、山崎の狙いを把握しているわけではなかった。吉井の球種を読んでサインを出していた三塁コーチは、めっきり声を出さなくなったし、そもそも、今日の山崎は吉井をよく打っているほうだ。第一打席はアウトになったがきっちり犠牲フライを打ったし、第二打席もライト前ヒット。打とうと思えば、ヒットを打てるのである。なのに、なぜわざわざバントを見せたりするのか。そこがわからなかった。
 吉井は澤谷の指示通り、7球目を外低めにはずし、カウントを2−3にした。そして山崎に対する8球目。吉井は左脚を高々と上げて、思いっきり振りかぶって、真ん中低めにストレートを投げた。力強い球が澤谷のミットめがけて、唸りを上げて放たれた。
 2−3と追い込まれている山崎は振らないわけにはいかない。上からたたきつけるかのようにスウィングしてきた。
 山崎のバットがボールの上っ面を叩いた。ボールはキャッチャーの手前の地面にたたきつけられてから勢いよく真上に跳ね上がった。澤谷は跳ね上がったボールをミットに納めるべく、待ち構えている。山崎は下を向いて観念しながら一塁へ走っていったが、その背中に意外な声が投げつけられた。
「ファール!」
 真上に跳ね上がったボールは球審の真後ろ、だいたい、4,5メートル地点に落ちた。山崎がボールの上っ面を叩いた時、鋭くスピンでも掛かったとでも言うのだろうか。いずれにしろ、まだ山崎にチャンスは残っていた。吉井は面白くないといわんばかりに、不足そうな貌を作ってマウンドに戻り、球審から新しいボールを受けた。
 吉井がやや間を置いてから投げた9球目は、これまた山崎がカットして一塁線の外に出るファール。10球目も、カットしてファール。珍しく山崎が粘っている。そのおかげか、マウンドの吉井が肩で息をするようになってきた。
(むぅ……。これはヤバイ。この四番、吉井のスタミナを消耗させるために、わざわざバントの格好をしたり、カットしたりしてたのか。吉井の球数を増やすためだったとは、迂闊だった)
 肩で息をして、投球に間を取り出した吉井を見た澤谷は、額から冷や汗を流し始めた。こうなると、下手な小細工は命取りになる。澤谷はストレートのサインを出した。自分が強気のリードをすることによって吉井を奮い立たせようという意気込みだった。右拳で胸を叩いて、それを見せつける。
 この澤谷の意気込みはすぐに吉井に伝わった。唇の両端を少し吊り上げて肯いた吉井は、気合十分に真ん中低めにめがけて、ストレートを投げ込んだ。目の覚めるような速球とは、この時の吉井のそれを指していた。
 吉井のボールがリリースされた、まさにその瞬間だった。吉井は、いや、佐賀中央ナインをはじめ、審判、甲子園の観客に、マスコミ関係者、大会関係者、とにかく、その場にいる全ての人間が、理解不能に陥る事態が起こった。
 何度も言うようだが、カウントは2ストライク・3ボールである。山崎はここでセーフティ・バントを試みたのだ。一塁の速水と、三塁の小嶋は反射的に猛ダッシュしてきた。投げ終えた吉井も前に出る。セカンドの下村はカヴァーのため、一塁に走った。今度は山崎もバットを引く様子はない。本気でバントなのか? が、山崎の足は決して速くない。無謀と言うよりは暗愚としかいえないバッティングだ。誰もがそう思ったし、そうとしか思いようが無かった。
 ここで無謀と思っていない人間がいるとしたら、たった二人しかいないだろう。一人は、バントの構えをした山崎本人である。山崎は内野陣の動きを完全に把握すると、落ち着いて、速球をバットに当てた。そして、見る者の度肝を抜くバッティングをやってのけた。
 ボールがバットの真に当たった瞬間、前進した三人の選手は、ほんの刹那、時間が止まったかのような感覚を味わった。そして、気がついたときには、打った山崎が一塁塁上でヘルメットを取り、額の汗をぬぐっていた。
『これは驚きました! 四番・山崎君、完全に佐賀中央の裏を掻いたバント・ヒットォーッ!! バントの構えでピッチャーとファースト、サードを引き付け、一・二塁間に向けてプッシュ・バントーッ! これがバントでなかったらセカンドの真正面で平凡なセカンドゴロだったのが、バントだったために一塁のカヴァーに向かった下村君の背後を抜く形となりました。記録はライト前ヒット。四番・山崎君、見事な頭脳プレイで今日2安打です!!』
 アナウンサーが異様とも思えるくらい、興奮しながら絶叫し、それでいて事細かに実況していた。山崎は粘りに粘ってバント・ヒットで出塁。逆に吉井は散々翻弄された挙句にランナーを出したため、一気に疲労感がのしかかった。怒りを通り越して、脱力感が彼を蝕む。
 三塁に戻った小嶋はコーチャーズ・ボックスの文成に向かって、苛立ちを隠さず、吐き捨てるように言った。
「ほんとにおまえはいやらしい奴だな。いやらし過ぎる。吉井の体力を奪った上でプッシュ・バントをさせるとはな」
「オレは何も知らないよ。球数投げさせろと言ったのも、“もっさい”プッシュ・バントをしろと言ったのも、監督に決まってるよ。あの親爺、オレよりはるかにいやらしいから」
 文成は小首をかしげて、まるで少女のような表情を作って答えた。それを見て小嶋は寒気がしてきた。ほんとにこの少年は掴み所が無い。
「さっき、親爺が何か噛んで含めるように言ってたもんねぇ……」
 文成が気だるく溜息をつくようにそうつぶやくと、小嶋はハッとなった。
(あの時かぁ……)
 打席に向かおうとした山崎を呼び止め、弘成の森田監督はなにごとか耳打ちした。あの時は小嶋も待球作戦だろうかと思っていたが、あれほどまでにいやらしい作戦だとは思わなかった。なにやら不気味な感触が頭の上を覆っているような気分になり、小嶋は不快になってきた。
 1アウト、一塁。次打者はキャプテンの渡辺。渡辺も山崎同様、揺さぶりをかけてきた。吉井に11球投げさせることに成功したが、フルカウントからの高めのつり球に手を出してしまい、セカンドフライに倒れた。
 だが、4球目に吉井の暴投を誘って、山崎を二塁に進めたのだから、この男にしてはよくやった方だろう。これで2アウト、二塁になった。
 このあと吉井と澤谷のバッテリーは、六番・岡本を敬遠。2アウト、一・二塁とした。岡本を警戒したわけではなく、吉井を落ち着かせるためである。事実、この回だけで吉井は28球も投げていた。次のバッターは、左の池上。
 しかし、ここで森田監督が出てきて、球審に代打を告げた。緊張感が、さっと走る。この場面で代打となれば、おのずと誰なのかが浮かび上がるからだ。
『……弘成高校、選手の交代をお知らせします。七番、池上君に代わりまして……、洲崎真吾(すざき・しんご)君』
 “ウグイス嬢”がアナウンスした選手の名は、ほとんどの人間の予想を完全に裏切ったものだった。ランナーは一塁と二塁。一発逆転の大チャンスである。誰もが、“美少女”のように華奢で、それでいて傲慢で、そしてありえないほどの破壊力を持つ“切り札”が出るものだと思っていた。だが出てきたのは、一回戦で一塁コーチを務めた控え選手だった。公式戦の記録はまったく無い。拍子抜けもいいところである。
「なんだ、おまえが打つんじゃないのか? てっきりおまえが打席に入るもんだと思ったけど……」
 小嶋がわざとらしく皮肉混じりに言った。が、言い終えた後に小さく溜息を漏らした。それを文成はしっかり聞いていたのだが、敢えて聞き流した。
「オレ、今日はここに立ってるだけだから。バッターボックスに立つ気は無いよ。めんどくさいし。それにしても、あんた、よく喋るねぇ。誰にでも話しかけるのかい?」
「別に。ただ今日は喋りたい気分なだけだよ。それより、いいのか。ここで逆転できなかったら、二度とチャンスは来ないぜ」
「It ain’t over till it’s over」
「はぁ?」
 いきなり文成がクイーンズ・イングリッシュで喋りだすものだから、小嶋はまったく訳がわからずに、やや小バカにするように聞き返した。
「終わりが来るまで終わりじゃないんだ。終わってもないのに終わったように言うんじゃない」
「おまえ、何、わけのわかんないこと、言ってるんだよ? バカじゃねぇの?」
「この意味のわからない奴に、奇跡を起こせるわけが無い」
 そう言ったあと、文成は右打席に立っている洲崎に向かって、人差し指をピンと立てた。すぐさまそれを洲崎に向けると、手を戻し、手刀の形で首のあたりを水平に切った。なめらかで優雅な“首切りアクション”だった。
 じっと見ていた洲崎は、何事か思い当たると、ぷっと吹き出した。一方、相手方の澤谷はそんな洲崎の態度を見て、思わず声をかけた。
「よう、何がおかしいんだ? ここで点を取れなかったら、おまえはクビだと、言ってるのか、あの一年は?」
 それに対し、洲崎はやや間を置いて、短く答えた。
「……うん、まぁね。そんなとこ」
 洲崎のそっけない答えに首を傾げた澤谷だが、すぐに気持ちを切り換えて吉井にサインを出した。打者の手元で微妙に変化するカットボールだ。
 肯いた吉井は、クイック・モーションで投げた。感触は良い。疲れを感じてはいても、切れの良い球だと自分でも思った。
 それに対し、洲崎は軸足である右足を蹴り上げ、体重移動しながらボールを捕らえ、おっつけるように打った。打球は、飛び上がったセカンドの下村の少し上を越えた。そのまま、右中間へ転がっていく。
 2アウトということもあるが、二塁走者の山崎と一塁走者の岡本は必死に塁を回っていた。特に、山崎は何が何でも生還するという勢いだ。
『山崎君、三塁を回った。センターの常松君がボールを掴んで、バックホ〜、ム! そのままキャッチャーのミットめがけて一直線、すごい肩だ! キャッチャー、ボールを掴んでタッチ。あぁ、山崎君が先に滑り込んだ! 山崎君の左手が先にベースを叩きました。2点目ぇ〜〜!! 代打洲崎君のタイムリーヒットで、弘成が2点目。3対2、1点差です!!』
 タイムリーを挙げた洲崎に対し、一塁コーチの康一が声をかけた。
「ナイス・バッティング、洲崎先輩! 見事ですよ!」
 肘当てと膝当てをはずして康一に手渡した洲崎は、感情を抑えたかのような声で答えた。
「カットボールとわかっているから、打ちやすかったな。ま、教えてくれた平井に感謝しないと」
「え、平井が? でも、あいつ……」
「あいつがわからないわけ無いだろう。指一本立てたのは、初球という意味。首切りアクションをしたのは、カットボールが来るという意味だ。やることが憎たらしいね」
 そう言いながらも洲崎はにやりと笑った。自分にとっての公式戦初ヒットを、甲子園であげることが出来るとは、夢にも思わなかったからだ。
(やっぱり、平井って、すごいなぁ……。癖盗みの天才だ)
 康一はぼんやりと、三塁コーチャーズ・ボックスで立っている文成を眺めながら、心の中で賞賛した。
 2アウト、一・三塁。1ヒットで同点のチャンスを迎えた弘成高校。打席に立ったのは、八番・一宮。前の打席で、吉井から二塁打を放っているので、いやがうえにも期待が高まる。
 その一宮への初球。甘く入ったストレートを迷うことなく一宮は振り抜いた。強烈な打球が三遊間を衝いた。
 ここで、三塁手の小嶋が横っ飛びで打球を捕らえた。すかさず体勢を立て直すと、二塁ではなく一塁に送球した。一塁塁審がアウトを告げると、小嶋は右手でガッツポーズを作った。佐賀中央ナインが小嶋に向かって、ナイス・プレイと褒めそやした。観客からも大きな拍手が送られる。
 6回裏が終わって、3対2。少しずつ、弘成が差を詰め始めた。ベンチに引き上げる弘成ナインの貌も明るくなってきた。同点にできたらもっと良かったのだろうが、それでも7回裏はトップに戻る。そこで逆転できるとの思惑が、ナインたちにあった。
 なお、セカンド・池上に代打・洲崎が出たので、7回表から弘成のセカンドは、控え内野手の森政司(もり・せいじ)が入った。なぜ洲崎が入らなかったのか。それは、彼が捕手だったからである。
 7回表、佐賀中央の攻撃。弘成のエース、黒田が続投となった。森田監督はあくまで黒田を最後まで投げさせる気なのか。
「親爺、もう代えたほうが良いんじゃないですか? 黒田さん、絶対火だるまになりますよ」
 監督の横に座らされた文成が、声を潜めて言った。いま文成は、監督と、そしてなぜかマネージャーの平野絵理子に挟まれる形で座っていた。
「心配するな。黒田はおまえに心配されるほど、貧弱なピッチャーじゃない。なかなかひたむきな子だ。試合を壊すようなことは無い」
「“はなわ”に打席が回りますよ、間違いなく。最低2点は取られます。あいつはさっき、黒田さんに三球三振を食らわされたんで、ムチャクチャ、キレてます。絶対、バックスクリーンに放り込まれますよ」
「それは黒田じゃなくて、おまえに対して、キレてるんじゃろ? ずぅっと、余計なことを言いまくっていたそうじゃのぅ。とにかく、このあとは最高でも2点しか取られん。黒田を代えることも無い。9回までに、きっちり逆転できるわい。」
 親爺はそう言って、ニヤリと笑った。
「吉井さん、本来の70%程度の投球しかしてませんよ。全然、全力で投げてません。この後、気合を入れるとしても、せいぜい、80%くらいでしか投げてきませんよ。少なくとも、黒田さんより、はるかに上のピッチャーです」
 相変わらず、低音で文成は反論した。
「おまえが他人を褒めるとは、珍しいこともあるもんじゃのう。まぁ、見とれ。仕掛けは十分にやった。最後の仕上げはおまえにやってもらうぞ」
「結局、オレかよぉ……。どうにかならんのか、このチームは」
 文成は大きく溜息をつきながら、失望したかのようにぼやいた。
「仕方ないじゃろう。100%の吉井を打ち砕けるのは、おまえしかおらん。なぜなら、吉井の力を100%引き出せるのは、おまえだけだからじゃ。他のみんなは70%の吉井を見ているが、おまえは100%の吉井を見ている。そして、100%の吉井をどうやって引き出すかも分かっている。どうじゃ、おまえしかおらんじゃろ?」
 おまえのことはつぶさに見ているぞと言いたげに、親爺はニヤニヤ笑っている。どうにも食えない親爺だと、文成は溜息をついた。
「ま、オレが打席に立てるかどうかは、前の三人次第だけどね」
 あくびをしながらつぶやく文成に、ナイン全員が睨みつけてきたが、文成は眠そうな目を向けるだけで、相手にしなかった。
 はたして、文成の予言は恐いくらいに的中した。一番と二番を打ち取った黒田は、しかし三番・速水を歩かせてしまい、二死、走者一塁で、四番の小嶋を迎えた。カウント1ストライク・1ボールからの3球目、低めの速球を掬い上げられ、バックスクリーンよりやや左に放り込まれた。小嶋の、この日2本目のホームランで、5対2と佐賀中央がまた突き放した。
 その後、五番の吉井は見送り三振で、7回表が終わったが、ベンチに引き上げるナインの貌はみな暗かった。暗いというよりは、もう終わったといわんばかりの表情だ。
「おまえ達、まだ7回表が終わったところじゃ。試合が終わったわけじゃないのに、終わったような貌をするな! 終わったかどうかは審判が決めるんじゃ。審判がゲームセットを告げるまで、あきらめるんじゃない!」
 親爺が破れ鐘のような怒鳴り声で、選手たちを叱咤した。今日は、やけにこの親爺は気合を入れている。この試合が肝心だと、親爺は思っているのかもしれない。
「ヨギ・ベラみたいなこと言いますね、親爺。終わるまで終わりじゃない、と言いたいんですか?」
 文成がからかい半分で言うと、
「そのとおりじゃ。そうでなければ、勝利なんて得られるもんじゃない。わかったら、早く行ってこい!」
 と、小柄な親爺は文成を怒鳴りつけた。飛び上がるようにして、文成はベンチを出て行く。
 三塁コーチャーズ・ボックスに行くと、三塁手の小嶋が得意げにふんぞり返っていた。何を言いたがっているかは、文成でなくともよくわかる。
「平井君、今度はちゃんと見たよな?」
「見てはならないものを、見てしまいましたよ。まるで、男がオナニーして、いった瞬間を見せつけられたみたいで……」
「なんだとぉ〜!?」
 小嶋はこの日一番の激昂を表した。が、文成はまったく意に介さない。
「それはともかく。吉井さん、全然本気で投げないねぇ。力をセーヴしている。70%の力でも勝てると思ってるのか、それとも、こんなもんですか?」
 言ったあとで文成はニヤついた貌を小嶋に向けた。
「どういう意味だよ?」
「文字通り、額面どおりですよ。こんなもんですか? そんなはずは無いですよねぇ。佐賀大会のときの方がすごかったと思いますよ」
「おまえに何が分かるんだよ?」
 もう小嶋は周りをまったく気にすることなく、声を荒げるように言った。
「わかりますよ。佐賀大会のときのDVD、ちゃんと見ましたから。もうヴィデオじゃないのが、良いですよねぇ」
 妙に朗らかな声で言った後、文成は一塁側に向かって怪訝な表情を作った。それを見た小嶋も一塁側を見ると、森田監督がなにやらサインを送っていた。
 監督のサインをじっと見つめていた文成は、やがて右掌で胸を叩き、また首切りアクションを見せた。
「なにやってんだ、おまえ?」
「この回限りで三塁コーチを降りることになりました。ベンチに引っ込めと言ってます」
「まさか、次の回、代打で出るんじゃないだろうなぁ?」
「それは無いでしょ。もっとも吉井さん次第でしょうけど」
 そう言ってから文成は、ぷいと横を向いた。もう話したくないという意思表示のようだ。
 七回裏の弘成高校は、九番の真木が四球で出塁したものの、あとの三人が凡退して無得点に終わった。
 文成はベンチに引き上げる前、何を思ったか、ベンチを素通りして、一塁側アルプススタンドの前に行った。観客が注目する中、文成は井上佳奈子を見つけ出し、一声掛けると、右手を上に向けて差し招く仕草を見せた。
 佳奈子が目の前に来ると、文成は何も言わずにジェスチャーで表現した。すなわち、左拳で胸を叩くと、左手で「9」の字を作った。そして、両手でメロイック・サイン、別名、“DEVIL’S HORN(悪魔の角)”と呼ばれる、人差し指と小指を立てるサインを作った。
 それを見た佳奈子は微笑んで、自分もメロイック・サインを作って応えた。
「じゃ、テーマ・ソングはあれでいいわね、文成君」
「あぁ、あれをやってくれないかな、“お姉さん”」
「あなたが最も輝くように、ね」
 そういって佳奈子はウィンクして、戻っていった。
 いったい文成は何を伝え、何を頼んだのだろうか。それが分かるのは、もう少しだけ、先の話である。



第20話へ続く


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