
堕天使 〜Prinzipal der Finsternis〜
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文成がベンチに戻ると、マネージャーの絵理子が両目を吊り上げ、唇を引き結んで睨みつけていた。なぜ彼女がそうしているのか。だいたい予想はついているが、それでも文成は表情を変えずに話しかけた。
「どうしたんです、マネージャー。気分が優れないようですが?」
ずいぶんと馬鹿丁寧に話すので、絵理子は不機嫌な声で、逆に質問した。
「アルプススタンドの前まで行って、何をしていたの?」
すると文成は、少しはにかんだ様な笑顔を作って答えた。
「さっき監督が教えてくれたんだ。9回裏、オレを代打に出すって。それを今、応援している皆さんに教えたわけで」
「佳奈子に教えたんじゃないの?」
「たまたま近くにいたからね。それに、オレがバッターボックスに入るときのテーマ・ソングもやってくれるって、言ってくれたし」
「前々からあなたが佳奈子に頼んできたって、佳奈子から聞いたわよ」
だんだんと絵理子の声音が厳しくなってきた。
「あれ? ベンチ入りした選手全員のテーマ・ソングをやるって、ブラバンの部長が言ってたって、井上先輩から聞いたけど。みんな、希望曲出さなかったの?」
矛先を変えようとしているのが見え見えの発言である。
「みんな、そんな話すら聞いてないみたいよ。どういうことかしら、平井君?」
「オレに言われてもねぇ……。よくわからない」
「そう。で、希望曲はなんなの?」
絵理子は憮然として言った。
「内緒」
「なんですって?」
「オレの出番が来たらわかりますよ。もっとも、曲がわかる人は、ほとんどいないでしょうけど」
そう言って文成はようやく絵理子の隣に腰を下ろした。そして、先ほどとは打って変わって、背筋を伸ばし、両手を組んで、瞑想を始めるかのように瞼を閉じた。
その瞬間、文成の身の回りにオーラでも生じたのか、絵理子は何ひとつ声をかけず、息を呑んで見つめた。今の文成はだらしなく眠っていたときとは大違いである。イメージトレーニングをしているのか、自分自身の内なる力を高めようとしているのが、絵理子の目から見ても、はっきりとわかった。
(この子、本当にいろんな表情を持っているのね。だらしなくしているかと思えば、人を人とは思わない態度を取るし。ふざけたことを言っているかと思ったら、今みたいに真剣な貌で精神統一して。いったい、この子はどれだけの貌を持っているのかしら。そして、本当の貌は……)
そう思って、絵理子は少し不安になった。文成の本当の貌なんて、彼を野球部に誘ってから今まで見たこともない。いったいどんな貌なのか。でも、それを知ってしまうことの恐れが強かった。なぜそう思うのか、自分でも理解できなかった。
文成からのサインを受け取った佳奈子は、すばやくアルプススタンドを駆け上がり、弘成高のブラスバンド部が陣取る応援席に戻ると、部長の西岡清に声をかけた。一気に駆け上がったのと興奮とで、かなり息が上がっている。
「部長、9回裏、平井君が代打に出ます。今のうちに、彼のテーマ・ソングの準備をしてください」
「ほんとか、井上。そんなことどうやって知ったんだ!?」
軽そうなフレームの眼鏡を掛けた、真面目で人の良いこの部長は、なぜか慌てたような声で訊き返した。
「もう、さっき平井君がフェンスの前まで来て、言ってましたよ。見てなかったんですか? 9回裏、代打に出るって。早く音合わせしないと、肝心なときにバラバラになっちゃいますよ」
「でも、佳奈子。ほんとに平井君が出るの? 監督が出すと言ったのならわかるけど……」
佳奈子と同じ二年生で、トランペット担当の柴原優貴子が口を挟んだ。
「間違いないわよ。あれでも平井君、監督を無視するようなことをしないから。自分で勝手に代打に出るって決めたんじゃないと思うわ」
「平井が出るんだったら、あれをやれってことか?」
今度は、優貴子と同じトランペット担当で、三年生の青田真次(あおた・しんじ)が佳奈子に尋ねた。
「そう、あれ。平井君が第一希望で出した曲」
「えぇ!?」
ブラスバンド部全員が、不平が混じった絶叫を上げた。いったい文成は何をリクエストしたのか。
「だから、今から合わさないと大変ですわ。失敗したら、平井君、何を言い出すかわかりませんわ」
「だけど、あれ、結構早いんだぜ、テンポが。平井が持ってきたCDで、初めて聴いたけど。どれだけ苦労したか、佳奈子もわかってるだろ」
ドラムス担当の二年生、小西敬史(こにし・たかし)がぼやいた。彼はブラスバンド部ではなく、軽音楽部である。オーソドックスなハード・ロックファンであり、同じ趣味を持つ文成と知り合いだった。その文成がテーマ・ソングをリクエストした際に、小西を入れることも要求したのである。いわば、文成がリクエストしたテーマ・ソングの為の“助っ人”なのである。
「でも、かっこいいじゃない? 平井君に良く似合うと思うわ。タイトルもシャレてるじゃない。ベタといえばベタだけど」
佳奈子が平然とした貌で言い返す。
「そうだね。一回戦ではいきなりだったんで出来なかったけど、平井君が出るなら、ビシッと決めるぞ!」
ようやく、気の良い西岡部長が号令を掛けた。それで部員全員が準備を始めた。
「それにしても、よくもまぁ、こんな、30年も前のクラシック・ソングを……」
小西がぼやきながらも準備を始めると、
「何言ってんの? 30年も前じゃないわよ。だいたい、山本リンダの“狙い撃ち”よりは新しいでしょ」
と、佳奈子がぴしゃりと言った。
「まぁね……」
そう言って、小西はミニドラムキットを調整していった。いつも使っているドラムキットでは嵩張るし、また場所も確保できず、うるさ過ぎるので、ミニドラムにしたのだ。
8回は両校とも無得点。きびきびとしたペースで進んでいった。そして、9回表、佐賀中央の攻撃は、トップバッター、下村からだった。バテバテ寸前のエース・黒田は、下村にレフト前ヒットを許したが、後続を三者凡退に仕留め、なんとか9回を投げきった。得点は5対2と、佐賀中央の3点リードで、いよいよ最終回を迎えた。
「どうじゃ、文成。わしの言うとおり、佐賀中央は2点しか取れんかったじゃろが。また逆転勝ちじゃぞ」
森田監督が得意げに文成に喋りかけてきた。
「それでウチが1点も取れなかったら、意味無いですよ。吉井さん、まだ力をセーヴしてます。どうやって崩すんです?」
文成が愚痴るように言い返すと、
「なぁに、心配するでない。あれは力をセーヴしてるんじゃなくて、バテてきてるんじゃ。7回、8回と点は入らなかったが、ウチの選手がとことん粘ったからな。平野君、吉井君はここまで何球投げたかな?」
「122球です。それと、ストレートの球速も、前半140km以上出ていたのが、8回になってMAX135kmと、落ちています」
絵理子が少し高い声で答えた。何か期待感が籠もっているように、文成には思えた。
「ほれ見ろ、文成。吉井もいい加減、スタミナが切れるぞ。そうなったら吉井も、並の投手じゃ。文成、大した事は無かろう」
「オレが代打に出るチャンスがあって、吉井さんが本当に並のレヴェルなら、100%スタンドに入れられますよ。たらればの話ですけどね」
「それなら大丈夫じゃ。早く準備しろい」
「ま、監督の言うことに、間違いは無いんだろうなぁ……」
気だるげにつぶやいた文成は立ち上がって、自分の木製バットを持ち出し、再び監督と絵理子の間に座って、バットを抱えた。
さて、文成のバットがメープル材であることは最初に述べたが、ナチュラルカラーのそのバットには、バリー・ボンズのそれに刻印されているコウモリのデザインではなく、太い字で“X”と記されていた。タフバット社製のX‐バット・プロメープル24だ。
バリー・ボンズがオリジナル・メープルバット社のサムバットでシーズン最多本塁打73本を記録した2001年以降、サムバットの需要は増大。140人以上のメジャーリーガーが使用するようになった。そのため、オリジナル・メープルバット社は大量生産できるよう、サムバットの材質に硬質のハードメープル(ロックメープル)から軟らかいシュガーメープルに変更した。
初めて木製バットを選ぶ際、文成は当初、バリー・ボンズの真似をしようとサムバットを選ぶつもりだったが、ハードメープルタイプのバットが入手困難になったので、打ったときのボールの反発力にこだわった文成は最終的にハードメープルを使用したX‐バットを選んだ。
文成が使用しているプロメープル24は、メジャーリーグ現役最高の外野手、ブラディミール・ゲレーロ(モントリオール・エクスポズ《現、ワシントン・ナショナルズ》、ロサンゼルス・エンゼルスなどに在籍)が使用しているものと同タイプだが、長さが34インチ(約86cm)とほぼ同じであるのに対し、重さが31オンス(約879g)と、少し軽い。ヘッド部分の直径が約66.7mm、グリップ部の直径が約23mmと、やや細い。重量バランスは、ヘッド部分に寄っているトップバランス。これにより、ヘッドスピードを極限にまで高め、コンタクト時に破壊的なパワーをボールに伝達する。だから150km/h以上の速球を打ち返すことが容易になるのである。
ちなみに、バットが重いと反発力が増して遠くへ飛ばせるとの認識があるようだが、バットの軽重と反発力はまったく関係なく、むしろ重いことによって、速球に対応できないデメリットが大きい。メープルバットがメジャーリーガーの間で急速に広まったのは、このことが主たる要因である。
なお、ゲレーロ以外にも、“メジャーリーグ最高の投手の最高の球を打ち返すことができる打者”と言われる、マニー・ラミレス(クリーヴランド・インディアンス、ボストン・レッドソックスに在籍)や、シーズン60本塁打以上を三度達成した、サミー・ソーサ(シカゴ・カブスなどに在籍)など、200名以上のメジャーリーガーが、X‐バットを使用している。
9回裏、弘成高校最後の攻撃は、7回から守備に入った、森政司から始まる。吉井の球速は確かに落ちていたが、変化球の切れはまだ冴えていた。それに、元々が守備要員の森ではとても太刀打ちできるはずが無く、森はあえなく三振に終わった。続く八番・一宮も三球三振にしとめられる有様だった。
一宮をしとめた時点で、吉井が奪った三振の数は15個。自己最多記録を更新したのだった。
「親爺、またあっさりと追い込まれましたね。どうやって逆転するんですか?」
文成がため息混じりに呟くと、森田監督はニヤリと笑って答えた。
「ふむ、そうだな。まずは約束を果たすかの。野田、出番じゃ。準備は出来とるか?」
監督に呼ばれた野田は目を輝かせて答えた。
「はい、監督! いつでも行けます!」
「よし、それじゃ行くぞ。平井、野田にアドヴァイスしてやってくれ」
そう言って監督は球審に代打を告げに言った。指示された文成はゆっくりと立ち上がって躯を伸ばすと、野田に近づいて、伸び上がって耳打ちした。
「野田さん、吉井の初球、内角低めに落ちる“スラーブ”が来ます。それをゴルフスウィングするみたいに打ってください。狙いは、一塁、速水の股間を抜くイメージで。そうすればダブル取れます」
スラーブとは、スライダーとカーブの中間のようなボールで、横ではなく縦でもなく、その間ぐらいにやや大きく曲がる球、と言ったところである。
『……弘成高校、選手の交代をお知らせします。九番、真木君に代わりまして……、野田英次君』
野田の名がアナウンスされた瞬間、またも観客の声がざわめきから溜息に変わった。特に、一塁側のアルプススタンドで顕著に現れた。
「おい、井上。ほんとに平井が代打に出るのかよ!?」
あからさまに不満声でトランペッターの青田真次が言った。
「出るに決まってるわよ。ランナーがいないじゃないの。満塁になったら、平井君の出番よ」
佳奈子は甲高い声で青田を怒鳴りつけるように言った。言ってはみたものの、彼女とて、平井が代打でないことに不満を覚えているのだ。
「でも、佳奈子。野田先輩がここで倒れたら、もう終わりじゃないの」
同じくトランペッターの柴原優貴子が失望感を混じえた声で言った。
「うるさいわね! あたしは平井君を信じてるの! 平井君が代打で出ると言ったんだから、間違いないわよ!」
佳奈子は全員を抑えつけるように言い放った。
「おい、佳奈子。おまえ、平井に気があるのか? ずいぶんと庇うじゃないか。森本が知ったらどんな貌をするだろうなぁ……」
ドラムスの小西が囃し立てると、佳奈子は貌を紅潮させて、
「やかましい、このコージー・パウエルの出来損ない! 黙って太鼓叩きゃいいんだよぉ!」
と、小西に当り散らした。
「うわ、怖えぇ! みんな、野田先輩がヒットを打てるように応援しないと、佳奈子が暴れまわるぞ!」
小西はそう叫んで大笑いした。ずいぶんにぎやかな応援風景だが、周辺にいる他の観客は、目を点にして唖然と見ていた。
打席に向かう野田は、観客、特に一塁側アルプススタンドの反応が乏しすぎるので、期待されないのは仕方ないかと、やや諦めた気持ちになっていたが、打席に入った途端、ケニー・ロギンスの「DANGER ZONE」(映画『トップガン』のメイン・テーマ)が流れ出したので、思わず苦笑いした。取って付けたように思えたのだ。
野田の苦笑いを、余裕と捉えるか、それとも諦めと捉えるか。吉井と澤谷のバッテリーは、互いに首を傾げたが、すぐに、まぁいいか、という気持ちになった。点差は3点。あと一人なのだ。奪三振の自己記録を上積みするもよし、一球で終わらせるもよしの状況である。余裕ということなら、こっちの方が余裕綽々だった。
澤谷のサインを受けた吉井は振りかぶって、野田に対する第1球を投げた。
不思議なことだが、このとき野田は、吉井のピッチングが、スローVTRのようにゆっくりと動いているように見えた。そして吉井の握りが、文成の言ったとおり、スラーブであるのがはっきりと見えた。
(もらったぁー!)
心中の興奮を抑えられなくなった野田は、それでもしっかりタイミングを取りながら、文成に言われたとおり、外角低めに落ちるスラーブをゴルフスウィングのように振り抜いた。
「うぉりゃあ〜!!」
ミートした瞬間、野田は絶叫した。まさに、一塁手の股間を抜かんばかりであった。その叫びに萎縮したか、それとも強烈な打球のせいか、一塁の速水は一歩も動けなかった。
『野田君、初球を打ったぁ〜! 打球は一塁、速水君の足元を抜けて、ライトのファールゾーンに転がった。フェアだフェア。ライト・嶺崎君が回りこんで二塁に返球。野田君、二塁に滑り込んだ。二塁打〜! 弘成高校、9回裏、2アウト・ランナー無しの土壇場で、貴重な二塁打!』
二塁打を打った野田は立ち上がると、すぐさま右拳を突き上げた。まるで大仕事をやったかのように快活な笑顔を一塁側に向けた。
2アウト、ランナー二塁。打順は一番に戻って三沢。澤谷は焦りを覚えた。三沢には2安打打たれている。この弘成ナインは、中軸は大した事ないのに、一、二番は良く打つ。なんとも中途半端なチームだ。
だが、今この場面では非常に厄介なバッターだ。澤谷は慎重に配球を考えながら、吉井にサインを出した。
しかし、この慎重さが裏目に出た。打たれまいという気持ちと暴投するまいという気持ちが綯(な)い交ぜになった吉井の投球は全て外れてしまい、三沢をストレートで歩かせてしまった。二死、一・二塁。一塁側から期待の籠もった歓声が沸き、三塁側からは不安に満ちたどよめきが起こった。
次は第一打席で吉井のスライダーを上手く打った諸積。バットを振り回しながら気合を入れる小柄な二番打者に対し、老監督が耳打ちした。
「諸積、打ちに行かんでもええ。立ってるだけで十分じゃ。面白いことが起こるぞ」
何が起こるのかよくわからないが、この監督の勘の鋭さは野球部にとどまらず、校内でも有名だったので、諸積は監督の言うことに賭けた。
はたせるかな、真ん中低め一杯のストレートがボールと判定された後の2球目、吉井が外角低めに投げたフォークボールを、なんと澤谷が取り損ねて後逸したのだ。歓声と悲鳴と絶叫が濁流となって渦巻く。ランナーはそれぞれ進塁。二死、二・三塁。
「文成、まるでもう一度デジャヴになったみたいじゃのう」
親爺がやたらとうれしそうに喋っていた。何が起こるのかわくわくしている子供みたいである。
「それ、どっかで聞いたなぁ。小説か何かであったような……?」
「おまえの大好きな、ヨギ・ベラの言葉じゃ。さぁ、文成。約束どおり、お膳立てはできた。後はおまえが仕上げてくれ」
「約束しちゃったもんなぁ……。果たさなきゃならん」
文成はつぶやきながら立ち上がり、躯を伸ばした。そして、何度か腹式呼吸で息を整える。
諸積のカウントはノーストライク・2ボール。佐賀中央バッテリーは結局、諸積を歩かせることにした。次のバッターは誰なのかはわかりきっている。しかし、仮に1点しか入らなくても、あの“美少女”が打席に立つのは間違いないのだ。だったら、腹を括って勝負するしかない。
ついに、二死満塁。六日前の光景がまたも現れた。森田監督がまた、球審に向かって代打を告げた。それを見た、弘成高校の大応援団が俄然盛り上がった。ブラスバンド部は逆に緊張が走っていた。とうとうあの曲を披露するときがきたのだ。固唾を呑んでアナウンスを待つ。
『……弘成高校、選手の交代をお知らせします。三番、黒田君に代わりまして、平井文成(ふみしげ)君』
ほとんど間を置かずに、トランペット隊がハードなリフで切り込み、ドラムスの小西がヘヴィかつタイトに叩き出した。他の楽器隊も、アップテンポと言うには、かなり速い曲を熱狂的に奏でだした。アンサンブルが見事に決まっている。
一方、リクエストした張本人、文成は、演奏が始まったのと同時に、持っているX‐バットのグリップを上にして抱え、ギターに見立てて弾き始めた。“エア・ギター”を弾きながら早足で打席に向かい、時折立ち止まって、テンポ良く首を横に振ったかと思うと、右手を上に突き上げたりしていた。誰が見ても、完全に自分の世界に入っていた。
そして、曲がコーラス部に入ると、“エア・ギター”をしている状態で歌いだした。
「Shine! Shine on through the darkness and the pain. Shine! Shine on WARRIOR……」
文成がリクエストしたのは、ニューヨーク出身のハードロック・バンド、RIOTが1978年に発表したデヴュー・アルバム『ROCK CITY』に収録された名曲、「WARRIOR」だった。
1分21秒ほどで、この、ツインリード・ギターが美しい超名曲の演奏が終わると、文成はバットをぐるりと回して、打席に入った。ヘルメットを取って、お願いしますと、捕手の澤谷に挨拶し、そしてマウンドに立つ吉井にも軽く会釈した。そして、一回戦同様、内股で、左踵をわずかに上げ、躯を反らし、両肘を上げてバットを寝かせる、“お嬢様”スタイルで構えた。
(こいつ、むちゃくちゃ、目が綺麗だなぁ……)
初めて文成を間近で見た澤谷は、息を呑んで見惚れた。野球を知らないお嬢様のように構えるから、なおさら美少女のように見える。相手が男とわかっていても、心がざわついてしまう。
そう思った途端に、澤谷は首を振って、気を取り直した。武蔵学院高校の二の舞は避けなければならない。澤谷は様子を見る意図も籠めて、外角低めのカーブを吉井に要求した。肯いた吉井はセットポジションから、文成に対して第1球を投げた。大きく縦に変化したボールに向かって、文成は左脚を踏み込んだ。が、ボールにまったく掠ることなく、空振り。そして、ひっくり返って尻餅をついた。またもヘルメットを落として。
両外野席から爆笑が起こったが、一回戦とは違い、散発的なものだった。一回戦では、2球後に、ピエロと思われた華奢な一年生が場外ホームランを打ったことを、多くの観客は知っていたからである。実際、爆笑の波もすぐに退いた。
「ふぅ……、やっぱ、打てないもんだなぁ……」
文成の空々しいつぶやきを聞いて、すかさずマスクを被っている澤谷が突っ込んだ。
「猿芝居はよせ。わざと空振りして尻餅をついたことぐらい、見抜けないとでも思ったか」
苦々しく皮肉る捕手の声を聞いた文成は、相手の貌を見ないで、軽薄な声で返した。
「芝居とも言い切れないでしょ。カーブを投げると見抜けても、実際に打つのとは違いますからね。何ならもう一回試してみます? それとも、次はスライダーかな?」
澤谷はドキリとした。実は文成に対する配球をあらかじめ組み立てていたのだが、2球目はスライダーを投げさせるつもりだったのだ。それがサインを出す前に見抜かれたのだ。跳ね返る酷烈な熱気が感じなくなるくらい、全身が凍った気がした。
(こいつ……、配球まで読んでいたとはなぁ。ナメてかかりすぎた。が、それなら、下手に変えないほうが良い。吉井の力に賭けるまでだ)
決心した澤谷は、大きく息を吐き出すと、改めてサインを送った。スライダーである。だが、外角低目ではなく、高め一杯だ。文成のリーチから予測するに、仮に当たっても、ホームランは考えられない。
吉井はセットポジションから、少し間をおいてから2球目を投げた。今や誰が見ても疲労の蓄積がはっきりしていた。それでもコントロールが悪くならないのは、吉井の資質の高さによるものだろう。
文成はまたも踏み込んで、外角高めに逃げていくスライダーを捕らえにいった。上から叩きつけるようにスウィングしたが、ボールはバットの先端に当たり、一塁側ダグアウトに向かって飛んでいった。中に入るかと思ったが、ダグアウトの天井部で跳ねた。
これでカウントは2ナッシング。場内から溜息を漏らす声が広がる。
(わかっていても、ミートできなかったのか。それとも、わざとファウルに……、まさか、そんな。でも、あいつ、小嶋さんが言ったように、ほんとに得体の知れない奴だ。躯はちっこいのに、変にオーラを漂わせてる……)
右袖で額の汗をぬぐいながら、吉井は戦慄を覚えていた。これじゃ、どんなボールを投げても、ことごとく打たれそうな気がした。
(いや、ある。あいつを打ち取る球が、ひとつだけ。これは甲子園で投げてないし、佐賀大会でも一球しか投げなかった。あいつが気づいてるわけが無い!)
吉井は思わず舌なめずりをした。その球は以前、吉井のウィニングショットだったが、他の変化球を覚えてからはあまり使わなくなった。やはり腕に負担が掛かるからだった。そして今では、ここ一番、と言うところでしか使わないようにしていた。
一方、2ナッシングと追い込まれた文成は、いったん打席を外して深呼吸した。ユニフォームの中に仕舞った、佳奈子のお守りを右手で握って再び打席に入ると、躯を屈めて、バットの先端でホームベースを二度叩いた。二度目を叩いた瞬間、跳ねるように伸び上がって、躯を反らした。場外ホームランを打った時に見せたルーティン・ワークをまたもやって見せた。一塁側スタンドから興奮に満ちた歓声が沸き起こる。
(ふん! 打てるもんなら打ってみろ、ってんだ!)
そうほくそ笑んだ吉井は、自信満々で澤谷にサインを送った。澤谷も迷わず首を縦に振った。
自信満々の表情でサインを送った吉井を、三塁手の小嶋はじっと見つめていた。何か嫌な予感が彼の脳裏に漂っていた。
(あいつが舌なめずりしてサインを送ったのは、佐賀大会の決勝戦のあの時以来だ。満塁で逆転負けのピンチを切り抜けたとき。あの球か。でも、なんだ? なんか気分が悪くなるような、嫌な予感がする……)
それが何なのかが全くわからなかった。わかっているなら、未来図は変わるだろうか。
吉井はセットポジションに構えて、一・三塁を見た。そして、滅多に投げなかった“伝家の宝刀”、シュートを文成の胸元めがけて投げ込んだ。
(よし! キレてる!)
あらかじめ内角に構えていた澤谷は勝利を確信した。今まで見たことのない、シュートの冴えだ。
文成は胸元を襲うシュートに対してスウィングしてきた。
(ん? なんか、窮屈なスウィング……、まさか!?)
澤谷がそう思った次の瞬間、耳をつんざくような、甲高い音が鳴り響いた。
(この嫌な音。もしや……!?)
立ち上がって打球の行方を追うと、センター、バックスクリーンのすぐ左側に白球が飛び続けていた。センターの常松は、もう見送るだけである。
『また同じ方向に打球が飛んでいる! 越えるのか、越えるのか!? あぁ〜っと、今度は看板を直撃だぁーっ! 逆転サヨナラ、満塁ホームラン! 平井選手、二試合連続の代打逆転サヨナラ満塁ホームラン!! また奇跡が起こりましたぁ〜〜!!』
打球が『SSK』の看板に激突した瞬間、熱波に包まれたシアターは興奮の坩堝と化した。一塁側スタンドは野太い絶叫と黄色い悲鳴、そして金切り声が混濁したような歓声に包まれた。金切り声を上げた佳奈子は抱きついてきた優貴子を抱えて喜び合い、ドラムスの小西は両拳を突き上げて叫ぶと、祝福と言わんばかりに、派手に叩きまくった。
逆に三塁側は、あと一球で勝利という所まで近づきながら、一気に敗れてしまったので、ショックが響き渡っていた。呆然とするものが多かったが、号泣する声もかなり聞こえた。中にはその場で蹲っている者もいる。
だが、こんなパニックにも等しい状態の中でも、文成は、まるで何ひとつ感慨が無いかのように、悠然とベースを回り始めた。もちろん、ゆっくりと歩いて。
一塁に近づいたとき、一塁コーチャーズボックスにいた康一が右掌を差し出していた。
「平井、ナイス・バッティング!!」
それを見た文成は、なんら感興を覚えない貌のまま、まるで張り倒すかのように、康一の掌を、平手で叩きつけた。
「いてぇ〜〜!! 何もそこまで叩かなくったって、良いじゃねぇかぁ!」
抗議する康一を完全に無視して、文成は二塁に向かった。そんな文成の背中を見た康一は、憧憬の念を覚えた。
(あいつ、すげぇ背中が大きく見えるなぁ……。線の細さが全く無い。あれが、超大物の背中なのかなぁ。なんか、気づかない間に、あいつがすごく高いところまで昇っているような気がする)
すでに三人のランナーがきっちりホームインしていたが、まだ文成は三塁に到達していなかった。よほど自分の姿を見せつけるのが好きなのかと思ったが。
(やっぱり、最後にシュートを持ってきたか。佐賀大会の決勝で、満塁のピンチを切り抜けて勝ったイメージで、勝負に出たんだな。今までで一番良い球だったが、一番わかりやすい球だったな)
単に自分のホームランを振り返っていただけだったようだ。
一分以上掛かってやっとホームインすると、ナインにもみくちゃにされた。一通り儀式が終わって、整列という時に、文成はまたもその場を凍てつかせた。
「思うんだけど、囲まれると、暑苦しくて気分が悪いねぇ〜!」
第21話へ続く
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