堕天使 〜Prinzipal der Finsternis〜

第18話 アンニュイ・ゲーム


 全身から汗が止め処なく噴き出しては、流れ落ちていった。アンダーシャツがじっとりと湿って、気持ちの悪いこと、この上ない。たった15分程度、グラウンドで立っていただけなのに、文成の躯は上昇した体温を下げようと躍起になっていた。子供のころから汗っかきではあったが、これほどまで新陳代謝が激しいとは思わなかった。やはり、朝食を摂らずに水だけを大量に飲んでいるのと関わりがあるのかもしれなかった。
 貌にタオルを被せて、だらしなく躯を弛緩させて眠るその様子は、誰が見ても“怠惰で傲慢な王様”としか、思えないだろう。実際、ベンチ入りしている控え選手たちは、そんな文成に不快感を抱いていた。
 だが文成にしてみれば、一刻も早く躯を冷ましたかった。特に脳が茹で上がるかのような感覚を早く取り除きたかった。躯を冷まして、すっきりとした状態で次の回に臨みたいのだ。2時間以上も炎天下で躯全体を熱くして熱中症になるのは、真っ平御免だ。適度に躯を冷やして、新鮮な状態にしたい。三塁コーチに集中するならば、それくらいのケアをしておかなければならない。これが文成の考えだった。相手チームの打撃なんざ、どうでも良い。自分のチームの打撃のサポートをするというのならば、躯の熱気を取ることに時間を当てたほうが有益だ。
 眠り始めたときは、周囲がやたら騒がしくて、なかなか寝付けなかったが、しばらくして静かになり、と言っても、応援団の声や観客のざわめきは耳に入ってきたが、眠りを妨げるほどではなかったので、文成は心地良く闇の世界に落ちていった。母の胎内に戻るかのような、そんな懐かしささえ覚えてしまう快い眠りだった。
 しかし数分程度で、聞き慣れた破れ鐘のような怒鳴り声が文成の意識を呼び戻した。
「起きろ、平井! 2回の裏じゃ!」
 唸り声を上げながら、被っていたタオルを取り去って目を開けると、眼光の鋭い親爺が両手を腰に当てて立っていた。
「平井、ウチの攻撃じゃ。早くコーチャーズ・ボックスに行って来い」
「あ、もうウチの攻撃ですか。早いなぁ。今日は黒田さん、調子いいなぁ……」
 文成はのんびりとした声で言いながら、躯を伸ばして立ち上がり、ベンチを出た。だが、スコアボードを見た瞬間、立ち止まった。そして、怪訝な表情をナインに向けて言った。
「ねぇ? なんで、2回の表のとこ、1点入ってんの? 何で同点なの? 大騒ぎしてた様子はなかったけど……」
 すると黒田が不機嫌そうに顎をしゃくって言った。
「知りたかったら、コーチャーズ・ボックスに行って、あそこの三塁手にでも聞いて来い」
 それを聞いた文成は、表情を動かさずにつかつかと黒田に近寄ってきた。
「な、なんだよ?」
 突っかかるように言う黒田に対し、文成はさらに近寄る。とうとう目の前にまで貌を近づけた。数秒ほど間を置いて言った言葉が。
「バ〜カ」
 文成はあからさまに黒田を侮蔑した。一気に黒田の頭は沸きあがった。
「バカとはなんだ、バカとは!」
「おおかた、“はなわ”にフォークのすっぽぬけを打たれたんだろ。そうだよねぇ、真木さん」
 文成がそう言って、キャッチャーの真木に振った瞬間、ぐっ、と言う音が黒田の口から漏れた。図星だったようだ。真木も、何も言わずに小さく肯いた。
「だから、前からフォークはダメだって、言ってたのに。あんな、ションベンフォーク……」
 愚痴りながら文成は、ゆっくりと三塁コーチャーズ・ボックスに向けて歩いていった。
 すっかり気分の悪くなった黒田に向かって、老監督が声を掛けた。
「黒田、腹を立てるのは勝手だが、人からあれこれ言われるうちが、花だぞ。言われなくなったら、己を含めて何もかも見失ってしまう。おまえ自身、あそこで安易な投球をしたことぐらい、わかっているはずだ。平井に言われて腹を立てる暇があったら、次は丁寧に投げるようにすれば良いだけのことじゃ。お前がウチのエースなんだから、エースらしく振舞え」
「……わかりました、監督」
 黒田は不承不承ながら、監督の言葉にうなずいた。文成に言われたことは忌々しく思っているが、監督にねぎ諭されると、不快感が少し和らいだ。元々監督のことは嫌いではない。むしろ、慕っているのである。入部したときから、厳しいながら、いつも自分に声を掛けてくれた監督に対しては恩義を感じていた。この監督には絶対について行こうと思っているのである。その監督が言うのだから、文成を不愉快に思っても納得せざるを得なかった。実際、文成は見てもいないのに、フォークのすっぽぬけをホームランされたことを指摘したのである。その眼力を認めないわけにはいかなかった。

 文成が三塁コーチャーズ・ボックスに立つと、“はなわ”がにこやかに文成に話しかけてきた。
「平井君、今さっきの俺のホームラン、ちゃんと見てくれたかな?」
 すると文成は、欠伸しながら、けだるそうに答えた。
「見てませんよ、そんなもん。オレ、ベンチの中でタオル被って、寝てましたから」
「なにぃ〜!」
 小嶋は大勢の観客が見ているにも拘らず、おもわず絶叫した。その後、言葉が続かなかった。開いた口が塞がらない、とはこのことだろう。思えば、文成に見せつけたいがためにレフトスタンド中段へ同点ソロホームランを打ち込んだのである。実際、一塁を回る手前とホームインしたあと、一塁側ベンチへ向けて拳を突き上げて、ガッツポーズをやったが、それも文成に見せ付けるためだった。それが見ていないどころか、タオルを被って寝ていたとは……。
「相手チームのバッティングなんて、オレにはどうでもいいことでね。勝つためのプランを練らなきゃならんから、頭を冷やすために寝てたのさ」
 小嶋の貌を見ずに、しれっとした貌で言い放つ文成に、小嶋は苦々しさをあらわにしてつぶやいた。
「いったい、お前と言う奴は、なんなんだ……。やる気あんのか、ないのか」
「基本的に、やる気は無い。ただ、監督に約束したのでね。必ず優勝すると。約束は、守らないといけないので」
 このときの文成の声音が、小嶋にはなぜか妙に理知的だと思えた。言ってることに知性があるとは思えないが、声自体が知性を感じさせた。腹に直接響くバリトンだが、そこに文成の知性がにじみ出ているような気がした。
(見れば見るほど、こいつのことがわからなくなる……。はっきり言えるのは、こいつが何か得体の知れないものだと言うことかな)
 小嶋はぼんやりと、そんな感想を持った。
 2回裏の弘成の攻撃は、六番・センターの岡本から始まる。このあとの弘成高校の下位打線は、右、左、右、左と、ジグザグに展開する。この下位打線がどう突破口を開くのか、あるいは佐賀中央のエース、吉井がどう抑えるのか。これはこれで、ひとつの見物であろう。
 しかし、六番・岡本、そして七番・セカンドの池上はあっさりと三振。八番・レフトの一宮は三塁線を抜く二塁打を打ったが、ラストバッターであるキャッチャーの真木は、吉井のスライダーを打ち損ねて、ファーストゴロに倒れた。2回裏の弘成は得点圏にランナーを進めたものの、無得点に終わった。
 このあと、試合は比較的テンポ良く進んでいった。弘成のエース黒田は、3回、ランナーを一人出したものの、4人で片付け、4回は三者凡退に仕留めた。
 対する佐賀中央の吉井も、3回こそランナー二人を出してピンチを招いたが、力で切り抜け、4回は三者三振に打ち取った。この時点で、吉井が奪った三振数は7個。なるほど一回戦よりも調子が良い状態である。
 しかし3回裏、吉井は弘成の四番、山崎にライト前ヒットを打たれた時、初回から感じていた疑念を確信するに至った。カウント、2−3からの7球目(山崎への5球目はファウルになった)、自信を持って投げた内角低めのカーブをあっさりと打たれてしまった。カーブを投げる瞬間、文成が、「よし、いけ!」と、叫んだのをはっきりと聞いた。初回、弘成の一番、三沢がカーブを打ったときも、「よし、いけ!」と叫んでいた。その三沢も3回裏、先頭打者として迎えた第二打席で、内角低めのストレートを打ち返し、レフト前へ運んでいる。このときも吉井は文成が、「いけぇ!」と叫んだのを聞いているのだ。
(あの、平井という一年、おれの球種を読んでたんだなぁ。ストレートなら、「いけ」、カーブなら「よし、いけ」、そして、スライダーは「それ、いけ」かぁ……。人を食った奴だ)
 そこまで考えて、またひとつの疑問が浮かんだ。それでは、初回の黒田の死球はどういうことだろうか。インコース、ベルト付近に投げた速球だったのに、あの三塁コーチは「それ、いけ」と言った。「それ、いけ」が、スライダーのサインなら、なぜ、速球を投げたのに、そう言ったのか。
 3回のピンチに内野手が集まったときに、吉井は小嶋に訊いた。
「小嶋さん。初回、三番の黒田がデッドボールになったとき、あの三塁コーチ、それ、いけ、と言ってましたけど、二番の諸積のときもそう言ってましたよね。そのときはスライダーを投げたのに、黒田のときは速球ですよ。何で同じことを言ったんでしょう?」
 すると小嶋は、断言できないけどと、前置きした上で答えた。
「平井の奴、黒田がデッドボールになるよう狙ってたみたいだぜ。黒田が平井を思いっきり睨みつけてたよ。サイン違いだと言わんばかりにな」
 それを聞いた吉井は小さく驚いた声をあげて、呆れ返ってしまった。
「なんて奴だ。チームメイトから嫌われてるって、さっき聞いたけど、あいつもチームメイトのことが嫌いなんじゃないのか?」
「と言うよりか、あの場面ではまず、満塁にしたかったんだろう。アウトを取られるのを嫌ったんじゃねぇのか。それなら、当ってもらったほうが確実だったんだろう。ま、平井と言う奴は、点を取るためには何でもする奴なんだろうな」
「嫌な奴だぜ、ほんとにあの三塁コーチは……」
 吉井は顰めっ面をして言った。
 5回表。相手側、佐賀中央の攻撃である。ここまで黒田は佐賀中央の四番・小嶋にソロホームランを打たれたものの、それ以外は危なげない投球でゲームを組み立てていた。奪った三振が6個と、なかなかの内容である。
「今日は黒田さん、気合い入ってるなぁ。このままいけるんじゃないのか、平井」
 一塁コーチを務めている中村康一が、いつものように朗らかな声を出して文成に話しかけてきた。
「……気負いすぎ、としか思えないな」
 大の字になって座っている文成が、ボソッ、と答えた。
「なんだよ。ひねくれてないで素直に、調子良いなぁとか、言えねぇのかよ」
「4回終わって奪った三振が6つ。軟投派、というか、打たせて取るのが持ち味の黒田さんにしては調子が良過ぎる。どうにも、あちらの吉井さんに対抗しているとしか思えん。この回、危ないな」
 低音でヴィブラートを利かせながらぼそぼそと喋る文成を不気味に思ったか、康一は寒気を感じたかのように、躯をぶるっと振わせた。
「ま、どうでもいいけどね。力の無い奴がボカスカ打たれようと。打たれるのはそいつの責任だし」
 急にあっけらかんとした声を出して、文成はやや投げ遣りに言った。これにはダグアウトにいる全員がコケてしまい、一斉に文成を白い眼で見た。もっとも文成は、そんなダグアウトの凍てついた雰囲気など、どこ吹く風といわんばかりに、ベンチで大の字になって、薄目で眺めていた。
 はたして、七番から始まった佐賀中央の打線は、その七番、レフトの藤田がライト前へシングルヒット。八番、キャッチャーの澤谷がスリーバント失敗でアウトになるも、九番、ライト・嶺崎が送りバントを決めて、2アウト二塁。トップに戻って一番、セカンドの下村への5球目。
『黒田君、5球目を投げた。あぁーっと、デッドボール! 今のはカーブでしょうか、すっぽ抜けた感じで下村君の肩へ当ててしまいました。これは痛い。弘成高校、ピンチです!』
 黒田は内角低めにカーブを投げるつもりが、すっぽ抜けて下村の肩へ当ててしまったのだ。これで2アウト、一・二塁。この試合、弘成が初めて迎えるピンチである。次のバッターはセンターの常松。身長184cm、体重80kgと、大柄な選手である。この大柄な二番バッターはホームランを量産するタイプではないが、二・三塁打の多い、いわば、“中距離打者”である。こういう場面においては、弘成にとって最もいやらしいバッターであろう。
「大丈夫だと思ってたら、もうピンチだよ、平井。切り抜けられるよなぁ?」
 先ほど暢気に話しかけてきた康一が、もう不安げにおろおろとした声で文成に話しかけてきた。何かと言うと文成に話しかけてくるが、考えてみれば自分以外にベンチ入りしている一年生といえば、文成しかいないのだから、仕方ないと言えば仕方ないことである。
「うるせぇなぁ、いちいち。黙って戦況を見ていたらどうなんだ? そんなに不安なら、前に出て黒田さんを励ませ、ってんだ」
 文成は不愉快な貌をして、苛立った声で康一を叱った。
「だったら、お前も一緒に行ってくれよ。俺ひとりじゃ、ちょっと……」
 こんなときでも気の弱い康一は、口ごもりながら自信無く言った。
「情けない奴だな……」
 文成は不愉快な表情のまま、憮然とした声で言うと、立ち上がってダグアウトの前へ歩いていった。
 スコアボードに目を遣ると、カウントはノーストライク、3ボール。明らかに黒田が追い込まれている状況である。
「ねぇ、マネージャー。黒田さんがあの二番に投げた3球の内容は?」
 文成は、記録員でもある平野絵理子に向けて尋ねた。
「えぇと、初球が外角低めのストレート、2球目が外角高めのスライダー、3球目は内角低めのカーブ。全部外れてるわ」
 きわめて事務的に絵理子が読み上げた。
「ま、だからノースリーなんだろうけど。引っ掛けさせようとしてるのがバレバレだな。相手、全然振ってないでしょ?」
「まったく振ってないわ。完全に手の内を読まれてるわよ。素人にもわかるほどね」
「何やってんだか……」
 文成がぼやいた直後だった。マウンドの黒田が投げた4球目、真ん中低めに来た球を、常松は掬い上げるようにして打った。打球はショート、諸積の頭上をはるかに越えて、レフト前に転がるシングルヒットとなった。二塁走者、藤田はゆうゆう生還。佐賀中央が1点勝ち越して、2対1。一塁走者、下村は三塁へ滑り込んだ。
「あちゃあ! 平井が言ってた、“ションベンフォーク”を打たれた!」
 康一が悲鳴を上げるように叫んだ。だが文成はそれを聞いて、変に落ち着き払った声で静かに言った。
「……違うな。握りはストレートだった。フォークじゃない。球がお辞儀したんだ」
 ため息混じりにしゃべるその声音は、聞きようによっては大して関心が無いようにも思える。
「なんだよ、平井。どういうことだよ」
 康一が尋ねたが、文成はそれに答えず、また絵理子に質問を投げかけた。
「マネージャー。黒田さん、今ので何球目?」
「78球。この回だけでも、19球投げてるわ。牽制球も入れたら23球と言ったところかしら」
「牽制球はこの試合、何球投げてる?」
「11球」
 あくまで事務的に読み上げているが、その実、絵理子は文成から話しかけられることに、内心胸を高鳴らせていた。本気で愛している男の声を聴くことによる快感を味わいながらも、それを面に出すことをどうにか抑えていた。
「なるほどね。実質、89球か。牽制球は投球数に入らないけど、どうやら、黒田さんの球威が落ちたな」
 文成はまたも、ため息混じりにつぶやいた。誰が聞いても怠惰さがにじみ出ている声だった。
「球威が落ちたって、どういうことなんだよ? 黒田、5回くらいでバテるほど、スタミナが無かったのか?」
 今度は控え投手の山本景一郎(やまもと・けいいちろう)が文成に訊いてきた。黒田と同学年だが180cmと黒田より大柄な左投手だ。
「明らかに飛ばしすぎだよ、山本さん。愛知大会での黒田さんの奪三振率は4.6。平均以下だな。それに対して、ゴロアウトの割合が平均して12もある。典型的な“打たせて取るピッチャー”だ。それなのに今日はここまで三振を6つも奪ってやがる。相手の吉井だっけ、あいつに煽られたな。変に意地張りやがって……。
 ほら、タイムリーヒットを打たれる前、トップバッターにぶつけただろ? あれ、完全に球威がバテたからなんだよ。握りが甘くなったんだな。それだけ下半身の踏ん張りが利かなくなってる」
 文成が控え選手たちに解説している最中、佐賀中央の三番、ファーストの速水が黒田の2球目を捉えてまっすぐセンターに弾き返した。またも球威の落ちたストレートを打たれた。三塁走者の下村が、わざわざ右拳を振り上げてホームイン。3対1と、2点差に広がった。なおも、二死、一・三塁。ネクストバッターズサークルから、四番、“はなわ”こと、小嶋がゆっくりと打席に向かって行った。弘成高校、ひとつ目の大ピンチと、言ったところか。内野手全員がマウンドに集まった。
「平井、マウンドに行って来い」
 文成の背後から、森田老監督が指示を出した。こんな状況でも、ずいぶん落ち着き払った声で言っていた。
「康一、監督の指示だ。マウンドへ行って励まして来い」
 文成は監督に貌を向けずに、また、康一に押し付けようとした。しかし。
「お前に言ったんじゃ! お前が行って来い!」
 監督が大声で文成に怒鳴った。選手やマネージャーはもちろん、怒鳴られた文成までびっくりした。
「オレが行くのぉ〜? やだよ、オレ。場外ホームランを、ちょっとばっかり扱いする奴の貌なんか見に行くの」
 文成は心底嫌そうな貌を監督に向けて、不満をぶつけた。それにしても、まだ根に持っていたとは、文成という少年はずいぶん執念深い。
「黒田に対して思いっきり言えるのは、お前だけじゃ。この中ではな。それにわしの伝言と言えば、あいつも納得する。早く行って来い」
 監督が、いつものようにねぎ諭すように言った。この監督の話を聞くと、なぜか文成はそれ以上反抗心を起こさず、素直に従うのである。
「わかりました。とっとと行って、とっとと帰ってきます」
 そう言い残して、文成は素早くダグアウトを飛び出し、内野手が集まるマウンドへ一目散に向かった。
 マウンドへやってきた文成を、内野陣全員が冷やかな目で迎えた。みな、一様に、おまえの貌なんか見たくも無い、と言わんばかりである。そんな内野陣を、文成は内心、冷笑しつつも面には出さず、落ち着いた貌で見回した。
 そして、この男らしからぬ、穏やかな微笑を作って、口を開いた。
「監督からの伝言です」
 そう言うと、何を思ったか、ずいっと黒田の目の前まで貌を近づけた。穏やかな表情はすっかり消えて、真剣な貌に変わっていた。びっくりして貌を引こうとする黒田に対し、文成は間髪入れずに、相手の腹に響く低音で言った。
「さっきやられた分、今、やり返せ。絶対に逃げるな。小細工なんかしないで、ありったけの力を振り絞って、思いっきり行け」
 黒田は驚いた貌のままだった。しかしそれは、文成の真剣な表情と低音声にではなく、文成の言った言葉の内容に対して驚いたのだ。球威が落ちているのは自分でもわかっていた。だから、本来の自分の投球である、かわすピッチングで小嶋との対戦も乗り切ろうとした。だが監督は、小細工せずに、思いっきり行け、と言うのだ。逃げの気持ちに入っていた黒田は動揺を隠せなかった。
 驚いた表情を隠さない黒田に対し、文成はさらに続けた。
「ここで三振を奪うのが、弘成のエースじゃろが。エースは最初から最後までエースじゃろ。度胸一番、見せてみろ!」
 監督の口ぶりを真似ながら文成が発破をかけると、黒田の目の色が変わった。文成に頭ごなしに言われるのは癪だが、監督の言葉なら、話は別だ。監督の期待を裏切るようなことはしたくない。胸の奥から燃えるような感情が沸き起こり、一気に脳髄に駆け上がった。
「よくわかった。3球で仕留めてやるよ。文成、とっとと帰って、監督にそう言って来い」
 黒田は高ぶりながらも、抑えた口調で言い、右手で文成を追い払うような仕草を見せた。一瞬、ニヤリと笑っているようにも見えた。
 文成はあっさりとナインに背を向けて、まっしぐらにベンチに帰っていった。それとほぼ同時に、ナインも元の守備位置に戻っていった。文成はベンチに戻る直前、スキップすることも忘れなかった。まるで、千葉ロッテマリーンズと読売ジャイアンツに在籍した、ブライアン・シコースキー投手(2005年12月22日、サンディエゴ・パドレスと契約)のように。
「平井、おまえ、なんでシコースキーみたいに、すばやく引き上げて、ベンチに入る前にスキップなんかするんだ?」
 尋ねてきた康一には目もくれず、文成はダグアウトの奥へと向かっていった。去り際に、
「トイレに行きたいんだよ。だって、“シッコ”スキーだから」
 と、ふざけるように声を上げて言った。
 凶暴な熱光から跳ね返る暴戻な熱気は、ダグアウトの中でも猛威を振っていたが、今の文成のくだらないギャグで、一気に冷めてしまった。と言うよりは、完全に凍てついてしまった。誰一人として笑わない。それどころか、どうしようもなくなっていた。

 右打席の小嶋は、先ほどのマウンドの光景を見ても、なんら興味を持たなかった。今、彼が考えていることは唯一つ、ホームランを打つことだけだった。今度こそは、あの平井文成と言う、生意気なガキに見せつけてやる。いくら奴でも、5点も差を広げられては、やる気を無くすだろう。力の差をはっきりと見せつけてやろうと考えていた。小嶋は無意識のうちに舌なめずりした。
 小嶋の第二打席。黒田はノーワインドアップ・モーションからゆっくりとした動作で初球を投げようとした。それを見た途端、小嶋は黒田の変化に気づいた。先ほどまでの、早くイニングを終わらせなければという、焦りや逼迫感がまるで感じられない。ずいぶんと落ち着いたフォームで投げてきた。
 と、思っていたら、リリースの瞬間、黒田の右腕が唸るように思いっきり振れた。コースはど真ん中。しかし、今日見た中では、最も力のある球だ。
 小嶋は、“ルームサーヴィス”と呼ばれる絶好球を、あっさりと見逃した。いや、そうではなく、手が出なかったのだ。第1打席で黒田からいきなりホームランを打ったスラッガーとは、まるで別人のようだ。黒田の力が落ちてきたと思っていたら、目の覚めるような快速球を投げてきた。ど真ん中とわかっていても、迫力に押されたのだ。
(なんだ? 平井に何を言われたのか知らないが、急に気合の入った球を投げてきやがった。これは……、やばいか?)
 小嶋の心が、不安と焦りに苛まれ始めた。こうなると如何に好打者といえども、自分の力を出せなくなる。たとえ相手が三流投手でもだ。殿堂入りしたメジャーリーグ有数の名捕手、ヨギ・ベラが言うように、野球は90%が精神力なのだ。(もっとも彼はこの後、残り50%は体力だ、と続けている)
 一方の黒田はというと、すっかり吹っ切れたような貌をしていた。自分の力を出し切ること、この一点にのみ集中している。それが力みを取り除き、黒田の心に余裕を持たせていた。だから全身を使った伸びやかなピッチングが、自然と可能になった。
 ファーストストライクを取って、真木からボールを返してもらったとき、黒田は、力を振り絞って思いっきり行けと言った、監督の言葉の意味を理解した。力を出し切れば、気持ちが高ぶるのではなく、逆に落ち着いて余裕を持つことができることを、今、初めて知った。そうなると、黒田に恐れの気持ちが無くなった。
 2球目、黒田は自分からサインを出して、またも速球を投げた。今度はど真ん中ではなく、内角高めだ。無駄な動きが無い、自然なモーションから放たれた白球は、小嶋の胸元を抉る勢いで向かってくる。まるで小嶋の胸元にぶつけんばかりだ。小嶋は反射的に身を退いた。
「ストライク・2!」
 小嶋は我が耳を疑った。明らかに当てるつもりのボールだと思っていたのが、ストライクと判定されたのだ。
「え!? 審判、今の、ストライクですか!?」
 驚きのあまり、思わず球審に尋ねた小嶋に対し、球審は至極冷静に答えた。
「内角高め、いっぱい一杯だが、入ってる。ストライクだよ」
 小嶋は顔面を歪めて、憮然とした。溜息をつくと、苛立ったかのように右足で地面を均す。
 呼吸を整えて構えた小嶋は、またも驚いた。なんと、黒田はもう3球目を投げてきたではないか。テンポが異常に速い。少なくとも小嶋にはそう感じられた。だがそんなことを考えている場合ではない。カウントは、2−0(トゥー・ナッシング)だ。
 とにかくボールを当てようと、左足を上げ、バットを持った両手を思いっきり後ろに引いてスイングを開始した。3球続けてストレート。高めのホームランボールである。小嶋でなくてもホームランできる、甘い球だ。
 しかし、動揺してスイングがバラバラになっていた小嶋には、その甘い球を打ち返すどころか、当てることすら出来なかった。派手なアクションで空振りすると、勢いあまって、右膝をついてしまった。
 黒田は文成に約束したとおり、3球で小嶋に借りを返した。ピンチを脱した黒田は、思わず貌をほころばせ、小さく右拳を握り締めて、ガッツポーズを作った。
 5回表、佐賀中央は2点勝ち越したが、ビッグイニングを作るまでには至らなかった。それでも、佐賀中央のエース、吉井には大きな援護になった。
 5回裏。小嶋は悔しさに胸悪くなりながら、サードの守備に就くため走っていくと、三塁コーチャーズ・ボックスに、もう文成が立っていた。これまで歩きながらコーチャーズ・ボックスに来ていた時とは大違いの早さだ。不審を覚えたが、今の気分の悪い状態で、文成に話しかけるどころか、貌を見るのも嫌な気持ちだった。妙な胸焼けを覚える。
 そんな小嶋に向かって、珍しく文成が話しかけてきた。
「ねぇ。なんで、あそこで送りバントなの?」
「はぁ?」
 いきなり話しかけてきたものだから、小嶋はわけがわからず、不機嫌そうに返事した。
「だから、ワンアウト一塁で、なんで送りバントをするのかと、訊いてるの」
「おまえ、何、わけわかんないこと、言ってるんだよ?」
「わからんか? さっき、ワンアウト一塁の場面で、なんで、ラストバッターの嶺崎さんに送りバントさせるのかな、と。わざわざ2アウトにした理由はなんだと、訊いてるんだぞ? その次のバッターがタイムリーを打つ保証なんて無いのに」
 良く聞くと、文成の声音がいささか苛立っているような気がした。まるで相手の攻撃を非難しているようだった。
「そんなこと、お前にはどうでもいいことだろう。ウチにはウチのやり方があるんだ。ケチをつけられる筋合いはねぇ」
 三振して気分の悪いところへ、文成が非難するように訊いて来るから、余計に腹が立ってきた。
「いーや、許せないね、あの攻撃は。あれは得点圏にランナーを進めたいのではなく、ダブル・プレイで攻撃が終わることを怖がったプレイだね。そんな情けないプレイを、この甲子園でやって欲しくないね。もっとも、プロでやられても困るけど。面白くもなんともないよ」
「だけどさ、平井。あのあと、2点も入れたんだから、結果的にあれで良いんだよ。何事も結果がすべてだろ?」
「たまたま、2点入っただけだろ? 2点取ったのと、たまたま2点入ったのでは、大きく違う。それがわかっていないなら、はっきり言って、勝てないよ」
「君たち、いい加減にしたまえ! 試合中だぞ!」
 それとはなしに聞いていた三塁塁審が、文成と小嶋を注意した。
「審判、先ほどのあの攻撃、どう思われます?」
 文成が珍しく、審判にも話しかけてきた。1回裏のときに、傲慢な発言をしたときからは考えられないくらいの愛想の良さだ。
「もう、えぇっちゅうねん!」
 どうやらこの審判は、関西出身だったらしい。
 文成は溜息をつくと、再び小嶋に貌を向けた。
「いずれにしても、あんたのチームには負けたくないな。全力で向かってこないチームには」
 文成は怒りをにじませるかのような重低音で小嶋に言った。事実、文成の眼は、本気で怒っていた。まるで、こんな奴らと試合をする自分がバカみたいだと、言わんばかりに……。



第19話へ続く


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