堕天使 〜Prinzipal der Finsternis〜

第17話 味方も敵も


 A.M.11:00、かすかに黄色みを帯びている白熱電球のような円環が容赦なく熱光を降り注ぐ中、2回戦、弘成高校対佐賀中央高校の試合が始まった。1回戦同様、弘成高校は後攻めである。先発投手はエースの黒田経雄。1回戦のときもそうだったが、エンジンのかかりが遅いピッチャーで、序盤に必ず失点しているのだが、1回表は珍しく、たった6球で三者凡退に仕留めた。1回戦の後、文成に罵倒されてやる気になったのだろうか、この男らしからぬテンポの良さである。
 そして1回裏、弘成高校の攻撃。三塁コーチャーズ・ボックスに背番号18番、平井文成の姿が現れた途端、三塁側アルプススタンドに陣取る、佐賀中央高校の応援団からブーイングが巻き起こった。ブーイングの波は瞬く間に三塁側スタンド全域に広がり、まるで空間全体が唸り声を上げているかのようだった。
 相当ひどい罵声が文成に降り注いでいるが、それに臆さないどころか、かえって訳のわからない行動を取ることは、先ほど証明したとおりである。案の定、文成は三塁側スタンドの観客に向かって、帽子を取って優雅に一礼した。そして貌を上げると、亡きフレディ・マーキュリーのように左膝を上げてクルッと、一回転した。観客相手に遊んでいるようだった。別に無視するわけでもなければ、あからさまな侮辱的態度を取るわけでもない。暇つぶしをしているだけなのだろう。
「……人を虚仮にするのが趣味、だと言うのは本当だったんだな」
 背中に投げつけられた声を聞いて振り返ると、そこに、“はなわ”が佐賀中央高校のユニフォームを着ていて、文成を流し目で睨みつけていた。少し驚いた文成はそれでも表情を変えずに、相手の問いかけに答えず、ゆっくりとつぶやくように言った。
「……なんか、佐賀県の高校のせいか、はなわによく似たマヌケな貌してるなぁ……」
 貌のことを言われて腹を立てない人間はほとんどいない。この、お笑いTV人“はなわ”によく似た男も例外ではなかった。
「なんだと、おい。今ここでケンカを売るつもりかよ」
 すると文成の口から意外な言葉が出た。
「……と、あそこにいる、一塁コーチが言ってました」
 そういって、一塁コーチャーズ・ボックスにいる中村康一を指差した。また、康一に押し付けるつもりらしい。
「ほんとか? 今、おまえが考えたんだろ?」
 “はなわ”がやや低音で訊くと、文成はなぜか丁寧なしゃべり方で答えた。
「いえ、間違いありません。あの一塁コーチはここに来るまで、はなわに似た奴がいたら笑えるな、とか言ってたんですが、実際にいたのを確認して、さっきから笑いをこらえるのに必死になってます。後でシメてやって下さい」
 そういって、“はなわ”に似た三塁手をけしかけた。試合中に何をたくらんでいるんだか。
「君たち、私語は慎みたまえ。試合中だぞ」
 当然のごとく、三塁塁審が注意した。口をへの字に曲げて苦りきった貌をしていた。
「じゃ、よろしくお願いします。主砲の小嶋健徳(こじま・たけのり)さん」
 そういって文成は器用にウィンクして見せた。今日の文成は妙に茶目っ気がある。
「なんだ、俺のことを知っているのか」
「これでも、三塁コーチですから」
 文成は唇の両端を横に伸ばして微かに笑ってから、右打席に立つトップバッターの三沢に目を向けた。
「よくわからん奴だ……」
 小嶋という名の三塁手はそうつぶやいて、会話を切った。その直後である。
「泰和(ひろかず)! ホームラン打つ貌じゃないんだから、しっかりと塁に出ろよ!」
 文成が貌に似合わぬ濁った声で三沢を怒鳴りつけたのだ。しかも、先輩に対して名前を呼び捨てである。
「おい、味方をヤジる奴があるか? しかも先輩だろうが!」
 思わず小嶋が文成に向かってやや強く注意した。が、当の文成はまったく応えていないのか、小嶋に貌を向けずに言った。
「よそ見していたら、そっちに打球が飛ぶぞ」
 今度はふざけずに真剣な表情で鋭く言ったので、小嶋は少し驚いた。よく見ると、目つきがすっかり変わっている。
(……場外ホームランを打ったときと同じ目つきになりやがった。やっぱり、こいつはとんだ食わせもんだぞ……)
 小嶋は内心舌を巻きながらも、気を引き締めた。
 カウントは1ストライク、1ボール。そして佐賀中央のエース、吉井が投じた3球目。
「よし、いけ!」
 文成が叫んだ。三沢は外角のカーブを狙い済ましたかのように、おっつけて打った。打球は一・二塁間を破って、ライト前に転がった。早速ランナーが出た。
「よぉし、それでいい! それでこそ、トップバッターだ!」
 文成が頭上で両手を叩いて喜ぶと、三沢は一塁上でワン・トゥー・パンチのアクションを見せた。文成に対してやったのだろうが、打たれたマウンド上のエース、吉井はムッとした貌を三沢に向けた。
「あのトップバッター、よく外のカーブに対応できたなぁ……」
 小嶋が見直したといわんばかりに、感心してつぶやいた。
「割とバッティングセンスはあるんですよ、あの人。貌はフットボールアワーの岩尾望に似てますけど」
 文成が小声でぼそっとつぶやくと、小嶋は噴出しそうになった。何拍か呼吸を整えた後、また文成を注意した。
「おまえさぁ、確かに似てるけど、それは言わなくたっていいだろう」
 すると文成は、
「まぁ、良く言えば、ジャイアンツの上原浩治投手に似てますけどね」
 と、大して感動も無く言った。
「おまえ、それさぁ……、フットボールアワーのノンちゃんと上原は似ていると言いたいのか?」
 笑いをこらえながらも小嶋は訊いた。
「それと、あそこで立ってる三沢がね」
 文成はあからさまに揶揄を込めて言った。だが表情はまた真剣になっている。
 ノーアウト、ランナー一塁。次打者、ショートストップの諸積正史(もろづみ・まさふみ)。諸積がバントの構えを見せて佐賀中央のエース、吉井を揺さぶろうとすると、また文成がヤジを飛ばした。
「正史! 躯がちっこいからと言って、ちっこい野球をする必要は無ぇ! 三塁ベンチにバットを放り込むぐらい、思いっきり振りぬけ!」
 二年生である諸積は確かに一年生の文成より背が低いが、それでもその差は2cm程度である。諸積は少しムクレた貌をして、さらにバットの先端を文成に向けた。おまえに打球をぶつけてやる、と言うポーズなのだろうか。
 突然、三塁塁審がタイムを告げた。そして、文成を呼んだ。
「君、自分のチームの選手をヤジるにも程がある。人の背が低いことを元にヤジるのは最低だ。これ以上ヤジを続けるなら、退場処分にせざるを得ん。二度とやらないように!」
 三塁塁審は文成が二度とふざけたヤジを飛ばさないよう、きつく警告した。すると文成は、ちょっとこちらへと言って、塁審を小嶋には聞こえないところに離れて、ささやくように言った。
「お言葉ですが、人からどうのこうの言われて、その人間がどのように思っても、それはその人間の問題であって、私の責任ではありません」
「なに!?」
 激した塁審に対し、すかさず反論を続けた。
「それに、ヤジを飛ばすと見せかけて、サインを送っているんですから。相手チームにヤジと思わせるのが狙いなんですから、いちいちそれで試合を止めないでもらいたく思います。バッターに対して、小さくまとまるな、と言ってるんですから、その意図を汲み取ってもらいたいです」
「だからと言って、身長の低さをあげつらうのは感心しないな」
「野球の上手さと、身長、年齢、ルックスは関係ないと思います。以上。試合再開をお願いします」
 文成は無茶苦茶な理屈で強引に塁審を言いくるめて、試合再開を促し、コーチャーズ・ボックスに戻った。文成の背中が、お前の言うことは聞かん、と言いたげであった。
(どうにも人の話を聞く気が無いというか、指図するなと言わんばかりだなぁ……)
 塁審は苦々しく思いながら、試合再開を告げた。
 佐賀中央の投手、吉井はテンポ良く諸積を追い込んだ。諸積はまったく動かなかった。それは手が出ないというより、打つタイミングを待っているようだった。ときおり、三塁コーチの文成の貌を伺っている。そんな諸積を見ても、文成は顔色一つ変えず、じっとしていた。文成も何かを待っているようだった。
 カウント2ストライク、ノーボールからの3球目を吉井が投げようとした瞬間だった。
「それ、いけぇ!」
 文成がまたも叫んだ。諸積が、待ってましたといわんばかりに踏み込んで、バットをスウィングした。外へ逃げるスライダーをきっちりと捉え、前打者の三沢と同じようにおっつけて、ライト方向へ流した。打球は一塁手の横を抜き、またもライト前ヒット。一塁走者の三沢は早くからスタートを切っていたため、悠々と三塁へ到達。ヒットエンドランが見事に決まった形となった。ノーアウト、一・三塁。絶好の先制機である。
「そうだ、正史! わざわざ1アウトをやる必要は無いからな。思いっきりの良さがお前の持ち味だ!」
 文成はまた頭上で両手を叩いて喜ぶオーヴァーアクションで、諸積を褒めた。上から見下ろすように言うため、諸積も文成に向かって、右腕でショートアッパーを打つようなアクションを文成に送った。そんなアクションを見ても、文成は意に介し無い貌を向けている。
「平井、オレのときもそうだったけど、少しは先輩を立てるそぶりを見せろ。ヒットを打っても大してうれしくないぞ」
 三塁に達した三沢が不快感をあらわにして、文成に言った。声までフットボールアワーの岩尾に似ていたので、小嶋はまた噴出しかけた。
「それなら、敬意を持たれるだけのことをしてもらいたいですよ。ごちゃごちゃ言わずに、プレイで語って欲しいです」
 心の籠もっていない、上滑りな口調で文成が言うと、三沢もあきらめ顔で憮然とこぼした。
「あぁ、確かに君はプレイですべてを語っているね。力も態度も、まるでメジャーリーガーみたいだ」
 文成は三沢の言葉を聞いて皮肉めいた微笑を浮かべた。力の無い者の嫉妬を嘲笑っているのだろう。
 ふとマウンドを見ると、いつの間にか三塁手の小嶋が吉井に向かってなにやら声を掛けていた。落ち着かせようとしているようだ。

「吉井、落ち着け。お前ほどの男がこの程度の事でムカつくことは無いだろう。次からは打てないクリーンナップだ。ポンポンと三振を奪れば良いだけだ」
 小嶋は何一つ曇りの無い、快活な声で吉井を励ました。
「でも、小嶋さん。平井という奴もムカつきますけど、弘成高の奴らもシングル打ったぐらいで、いちいち俺に向かってガッツポーズするから、余計に頭に来るんですよ」
 吉井がグラブで口元を隠して小嶋に言うと、小嶋は忍び笑いしながら言った。
「あぁ、あれはお前に向かってやったんじゃない。あそこの態度のでかい三塁コーチに向けてやったんだ。あの平井という奴は、みんなから嫌われているらしいぜ」
 そう言われて、吉井は口元をほころばせた。自分に向けてやったわけではないと知って、気が晴れたようだ。
「それじゃ、とっとと三回戦進出を決めますか」
「おぉ。まぐれで勝ったチームなんか、目じゃないぜ!」
 こう言って、小嶋は三塁に戻っていった。小嶋はほっとしたようだが、吉井は笑いながらも心に一抹の不安を残していた。
(しかし、なんでカーブとスライダーを、あぁもきれいに持っていかれたんだろ? 完全に相手のタイミングをずらせたと思ったのに。あの一,二番は一回戦でもそこそこ良かったが、来た球を打つ感じだと思ったんだけどなぁ……)
 今日の状態は非常に良い。10奪三振した一回戦よりもすこぶる良かった。直球もさることながら、得意のカーブとスライダーが特に冴えていた。その得意の変化球をものの見事に打たれているのだから、心穏やかでいるはずが無かった。
(次は、打てないのに三番に座っている黒田か。安パイだが、何があるかわからんからな。こいつらの一回戦のときみたいになってきたし……)
 吉井はキャッチャーの澤谷に向けて、サインを出した。外角低目を中心にした投球で様子を見ようという肚だ。
 弘成高校のクリーンナップは三番のエース・黒田、四番の山崎、そして、五番、キャプテンの渡辺と左打者が続く。つまり、右投げである吉井にとっては不利な状況が続くのである。もっともそれは、投手と打者の力が拮抗していれば、の話であって、愛知大会でのこのクリーンナップの打率が、平均すると3割にも満たないのだから、吉井にはあまり不利とは言えないようだ。
 余談だが、野球におけるクリーンナップ(Clean up)の本来の意味は、四番打者ひとりを指す。しかし、日本では三番打者から五番打者までをクリーンナップと表現する。どうしてアメリカと日本では意味が違うのだろうか。これは私の考えだが、クリーンナップという言葉が日本に入った当初は四番打者の事を指しているという認識が日本人にもあったのだが、いつの頃からか、四番打者に匹敵する強打者を四番の前後、つまり、三番と五番に据えて、「クリーンナップ・トリオ」と名づけて以降、しばらくたって、「クリーンナップ」と、縮めて表現するようになったのではないかと思われる。
 クリーンナップの、野球用語ではない本来の意味は「清掃」の意だが、塁にたまった走者を一掃する打者とのことで、四番打者をクリーンナップと呼ぶようになったのである。ちなみに、クリーンナップには、俗語として「ぼろ儲け」の意味もある。
 さて、話を戻すと、三番に入っている黒田は左打席で、しきりに地面を足で均していた。他の人が見れば、黒田が苛々しているように見えるが、これが彼なりのルーティン・ワークである。納得のいくまで均したあと、球審と捕手に軽く会釈して構えた。
 その光景を遠くから眺めていた小嶋は思わず文成に話しかけた。
「お前のチームのエース、なんかイラついてんのか?」
 すると文成は、あれが黒田のルーティン・ワークであることを知っているにもかかわらず、はなわ似の主砲にまじめな貌で、でたらめを言った。
「ゆうべ、睾丸を蚊に噛まれたらしくて、それ以来、機嫌が悪いんです」
「おまえ、適当に話作ってないか?」
 小嶋はあきれ返った声で文成に突っ込んだ。話をすればするほど、文成という少年の事がわからなくなる。三塁走者の三沢はと言うと、貌を下に向けて相手にしないようにしていた。
 マウンドの吉井は黒田に対して、様子を見るつもりで外角低めのボールを投げた。黒田もボールとわかっているのか、まったく手を出さずに見送った。これで1ボール。続いて吉井は同じ外角低めだが、今度はぎりぎりストライクゾーンに入れてきた。
「いけいけ!」
 まるで勢い込むかのように文成が叫んだ。その声に押されるかのように黒田が踏み込んで外角低めのストレートを打った。しかし、やや振り遅れたか、打球は左後方のバックネットに当たってファウルとなった。
「思いっきり行け、思いっきり!」
 文成が両掌をメガホンにして黒田を叱咤した。そんな様子を見ながら、吉井は先ほどから抱き始めた疑念にまた捕らわれた。
(なんだ? リリースポイントはさっきと同じなのに、なんで今のはストライクゾーンに入るとわかったんだ? いくらオレと同じ投手とはいえ、そんな微妙なことまではわからないはずだ)
 考え込みながら吉井は文成を見た。そしてまた考え込む。
(まさか、あの一年が俺の球種を読んでいるわけは無いよなぁ……。単に、行けとしか、言ってないから)
 そう考えて吉井は再び捕手の澤谷に目を向け、サインを送った。澤谷は少し間を置いて肯いた。なにやら躊躇うものがあるのかもしれない。何かを恐れているのか。
 吉井は二塁と一塁を見やって、セットポジションの体勢からクイック・モーションで速球を投げた。インコース、黒田のベルト付近。これで黒田をのけぞらせようという魂胆だった。
 吉井がリリースするまさにその瞬間だった。
「それ、いけ!」
 文成が黒田に向かって叫んだ。だが、このときの叫び声が、三塁手の小嶋にはなぜか不可解に思えた。一、二番打者の時のような、真剣さが感じられなかったからだ。むしろ、何かを期待する悪戯っ子のような声に似ている気がした。
 はたして、文成の声で黒田はまたも踏み込んで吉井の球を打とうとした。その踏み込んだ瞬間である。インコース、ベルト付近に行くはずの球は黒田のベルトそのものに当たってしまった。丁度、ベルトのバックルの部分に当たったボールは大きく跳ね上がって三塁側に転がっていった。バックルに当てられた黒田は、予想外の出来事に腹を抱えてひっくり返ってしまった。
「デッドボール!」
 球審がデッドボールを告げたが、黒田はまだ腹の部分を押さえて悶え苦しんでいた。控えに入っている、野田英次が一塁ベンチから飛び出して、黒田の様子を覗き込んだ。しばらくして痛みが治まったらしく、黒田はゆっくりと立ち上がり、野田に無事を告げた。ただ、一塁へ向かう前に、文成に貌を向けて思いっきり睨みつけた。何か言おうとしたのだが、どうにか堪えて一塁へ歩いていった。痛みを堪えて一塁へ向かう黒田に向けて、スタンドの観客が拍手を送る。
 そんな光景を見て、一瞬だが文成は、フッと笑った。黒田を嘲笑うというより、してやったり、と言わんばかりである。そんな文成を、試合開始前からやたらと気にしている小嶋が見逃すはずが無かった。
「平井君。今、黒田君がデッドボールになることを狙ってたんじゃないのか?」
 小嶋が疑いの目を向けて言ったが、文成はしれっとして、涼やかな声で答えた。
「なにもかも狙い通りに事が進むなら、誰も苦労しませんよ。たまたま、先発の吉井さんの手元が狂ったんじゃないですか?」
「黒田君が君を睨みつけてから、一塁に向かったのが少し引っかかるけどな」
 なぜか丁寧な口調で小嶋が言った。単に三塁にいる三沢の前で、人をお前呼ばわりするのは、とでも思ったのかもしれない。
「睨みつけてましたか。そんな風には見えませんでしたけど」
 あくまで文成は、しらを切った。小嶋もそれ以上の追及はやめた。どんな形であれ、ノーアウト満塁。自分のチームのピンチだ。場合によっては、ビッグイニングになりかねない状況である。
 左打席に四番の山崎が入った。一回戦では三打席すべて凡退したために、9回裏、2アウト満塁、サヨナラ勝ちのチャンスで文成に代えられた男である。今度はノーアウト満塁。ここで最低でも1点を挙げなければ、面目丸潰れだろう。それが良くわかっているから、打席に入る前から素振りを繰り返して気合を入れていた。
 ただ、見ようによっては気負い過ぎと言えなくも無かった。あきらかに一発を狙っている構え方である。あの日、文成に罵倒されて一番はらわたを煮えくり返らせていたのは、この男だったのだろう。
 文成は打席の中の山崎が気負っているのを感じ取り、苦笑した。普通ならここで肩の力を抜くような言葉を投げかけるのだろうが、そうしないのがこの男のやり方である。
「山崎ぃ! こういう時、四番ならどうするか、言う必要は無いよなぁ!」
 余計に山崎を気負わせるような叱咤を浴びせた。叱咤というよりは、揶揄と言ったほうが適切かもしれない。実際、山崎は貌を強張らせて目を大きく見開き、文成を睨み付けた。
 それでも山崎は文成に対して怒りをあらわにするような態度を取らなかった。それどころか、左手の親指を立てて文成に示した。俺に任せろというつもりらしい。それを見て、文成はさらに煽り立てる。
「頼むぜ、ジェイソン・ジアンビ!」
 わざわざ、オークランド・アスレティックス、そしてニューヨーク・ヤンキースに在籍した強打者の名前を出してまで、山崎に向けて怒鳴るように言った。両手でメガホンを作ってまで叫ぶのだから、文成も結構期待しているのだろうか。
「そんなに山崎さんのこと、期待してるのか、文成?」
 三塁上の三沢がのっそりとした声で問いかけた。
「ここで1点も取れないんだったら、負けるのは目に見えてるからね。そうなるとまた監督がオレに頼りそうなんで。はっきり言って、オレは見てるだけで勝ちたいから」
 そう言って文成は両手を両膝に乗せて、マウンド上の投手に目を向けた。三沢は文成の言動にため息をつき、聞くとはなしに聞いていた小嶋は呆れてものが言えなくなっていた。
(やる気があるのか無いんだか……。こいつのことを考えるのが嫌になってきた)
 ほとんどの人間が小嶋と同じ気持ちになるだろう。
 さて、佐賀中央の守備陣形を見ると、スクイズを警戒して内野は前進守備、外野は長打になることを警戒して、定位置だった。いかに前の試合で三打席すべて打てなかったとはいえ、仮にも四番を張っている以上、最低限の事は頭にある。外野陣は、1点は仕方がないという守備位置だった。それに対し内野陣は、できることならダブルプレーに仕留めたいと、言ったところだ。
 マウンドの吉井は様子見のつもりで初球は外角低めから外れるボールを投げた。山崎は静かに見送った。球審がボールとコールしたあと、山崎は三塁コーチャーズ・ボックスの文成を見た。文成はそっぽを向いて顎でしゃくった。無視しているようにしか見えないが、山崎は何か納得したような表情を作った。
 このあと、2球目、3球目と吉井は外角低めのボールを投げた。ノーストライク、3ボール。山崎はまったく動かなかった。動かしたのは首だけだった。まるで球筋を見るかのように見送るものだから、捕手の澤谷は少し不気味さを覚えた。
(いったい、何を狙ってるんだ、この四番は? スクイズをするわけでもなし、振りにいくわけでもない。まさか、押し出し狙いじゃないだろうに……)
 こういう状況になると、ストライク欲しさに投手がボールをど真ん中に投げる傾向がある。いわゆる、「ボールを置きにいく」という行為である。大体において、打者はこういうボールを見送る。たとえそれがホームランボールであっても見逃すのものだ。こういったところは打者に微妙な心理が働くものかもしれない。だが、だからと言ってここでボールを置きにいけば、それを狙い打ちされる可能性が高い。それこそ、満塁の場面でなら尚更だ。そんな危険なリードを澤谷がするはずもないし、できるわけも無かった。
 澤谷が出したサインはインコース高めのストレート。3球も外低めに投げたのだから、山崎の意識はそちらに行っているはずである。そこへ内角高めに投げてきたら、手を出せないはずだ。のけぞらせられたら、なおのこと良い。押し出しの危険性があるが、1点で済むなら御の字だ。そうなれば2回表は四番の小嶋からはじまる。この夏の佐賀大会で5本塁打を記録した彼なら、黒田程度の投手から軽くスタンドインできると踏んでいた。
 澤谷が出したサインに吉井が肯き、セットポジションで構えたその瞬間だった。文成は初めてサインを山崎に送った。左手で右肩を押さえるとそのままその手を左肩へ持っていった。そして、パンパンと掌を二度打ち鳴らした。
 その文成の動きを見た吉井は、一瞬不審なものを覚えたが、構う事無く内角高めに速球を投げた。リリースした瞬間、吉井ははっきりと好感触を得た。これならたとえ山崎が振りに来ても、振り遅れると確信できる球だと。
「いけぇ!」
 こう叫んだのは吉井ではなく、またも文成だった。今度は黒田の打席のときと違って、力が籠っている。
「よし、もらった!」
 思わず声に出した山崎は、瞬間、バットを短く持ち、腕をたたんでコンパクトにスウィングした。打球は、バットの芯よりやや上でボールの下を叩いたせいか、大きく打ちあがった。
『打ち上げた〜! 山崎君の打球は大きな放物線を描いて、右中間方向へ上がっています。センターの常松君が少し前に出た。これは、犠牲フライにならないか!?』
 NHKか、朝日放送か、どっちかわからないが、実況アナウンサーがやや興奮気味にまくし立てるように言った。
「無理か、平井!?」
 三塁上の三沢が打球の行方を見守りながら、半ばあきらめ声で文成に言った。
「いや、充分。タッチアップだ!」
 文成はなんらあわてる様子を見せることなく、三沢にタッチアップの準備をさせた。
 はたして、山崎の打球は予想以上に伸び、センターの常松は慌てて後ろに下がり始めた。
『常松君、下がった。意外と伸びてるぞ。これはスタンドに入るか?』
 しかし、惜しいかな。このとき、甲子園名物、浜風がレフト方向に吹いていたため、打球は失速。ラバーフェンス手前2mあたりで常松は捕球した。
 それでも、犠牲フライには充分すぎるほどの飛距離である。三沢は捕球した瞬間をしっかりと見届けてタッチアップ。常松もホームには投げず、中継に入った遊撃手の高峰に返した。高峰はすばやく三塁の小嶋に返す。二塁走者の諸積は進塁できず、二塁に留まった。その間、三沢は悠々とホームイン。弘成高校が先制した。
「よぉし、上等上等! それでこそ、四番打者だ!」
 また、文成が頭上に両手を掲げて、派手に叩いて喜んだ。満塁ホームランを打った人間にこういうことを言われても、嫌味としか聞こえないだろうが、それでも山崎はこの嫌味な一年生に対して、また右手の親指を立てて指し示した。一塁側ベンチでは、戻ってきた三沢と山崎に対して、ナイス・ラン、ナイス・バッティングと、口々に誉めそやしては、タッチして喜んでいた。森田老監督も二人にたいして、よくやった、と労っていた。
 これで、1アウト、一・二塁。まだチャンスは続いている。バッターは五番、キャプテンの渡辺。この男も山崎同様、打ち気に逸っているらしく、しきりに素振りを繰り返していた。わかりやすい性格の男だ。
 文成は何一つサインを出さなかった。ヤジとしか思えない叱咤もしない。ただ黙って両手を腰に当てて、吉井を凝視していた。渡辺を無視しているかのようだった。
 そんな文成を見たあと、吉井は捕手の澤谷にサインを出した。それを見た澤谷は思わず、ニヤリと笑った。よほど自信のある球なのだろう。
 セットポジションから、一塁、そして二塁を見た後、吉井は思い切ってど真ん中に投げ込んだ。誰が見ても無謀としか言いようの無い投球だろう。
 渡辺もいけると思ったのだろう。勢い込むように振ってきた。打球を捕らえたと確信したそのときである。
 なんと吉井の投げたボールは、渡辺の手元で小さく内側に入った。そのため、ボールは渡辺のバットの芯より内に当たった。ボールを引っ掛ける形になった。
「つぅ!」
 渡辺は小さく舌打ちするように声を上げた。打球はセカンドの正面に転がった。
『渡辺君、初球を引っ掛けてしまった。打球はセカンドの正面。4,6,3の、ダブルプレー! 3アウトチェンジ! これは勿体ない!』
 これはラジオのアナウンサーだろうか。事細かに説明するように少し高い声で叫んでいた。
 ともあれ、1回裏の弘成高校の攻撃は、先制点を挙げたものの、割とあっさりと終わってしまった。
 文成がベンチに戻ると、早速渡辺が声を掛けた。
「おい、平井。カットボールが来るなら、何で教えてくれなかったんだよ?」
「カットボールが来るとわかってたから、何も言わなかったんですよ。あんなのに手を出す奴がいますか。ほんとに、人の言うこと聞くようで聞かないんだから」
 半分愚痴るように答える文成に渡辺は怒りかけたが、すぐに抑えた。監督や絵理子が見ている手前、荒れた姿を見せたくないのだろう。ミットを持ってファーストへ向かった。文成はというと、ダグアウトの奥のベンチで自分の貌にタオルを被せて、大の字になって眠りはじめた。
 2回の表、佐賀中央高校の攻撃は、四番の小嶋からである。右打席に入る前、小嶋は一塁ベンチを見ながら、不敵な笑みを浮かべた。
(平井文成。今から、良いものを見せてやろう……)
 ただ、“はなわ”に似たこの男が不敵な笑みを作っても、あまり締まらない貌なのだが、その両目だけは少し、不気味に輝いていた。しかし、とっととタオルを被って眠ってしまった文成がそんなことを知るはずも無かった。



第18話へ続く



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