
堕天使 〜Prinzipal der Finsternis〜
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大会七日目の朝、甲子園球場に向かうバスの中。平井文成は不機嫌だった。もっと言えば、不貞腐れていた。今日の第2試合から2回戦に入るが、弘成高校は佐賀県代表の佐賀中央高校と対戦する。
「2回戦は佐賀中央高校かぁ……。はなわみたいな顔をした奴がいたら笑えるよなぁ、平井」
中村康一がやたらとうれしそうにつまらない話を振ってきたが、文成は鬱陶しそうに、うるせぇ、バカヤロー、と言って相手にしなかった。唯一気を許している男に対してでさえ、こんなに素っ気無いのだから、他の男連中に対しては言うまでも無いだろう。
「ずいぶん機嫌が悪いのね、平井君。そんなに試合に出るのがいやなの?」
マネージャーで記録係の平野絵理子が話しかけると、文成はあからさまに厭そうな貌をして気だるげに答えた。
「何が悲しくて、炎天下でずっと立ったままでいなければならないんだろう。オレにはわからないですよ」
「まぁだ愚痴愚痴と言っておるのか、平井。腹を括らんか!」
森田老監督が一喝した。
「と言うより、監督。何で今日の三塁コーチ、野田さんじゃなくてオレなんですか? 野田さんが腹を壊したとか言うんならともかく」
文成は不愉快な貌をして監督に不平を言った。しかし、監督はそんな文成の貌を見ても怒るどころか、逆にうれしそうに笑った。
「おまえは優勝するつもりでここへ来たと言った筈だ。そしてワシはおまえを有効に使ってやると言った。ただそれだけのことよ、この“盗人”」
監督は最後に文成を当てこすった。文成が一言多いのはこの監督の影響かもしれない。
「野田さんはどう思ってるんですかぁ? 最初で最後の甲子園でしょうに」
三年生の野田は細長い貌を向けて、挑発するように訊いてくる文成に言った。
「おまえの、その人を見下して当然と言う態度は許せんが、おまえの実力は認めざるを得んからな。監督がおまえをウチの切り札だというのなら、どうしようもないよ。それに、甲子園に出場できたのも、おまえが三塁コーチャーズ・ボックスに立っていたからな」
言っている言葉は悔しさを押し殺している感じだが、声音はさほど悔しがっているわけでもなかった。心から喜んでいるわけでもないが、さほど憎たらしく思っているわけでもないのだろう。野田の言葉にはそんな複雑さが見て取れた。
「切り札って、最後に出すもんだろうに……。切り札と言えば、親爺、とんでもない切り札持ってたなぁ。というか、隠し球だ」
文成はぶつぶつと一人でぼやいた。
前日夕食後のミーティングで、2回戦のスターティング・メンバーが発表された。基本的にはほとんど変わっていなかった。そのラインナップは。
一番:三沢泰和(みさわ・ひろかず) 右翼手 三年
二番:諸積正史(もろづみ・まさふみ) 遊撃手 二年
三番:黒田経雄(くろだ・つねお) 投手 三年
四番:山崎元春(やまざき・もとはる) 三塁手 三年
五番:渡辺敬仁(わたなべ・たかひと) 一塁手 三年
六番:岡本範昭(おかもと・のりあき) 中堅手 二年
七番:池上敏夫(いけがみ・としお) 二塁手 二年
八番:一宮光弘(いちのみや・みつひろ)左翼手 三年
九番:真木忠顕(まき・ただあき) 捕手 三年
そして、ベンチ入り選手が発表され、文成も康一も1回戦に続いて入ることになったが、その後、一塁コーチと三塁コーチが発表されたとき、部員たちはどよめいた。1回戦時の一塁コーチは二年生の洲崎真吾で、三塁コーチが野田英次だった。それが二回戦では一塁コーチが康一、三塁コーチが文成となったのだ。野田が言っていたように、愛知大会では文成が三塁コーチを務めたが、それは野田が急性胃腸炎のため、脱落を余儀なくされたからである。その後回復して、本大会一回戦では野田が三塁コーチとして戻ったが、老監督はスタメン発表前に野田を呼び出し、文成に変えることを言ったのである。代わりに代打出場を約束した。同様に洲崎にも途中出場を条件に一塁コーチを康一に変えることを納得させた。康一の異様な明るさは、一塁コーチとはいえ、初めて甲子園と言う晴れ舞台に立てるからだった。
あとで文成は監督の部屋で、自分と康一をベースコーチにした理由を老監督に尋ねたところ、まずおまえを三塁コーチにしようと考えていた。だが、先にそれをおまえに言えば、おまえが中村に押し付けるのは目に見えておる。だから、中村を一塁コーチにすれば、おまえも三塁コーチを引き受けざるを得ん。おまえが康一以外に押し付けることは無いからなと、したり顔で説明した。ベンチ入りしている一年生が文成と康一だけであること、そして、文成がナインから好かれていない事を老監督は上手く利用したわけである。
「タヌキ。康一を隠し球にするとは、予想もつかなかったよ」
文成がそうこぼすと、古狸は呵々と笑って言った。
「文成、おまえは何かと康一に押し付けるからのぉ。練習の途中で脱走して後片付けを押し付けるし、インタヴューに来たマスコミの人間を押し付けるし。押し付ける相手がいなけりゃ、やらざるを得んからのぉ……」
古狸の笑い声を、苦虫を噛み潰した貌を作って聞きながら、食えない親爺だと文成は思った。
甲子園に到着した弘成高校野球部の一行を出迎えたのは、暴徒になる一つ手前の状態の大勢の群集だった。観客、マスコミ、そしてかなり大勢の警備員。これが群集の中身だ。一週間前、平井文成が起こしたことへの反響は想像以上に大きかったようだ。バスが到着した途端、不穏と言うよりは殺気に近いざわめきがどこからとも無く起こる。バスの扉が開き、森田監督を先頭に弘成高校野球部員が降り始めると、一気に群集がけたたましくなった。警備員が必死に抑えているが、押し寄せる群衆が発する野次と怒号は地鳴りを上げるかのようだ。老監督は口を真一文字に結んだ厳しい表情のまま悠揚と入り口に向かうが、他の部員たちはパニックに陥るまいと緊張感にあふれた貌で監督の後を付いていった。キャプテンの渡辺は絵理子を庇うように歩いている。
「あ、平井文成だ!」
誰かがバスの出入口のステップでポーズをとっている傲慢な“美少女”を指差して叫ぶと、群衆の視線が一点に集中した。そして沸き起こる歓声、嬌声、悲鳴に怒号。罵声まで飛んでいた。当の“美少女”はステップの上で右手と右足をドアに掛け、そして左手で髪の毛をかき上げて色目を使った。そして濁流のように渦巻く感情を向ける群集に向かって言い放った。
「Hi,This is Jenna Haze. Thank you for meeting it」
とても男が発したとは思えないハスキーな女声が響き渡った。しかし、あまりに流暢なクイーンズ・イングリッシュだったため、ほとんどの人間が何を言ったかわからなかった。そのため、今まで渦巻いていた濁流のような感情エネルギーがピタッと鳴り止んだ。
文成は鎮まったのを確かめると、悠然とバスを降り、胸を張って背をそらしながら、なぜか内股で少し尻を上げてコケティッシュに歩いていった。荷物を抱えている割には綺麗に歩いている。とは言うものの、つまらない事をして遊ぶから、部員たちからかなり引き離されていた。
が、文成はそんなことをまったく気に掛けず、球場に向かう。まだ涼しさが残っている朝方とはいえ、今日も円環が熱光を放射しているなかで、帽子も被らず、ウルフカットにした黒髪をなびかせて色気を振りまくように自分を曝け出している。まるで自分より美しいものはいないと言わんばかりである。
そんな文成に群集は圧倒されていた。いや違った。文成がハイトーンで訳のわからないことを英語で言ったから、皆、引いてしまったようだ。それにもかかわらず、文成は黒のバットケースと、なぜか「BURRN!」の赤いロゴが入った紺のスポーツバッグを抱えて、歩を進めていた。見れば見るほど、トップモデルというより、ポルノスターのような雰囲気を醸し出している。
誰も寄ってこないと思って高を括っていると、球場に入る直前でマスコミに取り囲まれた。口々に何かしらつまらないことを質問してきているが、文成にとって愛情を持つ値打ちの無い連中である以上、まともに相手する気は無い。文成は手を交差して両人差し指を突き立てると、交差した両手を開き、同時に、先ほど女のようなハイトーンを出した人間とは思えないような、歪んだ重低音で言った。
「どけ」
さらに思いっきり睨みつけた。その眼はまるで今から獲物を屠ろうとせんばかりの獣の眼の如く、凶暴に光っていた。今にも飛び掛りそうな勢いだ。そんな文成の眼つきに、メディアの人間は震え上がってしまい、あっさりと引き潮の如く下がっていった。
道が開いた後、文成はまたコケティッシュなポルノスターのように歩いて球場に入った。誰一人追わなかったが、口々に文成を罵った。だが罵る奴ほど、面と向かって真っ向からぶつかる奴はいない。それがわかっている文成はまったく相手にせずそのまま中に消えていった。興味の無い連中を相手にするほど、暇ではない。
選手控え通路に荷物を置き、文成はトイレに向かった。用を足して爽快感を得た後、念入りに手を洗い、さらに貌を洗った。ポケットからタオルハンカチを取り出して手や貌を拭うと、じっと鏡に移る自分の貌を覗き込んだ。脳の中に居座っていた鈍く曇った感覚は消え失せたが、やる気はまったく起こらない。この年代の人間に必ず浮き出ているにきびは文成の貌にはまったく無い。透き通るような白い貌は、さりとて貧弱な様相は窺えない。むしろ、内面のエネルギーの活発さが沸きあがっているようだ。
今の文成は野望と怠惰が同居していた一週間前の状況とあまり変わらなかった。本音を言えば目立つことが大好きだ。だが、自分なりに目立ち方と言うものがあり、それにこだわっている。だいたい自分の力は一瞬にこそ最大の力を発揮する。そうそう最大限の力が出るわけではない。それなのにあのタヌキ親爺はいずれ自分を主軸に据えようと企んでいる節がある。嫌なこった。負けるのは嫌いだが、始めっから目立つようなことはしたくない。一瞬の力こそ人間は魅了されるのだ。バカみたいに自分を見せびらかすのは自分を安売りするようなものだ。だから代打逆転サヨナラ場外ホームランなんてやると、反響が大きくなるのである。今日みたいに熱光の下で初回から三塁コーチャーズ・ボックスに立つなんて気が滅入ることこの上ない。あぁ嫌だ嫌だ。あの時、優勝するためにここへ来たなんて、言うんじゃなかったよ……。
文成は鏡を見ながら心の中で愚痴っていた。そういえば、何であの時野球部に入ろうと思ったんだろう? マネージャーの絵理子に誘われたから? それとも得意の気まぐれからか。考えるのも嫌になってきた。
憂鬱な気持ちでトイレから出て控室に戻ろうとした時だった。
「やっと捕まえたわ。平井文成君」
文成の正面からつかつかと淡い紺色のスーツを着た、丸みを帯びた貌の美女が近づいてきた。
「あ。確か、あなたはゴーマン美智子さんですね。ボストンマラソンを優勝した」
憂鬱な気分に支配されているにもかかわらず、文成は得意の、訳のわからないマニアックなギャグで応じた。それでも声に張りが無い。
「誰がゴーマン美智子よ! 誰が!?」
美女が文成の期待通りに突っ込んできた。文成の胸倉を掴みかねない勢いだ。しかし文成はそんなことでは応えない。
「え、違うんですか? じゃ、三浦環先生?」
次に発したギャグにはさすがに目の前の美女も勢いを削がれ、目をぱちくりとさせた。
「誰よ、それ?」
「近頃の若いモンは三浦環も知らないのか……」
文成は老監督の口調を真似て嘆じるように言った。
「知らないわよ! あたしは石沢ゆかり。『イブニングス』の記者よ」
怒るように石沢ゆかりが自己紹介した。
「覚えてるよ。25歳で159cm、52kg。スリーサイズは上から84−57−83で、肺活量が3200ccの、確か背筋力が105kgあったな」
文成は気の無い声でありながら、以前ゆかりが言った彼女自身のデータをスラスラと言った。これにはゆかりも舌を巻いた。
「すごい。一週間前にあたしが言った事、覚えてたんだ」
「どうだ驚いたか。記憶力は子供の頃から良くてね。これだけでも記事になるとは思わないか?」
文成はようやく元気が出てきたのか、胸を張って得意げにゆかりに語った。相変わらず、相手が年上であることを歯牙にもかけぬ喋り方である。
「それだけでは、ちょっとねぇ……。やっぱり読者は、君がなぜ甲子園で場外ホームランを打つという絶対にありえない事ができたのかを知りたがっているわけだし。傲慢な発言をした理由もそうだけど、君のような、女の子のように華奢な躯の男の子のパワーの源を知りたいのよ」
ゆかりは文成の質問に難色を示しながら、それでいて自分の意図は伝えた。
「話すと4年くらい掛かりそうだし、もうすぐ試合だろうから……」
ためらいがちに言って少し間を置いた文成はゆかりに思いっきり貌を近づけて囁いた。
「ね、この話はベッドの上で情愛を交わしながらやらないか? 密着取材するつもりなんだろ。お互いに徹底的に分かり合ったほうがやりやすいとは思わないか?」
「ちょ、ちょっと。バカなこと言わないでよ! なんであたしが君と寝なきゃならないのよ!」
文成の突飛で下品な言動にゆかりは驚いて怒鳴りつけた。文成から離れようとしたが、すぐさま腰をつかまれて引き寄せられた。再び文成が貌を近づける。
「いいじゃないか。オレは君のことが好きなんだし、君のことを徹底的に知り尽くしたいんだ。君だってオレの事を徹底的に知り尽くしたいから近づいたんだろ? それなら互いを理解し合える環境が必要じゃないか。だとしたら誰にも邪魔されず二人っきりになれるところが良いだろうし、躯と心を交わらせたほうがより深い理解を得られると思うんだ。ね、今夜にでも独占インタヴューしたいとは思わないか? オレ、なんとか宿舎を脱け出すからさ」
「もう、ふざけるのもいい加減にして! あたしは君とそこまで深く関わるつもりは全く無いから。とっととこの手を離して!」
ゆかりは怒って文成から逃れようとしたが、文成は微笑しながらゆかりを離そうとはしなかった。
「オレはふざけてなんかいない。本気なんだ。君のことを心から愛しているし、君の真摯な態度に敬意を持っている。君にだったらどんなことでも話せると思うんだ。そして君ならばオレを本当に理解してくれるだろうし、オレの味方になってくれると確信している。これからもずっと追い続けるつもりなんだろう? それなら今のうちにもっと深く重ね合わせようよ」
そう言って、文成は周囲の目を気にすることなく、ゆかりをぎゅっと抱きしめた。完全にゆかりを口説きに掛かっていた。自分の想いをストレートに、そしてかなり強引にぶつけていた。そのため、ゆかりは見られていることもあって、大いに困惑していた。
そのとき、ゆかりは文成の躯から、とても男の匂いとは思えない馨しい匂いを放っていることに気づいた。女の匂いのようだったので、文成がゆうべどこかの女と交わってからここに来たのかと思った。が、よく嗅いでみると、文成の躯の中から発していることに気づいた。その匂いを嗅いでゆかりは、酷寒の荒野で気高く凛と咲く一輪の白い花をイメージした。暗く、全く陽の昇らない空の下、起伏も何も無い荒涼の大地で、ただ一輪、本当にその一輪しか咲いていない白い花だった。陽光を浴びないのに咲いているなんてありえないが、そうとしか思えなかった。まさにこの瞬間、ゆかりは文成の心の中を垣間見たのだった。
ゆかりは慄いた。傲慢に振舞う“美少女”の心の中は孤高と美学を貫こうとする強壮なプライドに満ち溢れていた。何者も寄せ付けず、また何者にも妥協しない。死ぬまで孤独の世界におくことによって自分の美意識を厳しく律しようとしているようだった。それでいながらゆかりを求めようとするところに、なにか飢えたものがあるように思えた。それが愛なのかどうかは解らないが、その根本に悲しみがあるのは確かだった。
ゆかりは堪らず文成の腰に両腕をまわしてしがみついた。そうせずには居られない衝動に駆られたのかもしれない。そしておずおずと貌を上げて文成と視線を絡めた。
その時である。
「おい、ゆかりちゃん。なに、やってんだよ!?」
どこからか男の声がしたので、文成とゆかりが振り向くと、カメラを抱えた男がおっとり刀で近づいてきた。
「おい、おまえ。なにふざけてるんだよ!」
カメラを抱えた男は明らかに自分より年下の少年に向かってケンカ腰で挑むように言い放った。下から、きっ、と睨みつけていたが、見てみるとゆかりとさして身長が変わらない。
だが文成はゆかりを放さずに侮蔑するように男に言った。
「人を捕まえて、おまえ呼ばわりするおまえこそ誰だよ? ふざけた奴だ」
「俺は『イブニングス』のカメラマンの国友と言うんだ。よく覚えておけ。それより、ウチの貴重な女性記者を放せよ」
「覚えるほどの値打ちがあるのかよ、この泡沫キャラが……」
文成はつまらなさそうに言って、ゆかりを渋々放した。すっかり貌を紅潮させたゆかりは軽く身だしなみを整えた。
「それにしても、不粋な奴だなぁ。この石沢ゆかり君が独占取材を申し込んできたから、承諾しかけていたのに邪魔するんだから、やる気無くしちゃったよ」
文成が興醒めと言わんばかりの声で不平を言うと、国友という名のカメラマンはあっさりと頭から湯気を立てた。
「何が独占取材の申し込みだ! おまえは女と見ればすぐに口説きにかかるのか!? 全部見てたぞ!」
「だったら、それをカメラに収めて売れよ。商売っ気の無い奴だなぁ……。今、撮ったら今日の夕刊、倍は売れただろうに。ゆかり君、今日は、インタヴューは無しね。次に回そう。じゃあね、バイバイ」
文成はまたもやる気を無くした声でゆかりたちに背を向け、選手控え通路に向かって歩き出した。だが、三、四歩進んだところで足を止め、振り返った。
「ゆかり君、ひとつだけ言っておくよ。君が着ている紺色のスーツ、それでも悪くないんだけど、次からは紅いスーツを着てくれないかなぁ。その方が君の温かみを持った美しさが映えると思うんだ。次からはそうしてくれよ」
おせっかいなことを言って文成は再び背を向け歩き出した。そして今度は振り返ろうとしなかった。ゆかりと国友はやや呆気に取られて文成を見送ることとなった。
文成が控え通路近くまで来たとき、後ろから声を掛けられた。
「どうしたの、文成君。全然元気の無い貌をしてるわよ」
声のするほうへ振り向くと、弘成高校の制服を着た女性がすぐそばで立っていた。
「あ、井上先輩。来てたんですね」
「当たり前じゃない。あたし、ブラバンよ。1回戦も応援してたんだから」
ブラスバンド部所属の二年生、井上佳奈子が微笑みながら言った。彼女の髪をさりげなく飾っている白いリボンが彼女の愛らしさを際立たせていた。
「ね、文成君。まだ時間あるわよね」
佳奈子が瞳を輝かせて囁いた。
「試合が始まってからまだそんなに過ぎていないでしょうから、大丈夫だと思いますけど」
文成はためらいがちに言った。でも、心からためらっている声ではない。
「じゃ、少しだけ、あたしに付き合って」
佳奈子は文成の返事を待たずに自分の右腕を文成の左腕に絡めて連れ出していった。絵理子のときもそうだったが、どうも文成はあっさりと女性の思うがままにされやすいようだ。あるいはそうなることを期待しているのだろうか。
井上佳奈子は弘成高校のブラスバンド部でトロンボーンを担当している二年生である。ストレートの長い髪にはいつも白いリボンを飾っており、可憐な雰囲気を漂わせている。身長は文成より低いがそれでも166cmある。しかも脚がすらっと長く、まさに「小股の切れ上がった」女性である。平野絵理子のようなアスリートが持つそれとは違った趣の脚線美を有していた。
佳奈子は文成をフードコーナー、「プラート」に連れ込んだ。フードコーナーといったのは、内観が高速道路のサービスエリアの雰囲気に近いからである。佳奈子はそこでソフトクリームを注文したが、文成は何も頼まなかった。
「何もいらないの、文成君?」
佳奈子が尋ねた。
「何もいりません。もう水を1リットル飲んだし。それより、朝からよくそんなものを食べる気になりますねぇ」
文成はやや呆れ気味に言った。
「今日も暑くなるから糖分をしっかり補給しておかないと、頭も躯も働かないもん。文成君こそ、水だけで大丈夫なの?」
そう佳奈子に訊かれた文成は蓄積された知識を披瀝した。
「朝は用を足すための時間であって、飯を食うための時間じゃないと思ってますから。内臓を休ませるための時間だと、父から教わったので。それに、ブドウ糖が足りなければ体内の老廃物のひとつである、ベータヒドロキシ酪酸を代替エネルギーとして使用するから問題ないんですよ」
「よくそんなこと知っているわねぇ、文成君。それもお父さんから教わったの?」
佳奈子は軽く驚いて文成を見つめた。
「えぇ。それより、井上先輩。どうしてこんなところへ?」
「文成君とデートしたかったの。だって、ここ最近全然会ってないでしょう。草薙さんや平野さんとは会っているのに。それより井上先輩と呼ばすにお姉さんと呼びなさいと言ったでしょう。」
ソフトクリームを舐め上げながら佳奈子は少し不満げに言った。
「お姉さんって、あのねぇ……。遥とはそんなに会ってませんよ。こないだ、久々にバレエを見せてくれと言われたから、応じたけど。あんまり貌を合わせてません。平野先輩はしょうがないでしょう、マネージャーだし。でも、あんまり言葉を交わすことはありませんよ」
文成は苦笑しながらもすっとぼけて言った。遥とは確かに会っていないが、絵理子とは言葉どころか隠れてキスを交わすことしきりである。
「どうかしら。正直にお姉さんに言いなさい。平野さんとは何も無いの?」
佳奈子は文成の透かしにも引っかからずに問い詰めてきた。
「何も無いですよ。それより、お姉さんこそ良いんですか? オレとデートしていることをサッカー部の森本さんにバレたら、どうするんですか?」
文成は反撃に転じたが、佳奈子はまったく応える様子が無い。
「別にいいわよ。文成君のほうが可愛いし、好きなんだから。あたしは君みたいに純粋で、何もかも柔らかく包み込んでくれる人が好きなの。女を物扱いする男は嫌いなのよ」
「純粋、と言うのはどうかなぁ……。全然わからないけど」
「自分では気づかないものよ。君と交わったものにしかわからないわ」
佳奈子はソフトクリームをゆっくりと舐め上げながら言った。どうにもその舐め方が淫靡に思える。
文成はスウェーデン出身の往年のテニス・プレイヤー、ステファン・エドベリのように、下唇を突き出して前髪に向けて息を吹きつけた。なにやら複雑な気分になってきた。自分の何を指して純粋と言っているのか、よくわからない。女性に対しての態度と言うことでなら、世間のガキ同様、不純であるような気がする。高校生になって初めて抱いた性欲を多数の女性にぶつけたいと想っている点ではとても純粋とはいえないはずだ。
が、文成はどうしても女性と深く濃く交わろうとする。互いの躯と心を混ざり合わそうとする。その一点しかないと言うことなら、佳奈子が純粋と言う意味もわからなくは無いが、あらゆる欲望が混沌としている文成の精神は、少なくとも文成自身は純粋とは思っていなかった。
文成が左手で頬杖を付いて物思いにふけっていると、佳奈子が間近で文成の黒瞳を覗き込んでいた。ソフトクリームはもう食べきったようだ。
「そうやって物思いに耽っているときの文成君の瞳って、すごくきれいね。まるで世界に一つしかない最高の宝石みたいよ」
憧憬を含んだ声でつぶやく佳奈子の瞳が潤んでいるような気がした。艶やかに輝くその瞳に魅入られたように文成はこれ以上無いというくらい貌を近づけた。頭頂から少し痺れが生じている。
まるで磁力が働いたかのように二人は唇を重ね合わせた。人が見ていようがお構いなし、と言うよりは人に見せ付けるようだった。佳奈子は両腕を文成の腰に回した。文成は両腕を背中に回さず、両掌で佳奈子の髪を引き寄せて自分の貌を隠すように、頬に擦り付けた。
少しして唇を離すと、佳奈子は文成の左の肩口に貌を埋めて囁いた。
「そんなにあたしの髪の毛が好きなの? あの時も髪の毛にキスしてたけど」
甘く絡みつくような声だった。吐息まで甘く感じられる。それはソフトクリームのバニラの香りではなく彼女自身の香りとしか思えなかった。
「お姉さんの髪、すごく綺麗だから。触れていてこんなに心地良い髪の毛に触ったことが無いんだ」
文成は軽いめまいのような陶酔感を覚えながら、柔らかく微笑んで言った。すっかり二人で作った世界の中にのめり込んでいる。
「触りたくなったらいつでも触らせてあげるわ。髪の毛以外にもね。でも、そのときは君にも触らせて。あのときの快感、また味わいたいから……。そうだ」
そういって佳奈子は自分の髪の毛を一本抜いて、スカートのポケットからお守りを取り出し、その中へ抜いた髪の毛を入れた。
「これ、あたしだと思って掛けて。また文成君が決勝ホームランを打てるように願いを籠めてるから」
佳奈子は橙色のお守りを文成に手渡した。受け取った文成は早速首に掛け、ユニフォームの中に入れた。
「ありがとう、お姉さん。お姉さんの気持ちがお守りから心臓に向けて伝わってくるよ」
言いながら文成は胸に掌を当てて見せた。
「あなたなら必ず頂点に立てるわ、文成君。じゃ、あたし、そろそろ準備しなくちゃいけないから。終わったら、またね」
佳奈子は名残惜しそうに言うと、また文成の唇に自分の唇を捺印した。そして手を振って一塁側アルプススタンドに向けて走っていった。
文成は走り去る佳奈子の後姿をじっと見つめていた。そして、お守りのある位置にもう一度掌をあてがった。
「お姉さん、か……」
そうつぶやくと、目を閉じて佳奈子の匂いを思い起こして浸った。再び目を開けると、文成の目は、あの不敵な獣の眼になっていた。心臓からエネルギーが全身を駆け巡っていく感覚がはっきりとわかる。ようやく文成の躯が冴え渡り始めたようだ。怠惰な精神は霧のごとく消えていった。
(しっかりとシナリオライトするかぁ……。ヒーロー・インタヴューを受けるためにな。よぉく観てくれよ、佳奈子)
心の中で呼び捨てにした文成は口の両端を吊り上げて不気味な微笑を形作った。そして、ようやく選手控え通路に向けて歩き出した。文成は前々から見ていた佐賀中央高校の試合のヴィデオを思い出しながら、二回戦のドラマのシナリオを練っていった。そして、三塁コーチャーズ・ボックスに立ったときのブロックサインをどうするかをも考えた。それがどれほどふざけたものなのか、試合が始まる直前まで誰もわからなかった。
第17話へ続く
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