堕天使 〜Prinzipal der Finsternis〜

第15話 孵化


 翌日、A.M.8:00。平井文成と草薙雪彦、そしてエドワード・ブランドフォードとアルバート・ソールズベリーは英国航空のチャーター機で日本を脱出した。文成のパスポートは日本の公的機関(警察その他)の目を眩ませるため、「福田剛史」という偽名のパスポートを拵えて、それで通した。もちろん、全盲を装っている。
 税関を通過するときに文成が驚いたことがあった。ブランドフォードとソールズベリーが外交官として税関をあっさりと通過したことだった。あとで二人に向かって、偽のパスポートと身分証明書でよくごまかせたなと、小声で皮肉ったらなんと本物だったのだ。ブランドフォードは連合王国(早い話がイギリス)外務省参事官、ソールズベリーも同じく、連合王国外務省の二等書記官だったのである。
「連合王国外務省情報部が用意してくれたパスポートと身分証明書だ。贋物であるわけがない」
 ブランドフォードは事も無げに言った。つまり、このイギリス人二人は情報部所属のスパイでもあったのだ。アルバートが安定した報酬は無いといっていたが、彼らは“もうひとつの本業”で身を立てていたという訳だ。
 文成は心底驚いた。裏の裏の裏、という言葉をたまに耳にするが、裏の裏は表だろうと思っていた。が、彼らは文成に、まるでマジシャンがコインの表を見せて裏を見せた後、またひっくり返して、表でも裏でもないまったく違うデザインを見せるようなマジックをプレイするようなことを見せたのだ。それは文成のような子供が窺い知ることのできない、大人の世界の一端なのかもしれなかった。
「何をそんなに驚いているんだ。この程度で驚かれては困る。それに、文成君。何が起こってもおかしくないのが、この人間の世の中だ」
 ブランドフォードはそう言って、ウィンクした。茶目っ気のあるウィンクだが、ここぞとばかり、と言いたげでもあった。それはそうだろう。最初会ったとき、文成に散々あしらわれたのだから。
 チャーター機は約12時間でロンドン・ヒースロー空港に到着した。文成はここで雪彦と別れることになった。雪彦は文成に、最強のテロリストになれと言って固い握手を交わし、文成を見送った。文成とスカウト二人はこのあと、テムズ河に沿って東に下ったサウスエンドの空港に滑り込んだ。
 今日の天気はことのほか悪いらしく、日中なのに霧が濃い。しかも10月のこの地域は、気温が10度にも至らない。暑さがまだ残っていた春日井市とは大違いである。それでも文成は寒さを感じながらも面に出さなかった。
 自動車ごとヨーロッパ大陸へ飛ぶ旅行客などが、濃霧が薄れるのを待っている中、情報部員でもあるスカウト二人は空港の係員たちに身分証明書を示し、文成を空港の隅で蹲っているイギリス空軍の小型輸送機に連れて行った。
(チャーター機の次は輸送機か。随分と格下げになるもんだ)
 心の中で当て擦りながら文成はおとなしく輸送機に乗り込んだ。スカウトたちも後に続いた。輸送機は濃霧をついて飛んだ。機内はガンガンとうるさく頭蓋骨に鳴り響き、何をやっても耳鳴りがおさまりそうに無かった。チャーター機の快適さとはまさに雲泥の差があった。文成に窓の外の景色を見渡す余裕は無かった。
 どれくらい時間が経っただろうか。輸送機はとある小島に着陸した。そこがどこなのか文成は興味が無かったし、例の二人も教えなかったが、のちにヘブリディーズ諸島から約30km西に離れた、テトラーク島であることがわかった。
 面積20平方kmにも満たないこの小島は、島全体がBIBLIOMANEの秘密訓練キャンプになっていたのだ。この小島をさらに西30km以上進むと、世界自然遺産に登録されているセントキルダ群島に至る。
 島の中央には細く長く延びた滑走路が5kmにも及んでおり、かなりの大型機も離着陸できるようになっていた。
 飛行機やヘリコプターの格納庫は標高200mに満たないが、かなり険しい山の裾にえぐった洞窟の中にあった。
 そして、秘密訓練キャンプの建物はその山の地下にあった。キャンプの事務関係者や教官たちの部屋の設備はこの上なく充実していたが、訓練生の部屋はどんな苛酷な環境に追い込まれても耐え得る事のできるよう、冷暖房を始め、あらゆる文明的な設備が省かれていた。
(まるで“虎の穴”だなぁ。伊達邦彦が放り込まれたダンセニー島のキャンプもこんな感じだったかな)
 文成はやや苦虫を噛み潰したように貌を顰めながら、心の中でつぶやいた。
「ん? 今、何か言ったかね?」
 文成の呟きが聞こえたのか、ブランドフォードが尋ねた。
「何か聞こえたかね?」
 文成はにやりと笑いながらブランドフォードに返した。不敵な表情だが、口元が引きつっていた。
 ブランドフォードとソールズベリーは文成をキャンプの事務責任者に紹介したあと、乗ってきた輸送機でロンドンへ帰っていった。
「文成君、ゆうべドクターが勧めた、毒入りの食事に手をつけませんでしたね」
 輸送機が離陸した後、ソールズベリーがひそひそと言うと、ブランドフォードは一呼吸おいてから嘆じた。
「ふぅむ。知ってか知らずか。いずれにしろ恐いな。恩義のある人ですら信用していないとしたら、だがね」

 着いた翌日、まだ夜も明けぬうちから猛訓練が始まった。生徒は五人一組でチームを作らされ、あらゆる科目に、1チームにつき2人の教官が指導した。
 一日のルーティン・ワークは次のとおり。早朝叩き起こされた生徒は整列させられると早速、島内10kmを走らされる。その後、白兵戦に必要な格闘術や戦闘術を毎日1種目ずつ、2時間叩き込まれる。内容は空手、テコンドー、パンクラティオン、ムエタイ、サンボ、マーシャル・アーツ、カポエラ。それが終わると、水シャワーを浴びて、1時間の朝食タイム。ヴァイキング形式で何を食べても良いし、少なく摂ってもたくさん摂っても構わない。1時間以内ならば、時間を掛けても手早く済ませるのも生徒の自由な判断に委ねられている。そのあと、正午まで学科を受けることになっている。
 学科は暗号の作成や解読、連絡方法、コンピューター・ウィルスの作成法にハッキングやデータを盗み出す方法、毒薬、麻薬、そして火薬の作成および分解方法、火器の分解組立、人体構造学、ゲリラ戦術、クーデターや暴動を起こすためのアジテーションの方法など、多岐に亘っていた。
 正午から昼食タイムが1時間。これもヴァイキング形式である。午後からは学科の実習である。必修科目として週三回の射撃訓練。ハンドガン、ライフル、マシンガン、ロケット・ラウンチャーなど火器と言う火器はすべて使ったと思う程だった。ほかにもアクアラングを背負って海底にもぐったかと思えば、ヘリコプターやジェット機の操縦、塹壕を掘り、トーチカを作っての実戦演習もあった。
 文成の場合はこれに加えてオートバイと自動車の運転、さらに、英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、スペイン語、ロシア語、トルコ語、ペルシャ語、中国語、韓国語と10ヶ国語の訓練まで施された。語学は1日2教科のため、他の生徒が19:00から夕食に入るところを文成だけが、21:00から夕食に入ることになった。23:00に消灯になるが、文成は過酷な訓練のおかげでなかなか寝付けず、訓練二日目で早くも睡眠不足に陥った。
 しかも、訓練は昼間だけにとどまらない。週1回、予告無く夜間訓練があるし、あるときは教官が眠りこけている生徒たちを不意討ちしてくることがあった。極度に緊張を強いられたせいで次々と脱落し、精神病院に入れられた生徒も日に日に増加していった。
 文成も訓練初日は一日三食きちっと摂ってスタミナ切れにならないよう目論んでいたが、あまりにも過酷な訓練に食事そのものが困難になってきた。三日目以降、朝、昼は水のみ、夕食は豆類と野菜しか摂らなくなった。一ヶ月経過しても文成はまったく上達せず、成績はダントツの最下位。しょせん「ボーイ・テロリスト」は無理な話だったのだと、誰もが考えるようになった。
 二ヶ月目に入った訓練の語学講習終了後、文成は教官によって司令室に連れて行かれた。失格処分を受けるかなと思いながら、教官の後をついていった。
 司令室に入って文成は驚いた。文成に貌を向けた司令官というのは女性だった。その程度なら驚かないが、プラチナ・ブロンドをショートボブにしたその女性は亡き母、倫子を想い起こさせた。軍服を着ているが、なぜか神秘性が漂っている。切れ長の瞳がまるで文成の心を射竦めているみたいだった。そして、軍服の上からでも豊満な双乳が見て取れた。
 女性司令官は教官を下がらせた後、おもむろに語りかけてきた。
「貌を合わせるのは初めてだったね、平井文成君。私はアイリス・ガードナー。このキャンプの司令官を務めている。この島の総責任者であるから、よく覚えておくように」
 アイリス・ガードナーと名乗った司令官は澱みない日本語で自己紹介した。
「日本語を喋ることができるとは、意外です」
 文成がそう言うと、
「英語で喋ったほうが良いのかね?」
 と、英語で訊き返してきた。
「フィン語でお願いしたいんですけど」
 文成がジョークのつもりで言うと、アイリスは、
「わかりもしないのに、人をからかうものではない」
 と、本当にフィンランドの言葉で叱責した。
「すいません、全然わからないので日本語にしてください」
 文成は素直に謝った。アイリスはにこりともせず、無愛想に話し始めた。
「さて、今日呼んだのは他でもない。君のここ一ヶ月の成績のことだ。はっきり言って最悪だ。おそらく、史上最悪といっても良いだろう。正直言って失望した。平井和弘の息子だと言うからもう少しできるものだと思っていたが。〈男子三日会わざれば、刮目してみよ〉と言うらしいが、三日どころか一ヶ月経っても良い結果が出ないとは……」
 軍服を着た女性がアルトよりも重厚で低いのではと想わせるほどの声で男のように話すものだから、文成は自然とアイリスに宝塚歌劇団の男役のトップ・スターを重ねてみてしまう。散々なことを言われても、アイリスの声で脳が痺れてぼうっとしてしまっている。
「きちんと聞いているのか、平井君!?」
 アイリスが文成の目を覚まさせるように叱責した。
「よーく、聞こえてます。君の父は入ったときから優秀だったと言いたいそうで」
 やや皮肉るように文成が醒めた声で言った。
「人を当てこするのは十年早い。だいたい、二日目でここの訓練に音を上げるわ、三日目で豆と野菜しか食えなくなるわ、口ほどにも無いとはこのことだ。自分で食事の管理もできないようでは、失格処分も仕方ない状態だぞ、今の君は」
 抑えた口調で言ってはいるが、アイリスが激していることは容易に推察できた。
「初日に三食摂ったのは失敗だったと思っています。摂取した物を全部吐いてしまいまして。だから二日目以降は日の昇っている間、水を大量に飲んで、夕食は豆と野菜をしっかりと噛んで摂っています。玄米や豆腐があれば最高なんですが。まだ成果は出ていませんが、発狂しないだけマシだと思います」
 文成はなんら慌てることなく、落ち着き払って言い返した。
「ほう。食えなくなったのではなく、自分なりに管理していると言うのか。だが、それでは栄養のバランスが悪い。いずれ君の躯が破綻することを警告しておく」
 アイリスは男口調で文成に忠告した。冷たさや近寄り難さを醸し出しているようだが、文成はそんなことに気落ちしなくなっていた。却って反抗心をかきたてられてしまう。
「お言葉ですが、他の人間ならいざ知らず、オレには動物性蛋白は毒でしかないと思います。少なくとも、ここで勝ち抜くためには牛肉は大敵だと思っています。魚も食べられません。なぜかって? ダイオキシンやベンゾピレン塗れの異種蛋白で癌やアルツハイマー、BSEなどを引き起こしますので。それと、一日三食の生活をしていれば、内臓が毎日悲鳴を上げることになります。食物を口にしてから排泄するまで18時間かかるそうですが、一日三食なら常に内臓を休ませることなく酷使することになりますので。特にここのような苛酷な環境で三食も摂るのは、愚の骨頂としか言い様が無いと思います」
 第二次世界大戦終戦以降、人類が己の欲望を無制限に膨張し開放させることを推進していったために地球全体に歪みが行き渡ったと言われて久しいが、それを真に理解するものは少ない。躯に良いはずの魚を食べることができなくなったのもそのひとつである。本来、魚を食することは躯に良いのだが、除草剤を当然のように使用するようになった現代の農業のせいで、魚にまで影響が及び、それが人類に跳ね返った。
 現代の農業で使用される除草剤は雑草を枯らすために使われるが、これはあのベトナム戦争でアメリカ軍が“北爆”の際に使用した、ダイオキシンを主成分とする枯葉剤をさらに強力にしたものである。そんなものが土壌を汚染し、河川に流れ、さらには海にまで行き渡ることになった。その結果、海洋生態系に影響を及ぼしたのは言うまでもないだろう。食物連鎖の話になるが、小型魚を中型魚が大量に食らい、その中型魚を大型魚が多量に摂る。それを人類が食すのだから、どれだけダイオキシンが濃縮された状態で体内に入るか、想像するのも恐ろしい。母乳からダイオキシンが検出された話があったが、それでもどれほどの人類が恐ろしさを理解しているだろうか。南極のペンギンからPCBが検出されたこともあったが、これも無秩序に文明を発展させていった人類の罪業といっても過言ではないだろう。
 牛肉の場合はBSE問題も確かにあるが、それ以上にタバコよりはるかに多い発がん性物質、ベンゾピレンのほうが問題だ。ステーキ100gでもタバコ60本分含まれていると言うから、あまりにも質の劣る食品である。また、繊維質がほとんど無いから、消化が難しい。消化されるまで4時間ほど掛かるといわれているが、4時間も36℃の温室で放置するようなものだから、胃の中で肉が悪臭を放っていることは容易に想像できる。肉食を好む人間が排泄した大便が強烈な悪臭を発するのはこのためである。
 文成はこのことを父から学んでいたし、実際、食卓には肉や魚はほとんど出なかった。出ても、月1回か、二月に1回程度だった。よく食べていたのは大豆とにがりのみで作られた豆腐だった。ただ、一日三食に関しては当たり前のように摂っていた。子供の頃は一日三食でも問題が無いということもあったのだが。とはいえ、後々高校生になった平井文成はそのときの気分で魚や肉を食べているから、ストイックに守っているわけではないようだ。
 アイリスは文成の反論を、表情を変えずに黙って聞いていた。聞き終えるとやおら立ち上がり、文成の背後に回った。そして、文成の両肩に両手を置き、左耳に唇を寄せた。
「大した自信だな。そこまで言い放つのなら、お手並み拝見と行こう。順当に君が脱落するか、それとも過去最高の成績でここを卒業した君の父をも上回るのか、楽しみにしている」
 男のような口調は変わっていないが、声質は普通のアルトになっていた。わずかながらも妖艶さが感じられた。またも文成の脳髄は痺れていった。だが、その陶酔感は長続きしなかった。
「さあ、もう戻りたまえ。明日も早朝から訓練を行う。わずかな甘えも許さんから、覚悟するように」
 アイリスは一喝するように厳しく言った。陶酔感から醒めた文成は一息ついてから立ち上がって司令室を退出しようとした。が、扉を開ける直前で振り向いて、アイリスに言った。
「最後に一言。無理に男のようにしゃべらないでくれ。せっかくゴージャスでグラマラスな躯と甘美な匂い、そして芳醇な声を持ち合わせているのに男のように喋られたら興醒めだ。どういう事情があるのか知らないが、自分の魅力を損なうような行為はやめてほしい。自分の持っているものはすべて力にするべきだと思うので。以上、失礼する」
 文成はこの時とばかりに傲然と言い放った。自分の処遇を彼女が握っていることなど、歯牙にもかけぬと言わんばかりの言い草だった。
「待て、平井文成!」
 ドアノブを回した文成に向かって、アイリスは止まるよう命じた。そしてつかつかと文成に近寄って捕まえ、自分のほうに向き直らせた。文成より5,6cm高いアイリスは自然と文成を見下ろす格好になる。
「それは口説き文句のつもりか。君のように傲慢な喋り方をした少年は初めてだ。和弘はジェントルでエレガントだったのに」
 アイリスは失望というよりは怒りをにじませて言った。
「どう思うかはあなたの問題であって私の責任ではない。それよりも随分親父のことを持ち出すんだな。親父の愛人だったのか?」
 文成は半ば冷やかすように言ったが、アイリスは答えなかった。
「知りたければ、成果を出すのだな。できればの話だが」
 そう言うと、アイリスはもうよいと言って、文成を下がらせた。文成も型通りに失礼しましたといって、自分の部屋に戻っていった。

 訓練開始から二ヶ月目に入っても、文成の成績は上がらなかった。しかし、たとえ成績が悪くても、精神が壊れることなくしぶとくついていく姿勢には教官たちも興味を示し始めた。三十五日目になると、キャンプの食事に玄米飯と豆腐が出るようになった。健康に良いということで玄米や豆腐を知っている生徒もいたが、文成以外に手を出すものはいなかった。文成は一丁分丸ごと、サラダに混ぜて平らげた。豆腐を食べるときでさえ、一口に30回も咀嚼したので、誰もが不思議がった。
 文成がキャンプに入ってから六十日目。やっと文成の躯が訓練に対応できるようになった。当初46分すら切れなかった早朝10km走は一気に32分台を記録した。それを皮切りに格闘術の授業でも見違えるような力を発揮し始めた。教官の練習台のようにあしらわれていた時とは打って変わって、逆に投げ飛ばしたり、トリッキーな動きを見せて蹴り倒したりするなど、周囲を驚嘆させていった。
 学科も好成績を挙げるようになり、積極的に質問をする回数も増え、時には教官に対して対案を出したりした。文成だけに組み込まれた特別講習の語学も10ヶ国語のうち、英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、そしてトルコ語を完全にマスターした。とりわけトルコ語は、教官が文成をトルコ人ではないかと疑うくらい、流暢に喋っていた。ただ、マスターするとその言葉でジョークを飛ばし始めたので、教官たちも文成に対してやや不穏なものを感じ始めた。
 文成は自分の裡に想像をはるかに上回る力が眠っていたことと、それが短期間で目覚めていったことに驚き、そして快感を覚えた。段々と自分が殻を破り、翼を広げて羽ばたこうとしていることが実感できた。
 しかし射撃になると、文成の思うとおりには行かなかった。
 拳銃射撃は、なぜかドイツ軍制式ピストルである、9mmパラベラム弾薬(9mm×19mm)使用のH&K(ヘッケラー&コック)モデルUSPで、25ヤードの60秒三十発の速射と50ヤード五十発の遅射であったが、これは慣れていることもあって、訓練生平均が800点満点中300点にも満たない中、文成は390点を軽く叩き出した。
 だが、ライフル射撃はからっきし駄目だった。イギリス軍制式ライフル、L85A1の訓練用版、L98A1(5.56mm×45mm弾使用)で、200ヤード立射の80秒二十発、300ヤード膝射ち100秒二十発、500ヤード伏射120秒二十発に加え、動的射撃として300ヤードで山羊を走らせ、6秒間に五頭ずつを4シリーズ行うのだが、拳銃射撃のときとは別人のように成績が悪かった。800点満点中150点を越すのがやっとの最下位だった。
 重量4.4kgという重さもそうだが、発射時の反動と跳ね上がりをコントロールできないのが原因だった。
 しかしそれも、キャンプインから七十五日目に克服。翌年の1月初旬に文成はついにライフル射撃で700点をマーク。1月下旬以降は満点を連発するようになった。それと同時に拳銃射撃も4回に1回の割合で満点を出すなど、キャンプの関係者全員の度肝を抜いた。
 3月、文成はすべての課目において最優秀の成績を修め、首席で卒業。後からアイリスに耳打ちされたが、史上最高を記録した父、和弘をも上回る成績だった。首席卒業の特典として、タンザニア領ザンジバル島でのヴァカンスが与えられた文成はここで訓練の成果を発揮した。そしてヴァカンスを終えた4月、極秘に日本へ帰国。故郷の愛知県春日井市ではなく、愛知県津島市に移り住んだ。この頃の文成は滅多に自分の心を明かさないが、かと言ってかつての暗さ、そして暴虐な雰囲気を曝け出さず、内面に隠し込んだ。何よりも傲慢さを露わにしなくなった。しかし、ひとたび闇が訪れると、静かに“破滅の種”を蒔いていった。
 翌年の4月、津島市にある弘成高校に草薙遥とともに入学した。

 ……ベルリン・フィルの演奏がクライマックスを越え、最後にホ長調に転調して、雪崩れ込むようにフィニッシュした。情念の炎を燃え上がらせるかのように舞った文成もきれいにフィニッシュ・ポーズを決めた。15分46秒もの間、激しく踊り狂ったせいか、文成の全身から熱気が立ち上り、玉のような汗がとめどなく流れている。床は文成の汗が広範囲に亘って飛び散っており、よく滑らなかったと思うほどだ。
 『ボレロ』を踊り終えても、しばらく誰一人として音を立てるものはいなかった。それに気づいた文成は女生徒たちに向かって、優雅に一礼した。
 ようやくマリアが両手を上にあげて拍手すると、遥がそれに続き、まもなく女生徒たちもスタンディング・オベーションを文成に送った。文成はやや照れくさそうな笑顔を見せてもう一度礼をすると、マリアと遥の元に歩いていった。
「ありがとう、文成。素晴らしかったわ。こんなに感動できるボレロを観たのは始めてよ」
 マリアが手放しで喜んだ。
「素敵よ、文成。今まで生きてきた中で一番感動したわ」
 遥は瞳を輝かせてかなり高揚した気持ちで言った。文成は、おまえは小倉優子かと、喉元まで出掛かった突っ込みを必死にこらえて、やや苦笑いしながらも快活な声をあげて言った。
「いやぁ、もう、6年ぶりに長い曲で踊るもんだから、途中でリズムがわかんなくなっちゃって、もうフラフラだよ。よくもったなって思うよ。それじゃ、もう良いよね。着替えるから」
 文成はそう言って、控え室へ向かった。去り際、文成は女生徒たちに振り向いて笑顔を見せながら手を振ると、女生徒たちは再び、歓呼の拍手を送った。
 控え室に入った文成はタオルで全身の汗を拭い取り、椅子に座って丁寧に化粧を落としていった。化粧を落としきると、黒のタイツも脱ぎ捨てて、下着も取り去った。姿見の前に立ち、絹のように白い躯をぼんやりと眺めた。しばらく眺めた後、ぽつりと言った。
「愛と哀しみのボレロ、か……」
 そして、唇の両端を吊り上げ皮肉めいた笑顔を作った。それが何を意味するかは、文成にしかわからないものだった。おのれの数奇な運命を映画に重ねているのかもしれなかった。室内の奇妙な静けさがそのまま文成の心の奥底を映し出しているようだった。



第16話へ続く



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